潤一郎 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 月報
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1. 谷崎潤一郎全集 月報

崎潤一郎のもっているロマンティシズムとが、一脈の相通じるも のもある点で、芥川は谷崎潤一郎にそうとうな敬意を払っていた と考えられる時期だったからでもある。 私が谷崎潤一郎の「刺青」を第二次新思潮でよんで感嘆したの は、熊本の第五高等学校の二年生のときである。さらに「麒麟」 江口渙 をよんで驚嘆した。その悪魔主義的な官能描写にも圧倒されたが、 私が谷崎潤一郎をはじめて知ったのは大正六年の六月だったと偉大なる聖人孔子を引きずり出してきてその古い道徳観を無残な 思う。芥川龍之介の処女出版『羅生門』の出版記念会が日本橋のまでに叩きのめして見せた点に驚嘆したのである。それいらい私 はできるだけ多く谷崎潤一郎のものを読んオ 鴻の巣でもよおされたときのことである。この出版記念会は私と 明治四十五年の七月に熊本の五高を卒業した私は、同じ年の大 佐藤春夫とが思い立ったもので、『羅生門』の出版を祝うととも に、北原白秋の『思ひ出』の出版いらい久しくとだえていた出版正元年九月に東大の文科にはいった。それから一年ほどしたころ、 記念会というものを、もう一度文壇に復活させようじゃないかと偶然宇野浩二と親しくなった。そして宇野浩二から谷崎潤一郎に ついてのいろいろなうわさを聞かされたものである。たとえば伊 いう意図もあって、ふたりで考えついたものである。 その晩の谷崎潤一郎は純白の麻の背広に白靴をはいていた。主勢丹がまだ外神田にあったころ、谷崎が大島紬の羽織と着物のお 人公の芥川龍之介もやはり白い麻の服だった。会は二十五、六人っいを注文し、はじめから筒袖に仕立てさせてきているのはいい が、いまだに金を一文も払わないので、伊勢丹でひどくよわって ほどの小さな集りだったが、芥川はとてもよろこんでくれた。と いるという話もした。また島崎藤村のなじみの芸者が日本橋かど くに谷崎潤一郎が来てくれたことを一ばんよろこんでいた。その こかにいるのを谷崎が「どうしてもあの芸者を横取りしてやる」 当時の谷崎潤一郎の文壇的地位はすでに確固としたものであり、 その上、芥川龍之介のもっているロマンティシズムの一面と、谷といってやっきになっているという話もきかせた。また、谷崎は 中公 谷 郎 の 出 月報 4 昭和年 2 月 〈普及版第四巻付録〉 目次 谷崎潤一郎の思い出 川への潤一郎の手紙 回想の兄・潤一郎 3 三代文壇小史 4 第四巻後記 三谷瀬江 好崎尸ロ 行終晴 雄平美渙 11 10 6 4 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 一】

