の数字は、源氏を通読して行く際の素朴な印象と、ほば見合う結 果を示している。これは武田博士の見解を裏づけるものではなか ろうか 源氏物語五十四帖を現在の順序で読み進むと、筋の進行の上で、 何となく、ぎくしやくする感じを受けることがある。原文を読む 永井路子 力に自信がないと、それを自分の読む力の責めにし勝ちである。 しかし、武田説に従って読むと、すっきり読めて、面白さが増す「谷崎源氏」に対し、私は最低の読者だった。女子大に人ったこ ように思える。例えば、谷崎潤一郎氏も、帚木巻での源氏の空蝉ろ、谷崎氏の第一回の訳は出版されていて、怠けものの私にとっ に対する近づき方、また空蠅に対する言葉遣いに不審の念を表明ては、絶好の「虎の巻」になってくれた。 しておられる。年も行かず、女性に純真であるはずの青年の言葉そのころ「源氏」の講読の時間には、教授の講義に先立って、 としては、変であり不快でもある。原作者は光源氏に好意を持ち学生が順次に素読し、通釈をすることになっていたのだが、日ご すぎるともいわれている。しかし、帚木巻は第一部 << 系列の物語ろ註釈書ひとっ開いたことのない私は、番が廻って来そうになる と慌てて本文に目を通し、自我流の通釈をでっちあげ、うまく言 が展開した後に、第一部の先頭として書かれた巻だということ いまわしのできない個所に来ると「谷崎源氏」をひつばり出して、 を念頭に置く要はなかろうか。これら系列は、いわゆる中の品 の女性との秘密の交渉の記録である。だから、光源氏はすでにその御厄介になるという始末だった。 系列で何人もの女性を知っているのであり、空蝋に対する言動も、氏がその序文に 「此の書を読まれる方々にお断りしておきたいのは、これは源氏 おのずから、そうした経験のある男性のイメージのもとにある。 と云ふことである」 してみると、光源氏の空蝉に対する言動を、不審に思う見方もま物語の文学的翻訳であって、講義ではない、 とわざわざ書いておられるにもかかわらず、それを無視した私 た多少の相違を来すのではなかろうか。 は、最も氏の意にそわない読者だったといわなければならない。 谷崎氏は三度も源氏の翻訳をされながら、源氏物語について語 このとき、しかし私は、「与謝野源氏」を利用 ( ? ) することは られた文章が極めて少い。それを私はいつも残念に思っていたが、 右のような成立論に基づいた読み方について、生前何かお話を伺考えてもみなかった。それはあまり原文から飛躍しすぎていて、 いたいと思いながらとうとうその機も得なかった。もしどなたか、国文学の教室とはかけはなれた存在だったからだ。これにくらべ これについてのお話を聞いておられる方があるなら、是非それをて「谷崎源氏」は、想像していたより以上に逐語訳的な印象をう ( 学習院大学教授・国語学 ) けた。そしてそれをよいことに、私はこうした不逞な読み方を暫 伺いたいものだと思うことである。 不逞なる告白
てゐるであらう。 の作中の人物を生かしてゆくのである。さては源氏物語などでわ これが全文の結びである。稚い、舌たるい文章を引いて恐縮だが古典作家が如何に主格を省略し、それによって叙述を却って的 が、若気の至りで思、刀っこ、、 ツも七 / もも方をしており、再読して私は当確に運んでゆくかについて氏は見識のある説明をしているが、私 時の気持を想い起すことが出来、それが今でも変っていないこと にいわせれば、氏はこの種の省略法を更に活用して、単に事件の を感じ、して見るとこれを引用すれば事足りるので挙げたのであ叙述を明確化するのみならず、人物の個性の描写にまでそれを及 る。この短文では、ジイドと谷崎氏の説の印象が私の頭の中でオぼしているといえるのである。