「細雪」が発表されたのは周知の通りである。 却説、谷崎松子夫人の「倚松庵の夢」を読んで、私は谷崎との 交友関係、それも松子夫人と結婚してから今日に至る迄の永い年谷崎は一生かけた芸術のために求めあぐんだ女性に奇しくもめ ぐり会え、余命を芸術に捧げるためには世の毀誉褒貶は物の数に 月の杜絶えの真因を解明されて釈然、又幽明境を異にする彼を追 憶して感無量なるものがある。「倚松庵の夢」には彼が松子夫入も値しなかったであろうし、松子夫人は阯間の義理合いを一切す とのめぐり会いから結婚に至る迄のいきさつが彼の手紙をあげててて芸術至上の作家を理解し、その持てるものを発揚させる手助 けに挺身する決意を固めての万難を排しての結婚は如何なるもの 書かれてある。その手紙の中で彼は 、「肓目物語」は始終松子夫人のことを念頭において書き上も介人は許されなか「たであろう。「倚松庵の夢」は谷崎と私と の永い間のそして、水遠の友交の空白を解きほぐしてくれた。松子 げたこと。 二、彼は崇拝する高貴な女性がなければ思うように創作が出来夫人は「倚松庵の夢」の終りにタゴールの詩を引いて谷崎は断じ これがようよう今日になって始めてそういう女性にて死んでいないと結ばれたが、私には彼の死それが生んだ「倚松 庵の夢」が私の心に永久に消えないことになった。 めぐり合うことが出来たこと。 谷崎は芸術に生まれ、芸術に生き、芸術に死んだのだ。 三、谷崎としては芸術のための夫人ではなく、夫人のための芸 ( 元高分子化学工業株式会社社長 ) 術であり、夫人なしでは彼の今後の芸術は成り立たぬ。も し夫人と芸術とが両立しなければ彼は喜んで芸術を捨てる。 と切々思慕の情を披腮している。谷崎としては、これ迄求めに これ迄の力強さに事欠く 求めあぐんだ理想の女性にめぐり合い 幻想を追うてのことと事変り、現実の対照を念頭に置いて創作す ることが出来る様になったのである。彼が松子夫人宛の手紙の中 で「御寮人様の御ことならば一生書いても書き、れないほどでご ざりまして今迄とはちがったカが加はって参り不思議にも筆が進 野村尚吾 むのでござります全く此の頃のやうに仕事が出来ますのも御寮 人様の御蔭とぞんじ伏し拝んでをりますいづれ時機がまゐりま「鍵」は昭和三十一年、数え年七十一歳の時の作である。私はそ の年の九月下旬に、下鴨の潺湲亭に久しぶりに先生を訪間してい したらば自分の何年以後の作品には悉く御寮人様のいきがか、 ってゐるのだといふことを世間に発表してやらうと存じます」とる。多分一年以上お目にかかっていなかったように思う。 九月といえば、まだ「鍵」の執筆最中である。お会いした用件 胸のうちを打明けている。そして矢つぎ早に「蘆刈」「春琴抄」 ・谷崎文学関西風土記■ 嵯峨。平安神宮の桜
べにしだれ ない寂しい土地だ「たという。富田氏の兄の広い土地を分割して平安神宮の紅枝垂桜は大変先生もお気に入りで、家を移るたび 建っていたこの家は、現在でも門やその右にある風変りな中二階 に必ずこの桜を植えさせていたほどで、作中でも一方ならぬ愛着 とその下の格子窓、塀の中の松など、外貌はそのままである。し が示されている。また螢狩も岐阜県垂井の松子夫人の知りあいの かし内部は、例の関西の風水害のさい、すぐ東寄りに流れている旧家に、しばしば招ばれたときのことだという。先生は夫人や妹 宮川の氾濫で、破損したため建て直されている。ただ庭園の大きさんたちと一緒に、螢狩、茸狩にじ「さい出むかれたのである。 な敷石と燈籠、それに井戸だけが当時のものだということだ。