2. 谷崎潤一郎全集 月報

いるが、企画の参加者には亀井勝一郎・林房雄・中村光夫・河上 谷崎潤一郎にとって、西洋はそれ、への仮装から脱けてしまえば、 徹太郎・小林秀雄・諸井三郎・西谷啓治らの顔触れが並んでいる。もはや敵でさえない。自己の脱ぎすてた衣裳をしかと踏みすえて、 このふたつの座談会の悪名はあまりにも高いが、それにしても、 かれは固有のメンタリティの内部へ、つまり江戸へ、あるいは江 強いられた戦争の不条理を視野のかたはしにおきながら、その主戸と短絡した東京へ帰ってゆく。随筆「東京をおもふ」にも、そ アン方ージュ 体的肯定と参加の方途をさぐろうとする絶望的な試み自体は うした心情の一半はあらわである。それは〈未曾有の天災と不躾 3 は 時代状况と相対化される功利性はもとより否定できないが な近代文明とに自分の故郷を荒らされてしまひ、親戚故旧を亡ば お、当代の知識人の負うべき十字架に誠実であろうとした知的追されてしまった人間の怨み言〉という形で、仮装から醒めた人間 求のひたむきさを認められてい いずれにしても、ここが〈日の故郷願望の情を縷々として語るのである。 本への回帰〉のゆきつくひとつの突端だったのはまちがいない。 「私の見た大阪及び大阪人」につぎの一節がある。 前述のとおり ( 本稿第二十回 ) 、谷崎潤一郎もほばおなじ時期《関西の都会の街路を歩くと、自分の少年時代を想ひ出してしみ に、伝統芸術や日本美への讃嘆をあからさまに語りはじめている。 み \ なっかしい。と云ふのは、今日の東京の下町は完全に昔の俤 西洋から日本への谷崎なりの過程は確実にあったし、それは結果を失ってしまったが、それに何処やら似通った上蔵造りや格子造 りの家並みを、思ひがけなく京都や大阪の旧市街に見出すのであ として〈日本への回帰〉をいそぐ時潮の先取りにもなった。しか し、歴史的時間の内部では〈日本への回帰〉という大きな動向のる。》 一環に位置づけられるこの作家の変貌は、にもかかわらず、多少 谷崎は〈忘れてゐた故郷〉を関西に発見したのである。関東大 とも微視的な視座にたてば、時代性との大きな距離がただちに確震災による関西移住が谷崎の伝統美発見のとおい端緒なのはいう 認できる。たとえば日本浪曼派のひとびとや「近代の超克」の発までもないが、中村光夫氏の指摘があるように ( 「谷崎潤一郎論し、 言者たちと、谷崎との差は明瞭だろう。 それは京都や大阪の直接の感化というより、関西の風土に見出し 結論ふうにいえば、市民社会のいちおうの成立以後に自己形成た〈故郷〉へ遡源する心情の自然であった。谷崎が関西のすべて の時期をもっ昭和作家をまきこんだ〈東と西〉の課題と、もっとをよしとするのでないことは、「所謂痴呆の芸術について」や「大 早い時期にいわば〈西洋〉に仮装して近代を手に人れた旧世代作阪の芸人」などの文脈のはしばしに読みとれる。大阪を見る東京 の眼はなお消えていない。 家のそれとの差である。前者は西欧を敵として認識した。自己の メンタリティの基盤として西洋を認めざるをえない矛盾ゆえに、 中村氏の指摘を借りていえば、関西で演じられた谷崎の劇は 西洋は真に政めるべき城として彼らの前にあらわれたといいかえ〈知識階級〉から〈町入〉への変貌であった。それと重なって、西 てもよい 洋から日本への傾斜があったのである。谷崎の手に人れた〈日

3. 谷崎潤一郎全集 月報

めに憂えて、あらかじめ正確な事情を書いておく、という作者のして、また「細雪」が書かれた当時の社会なり文壇なりの空気の 気持が働いていたものであろう。しかし、動機には夫人をかばう反映として見れば、別な妥当さが生れる。 という気持があったとしても、書きはじめると同時に、谷崎潤一 「雪後庵夜話」によると、明治四十年頃、谷崎潤一郎が第一高等 郎という作家が全能力をしば。て、自己の生涯においての大事件学校に在学していたとき、夏目金之助は教授であったが、漱石が であったその経緯を、自分自身に対しても容赦なく、まともに描英語を教えていたのは二部 ( 理工科 ) であ。たので、谷崎は習う き出した、というすさまじい気力がみなぎっている。 機会がなかった。それでも漱石は「吾輩は猫である」や「草枕」 そのほかにこの「雪後庵夜話」の中には、若い時の先輩の諸作を書いて文士として知られていたから、谷崎が廊下ですれちがう 家や文壇に対する思い出が素直に、は「きりと描かれているのをようなときお辞儀をした。すると漱石は丁寧に会釈を返した。そ 私は珍重する。そういう古い、若い時の話になると谷崎さんの筆れが嬉しか 0 た、と記されている。 致は、ずっと楽になり、警戒心というか緊張がゆるみ、暖い息づ 谷崎潤一郎という人は、若い時から、大変はにかみ屋であり、 力いとなる。 同時に傲岸な、人に頭を下げるのを好まない強い気質があったら そういう思い出のなかには、「細雪」を書いていた当時に広津和しい。先輩の作家に自分の方から頭を下げて近づくということが 郎に志賀直哉の家で逢ったとき、広津和郎が自分を嫌っているのほとんどなかったようである。 で、その突然の出逢い方に志賀直哉が気を配「てくれている、と「刺青」を書いてのちに、滝田樗陰にさそわれて向島に幸田露伴 谷崎潤一郎が思い込んでいた話が書いてある。ところが、これをを訪ね、二、三十分話をした、というのが、ほとんど唯一の先輩 読んだ広津和郎が、あとで、自分は谷崎潤一郎と同座することに訪間だったようである。森鵰外に近づくことをせず、上田敏に近 少しもこだわっていなかった。むしろ後には、あの戦時に「細雪」 づくことをせず、漱石についてはその作品を批評していながら、 のような性質の大作を書いた谷崎潤一郎に敬意を感じた、と反論やつばり訪問をしていない。 を書いたことがある。 こういう事は、その当時の若い作家としては珍しいことなので それぞれに、芸風、意見、立場を異にする芸術家たちが逢「て、ある。外に近づこうとすれば、すでに鷓外の方で谷崎の作品に 気持の照応があるとき、その感じかた、受けとり方は微妙で、谷関心を示しているのであるし、かっ友人の後藤末雄がその家に家 崎潤一郎の方に多少の思い過しがあ「たかも知れないのである。庭教師として出人していたのであるから、機会は十分にあ。た。 だからこの回想や人物論なども、そのような思いすごし、独り合 谷崎潤一郎が生涯にわたって兄事し、交際した先輩作家は永井 点が含まれているものとして読まれなければならない。谷崎潤一荷風のみだ、と言「てもよい。しかし荷風について言えば、さき 郎の思い過しがあ「たとしても、そういう思い過しをする人柄とに荷風の方が潤一郎を認め、言葉をつくして世に推したのである

