小説家 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

の見通しがあれば、それを、ぼくは文明に対してひらかれた小説たしかに、主人公夫妻の不和はこの小説をつらぬく主要な事件、 だとよびたい。 いやプロットだろう。それと平行して、主人公の義父と彼の妾と 作者の個人的、いや私的な、あまりに私的な事情に即して作品 の生活も、また、ほぼ同じだけの重大な意味合いをもつ事情だろ を品評することを常套とする、わが国固有の小説批評はこの『蓼 う。さらに、主人公がなじむ神戸の洋風私娼の存在も無視できぬ 喰ふ蟲』に対しても、これまで同種の筆法で評価し、いたずらに プロットのはずである。こうした「い くつかの異質の設定事項を その枝葉をあげつらい、作品としての、あるべき真価を見失って離婚なり、「日本への回帰」なりの主題に応じて組合せたり、分 きたように思う。そのひとつは、この小説に作者の有名な離婚問離したりすることはもちろん批評家各自の裁量次第だろうが、ど 題の投影を読みとろうとする、いわば「私小説」的読解法であり、 ういう手順をとるにせよ、かならず剰余の部分がかなりのこる。 もうひとつは、この小説のなかの特定の人物にことさら焦点を合それに作者自身の姿勢はおそろしく無表情で、プロットにはほと せ、そこに作者の「日本への回帰」のアポロギアをつかもうとすんど方向らしきものの指示も与えられていない。だから、さきほ る読み方である。 どばくはプロットという言葉を使いながら内心ずいぶん躊躇した どちらの読解法もできないとはいわない。しかし、これでは、 わけだが、まあ致し方あるまい。動きはなくても、それらがとも いずれにしても中途半端な小説になるだろう。批評家の方でよほ かく設定された小説の筋書きであることに変りあるまい ど懸命にロ三味線でも人れないことには、作品として様をなさな ばくが『蓼喰ふ蟲』の根本に文明の反映を読みとろうとするの いのではないか。 は、固別化され、限定された主題をとった場合おこりうる剩余の こういうことをわざわざ書くのは、かってばくが『蓼喰ふ蟲』部分を一挙に包含したいという功利的な下心からではなくて、 を論じた折、いまいった文明にひらかれたゆえんを、いささか舌くつかの異質のプロットがこれといった方向指示も与えられずに、 足らずの恨みがあったことはたしかだが一応開陳したところ、平いわば雑然と、混在しているところに、おのずとばくは作者の文 野謙氏から、それはおまえの深読みにすぎぬという反論をうけた明感覚といったものを感得してしまうのだ。作者としては、ある ことを、たまたま思いだしたからである。平野氏は小説読みの大 いは本意でなかったかもしれない。われしらず手元の抑制が狂っ 宗として、かねがねぼくの敬愛する批評家だが、そういうひとかてこういう事態を招いたということかもしれぬが、それならば、 ら『蓼喰ふ蟲』のような、ぼくにとって重大このうえない作品に 彼の手元を狂わせたものがなんだったかーーそれを考えてゆけば、 ついて反論を受けたことをぼく自身大変残念に思う。ここは論争『蓼喰ふ蟲』の作者が小説家としての千載一遇のクリー ゼに祝福 の場ではないから、肩肱張った言辞はつつしむことにして、もう された内実があきらかになるはすである。 一度ばくなりに自説を補ってみようというのである。 さま ( 文芸評論家 ) -0