私余談になるが、偶然私はそのすこし後に飛騨の高山市で、先生 はその大きな敷石を見ていたら、執筆の余暇に縁側からふらっと にお目にかかったことがある。私は合掌造りと大家族制度で有名 下り立「てあたりを見やっていられる先生の姿が彷彿として来た。な飛騨の白川村に取材に行った。昭和十六年の七月か八月だと思 ( 谷崎先生はそれより前の昭和十一年秋に神戸市東灘区の住吉町う。私は北陸に寄「て帰京するつもりで、疲れた体で時間つぶし 反高林に引越されていて無事だったわけである ) に、新聞社の通信部で休んでいた。そのとき通信部主任がカメラ 松子夫人の末妹嶋川信子さんの思い出話によると、三人の姉妹を持「て出ていったと思うと、まもなく通信部のすぐ前の旅館に がいちばんよく集「て、遊びに行く相談をしたり、買物の打合せ先生ともう一人の方が、玄関先で記者の注文に応じてカメラに納 をしたのは、この住吉と、住吉川をへたてた魚崎町魚崎の家だっ まっていられた。私は思わず腰を浮かしたけれども、まだ親しく たそうである。三人の姉妹の特有の言動や優雅さは、「細雪」のロをきいたこともないし、旅疲れのところ ~ 割込んでもと、思い 中によくとらえられており、見事に情緒が描きだされているのは、直してやめた。もう一人の背の高い人は、岐阜県の郡上八幡から 一読すればよく分るはずである。 高山へ案内してきた方たということだった。鮎や踊りで有名な郡 また末妹の信子さんを、御主人の嶋川信一さんもそうだが、以上八幡へ誘われ、そのあと高山見物に来られたものらしかった。 前からの知人は本名を呼ばず、小説に出てくるように「こいさん」 そのころの先生は、客ぎらいなたけでなく、美しく着飾った三 、らし、 と呼んでいるし、またそのほうが神戸では通りがい 入の姉妹たちの「家風に任せ、必要な時は自分だけひとり書斎に 「こいさん」に「『細雪』の中でいちばん楽しい部分は、どのヘ閉ち籠る」ような生活をされていたことが「雪後庵夜話」に出て んです ? 」と聞いたら、「やつばり平安神宮の花見や螢狩の場面 いるし、古くからの東京の友入とさえ、交際を嫌い、家で夫人を が好きですねん」ということだった。 紹介したがらなかったとある。 作品の中でも、右の部分はたしかに圧巻だが、そのうえ「こ、 その極度にあったのが、この住吉・魚崎時代なのである。初め さん」は、「ほんとうのことをちゃんと書いてあるよって : : : 」 川の西側の住吉町反高林に住んでいたが、その後川の東側の魚崎 し J 、もいっていた 0 町に転居された。それも知入の家と交換して移られたのである。
春に新婚の丁未子夫人によって、このやうな名作が出来たかと思 目物語」なども始終御寮人様のことを念頭に置き自分は盲 ったが、さうでもないやうな感じもあった。 ( 私は、丁未子さん 目の按摩のつもりで書きました今後御寮人様の御蔭にて がいつのまにか東京の文芸春秋社に戻ってみえた姿も見かけたが。 私の芸術の境地はきっと豊富になること、存じますたと また丁未子さんは当時まもなく良縁があって、よい家庭のひとと ひ離れてをりましても御寮人様のことを思ってをりました なられて、今も幸福に健在の筈だが。 ) らそれで私には無限の創作力が湧いて参ります 私は今、昭和三十四年の小型本の谷崎全集、第三十巻の年譜を しかし誤解遊ばしては困ります私に取りましては芸術の ひらくと、 ための御寮人様ではなく御寮人様のための芸術でございま 昭和八年五月、丁未子夫人と別居。 すもし幸ひに私の芸術が後世まで残るものならばそれは 昭和九年三月、根津松子と同棲。 御寮人様といふものを伝へるためと思召して下さいまし勿 昭和九年十月、丁未子夫人と正式離婚。 