4. 谷崎潤一郎全集 月報

いか。そのときにこそ、二人の姦通者は真の報復を受けなければ ならない。 潤一郎は、「門」の恋愛と結婚が、自然主義の場合とは異なる ことを指摘し、さて、そのまえで、世間の事実から離れているこ とを非難している。 荒正人 以上の文脈は、潤一郎の文学観を想定するとき、極めて明快で 谷崎潤一郎の初期の文章に、「『門』を評す」 ( 「新思潮」明治四ある。「門」は、もっと大胆に、自然主義にもとづく人間観を乗 三・九 ) というのがある。 「等しく拵へ物としても、『それり越えるべきであるという前提に立っている。終りのほうで、 から』は事実の土台の上に立って居たが、『門』は空想の上に築「宗助が鎌倉へ参禅に行く所は、如何に見ても突飛であらうと考 へる」といっている。これは潤一郎と漱石の決定的な岐れめであ かれて居る。いろ / 、の方面から見て、『門』は『それから』に 劣って居ると云はねばなるまい。若し事実に立脚して、宗助とおる。潤一郎は、宗教など三文の価値もないものとみなしていたで 米との恋の破綻を種材に捉へたならば、『門』は『それから』よあろうが、漱石は、はやくから覚りの境地を求めていたのである。 私は、この作品評のなかに、潤一郎の文学観と人間観が率直に りも更に大きい問題と、深い意味とをもたらす事が出来たであら うと思はれる。僕は返すみ \ も『それから』に依って提供された打ちだされていることに深い興味を覚える。潤一郎の率直な態度 大きな問題が、『門』に於いて、なまじひな解決を与へられた事は、個性的なものである。 「芥川君と私」 ( 「改造」昭和二・九 ) のなかで、「君と私とは、 を残念に思ふ」ここで、空想といっているのは、宗助とお米の恋 出生地を同じうし、出身学校を同じうし、文壇に於ける境遇と党 愛と結婚である。これは、理想ではあっても、現実の姿ではない。 、また、「『下町 今日の青年にとっては、空想でしかない。実際には、宗助は、恋派を同じうし、寺までも同じうしてゐた」といい 芥川君は近頃しきりにさう云っ にさめた女を抱いて、絶望のジレンマに陥ることがあるのではなっ児は弱気でいけない。』 中公集 谷崎文学の底流 月報れ昭和年 6 月 〈普吸版第二十一巻付録〉 目次 谷崎文学の底流 「或る時」のこと 谷崎文学関西風土記 7 三代文壇小史 第二十一巻後己 三野山荒 好村ロ 行尚廣正 雄吾一人 12 10 6 4 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1

