論争に変ると、 もつのまにかだんだん論争に変っていく。 本にあったらどんなにいいだろうな」という表情がありありと浮ちに、、 んでいた どっちもしだいに興奮してくる。谷崎も芥川も顔の色まで青くな そんな事があってからしばらくあとの事である。たしか大正八る。芥川の方がどうやら押され気味である。 そのとき武林無想庵が、まるでふたりの間に割ってはいるよう 年だったと思う。谷崎が本郷の曙町に引っ越してきたというので、 私と芥川龍之介と久米正雄の三人で訪ねていったことがある。家な形でしゃべり出した。私と久米とはそばで黙って聞いていると、 さかんにいい争っている谷崎と芥川よりも、武林無想庵の方が日 は森川町の空橋の下をくぐって坂を少しばかり上った左側にあっ 本の古典をはるかに沢山読んでもいるし、また、よく記憶しても た。二階に通されると武林無想庵も来ていた。 いる事がわかる。それには私もすっかり舌をまいた。 「この二階には北側に窓があるんでこの家を借りたんだ。ばくは やがて論争は結論がはっきり出ないままに打ち切られて、私た 」側からの光線でないと物が書けないんでね」と谷崎が説明した。 その窓に向って大きな栗色のデスクをすえ、前には回転椅子がおち四人は谷崎潤一郎の家を出た。そして武林無想庵は坂を上の方 いてある。床の間には竹久夢二がかいた京都の舞子のきれいな尺へ、私たち三人は下の方へと別れ別れになったとき、芥川が「無 想庵はじつによく読んでいるね」と感嘆の声を上げたが、「谷崎 三の軸がかけてある。 「これは夢二の版画でなくって肉筆ですね」と私がいうと谷崎は、潤一郎はばくよりもよく読んでいるねえ」とはついにいわなか「 ( 一九六七・一・二五 ) 「ぼくは夢二の絵、たいしてすきじゃないんだけど、折角くれた ( 作家 ) のでかけているんだ」といいわけらしくいっていた。 たちまち谷崎と芥川とのあいだに日本文学の古典についての話 がはじまる。どっちもじつによくしゃべる。自分がいかに多く日 本文学の古典をよみあさっているかということについて、敗けず おとらずしゃべるのである。源氏物語や枕草子はいうまでもない。 字治拾遺や今昔物語。紫式部日記に和泉式部日記。さらに蜻蛉日 瀬戸内晴美 記から栄華物語。万葉集から古今や新古今、という風に、つぎか らつぎへと古典文学の名をあげては、ふたりでもって、「あれが大貫雪之助こと大貫品川のことを谷崎潤一郎は三度モデルにし ( ももカここはよくない」 も」「これかいい」とか、「あすこよ、、。、、 て作品を書いている。 、。はじめのあいだは とか、「いや、自分はそうは思わない」とカ 一人の作家が三度も、その人物について書くということは、並 「いかに自分の方が多くを読んでいるか」を自慢しあっているう 並でない興味を品川という人物に抱いていたからだろう。 川への潤一郎の手紙 4
の見通しがあれば、それを、ぼくは文明に対してひらかれた小説たしかに、主人公夫妻の不和はこの小説をつらぬく主要な事件、 だとよびたい。 いやプロットだろう。それと平行して、主人公の義父と彼の妾と 作者の個人的、いや私的な、あまりに私的な事情に即して作品 の生活も、また、ほぼ同じだけの重大な意味合いをもつ事情だろ を品評することを常套とする、わが国固有の小説批評はこの『蓼 う。さらに、主人公がなじむ神戸の洋風私娼の存在も無視できぬ 喰ふ蟲』に対しても、これまで同種の筆法で評価し、いたずらに プロットのはずである。こうした「い くつかの異質の設定事項を その枝葉をあげつらい、作品としての、あるべき真価を見失って離婚なり、「日本への回帰」なりの主題に応じて組合せたり、分 きたように思う。そのひとつは、この小説に作者の有名な離婚問離したりすることはもちろん批評家各自の裁量次第だろうが、ど 題の投影を読みとろうとする、いわば「私小説」的読解法であり、 ういう手順をとるにせよ、かならず剰余の部分がかなりのこる。 