論そんな事を今直ぐ世間に悟られては困りますがいっかは 昭和十年一月、根津松子と結婚。 それを分る時機が来るとおもひますされば御寮入様なし と記してある。これで、「盲目物語」「蘆刈」「春琴抄」などの には私の今後の芸術は成り立ちませぬもし御寮入様と芸 モデルは根津松子御寮人と言へる。 術とが両立しなければ私は喜んで芸術の方を捨ててしまひ ます。 又、こんどの谷崎松子夫人の新著「倚松庵の夢」の中には、当 時の谷崎さんから根津松子さん宛の手紙が幾つも公開されて、こ 何の用事もございませぬが四五日お目にか、れませぬので れは谷崎さんの創作の霊感インスピレーションの出所のわかる重 此の手紙を認めました。 要なもので、私は、敢へてここに引用させてもらふ。 〃此の手紙は郵便で昭和七年九月二日の消印が押されている。〃 はじめてお目にか、りました日から一生御寮人様に御仕へと「倚松庵の夢」の七三頁に公開されてあるが、また同じ「倚松 中すことが出来ましたらたとひそのために身を亡ばしても庵の夢」の六九頁には、この昭和七年の春阪神の魚崎に住居の頃、 それが私には無上の幸福でございます。 庭続きの垣根越しにゆききが出来、ある日卒然と長って思慕を打 殊に此の四五年来は御寮人様の御蔭にて自分の芸術の行き明けられた、そのありさまも描かれてある。また同じ昭和七年十 つまりが開けて来たやうに思ひます私には崇拝する高貴一月八日の手紙には、小説「蘆刈」に御寮人様を無上の人として まごころ の女性がなければ思ふやうに創作が出来ないのでございま思描きながら、更に切切とした真心を手紙に明かしてあり、松子 ほた すがそれがやう / \ 今日になって始めてさう云ふ御方様に さんも絆されてみえた。同じ「倚松庵の夢」の七六頁には、″翌 めぐり合ふことが出来たのでございます実は去年の「盲年には春琴抄に執りか、ゝっているが、此頃になるとすっかり佐助
の「水道路」はもちろん、六甲山を背景にした豪勢な屋敷もそのれは芦屋市三条町二〇八の木場悦熊さんで、これは先生自身より、 ままである。戦後の変動で、いくらか所有主が代ったにしろ、外松子夫人の古くからの友入である。木場夫人の話によると、松子 夫人は先生との恋愛事件、同棲当初の問題などを、しばしば相談 見はゆったりと静かな邸宅街である。 に見えたということである。また時には、自宅で「春琴と佐助」 いわば阪神地区の代表的な富裕な町で、「細雪」の蒔岡一家が 役に気骨が折れると、息抜きに遊びに見えたこともあったそうで、 住むには好適なため、この地を舞台に選んだのであろう。今もこ その前後は経済的にも楽でなかったのに、松子夫人にはそんな所 の一割を歩いていると、「細雪」の雰囲気が思い浮んでくる。 説に出てくるかかりつけの櫛田 ( 実名重信 ) 医院も、ほとんど違がちっとも見えず、いつも変わらずゆったりされていたという。 わぬ表つきで開業している。実際また、ここはいまでも。ハチンコ生来身についた優美さなのでしよう、ということだった。 屋やバ 1 などは、 またこの木場夫人は、「細雪」の中に陣場夫人として、縁談の 撮町規で許可しな世話などよくされている。もちろんそのままモデルにしたわけで 筆いことにして なく、現在出版社を経営している e ・さんとの二人を巧みにミ るそうだ。 ックスして、一つの性格に創造されているらしい 家 の ところが谷崎 さらに木場夫妻は、先生と松子夫人の頼まれ仲人でもある。 