2. 谷崎潤一郎全集 月報

偵小説」というのは海外作品をさすのか、日本物のことか、あるで、これを除外するのは、小説という形式の特権を捨てることに これの執筆なるし、これに多大な興味をもち、すこしも邪道と思わないと述 いはひっくるめて述べているのか、はっきりしない。 されたときは大正末年から昭和初年の日本探偵小説の氾濫時代をべた。 谷崎は涙香を読み、ポーやドイルに惹かれたのだが、それに触 経ているのだから、恐らく日本産作品を瞥見しての所感であろう。 推理小説の特質をいかに把えるかは各説があろうが、意外性を発された彼の作品は、決してそれらの形式を踏襲するものではな かった。彼は筋の面白さを小説の主眼にしたから、当時のいわゆ 狙うのあまり、不自然さがっき纏うのはある程度やむを得ない。 る探偵小説の趣向に借りるところがあった。「秘密」には殊にそ 問題は推理小説の特質を活かしながら、不自然さのない文学作品 として通用するのが書けるかという点だが、潤一郎がこの所感をれが顕著にうかがわれるが、後年になると前に引用した「春寒」 の一節にあるように、読者の意表に出ようとすればするほど、実 述べた時期には、いわゆるトリック小説に愛想を尽かしているの 感に遠くなると思うようになった。いわゆる探偵小説に具わって である。 いた神秘的、浪漫的性格には関心を寄せたものの、あくまでも人 谷崎は「秘密」を発表した前年の明治四十三年に文壇に登場し た。当時の自然主義文学の風潮にあき足らなかった彼は、殊に家間性に立脚しようとする立場を崩さなかった。 常茶飯事の描写を潔しとしなかった。「青春物語」に文壇進出時大正後半期からかなりの犯罪怪奇小説に意欲を示した。六年の の懊悩が語られているが、反自然主義を強く意識して、かえ「て「 ( ッサン・カンの妖術」は、インド人の神秘力に触れ、印度哲 「秘密」のような夢想的な主人公を設定し、謎めいた筋立てを通学から幻想世界 ~ 導いたが、七年の「人面疽」は、中国説話以来 の古典怪談を踏まえて、当時目新しかった活動写真を通して再生 俗的な手法で纏めあげたのであろう。 した。しかも単なる因縁譚に終らせず、不可解の謎のまま放置し この主人公は作者の嗜好の一面を写しているかもしれないが、 自然主義全盛時に奇抜なプロットを駆使したのだから、異色作家て、怪奇に精彩を添えている。 の出現は一部の読者の目をそばだたしめると共に、荒唐無稽な物「金と銀」では天賦の才能が劣「ていると自認する主人公が、そ の友人を嫉視するのあまり、遂に抹殺を決意する。その場合自己 語としか受け取られなかった場合が多かったろうと思われる。 犯罪に取材したり、探偵的要素を加えた作品は、その後しばらの犯行を隠蔽しようと証跡を残さぬよう工夫をめぐらす趣向は、 く執筆せず、大正七年から昭和二年にかけて、再び関心が呼び戻意識的に推理小説的手法が用いられている。 「白昼鬼語」はもっとも推理小説風の一つである。暗号解読には されて、犯罪に関した物語を数多く発表している。 昭和二年に連載した「饒舌録」で、芥川龍之介の筋の面白さにじま「て、殺人現場の窃視、溶解による死体処理、さらに最後に 芸術的価値はないという論に応えて、筋の面白さは構造の面白さ明かされる意外な真相といい、推理小説の構成を借りている。崇