もうひとつは、この小説のなかの特定の人物にことさら焦点を合それに作者自身の姿勢はおそろしく無表情で、プロットにはほと せ、そこに作者の「日本への回帰」のアポロギアをつかもうとすんど方向らしきものの指示も与えられていない。だから、さきほ る読み方である。 どばくはプロットという言葉を使いながら内心ずいぶん躊躇した どちらの読解法もできないとはいわない。しかし、これでは、 わけだが、まあ致し方あるまい。動きはなくても、それらがとも いずれにしても中途半端な小説になるだろう。批評家の方でよほ かく設定された小説の筋書きであることに変りあるまい ど懸命にロ三味線でも人れないことには、作品として様をなさな ばくが『蓼喰ふ蟲』の根本に文明の反映を読みとろうとするの いのではないか。 は、固別化され、限定された主題をとった場合おこりうる剩余の こういうことをわざわざ書くのは、かってばくが『蓼喰ふ蟲』部分を一挙に包含したいという功利的な下心からではなくて、 を論じた折、いまいった文明にひらかれたゆえんを、いささか舌くつかの異質のプロットがこれといった方向指示も与えられずに、 足らずの恨みがあったことはたしかだが一応開陳したところ、平いわば雑然と、混在しているところに、おのずとばくは作者の文 野謙氏から、それはおまえの深読みにすぎぬという反論をうけた明感覚といったものを感得してしまうのだ。作者としては、ある ことを、たまたま思いだしたからである。平野氏は小説読みの大 いは本意でなかったかもしれない。われしらず手元の抑制が狂っ 宗として、かねがねぼくの敬愛する批評家だが、そういうひとかてこういう事態を招いたということかもしれぬが、それならば、 ら『蓼喰ふ蟲』のような、ぼくにとって重大このうえない作品に 彼の手元を狂わせたものがなんだったかーーそれを考えてゆけば、 ついて反論を受けたことをぼく自身大変残念に思う。ここは論争『蓼喰ふ蟲』の作者が小説家としての千載一遇のクリー ゼに祝福 の場ではないから、肩肱張った言辞はつつしむことにして、もう された内実があきらかになるはすである。 一度ばくなりに自説を補ってみようというのである。 さま ( 文芸評論家 ) -0
第一巻の仕事が終ったとき、谷崎邸で御馳走になった。有名な て意見を書き加えて送り、そこで決定稿となり印刷所に送られ、 美食家の先生は、その時その時、御自分のお気に召したものをた 校正でまた手がはいる、という順序であった。 べさせて下さるので、毎巻の御馳走がわれわれには楽しみであっ 旧訳のときは校正でなおしがひどく、組み替えになるほどなの た。しかも、奥さまか渡辺重子さま、またはお嬢さまが接待して で、今度は邦文タイプを使う、ということであ「た。 わたくしは何時も、自分ひとりで事をせず、なるべく多くの人下さるのだから、最高の名誉と心得るべきである。 その日、宴の終り近ぐ、谷崎さんは卒然と言われた。あなたが の力を集めようとする。谷崎源氏のお手伝いも、話がきまるなり 若い人たちに五十四帖をわりあてて旧訳の検討をさせ、その報告なおして下さ「たような言葉を、わたしは若紫に使わせたくない。 を見ながら具申案をね。た。だから手許に残る旧訳本は一帖ずつぞんざいすぎて。 綴じなおしてあり、書き入れが一面にある。しかし谷崎さん ~ 送さすが文豪である、これだけ気をつけて仕事をしていられる、 と、わたくしは感嘆もしたし、源氏物語のためにうれしくも思っ ったのは、ちらほら程度の書き入れであった。 すきみ 若紫の巻、光る源氏が将来の伴侶、若草の君をはじめて隙見すた。 しかし若かったから、そんな気持を口にする余裕はなく、まっ るとき、姫は祖母尼公の前に走って来て立つ。目を赤くすりなし て。「何事ぞや。わらはべと腹だち給 ~ るか」ときかれて、「雀のすぐ反対意見を述べた。