林 高 結婚届は昭和十年五月三日となっており、夫人も根津家からい 反先生は、現実に 戸 醂は芦屋川に居住「たん実家の森田姓にもど「て、大阪市西区靱上通一丁目三十一 ん されていたこと番地に届人れられている。だがこれは便宜上のことで、その番地 ~ だが正式の挙式は届出 まがないのだ。多も、創元社 ( 大阪 ) のあった場所らし、 年分知人でもいて、より数カ月早い、一月だったということである。 じっさいは芦屋市宮川町十二番地、詩人の富田砕花氏が現在住 ら時おり出かけた んでいられる住居で、結婚式をあげられたのである。木場夫人の 啾のは間違いない だろう。はっき話によると、古式にのっとり燭台の灯に映えた金屏風をひきまわ 和 郵りしているのは、し、仲居が三人ほど式の世話にあた「たという。雄蝶・雌蝶のよ うな役もやったものかと思われるが、関西の本式の結婚式には、 一ただ一軒だけ、 当時からの親し必ず席に侍るのだそうである。 い家がある。そ そのころの宮川町は、畑や原が多く、今のように立て混んでい
いる。作品が活字になったものより、なんとなく作家自身の人間 もう一度はずっと後の話だが、深沢七郎君を伊豆山のお宅へつ れていった時のことである。私は先生の注文で和田金の牛肉を土性が身近かに感じられるような気がするからである。その中では、 産に持参したが、深沢君は「私には谷崎先生に喜んで頂ける珍ら龍之介の書き直しの部分に貼り紙をしてその上から更めて書直し しいお土産があります。田舎マンジウです」というものだから、ている文章への執念に鬼気を感じるし、南方熊楠の博学と反骨に 田舎にもうまい銘菓があるから、そんなのを探し出してきたのだふさわしい活気溢れる文字の逞しさにも打たれるが、やつばり谷 ろうと田 5 っていた 崎先生の鉛筆書きながら、一字一字の懸命な、真剣な気魄に頭が お茶が出ると、深沢君はもの怖じしない素朴さで、いきなり食さがってしまう。 いろいろな事件の後に、根津清太郎夫人だった松子さんと結婚 卓の上に竹の皮づつみのマンジウを取り出して「先生、珍らし された時には、さすがに驚いた。いや、非常な喜びを感じたとい い田舎マンジュウです、どうぞ」と、すすめたのである。先生も うのが正直な感想かも知れない。 私と同じように、隠れた田舎の銘菓たと思われたのだろう。 「そうか、ありがとう」と、手を出して一口頬ばった先生の顔が、 松子夫人とは親戚でもあり、幼馴染みだったからである。ほん 一瞬、俄かに世にも苦渋に満ちた表情に変ったのである。私も手とうに結ばれる人と結ばれたのだと、感心したり、安心したもの を出して口に人れたのだが、珍らしいには違いないが、田舎ならである。松子さんは非常に頭脳明晰で、私より一つ三つ年下の筈 だが、私の少年時代の腕白ぶりをすっかり覚えていられるので、 どこの駄菓子屋にも転っている本当の田舎マンジ = ウだった。私 は先生のこんなに困惑された表情を後にも先きにも見たことがな どうも頭があがらない存在である。夏になると縁台をもち出して 線香花火に興じたことや、蝙蝠が飛んでいたことや、少年時代か らおませだったことなど、こと細かに記憶していられるらしい。 先生に「洋食の話」という随筆がある。 どうやら私は時々彼女を虐めたようである。彼女はたいへんな泣 私はその鉛筆書きの原稿を所蔵している。実に一字一字克明に 力を人れて一劃もゆるがせにしない文字から、恐しいような気魄き虫だったことだけを、覚えているからである。 ージック・ホールに立て籠ることになると、私も 私 . が日嚊ミ が感じられる。鉛筆書きだから、消えないように松ャニを吹きっ けて愛蔵している。先生にその話をしたら「そうかな、そんなこ屡々先生をお訪ねしたが、先生もまた度々私を訪ねてくださるよ うになった。