5. 谷崎潤一郎全集 月報

「羹」 ( 明治 ) の副主人公佐々木卯之助、「亡友」 ( 大正 5 ) の うに見えながら三日と逢わずにいないんだよ」 というようにも、かの子に語っていた。 大隅玉泉は明らかに雪之助をモデルとしており、「青春物語」 ( 昭 かの子は晶川のこういう話のおかげで、早くから谷崎潤一郎の 和 7 ) の中では、実名で雪之助に触れている。 中でも「亡友」は、雪之助の死後四年たって書かれたもので、作品にも親しみ、潤一郎の天才に憧れていた。 品川の自尊心の強さとはにかみ癖は異常なほどだったが、かの 全篇、まだ生々しい亡友の想い出にみたされている。ちなみにこ の作品の載ったため大正五年九月号の「新小説」は発売禁止にあ子が「或る時代の青年作家」に伝える所によれば、ある日、かの っている。 子と晶川が町を歩いている時、品川の袴にほころびがあるのを背 晶川は潤一郎の文中にも充分描きつくされているように、異様後から見つけたので、 「あら、兄さん、袴のそこが破けててよ」 なほど、一途で内気で、しかし才能はある文学青年だった。人一 と注意したところ、品川はさっと、燃えるよ、つに顔をあかくし、 倍傷つき易い神経の持主で、 いつでも被害意識に悩まされていた。 潤一郎の天才を早くから見抜き、心から長敬していたので、最愛ものもいわずかの子から離れていった。その直後、品川は寄宿舎 の妹のかの子には、中学二年の頃からしきりに から、かの子あてに手紙を送り、 「きみはほくをよく恥しめた。僕のぶざまを黙って見ていた人が 「君、一級上に変に頭の好い奴がいるんだぞ、谷崎潤一郎ってい うんだけれど、何でも出来るんだぞ、何でもさ、数学でも英語で ( それが妹であろうと ) わずかな時間でも僕の背後に居たかと思 も国語でも作文でも何でもさ」 えば恥しい。君は黙って僕の気づかぬうちにほころびを縫「てお いてくれるのが本当ではないか : : : 」 と、潤一郎の才能を驚嘆して聞かせるようになっていた。品川 自身もクラスで、三、四番をしめる秀才だったけれど数学は苦手という烈しい文面だった。 大貫家には潤一郎の品川あての手紙が伝っている。明治四十四 だったので、潤一郎の数学も出来るという才能に殊の外うたれて たし」い、つ 年四月二十四日付のものは、品川が新妻のハツを伴い伊豆山へ静 「谷崎って男は、怖しい友達だ。凄い男だぞ。学識があって大胆養にいっていた許に送られたもので、「新思潮」廃刊直前の切迫 で、文学に野心がありながら、今の文学界 ( 文壇の意 ) なんかにした雰囲気が行間にあふれている。半紙三枚に毛筆の達筆で書か 野心はないんだ。僕はあいつの前では僕の詩や歌は読んで聞かせれたものである。 ないんだ。あいつは感心して聞いているのかと思うと、ふんとい 「偕楽園あての御はがき正に落手仕候伊豆山は小生會遊の地春 った様子も見せるのだ。僕はあいつがいまいましい。だが三日と光暖なる海島の景色は嘸かしと思ひやられ欣羨に不堪候其の後 あいつに逢わずにはいられない。あいつも僕を馬鹿にしているよ の御容態は如何にや今体を悪くされては一大事ぞと御危惧あり