当時の幼児は目上に必ずしも敬語をつけ ない。目上は幼い子や孫に敬語をつけるけれども。すなわち新訳 子を大君が逃がしつる。ふせごのうちにこめたりつるものを」と 答える。旧訳では「雀の子を犬君が逃がしてしまひましたの、折は当時の実情に反する。そして、今の若い読者は敬語を使うこと ふせご わたし が少ないから、この若草の君の丁寧な言い方にむしろ奇異の感を 角私が大切にして、伏籠に入れておきましたのに」とある。 いだき、子供らしくない子だと思う恐れがある、と。 わたくしは、この十歳ほどの少女にふさわしい子供っぽい言い わたしが大真面目で申し述べたせいであろう、先生は、なるほ 方にしていただきたい旨を書き入れたが、タイプ原稿も同じであ ど、と言われ、今の若い者のことはあなたのほうがよく御存じで った。あとで若草が源氏に引き取られ、習字をすすめられて「ま だようは書かず」と答えるのを「まだよくは書けませぬ」としてしよう、と言われた。 あ「た旧訳が「まだ上手には書けないの」となおしてあるのを挙第一巻が刊行されて、ばらばら見ていて、その所が目についた。 ふせご いぬき げて、たとえば「雀の子を大君が逃がしたの」というふうにして「雀の子を犬君が逃がしてしまひましたの、伏籠に入れておいた のに」となっている。最後の校正でなおされたのたろう。わたく は、と、重ねて意見具申した。 しは考えこんオ 普通だとわたくしの意見具申の機会はこの二度である。それが 原文の「すずめの子を、いぬきが、逃がしつる」は、六・四・ この時はたまたまもう一度あった。 いぬき 、戔 ) 0
と月を追って世におくられることになった。 うミニの女の人を見かけると、思わず溜息を洩らしてしまう。 谷崎文学の研究家、愛書家、若い日から愛読して下さった人達食物のことともなると、猶更にせめて今日迄生きていればと、 から称讃を惜しまれぬ、気品の高い装釘に、内容はきびしいまでただただ惜しまれる許りである。それやこれやで書く材料が多く に神経の届いている、近年稀に見る立派な本と成った。是は全くなって、困るど \ と言い出すのではないかしら。 嶋中氏はじめ担当の方々の故入への深い追慕の念と、作品へのな 思出の湘碧山房から移って来た湘竹居は、倚松庵のゆかりも深 みならぬ愛着の表れに他ならない。 、幾百年かの風雨に堪えぬいた大きな松の樹が二本、海にかざ 最初の巻は四十一年十一月、それから三年八ヶ月余の歳月が閲し、空と海の霞に分け難い天空に聳えている。 している。共の間の世の移り変りは烈しく、谷崎と親しかった多倚松随筆の中の谷崎の短歌に くの人も相ついであとを追ってゆかれた。 けふよりは松の木影をたゞたのむ 湘碧山房の扁額を揮毫して頂いた安倍能成さんも世を去られた。 身は下草のよもぎなりけり 谷崎の三十五日の法要が上野の寛永寺で行われた時に御挨拶をしと詠まれているが、今は、私が松の木影をたのむ身となって冷た て下さったが、「細雪」の話をなさろうとしたのにその題が浮ば い露霜に堪えてゆかねばならない。 ないで、皆さんの方がよく御存知でしようと、ユ 1 モラスに仰っ それにしても、死後も多くの人々に読んで頂き、かくも見事な しやったことなど、ついこの間のように思われるのに : 個人全集を刊行して頂けるとは何と倖な人かとっくづく思われる。 古いお友達の仏文の後藤末雄さんも、お患らいと言う程のこと最終篇の書簡集の完了まで、夏、秋、冬、春の季節が移って了 もなくあっけなく永の旅路に赴かれた。そう言えば、谷崎より二 ったが、本を披かれたらば、編集の苦心の跡は歴然としているこ 年程前に先立たれた辰野隆さんが、まだお元気の頃、冥府で友達とと思う。 が出遭っての会話を いずれも知人でその人らしくーーー書いて書簡集では、私も一大決意を要したことは読み終られて分って 寄越された面白い消息があったが、若しそう言う空想が出来るな頂けるであろう。 