どうも私の周囲に踊り子が集っている頃に交際が頻 とを書いたかな、多分、岡本時代の原稿だろう」と、云われて少 少ガッカリした。 繁になるのだから、現金な先生であった。 ュ ージック・ホールでも、先生の席は前から三番目とき 日・ミ 私は若い頃から、作家や詩人の自筆の原稿を集めるのが好きで、 品子や龍之介や万太郎や熊楠など、あまり多くはないが所蔵してまっていた。そして、決して松子夫人を同伴されたことがなかっ ュ
取次店からの注文は殺到するが、漆塗の表紙が一向に出来ず、こ十年九月一日には、六十版を重ねることが出来た。 先生はかねてからの主張である、寝ころんで自由に読める楽し れには全く困ってしまった。しかしこれも数版を重ねたが、つい い本を作りたい、 といっておられたが、 に餐屋が悲鳴をあげて、 その御希望に応じようで ( ないかということで、社内一同相談の結果、小学校の習字に使 「これではいくら注文を頂いても出来ません」 とおじぎをして来た。それで先生とも相談した結果、『新版眷用する薄黄色の和紙を別漉にして、表紙は檀紙を使い、製本は真 琴抄』が計画された。この内容も変更して、当時傑作中の傑作と中から折本にした。実は製本上非常に困難な本を作り上げたので いわれていた「春琴抄」「蘆刈」「吉野葛」「盲目物語」をまとめある。それが、昭和九年暮に出版された『新版春琴抄』であった。 て一冊とし、昭和九年夏に『新版春琴抄』として売出した。このやわらかな、読む方から言えば、実に読み易い便利な本であった が、造本上からは非常に困難な仕事であった。 中の「盲目物語」 . は昭和七年に中央公論社から単行本として出さ れていたが、先生は中央公論社の嶋中雄作社長と掛け合われて、 「春琴抄」が圧倒的な入気を博してから間もない頃、先生は、松 と中して来られた。すでに先生は その諒解を得子さんを私たちに紹介したい、 撮られたのだっ丁未子さんと別れられてまもない頃のことであ「た。私はこの招 忠た。こういう待を受ける以前からすでに松子さんとの風評が阪神間では相当評 ことはとかく 判になっていることを知っていた 一口 その招待をうけたのは昭和九年六月頃のむしあつい或日だった。 出版業 の間でま京早 ! 一ⅱ角松子さんの紹介と披露の意味をかねたお招きをうけたのは、芦屋 一を得ることはの九の坪という処にあるささやかな住居で、表札には森田寓と書 かれてあった。谷崎姓が書かれていなかったのは、世評をはば、 てなかなか困難 京なことで、著ってのことだったのたろう。招待されたのは私と、私の社の編集 者から掛け合の和田有司 ( それが谷崎先生担当の編集者であった ) と、名前は 和って貰う方が失念したがあと一入で、ほんのうちわだけの披露であった。 一番諒解がっ 座敷に通ると奇麗にお化粧した松子さんが先生に添うて出て来 きやすい。こ られ、先生は改めてわれわれに紹介された。これは世間的には未 の『新版春琴発表であったが、出版者たけにはこれからいろいろ世話にならな 抄』も、昭和ければならないので先に知らせておこうという先生の配慮であっ