氏が例えば大阪の船場の方言を厳 ーラップしてゆく点を説明出来ない無責任さは免れないが。密に研究してかかろうとする態度は、ただのローカル・カラーへ 私はこの機会に本巻収録の全ェッセイを再読して見た。勿論義の好奇心ではない。小説表現の簡潔明確を求めて、そこへ辿りつ 務からではなく興味からである。そして色々な想い出が蘇った。 いたのである。しかもこの勝れたエッセイの結論は、近頃の若い 中でも代表的な名文は、「私の見た大阪及び大阪人」「陰翳礼讃」者がやたらに飜訳調の漢語を使いたがることや、それから形容詞 などであろうか ? 私は何も谷崎氏の批評的才能を云々しているを造るのに、ただ「の」でいい のに「的」という字を嵌めること のではない。読みながら氏の小説を読むのと同じ興味と感動を覚など戒しめている。これなど当時の私には一番耳に痛いことであ えたことがいいたいのである。分けても右の二つはさながら氏のる筈だ。それでいて全体の論旨として私が心から同感したという 小説の書割を読んでゆく感じだ。否、舞台のみならず登場人物すことは、これまた事実なのである。 らそこに現れていて、親しく口をきいている。 大体谷崎氏は関東大震災を転機に上方へ移った訳だが、この外 論文としては「現代ロ語文の欠点について」が勝れている。そ的事情に促された氏の大阪発見は「卍」「細雪」の作品の舞台に こには戦後われわれが愚かにも自ら求めて国語を混乱させていっ なるとともに、そのエッセイの種になっている。氏がそれから暫 た病根をはっきり予見して衝いているものがある。私が先の引用く阪神に住みついたということは決定的なことで、それはつまり 文で「人為的言語運動」と呼んで排斥しているものもそれである。江戸っ子の氏がこの地方を好きになったということであり、それ 然し谷崎氏は評論家ではないから、理論的に立証しようとはしなでいて、というよりも、それだからこそ、大阪の悪口をズケズケ 。専ら言葉のロあたりの方から不同意を唱えるのである。その いっているのは、同感することが多いのである。勿論時代が隔た ため一層説得力がある。「のである口調」のぎこちなさを指摘し ったので今とは事情が逆だとか、そう一概にはいえないといって て、田舎出の役入あたりが都会の市民に威厳を示すために造った反駁すればいくらでも出来よう。然し大阪入のアケスケなエゲッ スタイルだなどいっているのは、そのものずばりである。これが なさ、それからその因循さなど、谷崎氏の巧みな話術に乗せられ 小説家のセンスであって、そういったもので氏は小説の中で自分て読んでゆけば、反駁するよりも同感する方が利ロなようである。
たような超脱した姿だった。身の処しかたも常規に添わず、ひと っていた。 をひととも思わぬ様子で、ストリンドベリの初期の戯曲に出る そこへ後藤と訪ねて行って希望を話すと、小山内氏は進んで、 喜んで承諾してくれた。後進たちが、小山内氏がかって立てて巻「社会秩序の外にあるもの」か、デカダンのポヘミアンかをその ままに見るような感じをさせた。 いた旗幟を、ふたたびかかげて立てたいといって行ったというこ こうして後藤を介しての最初の谷崎との顔合わせが済んで、そ とが、小山内氏にも発禁つづきで腐らしていた気を引き立てて、 ある慰めを齎らした、とい 0 たようなところもありそうにさえ思れから次ぎ次ぎほかの同人たちとも会「たが、それらは和辻哲郎 われて、その日の私の使命は思。たよりも上上に果たされた。話に、小泉鉄に、それから岡本かの子の兄の、死んだ大貫品川と、 そのなかでも異色があったのは谷崎で、ま これだけだった。が、 が果てると、三人で海辺を散歩したりして、楽しく別れた。 