ら、あとから逝った人たちが死後のことなど聞かせたら、冥府も 嶋中鵬一一氏、高梨茂氏をはじめ、殊に生前と今回の二度にわた 愉しく賑わうことであろう。 って編纂の衝に当られた小滝穆氏と綱淵謙錠氏にここに厚く感謝 空想科学映画に、殊の外興を示し、誰よりも早くから宇宙開発の意を表したい。 また月報の為に玉稿を賜わった方々の御好意に の日を夢みていた人が、月面着陸を知ったら、何と言って嘆じた 心からの御礼を申し上げる。 であろう。若く美しい女性たちのミニスカートで巷を闊歩して歩泉下で谷崎も大いに満足の笑をおくり、ここでは是以上の幸福 く姿態を見て、どんなに目を細めたことかと、素晴しくよく似合はないと、眼を輝かせていることであろう。
ねることにあ「た。新年特大号、春季特別号、秋季特別号と銘う志賀の両氏は別格で、十円か十二円でなければ書いてはもらえな たれた「中央公論」、「改造」の創作欄の絢爛豪華な創作陣は、文いというのが、編集者仲間の話であ「た。 字どおり壮観をきわめて、貴重な宝石がずらりと並べられている さて、谷崎氏に一枚十円として、三十枚の小説をお願いしたら、 ような気さえした。目をそばたたせるものがあった。 三百円ということになる。まあ、いよいよのときは、社長 ( 佐藤 ページ数のすくない、赤字つづきの文芸雑誌「新潮」の編集の義亮氏 ) に、お願いしようということにして、さ「そく、わたく 仕事にしたが「ているわたくしは、この「中央公論」、「改造」の、しは兵庫県武庫郡岡本に居を構える谷崎氏に、やたらに敬語をつ あたりを睥睨するていの創作欄を、ここに「日本文学の殿堂」が かって、ぜひとも寄稿してほしいという手紙を出した。 あるとおも い、ただただ羨望し、いたずらに指をくわえているば その返事が、はじめに披露したものであった。 かりであった。 それから、何カ月ののちであったか、なんの前触れもなく、谷 そういうとき、わたくしは一度でも、 、し 、「新潮」にも、谷崎崎氏は原稿をおく「てくださ「た。それが、「続蘿洞先生」で、 潤一郎氏か、志賀直哉氏の原稿がもらえれば、編集者として、も三十枚の小説であ「た。手紙一本で、谷崎潤一郎氏の原稿をもら って瞑すべし、とおもったほどであった。 ったことで、わたくしは得意であった。「中央公論」でも、「改造」 さて、そういう無いものねだりの気持ちにかられて、ある日のでも、谷崎氏の原稿は、手紙一本ではもらえないだろう、と呟き、 こと、中村武羅夫さんに、 「新潮」の目次に、念願の谷崎潤一郎の名が載るとおもうと、お 「谷崎さんか、志賀さんに小説をお願いしようじゃありませんも映ゆくもあ「た。 か ? 」と、きり出した。 ところで、その原稿は、れいの出雲紙ふうの若草色の罫のある すると中村さんは、 京稿用紙に、墨痕あざやかな毛筆書きのみごとなものであった。 「志賀さんには、しばらくお目にかからないから、一度訪ねてい わたくしは、編集者生活の思い出になるものとして、所蔵してお 「て、お願いしてもいいし、手紙を出してお願いしてもいいですこうとおもい、その一字一句、その句読点から、谷崎氏の魂のか よ。谷崎さんは関西だから、あなたから頼んでみなさい。しかし、 がやきや、気息をじかに感じながら、別の原稿用紙に、ていねい 谷崎さん、志賀さんには稿料を気張らなければならないから、も に書き写して、印刷所にまわした。 し、二入が書いてくれたら、『新潮』は破産ですな。どちらかに ある日、中村さんが編集室に顔出し、いつものように編集の したほ、つ力も " 、、じゃないですか ? 」といわれた。 話をしたりしているうちに、ふと思い出したように、 当時の「新潮」の小説の稿料は、一枚三円から七円までであっ 「谷崎さんの原稿はどうしました ? 」 た。徳田秋声、正宗白鳥氏には、最高の七円を払「たが、谷崎、 「もう、組みにまわしてあります」