3. 谷崎潤一郎全集 月報

中村のものも折ロのものも、『細雪』完成の直後の沸き立った 雰囲気のなかで書かれたもので、つまりあの「戦後」という一時 リ卩。、よっきりと押されている。おもしろいのは、軍人たち 期のカ ( の『細雪』弾圧に対する憤慨が、年老いた国文学者の文章のほう により多く露骨なことで、若い小説家のほうはその点について、 丸谷才一 しかし圻一口にくらべるな 怒っていないわけではもちろんないが、 らば比較的冷静に、客観白 勺に、そして具体的に語ろうとしている 谷崎潤一郎の長篇小説のなかで最も優れているものが何かとい うことになれば、答はさまざまに分れるだろう。しかし最も有名ように見える。ただし、このことから推して、一般に小説家のほ うが国文学者よりも、青年のほうが老人よりも、落ちついている なものが何かという問ならば、答えることはすこぶる容易である。 『細雪』以外の何かをあげるためには、よほどの無知が必要であものだなどと考えるのは間違いだろう。ここではむしろ、中村個 ろう。 人の文学的姿勢とか、あるいは、日本の現代小説の代表作を世界 そしてこういう高名な作品である以上、じつに数多くの『細の小説史のなかに位置づけようとするとき彼は必然的にこういう 態度をとらねばならなかったとか、そういう面に注意するほうが 雪』論が書かれたし、そのなかには優れた評論がすくなくない。 正しいような気がする。 だが、そのなかでばくを最も感嘆させた評論をあげるとすれば、 中村はまず『細雪』を「甚だ複雑な形をとった」「逃避の小説」 中村真一郎の『谷崎と「細雪」』と折ロ信夫の『「細雪」の女』と いうことになる。今ほくは二つの批評を自分が読んだ順であげた「或いは遊離の」小説と規定する。また、「遊離的な市民小説」と のだが、一 両者は甲乙をつけがたい見事な出来ばえのもので、こう要約する。彼はもともと谷崎を、反政治的、反社会的な作家と考 いう批評の傑作が二つも書かれたということほど、『細雪』の魅えているのだが、そういう作家が、現代から離れた物語の世界の なかにひたるのではなく、自分の逃避が成功したのちに、現代に 力の豊かさを証するものはないだろう。 公中公 二つの『細雪』論 月報昭和年 1 月 〈普及版第十五巻付録〉 目次 二つの『細雪』論 二つの感想 谷崎文学関西風土記 1 三代文壇小史新 第十五巻後記 丸谷才一・ 竹西寛子 : ・ 4 野村尚吾・ : 6 三好行雄 : 朝 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

4. 谷崎潤一郎全集 月報

寺の庫裡を借りている。彼はとうとう女装を試みて徘徊し、寄妙も亦上乗とは云はれない。若しも所謂探偵物の作家が最後までタ な体験を得るのだが、ドイルの「四入の署名」や涙香の小説を読ネを明かさずに置いて読者を迷はせる事にのみ骨を折ったら、結 んでいる。 局探偵小説と云ふものは行き詰まるより外はあるまい。読者の意 「白昼鬼語」には、活動写真と探偵小説を溺愛する男が登場し、表に出ようとして途方もなく奇抜な事件や人物を織り込めば織り ポ 1 の「黄金虫」に出てくる暗号記法が利用されているし、殺人込むほど、何処かに必ず無理が出来自然の人情に遠くなり、それ 現場を覗きに出掛ける二人が、「ホルムスにワットソン」を気取だけ実感が薄くなるから、たとひ意表に出たにしてからが凄みも るところがある。 なければ面白味もなく、なんだ馬鹿々々しいと云ふことになる」 また「金と銀」では、ライバルの一方が他の芸術家を殺そうと われわれが本格推理小説と呼んでいる定石的なもの、すなわち 思案し、犯罪の痕跡を留めないよう頭をひねる。その際ホルムス謎があって推理があり、意外な解決で終るという型にはまったも のような、デュ。ハ ンのような名探偵がいたら、彼らを欺けるかどので、最後の意外性だけを狙っておれば、早晩行き詰まるといっ うかと検討し、ドイルが探偵の資格として挙げた三つの要素を記 ている。このことは内外の論者によって繰り返し説かれているこ しているし、「金色の死」にポーの影響のあることは前に述べた とであるが、ここに推理小説の宿命があるともいえよう。 通りで、ポーとドイルへの傾倒はいちじるし、 この公式を打破しようと、いろいろな傾向が起ったけれども、 明治四十年代の推理小説界は、はなはだ低調であったから、翻ポーの創始した形式がやはりもっとも効果的で、他はそれに含ま 訳や日本製品が創作意欲をかきたてたはずがない。潤一郎の場合れている要素の一部を犠牲にしている恰好である。だからこの形 は英文小説の渉猟が、ポー ドイルを発見させたのだろう。涙香式に執着をもてばもつほど、新しいトリックに窮して、読者の興 の世界を思い浮べる主人公も登場してはいるが、海外正統派の作味や驚きは減じつつある。 品に早くから親しんだことが、推理小説の早い時代におけるよき 潤一郎はさらに「単に読者の意表に出ると云ふだけなら、奇抜 理解者となったのである。 な筋を考へないでも、書きゃう一つで実は案外たやすいのであ その潤一郎の推理小説観を窺うには、「春寒」 ( 昭和五年四月る」と述べ、また「今の探偵小説は一面に於いて奇抜な思ひっき 「新青年」 ) が便利である。これは推理作家で、「新青年」の編集を競ふと同時に、一面に於いては愚にも付かない事を書きゃう一 者であった渡辺温が、潤一郎を原稿依頼のため訪ね、その帰途事つで勿体をつけてゐるのがある。中には相当にカラクリが巧く出 故死に遭ったのを偲んだ文章だが、いわばこの奇禍が機縁となっ来たのもあるが、要するに婦女子を欺くものに過ぎない」ともい っている。 て、「新青年」誌上に「武州公秘話」が連載されたのであった。 この文章の中ほどに外国の作品の例を引いているが、「今の探 「味噌の味喩臭きは何とかと云ふが、探偵小説の探偵小説臭いの 4