それから、私のところが室があるからというので、編輯所にすだ書いたものを示さぬうちから、ただものでないような様子を見 ) せていた。国文科生だというのに、英語も達者で、西欧近代の小 ることにな 0 て、資金を渡された。 ( る旅館芝浜館の会計係をしていた。 出したのは、支那料理の偕楽園の笹沼源之助君で、出して貰「た説戯曲もよく読んでいて、ときに最悪所の消息に通じていること を洩らすかと思えば、最上の趣味も解して、心の贅沢が極まりな のは谷崎潤一郎である。そして後藤と一しょに、その谷崎がやっ か 0 た。そして自説を押し通すには、我が強く、イプセン嫌いで、 て来たが、剛い髪の毛をもじゃもじゃと、文字通りの蓬髪に、手 イプセンの戯曲で議論した場あいなんか、その思想性、知性への 入れをまるでせずに伸ばして、風采をまるで構わず、その構わな ほとんど憎悪に近い閃きを目にちらっかせて、悪魔が神を憎む場 い点で異彩を放っといった恰好で、当時大学にも顏を出していな かったらしあいには、こんな目つきをするかとも、ふっと私に思わせたほど ゝっこ、、ゝ、 月 力 / カ の激しさで食。てかかられた。この激しさと、自説の上での非妥 。 3 3 もう大学の協性と、傍若無人、それが私には魅力ともなった。 一胎枠なんかか雑誌のことでは、初号は小山内氏から来た短篇を巻頭において、 、ー一号らははみ出表紙は小山内氏の手で頼んで貰「て、岡田三郎助氏に描いて貰「 こ。岡田三郎助氏 0 表紙絵が掲載さ ) そして私としては、この雑誌をや 。一創し、社会のオれたのは第一一号からである。 、潮仕来たりのることについて、藤村 ( 島崎 ) 氏にも挨拶をしなければならなか「 たから、行ってしたら、藤村氏も力を入れてくれて、その藤村氏 枠からもは の勧めがあ「たので、この藤村氏の好みにしたがい、京橋槍屋町 ゞ ( 二み出しても る、といつで、数寄屋橋のそばにあ「た北村透谷の故宅 ( 号の透谷を数寄屋 潮思新
る。そしてこのことは深遠かっ微妙な問題である。 使うであろうか。谷崎氏はそれを始終使っている。 さて最後に、谷崎源氏についてはどうか。これについても私は こういうわけで、四人の現代語訳者はすべて非常に大きな業績 大きな賞讃を惜しむものではない。文体上からいうなら、谷崎源をあげてはいるが、完璧な現代語訳というのはまだないのである。 氏はおそらくいままで述べた四著のうちで最も美しいであろう。 ありえないのかもしれない。 この事実は私にとっては慰めとなる。 もっとも晶子の女性的な筆致のほうが女性の書いた原作にはふさ完璧な英語訳を期待するなどということは、とても考えられない ことなのである。 わしいと考える人もおるかもしれないが。谷崎源氏は原作のもっ ( 刊行室訳 ) ( ミシガン大学教授・日本文学 ) ている文学美と等量の文学美をもった翻訳を提供しうるすぐれた 翻訳家の仕事であると私は確信している。 しかしまた問いを発する人は、はたして谷崎氏は完璧な現代日 本語訳を作り出したのかというかもしれない。前にも述べたよう に、谷崎氏は原作にある曖味な部分を、全然曖味ではないかのご とくに読者に伝えている。こういうと、私が曖味さを明晰さに変 土田直鎮 えたといって晶子を批判したときと首尾一貫しないようにみえる かもしれない。私としては、もし谷崎氏が物事が曖味だと認めて 平安時代の文学に親しむ人にとって、もののけは見なれ聞きな くれさえするならば気持がもっとすっきりするのである。しかしれた事がらであろう。そして、これは何も文学作品に限ったこと この問題はもっと根が深い。なるほど一方では、品子が明快な意ではなく、平安時代の日記の中にも、霊とか、邪気とかの名で、 見をのべるときに紫式部の直観的世界を切り捨てたことは事実だ いたる所に現れて来るのである。 