6. 谷崎潤一郎全集 月報

す。主人公の友之丞は自分の言ひたいことを言ひ過ぎる程言 それだけで 万太郎秋の夕暮。ーー芒原。 , ーー尺八の音。 って居ます。しかし、五平は台詞が少ない。思ふ事をみんな も作者の「詩」は感じられます。 ( 略 ) 言ってゐない。それだけに、 この役はむづかしいと思ひます。 潤一郎実際なら、図々しいところもあり又、我儘なお坊ちゃ 寿三郎には無理でした。 んのやうでもある。仇の前に出てはきても内心はびく / \ も 潤一郎私は作全体の上からあの五平を一番軽く見てゐました、 の、友之丞です。近代劇ならそれがはっきり出せますが旧劇 万一失敗しても、大して効果を傷けないと思ひました。 に書いてしまったんで、 ( 略 ) 薫それは自分の作の価値を知らない言葉です。作者はあの役鬼太郎旧劇の仇役でも皮肉を言ったり、相手を上げたり下げ 者に満足してゐるのですか。 たりして馬鹿にしてやるやうな演り方もあります。 潤一郎絶対的に言ってはとにかく、まあいいと思ひます。 潤一郎それはあるでせう。しかし、現代のものならやりいゝ 小山内先生の大変きびしい発言がおざなりの合評会でない、う ゃうに思へるけれども旧劇では僕には出来ません。 らやましいような真剣な座評会の空気を伝えている。 八千代失礼ですけれど、この芝居は、舞台監督で大分壊して 荷風あの作は君の婦人観が主なんですか、それとも、草双紙 ゐると思ひます。 的な、詩としての戯曲が主なんですか。 鬼太郎私も処々に共の気味があると思ひます。 潤一郎女は主でありません。詩もあります。しかし、私は友潤一郎素人だからです。遠慮なく役者に注文して、あとで、 之丞の気持を書きたかったのです。 それが見当違ひだったら困ると思って : : : つまり、どうすれ 荷風さうなら僕の考へと同じだ。 ( 略 ) ば舞台でどのくらゐの効果が出るかと云ふ計算がハッキリと 潤一郎僕は自分の舞台監督としてのカでは手の出しゃうがな 出来てゐなかったからです。しかし追ひ追ひと監督をやりつ かったのですが、友之丞がもっとにちゃ / \ 笑ってみたり、 ければ巧くなると思ひます。 ぐずぐず云って見たりする男のやうであったらいも 、と思ひま 父は、追い追い監督をやりつけるつもりだったのだろうか。演 すが。 ( 略 ) 出家谷崎が生れたかも知れない。だが父のように、人とのめんど 八千代友之丞が彼所へ出てくる気持は何ういふつもりなのでくさい交際のきらいな人には、久保田先生のようにまめに演出は すか。 出来なかったろう。この時以後演出をやっているのだろうか。 潤一郎殺されても仕方がないが、何とかして殺されなければ薫 ( 略 ) 友之丞が二人の関係を述べてから、今までゲラゲラ笑 なほい、といったやうな気持もあります。 ってゐた見物が、急に真面目になるやうな変化がほしいと思 ひました。 薫女を追ひかけてきたのでせう。 4

7. 谷崎潤一郎全集 月報

きつがれていたことも有名である。荷風もまた、谷崎潤一郎とお複する部分もあるが、各巻の刊行された年月を記しておく。 ( 私家版 ) 昭和 『細雪上卷』 細雪上卷 なじよ、つに、〈戦後〉を信じていたひとりといえよう。 中央公論社刊 昭和 『細雪上卷』 偏奇館を空襲で焼かれ、明石や岡山の旅舎に仮寓した荷風は昭 中央公論社刊 昭和 『細雪中卷』 細雪中卷 和二十年の八月十三日に、岡山県の勝山に疎開していた谷崎潤一 中央公論社刊 昭和 『細雪下卷』 郎を訪れている。焼け残りの全財産をカバンと風呂敷包の振分け細雪下卷 以上三巻が纏めて刊行されたのは昭和二十四年二月刊の「帙人 荷物にし、背広にカラーなしのワイシャッという風態だったとい う。しかし、その嚢中には「ひとりごと」以下の原稿があった。特製愛蔵本全三巻」および昭和二十四年五月刊の「上製再版全三 それを谷崎に托して、荷風は十五日に辞した。その日、太平洋戦巻ーであり、一冊本に収められたのは昭和二十四年十二月刊の 争が終るわけだが、谷崎が敗戦を知らされたのは、「ひとりごと」『細雪全』 ( いわゆる「縮刷版」 ) である。 本全集所収の本文は、「谷崎潤一郎文庫」 ( 中央公論社刊 ) の の原稿を読みふけっている途中であった ( 「疎開日記」 ) 。 「細雪」はようやく〈完成発表に差支なき環境〉にめぐりあった「細雪」上・中・下三巻 ( 昭和二十八年九月刊 ) から作られた新 のである。昭和二十一年以降、上・中巻が相次いで刊行され、下書判全集の本文を底本とし、初出誌および前掲初版本三巻、さら に「縮刷版」と校合した。異同の個所はすべて原稿を参照した。 巻の原稿は、京都南禅寺下河原町の潺湲亭や南禅寺塔頭真乗院で 書かれた。「婦人公論」に連載して局を結ぶのは、昭和二十三年 の十月である。最初の発表から完結まで、まる六年の歳月が過ぎ ■刊行室から たことになる。この六年の時間は、〈暗い谷間〉に耐えて自己の ▽第十五回配本・第十五巻をお届けいたします。毎日出版文化賞および朝 世界をまもったひとりの作家が、文学的抵抗の記念碑を刻む時間 日文化賞を授賞した「細雪」上・中・下三巻を一挙に収録いたしました。 ( 東京大学文学部助教授・国文学 ) でもあった。 ▽本年八月に刊行されました野口武彦氏の『谷崎潤一郎論』が第五回亀井 勝一郎賞を受けました。生涯賭けて永遠の女性を描きつづけた谷崎文学の 美とメタェロティシズムの本質を解き明し、芸術的長寿を全うした文豪の 全貌を捉えた本格的谷崎論を併せて御味読いただければと存じます。 第十五巻後記 ▽次回第十六巻は一月十日に配本になります。昭和二十一年八月から昭和 第十五巻には昭和十八年一月から昭和二十三年十月にわた「て二十六年十一月までに発表された左記十三篇が収められます。 「磯田多佳女のこと」「同窓の人々」「『潺湲亭』のことその他」「都わすれ 断続的に発表された「細雪」上。中・下三巻を収める。前回まで の記」「越冬記」「月と狂言師」「京洛その折々」「少將滋幹の母」「 < 夫人 の例と違って、雑誌に発表された部分と単行本として発表されたの手紙」「疎開日記」「乳野物語」「小野篁妹に戀する事」「忘れ得ぬ日の記 部分と人りまじっているので、題扉の裏に銘記した発表年月と重鐐」 23 22 21 19 12 2 6