5. 谷崎潤一郎全集 月報

からの兄は、支那趣味が加わって、机も椅子も竹細工でした。 れた眼〉が印象的だったと夫人は語っているが、その席上、筋の ーこの部屋は階段の左手に乗っている様な構えで、つまり階段下ない小説などがしきりに話題になっていたという思い出もある の畳の所は天井がなく、二階の天井までの高さがありました。そ ( 「銀の盞」の章 ) 。いうまでもなく、当時谷崎と芥川は小説の んな出来だったので階下の部屋の話声が、兄の書斎に筒抜けにな〈話〉をめぐる有名な論争を応駲中であった。夫人の回想はこの ると見えて、仕事をしている時は皆静かに話していないと叱られ論争がいわば知己の論争であった事情を示している。 ました。 「新潮」昭和二年二月の「創作合評」で、芥川がたまたま谷崎の この兄の書斎に鄭板橋の軸が掛けてありました。兄は贋物とい短篇に言及して、小説の筋の面白さの芸術性について疑間を呈し うことは承知していたようでしたが、支那から買って来たもののた。これが発端で、以後、谷崎の「饒舌録」および芥川の「文芸 ようでした。ある時、佐藤春夫さんが見えて二人で書斎で話して的な、余りに文芸的な」 ( いずれも「改造」に連載 ) で応酬がか いました。兄は憤慨して云いました。 ねえ君、これだけのもわされることになる。谷崎は尾崎紅葉の「三人妻」などを高く評 のを書ける入間が、なぜ贋物を造るのかねえ。自分の署名で堂々価しながら、小説におけるプロットの価値について説き、芥川は と書けばいいじアないかー 佐藤さんは笑っていたようですが、小説の価値判断の基準としてのプロットを否定した。谷崎の発一言 何と答えていたかは憶えていません。 は自然主義系の〈安価なる告白小説体〉の否定にまで及ぶわけだ が、その複雑な話のからみあう面白さⅡ〈構造的美観〉の強調と、 芥川のいう〈最も純粋な小説〉Ⅱ詩的精神にみちた : : : 〈「話」 明須・大 三代文壇小史 0 1 正・昭和 らしい話のない小説〉との鮮明な対立は、当時の文壇用語でいえ ば、本格小説と心境小説との対立に図式化できる。 その頃、日本の近代文学は自然主義と白樺派の落ちあう地点で、 仮構と心境 みずからのリアリズムがゆきつく帰結としての心境小説を発見し ていた。トルストイの「戦争と平和」もフローベルの「ポヴァリ 三好行雄 ィ夫人」もすべて〈偉大な通俗小説に過ぎない〉とする、久米正 新刊の『倚松庵の夢』によれば、松子夫人と谷崎をはじめて引雄の有名な「私小説と心境小説」が書かれたのは大正十四年であ きあわせた〈結びの神〉は芥川龍之介であった。芥川と初対面のる。翌十五年には宇野浩二の「『私小説』私見」が出て、白樺派 南地の茶屋に、思いがけず谷崎が同席していたのがきっかけだっ の自我哲学に心境小説の淵源を見る通説がさだまる。両者の論の たという。芥川の最晩年で、美しく澄みきった〈哀愁のた、、えら基本構造はいずれも心境小説を目して、自然主義の告白にはじま 0 にせもの