が、紫式部の曖味さがそのまま遺されたときに現代語訳の言葉が但し、そこは文学作品ではないから、記事が簡単だったり、ど 完全に自然であるというわけに行かないということも事実である。んな霊がどういう理由で取り付いたのか、事情がよくわからない 品子の選んだ道も谷崎氏の選んだ道も、ともに完全な解決法たり ことが多いし、またもののけと言っても各種各様で、中には鹿が えないのである。 門内に走り込んで来たといったいわゆる怪異についても、これを 谷崎源氏が実は現代日本語ではないということも、さらに議論物怪という字で表現していることもあるから、正確に説明するこ の余地があるであろう。とくに敬語の細かなニュアンスを伝えるとはなかなかむずかしいようである。しかし、このもののけが、 おんりよう ために、谷崎氏は古い動詞をしばしば使っている。たとえば、こ人の病気に際して怨霊としてあらわれる場合が圧倒的に多いこと んにち「たまえ」という形以外に「たもう」という動詞をだれがは確かである。 賀静の霊
氏は大阪で先ずそうい「た厭味な点を発見し、しかもそれに親いっしか人間性一般の発見となり、芸術一般の秘密に触れて来る。 しみを覚えてとい「て悪ければ、それと狎れ合「てこの土地を好だからその発言が人をうなずかせるのだ。 よそ 思わずふき出したのは、西洋の映画スターの写真が白い歯並び きになっていった。これは他所者がどの土地ででも感じる一種の ーツ」といっ をさらけ出して笑っているが、それが女の児が「い ェクゾチシズムである。 ているように見えるというセンスである。日本では味噌っ歯や八 それから氏のも一つの発見は、大阪に東京を発見したのであっ た。氏は日本橋の産だが、このとりとめのない大首都では、この重歯が愛嬌になるという。懶惰はこれまた消極的康法であると いう逆説的衛生学も面白い。虚弱児だったアンドレ・ジイドが、 地区の地方色はいつの間にか蒸発してしまう。然し大阪ではそれ 若い頃「縺康とは病気の欠除である」といって口惜しがったアイ に似た町家の生活がある特定地域に凝縮されて保存されている。 ロニーと一脈通じるものがある。 殊に震災による東京の下町の壊減は、それに対する氏のノスタル そういったことから、わが封建期に於ける、抑制の中にある女 ヂアを一層かき立てるのである。 第三の発見は、神戸という海港を控え、明るい光に恵まれた阪の色気という事情とも結びつく訳で、女を儒教的に、武士道的に 神地区の生活にある「西洋」である。これは本牧時代の谷崎氏の教育することによ 0 て最も色気のある婦人が出来るという逆説 ( 「恋愛及び色情」 ) は、私も丁度同じことを先頃書いたことがあ 夢がもっと現実的に日本人に根を張った「西洋」であって、この ( 文芸評論家 ) 発見も氏の上方定住の大きな要素であることは否めない。「蓼喰るので、大いに共鳴したのであ「た。 ふ蟲ーの魅力も、終りの京女よりも案外この「西洋」に比重がか かっているともいえるのである。 この三つの発見が氏のその後の生活を彩どり、後期の諸傑作を 谷崎先生の心の片隅に 生んでゆくのである。 丸尾長顕 氏の大阪発見は、直ちに日本発見或いは東洋発見に結びついて ゆく。本書の中では「懶惰の説」や「陰翳礼讃」がその代表的な 私がまだ宝塚歌劇団の文芸部にいた頃「前から三番目の席をと 傑作である。然し読者は、その文章の字面から、西洋は明るく、 り給え」と、谷崎潤一郎先生から電話がくるのである。なかなか 康で、直線的であり、日本は隠微で、曲線的で、影があるとい った、通俗美学を説いていると思「てはいけない。氏の感受性は宝塚大劇場の席がとれなか「た頃だから、その度に苦心したもの だ。前から四番目、・五番目になったりするとご機嫌が悪かった。 そんな概念的な二元論に頼らねば働かないような羸弱なものでは その頃の宝塚では踊り子の住野さえ子がごひいきだった。脚の ない。氏は日本人の心や生活の陰影を眺めているうちに、それが