位置し、「蓼喰ふ蟲」は、一部にその残映はあるけれども、むし演説や講義でも、「あります」「ございます」の口調になることを、 ろそれ以後の系列の起点に位置している作品である。つまり、谷注意している。 そういう叙述語について、さらに、「だ」については、「簡単で 崎さんは、「痴人の愛」を受けついでいるとみられるモダニズム あり、力も虫、。、、 リカその代り音がキタナイ」と言い、それに「注」 の作品「卍」の執筆の最中に、それ以後、「吉野葛」「盲目物語」 ( 以上昭和六年 ) 、「蘆刈」 ( 昭和七年 ) 、「春琴抄」 ( 昭和八年 ) とを加えて、「今日の若い作家、殊にプロレタリアの作家の文章に は『だ』止めが多いのではないか」と言っている。 続いていく、古典主義的ともいうべき系列の、先駆的作品ともい うべき「蓼喰ふ蟲」を書いていたということになる。そして、そ「だ」は、前に述べた「です」と同じく、近世では「奴詞」だっ ういう新旧の作品が交錯している年に、現代のロ語文についてのたのだが、従って、もともと品格のあることばではなかったのだ いっかそのいやしさを伴う語感 が、消えずに使われている中に、 反省が記されているのである。ちなみに、「春琴抄」の書かれた 昭和八年は、いよいよ、源氏の現代語訳の準備に、谷崎さんがかは薄れたようだ。 上方は、「だ」の代りは、ロ語では「や」だから、谷崎さんは上 かった年である。 「現代ロ語文の欠点について」という文章は、体系的な記述では方に移住して、「や」の使われる環境に身を置いて、関東の「だ」 なく、作家である谷崎さんの、自由な感想というべきものである。がいかにも東国の、それこそ東夷以来の、荒々しい語感をもっ たことばであることを、痛感されたのであろう。 今のロ語体は、国語の持っている特有の美点と長所とを、ことご そればかりでなく、昭和四年という「時」に、谷崎さんが「現 とく殺してしまっているという日頃の感想を、「随筆風に、思ひ 代ロ語文の欠点について」を書かれたということは、もちろん、 つくまま」に述べたものである。 その始めのところで、谷崎さんは、現在のロ語体の「のである」前々から感じておられたことには違いないが、関西に移り、「卍」 という言い廻しをとり上げて、それは、実地にロで話をする時にを書き、「蓼喰ふ蟲」を書いておられる中に、それらの感想が熟 はめったに使わないことばであり、絶対に東京のロ語ではないとして来て、右の文章になったものと思う。 断じ、おそらく、明治以後に東京にはいって来た地方人士が、そ年譜式記述としては、もう少し先に行ってから、記すべきこと のお国ことばを避け、田舎なまりのそしりを免れるために、一種になるが、ついでにここで触れておくと、谷崎源氏の最初の現代 語訳として発表されたものは、文体は、ロ語の常体であって、敬 の中立語として、「のである」 ( のであった、あったのであろう、 等を含めて ) を使い出したものであろうと想像している。だから、体ではなかった。すなわち、「である」調であって、「でありま 演説などでも、「のである」調でしゃべっているのは、文章語です」「でございます」調ではなかった。 今、試みに、源氏物語の本文と、谷崎源氏の三つについて、「桐 しゃべっているわけであって、少しくだけてものを言う時には、
オカ谷崎はきき人れない。 テキやカツ。野菜サラダやオムレッ等々。つぎからつぎと注文し 「たって、きみの方で新小説の前借をばくの要求どおりにさせなては、、 もくらでもたべるのだ。私もその頃は大ぐいだったが、谷 いんだから、版権を売るよりほかに金の作りようがないじゃない崎の大ぐいにはとてもかなわない。谷崎潤一郎がおどろくべき大 か」 ぐいだということは、かねて久米正雄から聞いていたが、これほ どまでの大ぐいとは思わなかった。あとでわかったことだが、そ しばらく押し問答のあげく、とうとう版権を売ってしまった。 