6. 谷崎潤一郎全集 月報

その現れが『細雪』で、あれ以後の小説では氏は遂に、「日本事とは異って、一般の読者の注意を喚起し、そして、『源氏物語』 的」な「中世的」な、枯淡な説話趣味に戻ることなく、「小説」は突然に、現代文学になった。それまでは、恐らく我国の古典小 らしい執こさを持ち続けて行ったのだった。だから、『源氏物語』説で、現代文学同様に迎えられていたのは、西鶴と秋成だけだっ たのではなかろうか。 の飜訳は、氏自身の内部に「小説家」を再生させたということに なる。『源氏物語』という我が国最大の小説が、現代文学のなか しかし、ひとたび、『谷崎源氏』が世に行われるに及んで、空 へ、ひとりの才能ある作家を取り戻してくれたということになる。蠅やタ顔や浮舟やは、アンナ・カレニナやボヴァリー夫人やと同 その上、『細雪』という作品は、初期の作者の持っていた豊かじように、私たちの身近かのものとなったのだった。 さを復活させたというだけでなく、長い年月をかけて緩やかな進だから、『源氏』によって谷崎は小説家となったとしても、同 度で書いて行った作品だけの持つ、あの一種のメタフィジカルな、時に、谷崎によって『源氏』が小説となった、ということになる。 これは、シュレーゲルとシェイクスピア、ポードレールとポー とでもいいたいような時間感覚が漂っている。これは従来の氏の 作品にはなかったところで、それも他入の文体と自分の文体とをとの関係に似ている。双方がそれぞれ相手によって文学者として 否応なしに調和させなければならないという忍耐強い仕事が、氏一流の地位にまで上昇しながら、現代文学となったのだった。 の精神のなかに生みだした感覚だと言えるだろう。 従って、谷崎は『源氏』を西欧文学界に紹介する役を果した英 また、そのようにひとつの他人の作品と長い間つき合うことで、国のアーサー・ウェイレーと、その『源氏』現代化の社会的名誉 やはりひとつの自分の作品を同じように徐々に展開させて行く仕を二分しているのである。 事振りを我が物にした、とも言えるだろう。そして、更に、『源それでは、谷崎訳そのものは、他の幾つかの近代訳と比べて、 氏物語』という作品自体の持つ、時間感覚の表現の秘密を、そのどのような特色が、実際にあるだろう。 間に自然に手に入れることにもなった、と言えるだろう。 これは何よりもまず、教室における語釈と文法的分析に基づく 『谷崎源氏』の生みだした波紋の第二は、この平安朝文学の傑作「通釈」といったものとは異っている。つまり、原文と並べて眺 を現代の私たちの間に取り戻してくれたということである。 める「参考書」ではない。それ自体独立した文学作品なのである。 それまでは『源氏物語』は文学史のなかに平和な眠りを眠って 訳者が原作の映像のなかに人って、いわば訳者のなかに作者を いた。現代の読書人は、実際にその頁を開いて、そのなかに自分甦らせ、自分を作者のロよせのようにして、現代文でもう一度、 の問題を読み、自分の感覚を味うということは、 ( 専門家を除い原作を繰り返してみせると言うやり方である。 ては ) するものがなかった。谷崎潤一郎という現代の代表的な作そこで必然的に、ある程度まで原作の難解さを訳文も共有する 家のひとりが飜訳したというので、それは国文学者の専門的な仕ということになる。言葉は現代語に置き換えられているから、難