ねることにあ「た。新年特大号、春季特別号、秋季特別号と銘う志賀の両氏は別格で、十円か十二円でなければ書いてはもらえな たれた「中央公論」、「改造」の創作欄の絢爛豪華な創作陣は、文いというのが、編集者仲間の話であ「た。 字どおり壮観をきわめて、貴重な宝石がずらりと並べられている さて、谷崎氏に一枚十円として、三十枚の小説をお願いしたら、 ような気さえした。目をそばたたせるものがあった。 三百円ということになる。まあ、いよいよのときは、社長 ( 佐藤 ページ数のすくない、赤字つづきの文芸雑誌「新潮」の編集の義亮氏 ) に、お願いしようということにして、さ「そく、わたく 仕事にしたが「ているわたくしは、この「中央公論」、「改造」の、しは兵庫県武庫郡岡本に居を構える谷崎氏に、やたらに敬語をつ あたりを睥睨するていの創作欄を、ここに「日本文学の殿堂」が かって、ぜひとも寄稿してほしいという手紙を出した。 あるとおも い、ただただ羨望し、いたずらに指をくわえているば その返事が、はじめに披露したものであった。 かりであった。 それから、何カ月ののちであったか、なんの前触れもなく、谷 そういうとき、わたくしは一度でも、 、し 、「新潮」にも、谷崎崎氏は原稿をおく「てくださ「た。それが、「続蘿洞先生」で、 潤一郎氏か、志賀直哉氏の原稿がもらえれば、編集者として、も三十枚の小説であ「た。手紙一本で、谷崎潤一郎氏の原稿をもら って瞑すべし、とおもったほどであった。 ったことで、わたくしは得意であった。「中央公論」でも、「改造」 さて、そういう無いものねだりの気持ちにかられて、ある日のでも、谷崎氏の原稿は、手紙一本ではもらえないだろう、と呟き、 こと、中村武羅夫さんに、 「新潮」の目次に、念願の谷崎潤一郎の名が載るとおもうと、お 「谷崎さんか、志賀さんに小説をお願いしようじゃありませんも映ゆくもあ「た。 か ? 」と、きり出した。 ところで、その原稿は、れいの出雲紙ふうの若草色の罫のある すると中村さんは、 京稿用紙に、墨痕あざやかな毛筆書きのみごとなものであった。 「志賀さんには、しばらくお目にかからないから、一度訪ねてい わたくしは、編集者生活の思い出になるものとして、所蔵してお 「て、お願いしてもいいし、手紙を出してお願いしてもいいですこうとおもい、その一字一句、その句読点から、谷崎氏の魂のか よ。谷崎さんは関西だから、あなたから頼んでみなさい。しかし、 がやきや、気息をじかに感じながら、別の原稿用紙に、ていねい 谷崎さん、志賀さんには稿料を気張らなければならないから、も に書き写して、印刷所にまわした。 し、二入が書いてくれたら、『新潮』は破産ですな。どちらかに ある日、中村さんが編集室に顔出し、いつものように編集の したほ、つ力も " 、、じゃないですか ? 」といわれた。 話をしたりしているうちに、ふと思い出したように、 当時の「新潮」の小説の稿料は、一枚三円から七円までであっ 「谷崎さんの原稿はどうしました ? 」 た。徳田秋声、正宗白鳥氏には、最高の七円を払「たが、谷崎、 「もう、組みにまわしてあります」