ん ( このひとは、当時、大阪ビルの文芸春秋社の若い美入の記者 で、私も顔見知りであった ) 二十ぐらゐも年の若い美しいひとを 娶って、谷崎さんは若返られて、この元気な力のあふれた小説が 出来たのか、と私は考へたが。 又、くる年の昭和七年十一月には、改造に「蘆刈」が出て、 これは明治時代らしい、 : 葦の茂った淀川べりの秋の十五夜の月見 瀧井孝作 の物語で、情緒のてんめんとした恋物語が、現実か非現実かわか へうべう らない、縹渺とした感じのものだが。 雑誌風景の新年号に、「谷崎松子の文体」といふェッセーを、 新人の丸谷才一氏が書いて居た。これは、谷崎松子夫人の近著又、その翌年の昭和八年六月の中央公論に、「春琴抄」が出て、 「倚松庵の夢」の、文体の見事さを讃へたもので、私は、これに これは明治初年の大阪船場の物語で、旧家育ちの琴三味線師匠の はほぼ同感した。 鵙屋春琴女とその門人温井佐助との数奇な情愛を綴った小説で、 私は、「倚松庵の夢」をこんど精読して、谷崎文学の、中期か明治開化らしい漢語の多い、ひら仮名のすくない、又、会話も地 らあとのかずかすの名作の成り立など、いろいろのことがわかっ の文も一と続きの一風変った作で、文章家の巨匠の独壇場のおも むきがあった。 昭和六年 ( 一九三一年 ) の中央公論九月号に、戦国時代の座頭右にあげた、「盲目物語」と、「蘆刈」と、「春琴抄」と、この の咄しの「盲目物語」が出て、私は当時読んで、谷崎さんのこれ昭和六・七・八の三年間の三つのカ作は、小説のテーマは三作共、 いづれも、﨟たけた麗入美女礼讃の物語と見え までの作とちがって、大方ひらがなばかりの、それに底力の張りほとんど同じで、 こ。ムは、この三作の出来た蔭には、必ず美しい女性があるにち 切った、ひらがなばかりで妙にコクのある、この文章の強さに圧オ不 とみこ がひないと見た。何かモデルがあると見た。はじめは、昭和六年 倒された。谷崎さんは、この昭和六年の春、新夫人古川丁未子さ 公中公 インスビレーション 霊感の宝庫 ーー谷崎松子夫人ーー 月報跖昭和年 2 月 〈普及版第十六巻付録〉 目次 霊感の宝庫 「春琴抄」前後の思い出 谷崎文学関西風土記 2 三代文壇小史間 第十六巻後記 らふ 瀧井孝作・ 矢部良策 : 4 野村尚吾・ : 6 三好行雄・ : 川 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1
に、松子夫人の場合にはなぜ相談をしなかったかの不審も解け、 それならば何もお互に意地を張り合って行き来を中止することは なかったのにと今では思っている。 世に名が出てから間もなく、谷崎は私達お互の幼少時代のこと を書くと いいながら彼の癖でなかなか実行が伴なわず、それでも 伊藤甲子之助 晩年七十歳の春漸く手を著けはじめ、昭和三十二年纏って単行本 谷崎と私、それからもう一人笹沼源之助の三人は明治の中頃東『幼少時代』が出来上った。読んでみると当時のことが克明に書 京市日本橋区内で生まれ、幼少の頃目と鼻の先に住み、谷崎は私かれてあり、私のことも数カ所にわたり相当詳しく載っておるが、 より二つ年うえ笹沼は一つ上であったが、谷崎は一年生を繰返し、中には彼の考え違いから事実相違の点もある。それはそれとして、 私は一年早あがり人学のため三人は一年生から同級で阪本小学校彼が省略したこと、書き落したこと、同じ事でも見方は十人十色 を卒業した。それから中学、大学の課程を了えて社会人とな「てであるから私は私なりに寸見を書いてみる。 何としてもすぐ頭に浮ぶものは谷崎を込めて友達十人あまりが も親交がつづいたが、谷崎と松子夫人との三度目の結婚について 笹沼から私に申し合せがあり、私も同意して谷崎と私等二人との寄り合い、作っておった回覧誌「学生倶楽部」のことである。こ 行き来は中止となっていた。