7. 谷崎潤一郎全集 月報

ずつあがった。この付近のは〃明石鯛〃として、京阪地区に出荷きたこともあって、昭和二年に〃筋のある小説〃を提唱され、中 されるとのことだった。あとで近くの浜辺にあがり、譲ってもら里介山の「大菩薩峠」を推賞されたりした。そのことで芥川龍之 った鯛やイカを刺身や塩焼にしてご馳走になったのも忘れられな介と論争したことは ( 「饒舌録」 ) 、有名である。 また「乱菊物語」の連載中にも、「大衆小説の流行について」 「乱菊物語」が「朝日新聞」に連載されたさい、〃大衆小説〃とを書き、のちにさらに「直木君の歴史小説について」 ( 昭和八年 ) とくに銘打ってあった。そのときの予告に「大衆小説乱菊物語は などを発表して、一貫した文学主張を述べておられる。 しがき」としてあったようだが、敢て大衆小説と名乗ったところ さらに一方では、白井喬二が中心になって、「大衆文芸」なる 、谷崎先生の小説に対する考え方や、当時の文壇の状況があっ同人雑誌が大正十五年一月に発足し、文芸面で新しい境地の開拓 たわけである。 をさかんに提唱していた。まもなく昭和二年に平凡社から「現代 そのことに就いて簡単にふれると、大正から昭和にかけては、大衆文学全集」が刊行されて、開花期を迎えていった。大衆文学 文壇では自然主義文学が末期にあたっていたが、私小説とか心境は、古い講談調の小説を打破するとともに、閉鎖的な純文学派に 小説がまだ多くを占めていた。もともと自然主義文学に反撥してあきたりない文学運動として、はなばなしい活躍をはじめ、数多 出発した谷崎先生は、そうした平板でくすんだ小説を排撃されてくの佳品がうまれた。しかも幅広く、多方面な題材が入気をよん そうした大衆文学に共通したものは、怪奇譚であるといわれる が、「乱菊物語」にも、たしかにそうした面が見受けられる。し 富聞かし、先生の場合はその運動に触発されたというのではなく、持 第 ~ 物と←立一 亘新 論の一端であり、また初期の短篇の中につぶさに見ると、怪奇趣 味がすでに現れているのに気づく。しかし、それの昇華は、翌年 画大 に発表された「武州公秘話」ではなかろうか。 五ロ 6 一三ロり 4 「武州公秘話」については、その続篇を書きたい意図のあること ~ 既年を、先生はしばしばもらしておられた。「武州公秘話」は「乱菊 和物語」と違って、一応完結した作品となっているわけだが、実際 に先生は、「武州公秘話」の続篇の準備をされていた。最後にそ の意図を聞いたのは三十七年で、「台所太平記」の執筆前である。

8. 谷崎潤一郎全集 月報

モデルにしたと、序文でことわってある。 十三日に〈仕事少しとりつく、明日あたりかけさう〉との一行が 私は折から降りだした高野名物の雨の中を歩きながら、そこにある。八月四日「万暦赤絵」を書きあげ、五日に清書を終えてい ″芸術家の心情の深淵〃を覗き見たような、一種の感慨を遠くに る。矢島柳堂への扮装から作家自身の〈地金〉まで、かなり短く ( 作家 ) 馳せて当時を回想していた。 ない時間が必要だったわけである。 むろん、「矢島柳堂」の連作自体がもともと純然たる私小説で ある。私小説といえども、作者は作品の内部で他の人格に化身し、 明須・大 三代文壇小史・ 2 正・昭和 仮構の生を生きることを試みねばならぬ、作家はそういう操作の なかでのみ作家でありうるというしごくあたりまえの常識に〈柳 堂のポーズ〉は支えられているはすなのだが、だとすれば、柳堂 説と随筆 の扮装から作家の〈地金〉に下降することは小説の破産を意味す るのではないか ? しかし、それにもかかわらず、「万暦赤絵」 三好行雄 を小説として受取ってあやしまぬ理解が当時の文壇にはすでに牢 志賀直哉の「万暦赤絵」が、この作家の二度目のながい沈黙を固として成立していた。 破って発表されたのは昭和八年九月である。作者はのちに「続創志賀直哉の率直な感想ははしなくも私小説の特質のひとつをあ イ , 談」で、この短篇小説についてつぎのようにいっている。 ざやかにした観があるが、さしあたっての主題に即していえば、 《書かれた事は事実だが、私は最初これを「矢島柳堂」の連作のおなじ事情が日本の近代作家の随筆からある種の特権をうばいさ 一つとするつもりで書き、然し前に柳堂を書いた時から大分年月ることにな「ている。小説の随筆性が逆に随筆固有の魅力をうば が経ってゐた為めに、柳堂のポーズに自分がなりきれず、何度も うのである。作家の随筆が読者の感興をそそる理由のひとつは、 書損じをした。仕舞ひに面倒臭くなり、地金で書きかへてしまっ仮構の生を試みる小説家の〈地金〉をそこに読みとるからである。 しかし、日本の読者は多くの場合、作家の素顏を小説で読んでし 細かなことをいえば、昭和六年四月二十四日の志賀日記に〈夜まっている。 ( 柳堂 ) を書く〉、翌二十五日に〈予定の ( 柳堂 ) 書けず〉などの 「柳橋新誌」を書いた成島柳北や辛辣な諷刺で知られた斎藤緑雨 記事が見える。おそらくこの〈柳堂〉が「万暦赤絵」の前身で、 のように、随筆を有力な武器として現実へたちむかった作家もい すくなくともこのあたりまでは〈柳堂のポーズ〉がつづいていた ないわけではないが、概して、自然主義以後の時期になると、文 わけである。昭和七年の日記は空白だが、八年に入って、七月二 学としての随筆の伝統は、むしろ寺田寅彦や中谷宇吉郎などの科