本で二冊分ぐらいのものらしかったが、何と何をいくらで売ったの頃から彼はすでに糖尿病にかかっていたのである。 いくことになって、旅の支度をし か私はしらない。そのあと、ふたりは日本橋の通りを万世橋まで 谷崎潤一郎がいよいよ中国へ ぶらぶら歩いた。「北京へいくんですか上海へ いくんですか」とているところへ遊びにいった久米正雄が、私のところへきて、 ーー支那へい 私がきくと、「南方へいくんですよ。ぼくはとくに長江が見たく 「谷崎潤一郎ときたら、きみ、大へんな野郎だね。 ってもこれだけあれば大丈夫たろうといって、 O O の箱を開け ってね」と谷崎がいう。「日本の長江ではまにあいませんか」と て見せるんさ。なかにサックがいつばいつまっているんだ。たし いう私の長江とは、当時の有名な評論家生田長江のことである。 かに百以上はあったね。支那であれをみんな使うつもりなんだろ 「ヘッ、日本の長江ですか。あんな腐ったツラなんか見たくもな うか」と、おどろいていた O O というのは、当時の金口つき い」と谷崎はかんで吐き出すようにいう。その頃、生田長江のハ 、 / セン氏病を極度の外国タバコで、一と箱百本入りだった。 ンセン氏病ははっきり顏にあらわれていたノ、 やがて谷崎潤一郎が中国旅行から帰ってくると、まっさきに土 にこわがる谷崎は、生田長江が大きらいだった。 そのときふたりは万世橋ホテルの二階で昼飯をたべた。洋食を産話をきいた久米正雄がまたしても私のところにやってきて、そ 谷崎がおご の話を報告する。 ってくれた 「きみ。谷崎がね。上海だか南京だかで、ある晩女を買ったら、 郎きのだ。テー そのべッドのスプリングがとてもやわらかで、ひどく寝心地がい 国のプルをはさ いんだそうだ。夏のことだからべッドに蚊帳がつってあって、蚊 越魚 名人 んで向い合帳の四すみに鈴がさがっているんだそうだよ。そうしてね。いよ 挿月ってたべて いよモウションを起すと、モウションのリズムと一しょに四すみ 姫年いると、谷の鈴が一せいにチリンチリンといい音をさせて鳴るんだそうだ。 鶯 6 正 崎のくうこああいう風流なのが日本にもあるといいんだがなといっていた 大 し J ノ、、つこし J よ」と、話して聞かせる久米正雄の顔にも、「そんな風流なのが日
たことであ「たろう。同時に谷崎の側からすれば、その構造的美っとするものを感じた。昭和三十八年六月号だったから、亡くな る二年ほど前になるわけだが、「死に支度をされているな」とい 観の小説には、彼が今後に描くであろうような形式、まだ十分に う印象を受けたのが原因である。 はっきりはしていなかったであろうが、やがて「卍」となり、さ しかもその年の一月には「瘋巓老人日記」で「毎日芸術大賞」 らに「蓼喰ふ蟲」に発展して行くスタンダール的典型のスタイル が浮んでいたとすれば、この論戦はお互に見えざる敵にそれぞれを受賞され、三月には、私が担当していた「台所太平記」が終「 たばかりのところであった。それだけに、「雪後庵夜話」の出現 に相対していたことになる。もし「饒舌録」が、「蓼喰ふ蟲」以 きくりとした。 後に書かれていたとすれば、芥川があれほど食いさがったかどう 私には、結局のところ、冒頭に出てくる和歌「我といふ人の心 かも疑間となるであろう。 はたゞひとりわれより外に知る人はなし」に尽きるように思われ こうして贅肉を削り取って立ち直った谷崎文学は、世界でもま れに見るほど矍鑠と生きた。馬齢は加えなか「た。とくに「瘋巓た。とりわけ松子夫人との結婚を、後世の輩がああでもない、 うでもないと詮索するにきまっている。それならいっそ今のうち 老人日記」はただにそれが八十に近い作家の手によって成ったと に、出来るだけあけすけに、本当の所を自ら発表しておこうと決 いうばかりではない、愛欲の野放図さが「マノン・レスコー」に、 、いされたように、臆測されたのだ。 