その後谷崎と笹沼とは撚が戻「たが、のことは谷崎著『幼少時代』の末端「文学熱」の項に書かれてあ るが、主筆格は中学中退の野村孝太郎で、部員は各自半紙に文章、 私は和歌山に移り住み、遠く離れ、谷崎との関係はそのままでい どうさびき るうちに、過ぐる四十年七月三十日谷崎は急逝、今日に及んでい史伝、小説、地理、科学、雑録を毛筆でかき、絵画は礬引半紙に る。処が、谷崎松子夫人の随筆「倚松庵の夢」を読んで初めて第水墨又は彩色で仕上げ、七、八十枚を糸綴じにし、毎月一回発行、 三結婚の真相がわかり、それ迄は、例えば千代子夫人との結婚離持ち廻り回覧方式であった。谷崎の『幼少時代』には書いてない 婚、丁未子夫人との結婚、それぞれ何くれとなく相談を受けたのが、第三号には懸賞小説「五月雨」の応募作品が発表され、当時 中公 谷崎潤一郎と私 ひとり 目次 谷崎潤一郎と私 月報貰昭和年 3 月谷崎文学関西風土記 3 三代文壇小史 〈普及版第十七巻付録〉 第十七巻後記 野伊 好村甲 行尚子 雄吾助 12 10 7 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1 といろ
今日は赤ムッとカサゴです」 殊にこの夜は、私も魚は大漁だし、先生の隣りで、好きな御馳 私が持参した釣り籠をみせると、 走になったのがなにより嬉しく、珍らしく上機嫌でウイスキーに 「こりや、たいしたものだ。これもうまかろう。サシミにして明酔「て、しかも、先生から素晴らしいス「ツチを一本貰「て、蓬 日いただくかな。台所の方に運ばせよう。もうこの頃、肉より魚ケ平の谷崎邸を去ったのである。 が大好物で、君がくる度毎に貰って、本当に嬉しいよ : : : 」 それは六月のことであったが、その年、私がモスクワに行って いかにも、先生は満足そうな顔であった。私は自分の釣った魚 いる留守中に、先生は他界されたのである。私は八月二十五日、 の大きいのとか、しまあじとか、赤ムツのようないい魚があると、横浜港のバイカル号船上で、先生の計をきき、一瞬、世の中が真 この両三年、前の熱海のお宅や湯河原の新邸にもっていくことに 暗になった。昨年の七月、先生の一周忌が京都で行われた時、私 していた はこの話を挨拶にして、涙をそそられたのである。 「今日は私がなにもたべられないので、松子などと一緒にウイス 私が「中央公論」の責任者になった頃は、先生自身、働き盛り キーでも、あがってくれ給え、君の親切には恐れ人るよ : : : 」 で、創作力もあり、一面、また非常に、経済的には苦しい時でも 私は、先生を右において、松子夫人と妹さんと一緒にスコッチあった。今でも忘れないのは、上山草入氏の鶴見宅に訪ねて、新 ウイスキーをいただき、仲々の上機嫌になった。先生はその時、年号に「私の貧乏物語」 ( 昭和十年一月号 ) を書いて頂いたこと 安田画伯の描かれたスケッチが気に人ったと、説明を加えて見せである。どんな時でも、たとえば借金のことでも、私には、あけ られた。病気も全快とまではいかないにしても、非常に决方に向すけに話され、いかなることに対しても、率直な言葉で語られた。 われていた。私には、昔のことから、政治談になると、税金の高丁度、編集主任から編集長になった頃、「春琴抄」の名作が生れ いことや「早く佐藤君、政権をとってくれよ。そして、庶民を楽た。その前々年には、「盲目物語」の長編を「中央公論」に発表 にして貰オもイ ( 、こ、。業よ友人にも君のことを話して、大いに期待しされ、その少し前には「改造」に「吉野葛」の名作を物された。 ているのだよ : : : 」というような、身に余る光栄の言葉も頂いた また、「新青年」には「武州公秘話」という珍らしい作品を書か まだ先生が熱海の吉川別邸におられた頃にも時々おうかがいしれて、すべて傑作ばかり。