9. 谷崎潤一郎全集 月報

ら、さらに北に向って山峡の道を松山町 ( 現在の大字陀町 ) の葛て表現する心境小説こそが真に〈芸術の花冠を受くるもの〉であ るゆえんを熱つぼく説いていた。 の製造家を訪れたことなど、こまごまと知らせてあった。 「私少 = 説と心境小説」から「純文学余技説」にいたる十余年間は、 「やつばりそうだったか」と思った。多分昭和二年春から五年の 、はっきりしてきた。引用プロレタリア文学運動の前史から壊滅までの時期とかさなり、新 執筆の時までに三度来訪されたことカ 文中のさんも樋口氏である。私の推測が間違っておらず、疑問感覚派以後のモダニズム諸傾向のあわただしい継起の過程ともか ( 作家 ) がやっと解けたわけだ。 ( この項つづく ) さなる。それをどう呼んでもよいが、昭和文学史の最初の激動期 であったのはまちがいない。既成リアリズム概念の動揺も深刻で、 、説もほとんど跡をはらっていた。そ そのひとつの帰結である私幻 = = 三代文壇小史・ の私小説の屏息期に〈尻尾を巻いて、外国へ逃げだした〉 ( 広津 和郎「わが心を語る」 ) はずの久米正雄が、ふたたび自信にみち た断言をあえてする背後には時流のうごかしがたい回帰があった。 私小説の円環 私小説の栄光から復活までの円環が閉じられたのである。 たとえば小林秀雄は昭和十年に次のように書いている。 《わが国の自然主義小説はプルジョア文学といふより封建主義的 久米正雄が昭和十年に「二階堂放話」 ( 「文芸春秋」連載 ) の一文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、その限界に時代性 連として書いた「純文学余技説」は、筆者みずから〈論文の体はを持ってゐたのに反して、わが国の私小説の傑作は個人の明瞭な なさない〉ことを認めたように文字どおりの放談でしかないが、顔立ちを示してゐる。彼等 ( マルキシズム文学 ) が抹殺したもの いかにもこの作家らしい卒直な、八方破れの感想をふくんでいる。はこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルキシズム文学 志賀直哉の作品は〈純文学の最高峰〉で、同時に〈生活者の余技〉全般の仕事の上に表はれてゐる事を誰が否定し得ようか。》 ( 「私 であり、横光利一の〈色々な構成や、本職的企みのある小説は 小説論」 ) : 結局、六ヶ敷い通俗小説でしか無い〉などという発言がそう 小林がこう書くためには、かれ自身の内部で「様々なる意匠」 があった だが、むろん、この信条告白は、大正十四年の「私小説と心境小 からのある種の屈折ーーーほとんど後退と呼んでよい 、まはそれを間わない。しかし、マルクス主義文学と 説」における主張のほぼ正確なくりかえしにすぎない。大正末期はずだが、も の私ハ二一 」説論争に一石を投じたこの論文でも、久米はトルストイやはいわず、昭和文学の実質的部分は私小説の〈個人の明瞭な顔立 フロ ーベルが偉大な通俗小説作家であり、〈私〉を〈心境〉によ「ち〉を、果してよく抹殺しえたか ? 事態は昭和十一年に、当の ′ロ 昭・