8. 谷崎潤一郎全集 月報

てゐたが、ザックバランになれなかったのは、君も私も東京人のとを、正直に語「ている。これが、芥川龍之介であ「たならば、 悪い癖である」とも洩らしている。対人態度では、潤一郎には、 こんなふうには決してかかなかったであろう。潤一郎は、この文 人見知りをしたり、人嫌いにな「たことはあるにしても、随筆、章の終りを、芥川龍之介はほかの点では申し分がないが、もう少 感想、批評など、つまり、小説のほかの文章では、極めて率直でし強くさえあってくれたらばこんなことにならなかったのである、 あったといえよ、つ。 「いたましき人」 ( 「文芸春秋」昭和二・ と結んでいる。 九 ) のなかにこんな箇所がある。 芥川龍之介は弱い人であったけれども、潤一郎は、対照的な生 白状するが、私は実にイコヂな人間で、親切には感謝したけれき方をえらんだのである。外在的要素に関する限り、両者には共 ども、苟くも論戦をしてゐる最中に品物を贈って来られたのが通する点も多いが、内在的要素に関していえば、両者は、水と油 おまけに今迄つひぞ一度もなかったことなので、 のように異なっていた。私は、後者を仮りに個性と呼んでみた。 ちょっと気に喰はなかったのである。そしてそのためにツムジ もっと別の言い廻しをしたほうがよいのかもしれぬ。それにして を曲げて、もう書く気ではなかったのに、再び「饒舌録」の中も、潤一郎が、芥川龍之介に関して、こういう思い出をかいてお で君に喰ってかかったのである。思へば芥川君は論戦なぞを少 いたことは有難い。潤一郎の人柄をそのまま反映している。 しも気にしてゐたのではなかった。死ぬと覚悟をきめてみれば これは、文章の性質からいうと、全く別の系統に属するものか さすがに友達がなっかしく、形見分けのつもりでそれとなく送と思われるが、「疎開日記」も、戦争時代の記録として貴重である。 ってくれたものを、誤解した私は何と云ふネジケ者であったら「疎開日記」は、昭和十九年一月一日から、昭和二十年八月十五日 、つ 此の一年、私は今にして故人の霊に合はす顔がない。浅ままでの日記である。毎日かいたものではないが、気の向いた時だ しきは私のツムジ曲りである。 けかいたというようなものではない。 潤一郎と芥川龍之介は、文学的主張という点で対立し、前者は 正月十五日、晴 「饒舌録」、後者は「文芸的な、余りに文芸的な」で、お互いに論日中五十六度、家人恵美子六時九分来宮発、六時三十二分熱海 陣を張っていたことは余りに名高い。論争の蔭にこんな事実があ 下り普通車にて出発、重子様も午後二時過の汽車にて帰京。山 ったことを知るのは興味ぶかい。芥川龍之介は、二巻本の「即興 のをばさん餅をついて持って来る、菅画伯より使にて蛸の脚一 詩人」を自分の蔵書のなかから贈り、英訳の「コロンバ」を贈り、 本這人った折、及び井栗ä袋 ( 袋に新宿二幸とあり ) 届く、終 フランス文のインドの仏像集を届けてきたのである。潤一郎は、 日「細雪」執筆、過日来進行遅々たり 自分の論争の鋒先を和らげるために、そんなことをしたのではな 正月十九日、青 いかと想像していたのである。それが全くの思い違いであ「たこ終日執筆、梅花四分咲き、此の梅は去年正月花をつけたるま、