その年の八月に、谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫の連名で、離婚並岸の飯貝に、代々「松六」と称する醤油醸造を営んでいられる旧 に結婚の挨拶状が出されたのは周知のとおりで、その後の鮎子さ家。先にまずお宅に寄「て、先生の遺墨や手紙などを見せてもら った。氏はすでに家業を子息に譲って、別宅を構えていられるが、 んの身の振り方についての相談の手紙である。 なお、その「挨拶状」の末尾に、「小生は当分旅行致すべく不以前から俳句をやられるとのことで、高浜虚子が命名して揮毫し 在中の留守宅は春夫一家に託し候」とあるように、八月下旬からた「田螺庵」の扁額が掲げてあった。 私は中ノ千本の地にある旅館「桜花壇」に行く途中で、尾上氏 各地を転々と旅をされたらしい。 吉野へは、新年号用の原稿を書くため、初めからしばらく滞在と先生の関係を尋ねてみた。 するつもりで〃立籠った〃ようである。その時、執筆された創作昭和五年秋に、沢山の本や荷物を持ちこんで桜花壇に宿泊され た先生が、給仕に出た女中さんに突然、 が「吉野葛」なのである。 「吉野に尾上という醤油屋があるそうだが、知らないか」 そこで私は、「吉 と聞かれたそうである。ところが偶然にも、その尾上六治郎氏 撮野葛」を執筆された 場所を尋ね、あわせの夫人は、桜花壇の娘で、二年ほど前に尾上氏に嫁いだばかりの いっそ、つ話が通じることになった。 て作品の舞台になっ親戚関係だったので、 た吉野川の上流地帯なぜ先生が、尾上家のことを知っておられたかというと、何年 右 を実地に確めてみよか前に、尾上氏の母上が京大病院だかに入院されたさい、隣りに 山 とうと、吉野に出かけ先生の妹さん ( 末さん ? ) も人院中で、看病に来ていた尾上氏の 亠既 - 、 0 父君と、見舞に見える先生とが顔見知りになり、「吉野の醤油屋 知幸い吉野町飯貝に尾上家」のことを記憶されていたらしい。それで早速、尾上氏が 合は、昭和五年に谷崎先生を訪れ、国栖その他へ案内する因縁になったのだそうである。 餉先生を案内された尾また桜花壇の主人の故辰巳長楽氏は、文人墨客好きで、吉野の 挾上六治郎氏がいられ歴史や伝説にもくわしか「たので、よく夜など、親しく話相手に を るというので、当時なって無聊をなぐさめたという。 野 桜花壇では、最上級の部屋を仕事場にされていた。十畳の部屋 吉の模様を聞くことに にさらに十畳の控えの間がついている、そこの正面から谷を距て 尾上家は上市の対て如意輸堂の建物が樹間に点景のように見え、眼下の谷にはいわ
の私には、そんな言葉しか思いうかばない。 もちろん「源氏」は、そのおそるべき知性を用心ぶかく行間に 「源氏」はそれ以前の「竹取」や「字津保」のような架空の物語沈ませ、美しい言葉の衣裳をまとわせて、めったに姿を見せまい から脱して、人間そのものを描いた作品だとはよく言われる言葉と心を配っている。現代語訳でそれをすくいあげることは容易で はないし、むやみにそれをしたら、かえって本来の姿を失うこと である。かといって、王朝の貴族生活をべったり写しとった単な になりかねない。 る哀歓絵巻ではないはずだ。この華麗な細部の描写を支えている のは、筆者のおそるべき教養の深さである。 したがって、谷崎氏の訳文もまた、それを行間深くに沈ませて 中国文学から仏教思想にいたる幅の広さ、その深さ。筆者が行しまわれたように思われるのだが、そのへんのところは、やはり 間に、さりげなく、ひそとにじませているのは、当時の尖端を行直接伺ってみたいことであった。 さ、りに , もっし」、もロハーにノ、、、 く新思潮であった。その中心ともいうべき「無常観」はその後千 、日本的な文脈に対しつづけて来ら 年の日本の歴史の中で手垢がっき、底の浅いものになってしまつれた氏に伺いたかったのは、漢詩、漢文についてのお考えである。 