10. 谷崎潤一郎全集 月報

る〈私〉への固執が、作家個性の円熟とともに完成した私小説の学の動揺と昏迷はようやく深刻化していた。相前後して「宜言一 極北とするところにある。久米が〈芸術の花冠を受くるもの〉とっ」をめぐる論争をはじめ、菊池寛と里見弴の文芸の内容的価値 、宇野が〈私小説のより進歩した形〉と呼ぶゆえんである。 論争、広津和郎の散文芸術論など、さまざまな論争の継起したこ 芥川も〈話のない小説〉を身辺雑記の私小説から区別する。 ともこれと無関係ではない。 これら一連の論争は平野謙氏の説く ・ : 自己 〈詩的精神の有無、或は多少〉にその差が求められるとき、たと ように〈小説の運命に対する実作者の自己反省であり、 えば志賀直哉の「焚火」などを例にあげる〈最も詩に近い小説〉 の陣営を再整備せんとする既成文学の苦悶の表はれ〉であった は、久米や宇野のいう心境小説といくばくの径庭もなかったはず ( 「現代日本文学論争史」上巻 ) 。心境小説がもっとも日本的なリ である。しかも、その芥川は次のように書いている。 アリズム型態として成立する裏には、いわば理念の崩壊を実生活 《志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐるによって支えようとする、市民文学の逆説的な自己擁立の劇があ ったのである。 作家の作品である。》 ほとんどおなじことを、久米は次のようにいう。 ことの意味は、たとえば次のような問いのなかにもある。志賀 《心境とは一箇の「腰据はり」である。 : : : 要するに立脚地の確直哉に脱喟し、谷崎潤一郎の対極に身をおくために、芥川龍之介 実さである。共処からなら、何処をどう見ようと、常に間違ひな はなにを代償にしなければならなかったか ? 芥川はかって谷崎 く自分であり得る。 : 心の据ゑゃうである。》 とともに新技巧派グループの中核にいた。そのとき、彼は告白を 芥川も久米も、心境小説のなかに他人格に化身して生きる作家拒否し、芸術活動の意識性を説き、透徹した技巧と計算で巧緻な の〈私〉ではなく、たぐいまれな個性の光芒をはなっ作家の生身世界を築く作家であった。〈構造的美観〉をともなう〈話のある を読んだのである。当時の心境小説論はそのどれをとってみても、小説〉の作者として、もっともふさわしい作家だった。その芥川 小説を論じながら忽然として人間論へ転じてゆく。心境小説へのは谷崎との論争の過程で、かっての文学観を〈十年前の事〉とし 仰望は、そうした心境をわがものとしえた人格への仰望にほかなてみずから否定した。彼の心境小説の讃美は、実は自己半生の営 らなかった。 為をことごとく抹殺するにひとしい挫折をともなっていたのであ いうまでもないが、この時期に作家の生きかたや立脚地の確かる。だからまた、「歯車」の主人公は「暗夜行路」を読んで、と めどない痛恨の涙を流すのである。 さがあらためて問われねばならなかった事実は、裏をかえせば、 みずからの立脚地や〈心の据ゑゃう〉を喪失した既成作家の無力芥川龍之介は昭和二年七月二十四日未明、田端の自宅でヴェロ 感の反映である。有島武郎の「宜言一つ」における知識階級敗北 ナールおよびジャールの致死量をあおいで自殺した。死の理由と 論以来、。フロレタリア文学とモダニズム文学の挾撃下に、市民文してあげる〈ぼんやりした不安〉の、おそらくもっとも大きなひ