あるいは誘惑の残酷さが「危険な関係」に代表されるように、 そのうえ文中で、当時まだ結婚前だった夫人と一泊したところ、 の小説は老人の性愛を描いた執拗さにおいて、おそらく世界文学 にも比類を見ないものであろう。それともこれはわたくしの寡聞折悪しく臨検に出会い、夫人が妹さんの部屋に逃げ込むといった、 ( 成蹊大学教授・国文学 ) 甚だショッキングで暴露的な記述に魂消てしまったこともある。 に属するであろうか 文中では「何処と云ふことは書かずにおくが、大阪から名古屋 に至る中間の駅である」として、場所を明示されてない。そこで ■谷崎文学関西風土記■ 私は、そのあとで先生にお目にかかった折に 「あの宿は、彦根でしょ ? 」 と尋ねると、「うん」と怒ったように下唇を突きだし、低い声 湖北地帯 うなす で頷いていられた。図星だったわけだが、私としては半分当てず っぽうであり、半分は前に読んだ「初昔」の記憶からであった。 野村尚吾 「初昔」には次のように述べてある。 「雪後庵夜話」の第一回を中央公論誌上で読んだとき、何かどき「いっそ彦根まで引っ返したらと、さう云ひ出したのは松女であ
あれだけ書いていながら、かせいだ金は片つばしから使ってしました。谷崎潤一郎でも下宿代をふみ倒すことがあるのかと思った う。だからいまだに税金というものを一文も払っていない。税金からだ。そのことを字野浩二に話すと、「谷崎ならそのくらいな の通知が来そうになると、下宿から下宿を転々と引っ越して歩い ことは平気でやるよ。ああ金使いが荒くっては」と笑っていた。 てはうまく逃げまわる。ところが本郷のどこかの下宿でとうとう しかし鴻の巣の出版記念会ではじめてあった谷崎潤一郎には、 税務署員にふみこまれた。そのときその若い税務官吏がーーあなそんなけはいなど全然見えない。服装もしゃんとしているし、毅 たの小説の収入は毎月百円ぐらいはおありですか、ときくと、谷然として人にたいするところは、まことにさっそうたるものがあ 崎はーーべらばうめ。たった百円ぐらいでメシがくえるか。人をる。とくに芥川龍之介と座甯を向い合わせにして一ばん上席にす ばかにするな と、どなりつけた。すると税務官吏はーーはあ。わらせたせいでもあるのか、ふたりがさかんに文学を論じあって そうですか。よくわかりました。じゃ月収三百円としておきます いる姿はまさに談論風発という感じがあって、とてもたのもしか といってたちどころに月収三百円で年収三千六百円という査った。 定をつけられて、さすがの谷崎もひどくよわった。年収三千六百 翌大正七年、谷崎潤一郎は中国旅行に出かけている。日本の流 円というと、当時の夏目漱石の朝日新聞の年俸と同じだった。と行作家で中国旅行に出かけたのは谷崎潤一郎がはじめてのように いう話をしたあとで、「べらばうめ ! 一月百円ぐらいでメシがおばえている。芥川も中国へいったが、谷崎のだいぶ後である。 くえるかい」と税務署をどなりつけたところは、じつに痛快だねそのとき谷崎は旅費を作るために中央公論や新小説からずいぶん といって宇野浩二がすっかりよろこんでいた。この頃の谷崎原稿料の前借をしたようだ。それでも足りなくって、春陽堂へ自 分の小説の版権まで売っている。 潤一郎は、彼の悪魔主義を地でいって、生活のなかに生かしてい たと考えられるふしがある。 私も春陽堂から短編小説集を出すことになっていたので、その 私の大学生時代には本郷の下宿同業組合では、正月になると前頃は日本橋通三丁目にあった店に立ちよると、ちょうど谷崎潤一 の年に長期にわたって下宿代を滞納して、そのまま逃げるか追い郎が版権売り渡しの交渉をしているところだった。 出されるかした男の名前を、ずらりとならべて大きく印刷した紙「でも、谷崎さん。版権だけはお売りにならない方がいいんじゃ を、玄関のよく眼につくところに張り出す習慣があった。 ないんですか。