たけれども、当時は、むしろ新しすぎるものの考え方であったと このごろ時折り、日本人の書いた漢文の現代語訳があってもい それをみごとにみずからの中に開花させた「源氏」な、などとふと思ったりするので ( このことは「源氏」とは離れ のような作品はそれ以後現代まで日本には絶えてなかったといっ るので省略するが ) 並々ならぬ国語漢文の素養をお持ちの氏に是 てもいし ド司ってみたかった。かっての「谷崎源氏」の最低の読者は、い 。もともと思考の骨格の貧弱な日本入にとって、「源氏」ョイ はまさに驚くべき作品である。 ま氏亡きあと、新々訳を手にし、またしても勝手な思いをくりひ ( 作家 ) ろげているのである。 考えてみれば、自然観照の眼の繊細さは、すでに「古今」に、 哀歓にさいなまれる女の心のすさまじさなら、すでに「蜻蛉日 言」に、その原型を見出すことができる。が、いわば当時の全世 界的な教養に裏づけられた文学は「源氏」をおいてほかにはない。 平安貴族の婚姻圏 このことは、谷崎氏の生きて歩まれた時代を考えると、じつに 興味がふかい。明治から大正・昭和へと、氏の周囲にもまた、次 角田文衛 次と新しい思潮の波がおしよせて来たはずだし、氏御自身が大変 なモダニストでもあられたはずだ。「源氏」よりも数段激しい新「源氏物語」をはじめとして、平安時代のあまたの物語には、貴 思潮の波の流れをうけられた氏が、その中で何を書かれ、そして、族たちの多彩な恋愛がきらびやかに描かれている。またほとんど どんなふうに「源氏」にむきあわれたのか : どの歌集をひもといても、それが撰集であれ、私家集であれ、
怠けものの私は、もうそんな読み方はしなくなっていたから : く続けさせて頂いたのだった。 この無知なあっかましさを披露したついでに、さらに不逞な告戦後、「谷崎源氏」の第二稿が出版された。このときはもう、 私は、原文とっきあわすような読み方はしなかった。やっと第一 白を許していただくならば 稿の折に谷崎氏が指示されたような読み方をして、つまり文学的 たたい古典をなめらかな現代語におきかえるということは、 ひどくむずかしい仕事だと思う。そのころの私の通釈などは、ひ翻訳として読んだわけだ。そのせいだろうか、このときは、第一 とくもいかげんなものだったが、い くら非良心的にやりすごして稿で感じたようなかすかな抵抗感を、ほとんど感じなかった。 これはもちろん、谷崎氏が、第二稿において、細部にまであら しまおうとしても、どうにもならない一一一口葉なり言いまわしなりに 行きあたってしまうことがある。その雰囲気はつかめても、なんためて検討を加えられたからであろう。私が「谷崎源氏」に敬意 こんなとき、怠けもを表するのはそこなのだ。あれだけ大部のものを、しかも、 とも言いあらわしようのないもどかしさ たんまとまった形のものとして世に出された文壇の第一人者が、 のの私は、すぐ「谷崎源氏」に逃げこんでしまったのだが : しかし、その場合、正直いって「谷崎源氏」がすべてに答えてまだ意にみたぬところがあるとして、新しく訳し直され、またさ くれたとはいえない。 もちろん、思わず、ふっと吐息をつきたくらに晩年に到って、もう一度手を人れておられるということ、何 なるような微妙な訳文を発見することも度々あったが、難所ともでもないことのようだが、これは大変なことだ。おそらく、今後 こうした勇気ある試みをする人は、一人もいないのではないだろ い、つべき所にさしかかって さあ、ここは ? 私はとうとう氏の生前御目にかかる機を得なかったけれども、 とページを繰ってみると、意外に原文に近い姿で、するりと書 p p ・カ、り もしその折があったなら、訳し直された中の一個所でも、 いてあって拍子ぬけしたことを覚えている。 旧訳、新訳、そして新々訳についてのお考えを伺いたかったと思 こういう場合に、与謝野さんの訳では原文にかまわず、ばっと 、つ 意訳されてある。