その後「源氏物語」の大訳から「細 た。話がはずみ、あまり長くなるので、隣りの松子夫人が心配さ雪」へと仕事が続くのであるが、私が扱「た「春琴抄」の前後が れ、「佐藤さんだから、遠慮しないで寝ころんでお話しにな「て一番創作力の旺盛な時でなかったろうか。 は : ・・ : 」といわれると、 いきなり「だまっていなさい。 こんな「春琴抄」は、たしか六月号にのったのであるが、その出た時は、 快に話しているのに」といった調子で、夫人に対して、それは強 私などの気負った喧伝にも拘らず、「中央公論」の売行きに、さ い剣幕で怒られる場面などもあった。 ほど影響するような風はなかった。それが、日がたつに従って大 4
に惑溺するやうになってしまった。「夜」の型であることの效果寮人の存在なくしては考へられないことが明かにされたが、昭和 が充分に測定されて書かれたのは昭和三年の「卍」と「蓼喰ふ十年のお二人の結婚以後、そして同年に「源氏物語」の現代語譯 蟲」からであらう。昭和二年の谷崎の「饒舌録」と芥川龍之介のの仕事が始められてから以後に、松子夫人の影響が徐々に谷崎を 「文藝的な、餘りに文藝的な」に見る「話らしい話のある ( 或い「晝」の型に變へて行ったのではないだらうか。昭和十一年の はない ) 小説」といふ論爭は、嘗て神經衰弱で今は癒えてゐる谷「猫と庄造と二人のをんな」はまさにその證據の作品であるやう にムには思はれる。 崎と、現に神經衰弱に罹ってゐる芥川との間で行はれたのだから、 理に於て前者の方に筋が通ってゐるのは當然である。芥川が純粹私のこの文章は枕ばかり長くて肝心のところに來て尻切れ蜻蛉 に憧れ詩的精訷を重んじようとする意圖は、「齒車」や「蜃気樓」になった。「物の組み立て方」がかう下手では面白い小説なんか ( 作家 ) を書いてゐたその頃の芥川としては無理もないが、谷崎の「物の書ける筈もないと言はれさうな氣がする。 組み立て方、構造の面白さ、建築的な美しさ」が小説の本道だと いふのは異論のないところだらう。 ( そこに異論を立てることに ■谷崎文学関西風土記・ 9 よって戦後の小説は新しい冒險を目指してゐるが、それはまた別 問題である。 ) しかし谷崎がその理論通りの小説を書くのは論爭 の翌年であり、「饒舌録」は「卍」「蓼喰ふ蟲」を用意するものだ 「蘆刈」「春琴抄」の舞台 ったと言へる。同様に昭和八年の「陰翳禮讃」は、その直前の 「蘆刈」「春琴抄」の小説的方法を解明してみせたエッセイといふ 野村尚吾 ことが出來るし、それまで資質として「夜」の型だった作家が、 ここに至ってその夜を如何にすれば效果的に發揮できるかを充分「蘆刈」の舞台である山崎の地をおとずれたのは、ほぼ十五年前 になる。こんど久しぶりに京阪神急行の大山崎で下車して、水無 に檢討して、その成果と共に樂屋裏を開陳したものと見ることも 瀬駅まで歩いてみた。ここが「蘆刈」の主入公の歩いた西国街道 出來よう。 さて私は谷崎を本來は「夜ーの藝術家と見て、その谷崎が「書」である。 の型に移行したといふ點について書くつもりでゐた。「細雪」以天王山麓の妙喜庵を右手に見て、離宮八幡宮にそって行くと、 山崎の古い家並が両側にギッシリ建っている。店つきは多く現代 後の戦後の作品は、私の見るところではどうやら「書」に屬し、 その點が私には一種の不可思議として映ってゐた。谷崎松子夫入風に変っているが、軒の低い薄暗そうな造りの家が、まだいくら の「倚松庵の夢」によって「肓目物語」以後の作品が根津松子御も残っている。水無瀬川の北がだいたい京都府で、南が大阪府に -0