一たん手放したら、先にいってまた本をお出しに なるときでも、その分だけの印税はあなたの手にははいらないん その頃私は本郷の弥生町の坂の上にある不破という下宿にいた。 忘れもしない大正三年の正月のことである。不破の玄関にやはりですから、 : 私の方では、買えとおっしゃればよろこんでちょ うだいいたしますけど : : : 」 そういう紙が張り出された。見ると頭から二つめに谷崎潤一郎と いう名がちゃんと出ているではないか。それを見て私はびつくり 木呂子という番頭がしきりに版権を手放すことを惜しんでいる。
私が、自分自身の意欲で、この作家の書きものに親しみをもっ こんなに度々顔を合わせていた谷崎さんにはっきりとあいさっ したのは唯一度きりというのは、不思議なようである。「細雪」ようになったのは、やはり「春琴抄」あたりからであろう。現在 評や「新潮」に書いた谷崎論が機縁になって、谷崎さんの著書やのところ、小説で一番いいと思うのは「蓼喰ふ蟲」と「細雪」の 作品の解説をたのまれたことが幾度かあり、そのたびに一度訪ね二つである。そして随筆類はたくさんあるが、若いころの思い出 と思った。が、 ついに果さずに終っを新鮮な文章で書いた「青春物語」という古い本に私は何か愛着 て雑談でもきいておきたい、 た。私も人づきあいのよくない方だし、先方は文章では相当ずぶをもっていて、その一冊をまだ愛蔵している。 最近に書かれた「鍵」だとか「瘋巓老人日記」は私の好みから とさもある人だが、人柄は都会入らしいはにかみ屋さんらしくい は縁遠いもので、ゆっくり読んだことがない。谷崎さんのマゾヒ つも感じられていて、迷惑だろうといつも遠慮した。 スム的偏執は若いころからみんなが指摘してきたことで、この人 唯一度だけ、あるとき四条通りの喫茶店のような家で偶然会っ の文学の重要な本質かもしれないが、私はあまり好きではない。 たとき、谷崎さんに同伴していた武智鉄二さんが私を紹介した。 やはり谷崎文学でいちばん魅力のあるのは、ごく初期の、若々 私がそばへ行って名のると、谷崎さんは立上り、じつにていねい げんき に腰をかがめて一礼された 9 その態度はいかにも谷崎さんらしく、しい衒気のくさみはあっても新鮮さのある「神童」とか「異端者 の悲しみ」のような作品、そして後期の「春琴抄」「蓼喰ふ蟲」 都会人らしい礼儀正しさとして印象に刻まれている。 「細雪」がよろしく、私の評価はそういうところに落ちつく。こ 若い頃、つまり大学生時代に友人達とよく作家論をたたかわせの間、本棚の隅っこにあった「乱菊物語」を少し読み返してみた たのは、大正末期で、「鮫人」とか「金と銀」などという作品のが、あれは未完作品だろうが、あのような古典まがいの中途半端 な作品は、谷崎さんの一番悪いところの出たものだ、という気が 出たころだ。「卍」とか「蓼喰ふ蟲」などの少し前だっただろう。 佐藤春夫の「潤一郎・人及び芸術」というたいへんみごとな評論した。幻想的な、妖しい中世的な美しさ、そういう詩をたたえた が出て、私などもその論旨にだいたい賛成だった。私達の先生の文学は、谷崎さんのあこがれの一つだったかもしれないが、そう う種類のもので谷崎自身は成功していると思われない。上田秋 落合太郎さんは中学、高等学校と谷崎さんと同窓で、作者署名人 りの「異端者の悲しみ」だったか、若いころの美しい本を所蔵し成などと比較してみるとはっきりわかる。秋成のほうがずっとす ぐれている。本質がちがうのだ。 ておられて、河盛好蔵君がその本を借りてきて、私達に見せてく れた。河盛君は私に「鮫人」を貸してくれたし、そのころ私はこ 私達は若いころから、佐藤春夫説の「谷崎の文学には詩が欠け の友入の刺激で、谷崎さんの作品を全部読んでしまったのだと思ている」という意見に賛同していたが、谷崎文学にも、「詩」が ないとはいえない。谷崎さんの詩は、「蘆刈」や「吉野葛」のよ