「まあ、それでもよかろうが、原文のニュアン さらにもうひとつ、伺いたいと思ったのは、「源氏」を訳され スはこうではない」と首をかしげたくなるような文章だ。そこへ ゆくと「谷崎源氏」は、語法的にも原文に忠実なのだが、そのかている間に、その華麗な王朝絵巻の底を流れるものを、氏がどう うけとめておられたか、ということである。 しまひとっ熟さな わり、原文につきすぎて、現代語訳としては、、 はなはだ極端な言い方をすれば、私がいま「源氏」に心ひかれ いようなうらみを、小生意気にも、時折私は感じたのだった。も っともそれがどの部分だったか、今は憶えていない。何しろ二十ている理由は、それがこの世ならぬ美しい衣裳をまとった観念小 年以上前のことだし、一年間の「源氏」の講読が終るやいなや、説だからである。こういう言い方は誤解をまねきそうだが、いま っ
足、遊宴などの思ひ出と結び着き、作者に取ってなっかしいものか残っている。 ばかりである。就中『吉野葛』を書くに就いては、大阪の妹尾健「天井裏のやうな低い二階のある家が両側に詰まってゐる。歩き 太郎氏、大和上市の樋口氏、飯貝村の尾上氏、吉野桜花壇の辰巳ながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家にはお定まりの、 裏口まで土間が通ってゐて、その土間の入り口に、屋号や姓名を 氏等の好意と配慮とを煩はしたところが頗る多い 此の書の装幀は作者自身の好みに成るものだが、函、表紙、見返白く染め抜いた紺の暖簾を吊ってゐるのが多い。 ( 略 ) 孰れも表 まぐち し、屏、中扉等の紙は、悉く『吉野葛』の中に出て来る大和の国の構へは押し潰したやうに軒が垂れ、間口が狭いが、暖簾の向う 栖村の手ずきの紙を用ひた。此れは専ら樋口喜三氏の斡旋に依るに中庭の樹立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのも見える。」 とあるが、まったくそのままの家の造りを見るにつけ、その細 のである。」 と記してある。樋口氏の手紙によれば、吉野紙は、氏の祖先が密に描写されているのに驚いた。また、嬉しかったのは、古いう 開発して一村の職業に広めたものだそうである。その樋口氏の生どん屋兼菓子屋が一軒あったが、先生はどうやらこの店に入って、 うどんか草餅を食べたのではないかと思えたことである。という 家は、上市では最も古い家で、材木商だったそうだが、現在では うどん のは、作品中に、「饂飩屋のガラスの箱の中にある饂飩の玉まで 荒物屋に代変りしている。 上市の町並も表造りは、最近式の商家らしく変えた家が多いけが鮮やかである。」とあるのと、「中には階上から川底へ針金の架 れども、「吉野葛」の中に描かれているような家も、まだいくら線を渡し、それへバケツを通して、綱でスルスルと水を汲み上げ るやうにしたのもある。」という仕掛けは、この家の台所にあっ たのだというからである。 年 だが、現在はその家の裏の川縁には、国道六九号線が通るよう 学芻 郎昭 になり、木材や砂利を積んだトラックが疾走してくるばかりでな 、遠く大台ヶ原山と山上ヶ岳の谷間をぬけて、和歌山県の新宮 谷 市までの。ハスも通うようになっている。 むたの あ に 吉野川は下流の下市のへんに椿橋、その上に美吉野橋 ( 六田橋 ) 、 狐 桜橋と架っているが、昔はいずれも渡しがあったわけだ。桜橋 ( 上市と飯貝を結ぶ ) から見る妹山と背山のコントラストが、大 栖 野変美しく、樋口氏から聞いたそのイメージと歌舞伎とが結びつい て、まず谷崎先生を、吉野に遊ばしたにちがいない気がしてきた。