9. 谷崎潤一郎全集 月報

生の頃、谷崎の初期の短篇を愛読し、文体模写までこころみたこしに行った帰りに、阪神沿線の夙川の踏切りで電車と衝突し事故 死したのであった。 ( 谷崎は渡辺温追悼の文章として、先に引用 とのある私自身の思い出を告白するだけで、先に進みたい。 昭和四年に改造社から刊行された「日本探偵小説全集」には第した「春寒」を草した ) 私は渡辺温のコント「兵隊の死」や、代表作「可哀相な姉」の 五巻に「谷崎潤一郎集」が加えられており、「途上」や「ハッサ ン・カンの妖術」「人面疽」「青塚氏の話」などを、この集で読ん一切を暗誦するくらい好きだったが、それも今ふりかえって見る だ記憶がある。そういえばこの全集に名前の見える渡辺温は、谷と谷崎の推奨によることが大きく作用していたようだ。 谷崎潤一郎は昭和六年の秋から「新青年」に「武州公秘話」を 、あるいは伝奇小説を結びつけて考える上 崎一郎とミステリー で、欠かせないジョイントの役割を果した作家・編集者の一人で連載するが、この執筆には、編集者渡辺温の死という一事が、強 あった。 く働いていたにちがいない。谷崎潤一郎のいわゆる大衆的趣向を の草分け的存在である渡辺啓助のたしか実兄にあたる人で、盛った作品について考える場合、渡辺温の存在が、欠かせないジ ョイントとなっているというのは、そのことである。 ( 芥川との 谷崎潤一郎の推薦で文壇に出て、しばらく「新青年」の編集部に っとめ、二十八歳の若さで自動車事故でなくなった。今でこそ事「小説の筋」をめぐる論争も、大衆文学との関連でふれなくては ならないわけだが、スペースの都合で書けなくなったことをおこ 故はめずらしくないが、将来を嘱望された渡辺温の場合は、ひと ( 文芸評論家 ) しく哀惜の情をもって悼まれた。しかも谷崎潤一郎の原稿を催促とわりしておく ) 「春琴抄」の前後 4 ー 0 つイ , 「武州公秘話」挿画木村荘八画 ( 昭和 7 年 1 月号「新青年」より ) 佐藤観次郎 い去よなり・、 谷崎先生の湯河原蓬ケ平新邸にいくと、 「この間貰った魚は大きかったから、三日間も喰いつづけたよ。 あれは、なんという魚かね : : : 」 と、先生が聞かれるので、 「あれは、メダイという鯛です。八キロ近くもあったでしよう。

10. 谷崎潤一郎全集 月報

あれだけ書いていながら、かせいだ金は片つばしから使ってしました。谷崎潤一郎でも下宿代をふみ倒すことがあるのかと思った う。だからいまだに税金というものを一文も払っていない。税金からだ。そのことを字野浩二に話すと、「谷崎ならそのくらいな の通知が来そうになると、下宿から下宿を転々と引っ越して歩い ことは平気でやるよ。ああ金使いが荒くっては」と笑っていた。 てはうまく逃げまわる。ところが本郷のどこかの下宿でとうとう しかし鴻の巣の出版記念会ではじめてあった谷崎潤一郎には、 税務署員にふみこまれた。そのときその若い税務官吏がーーあなそんなけはいなど全然見えない。服装もしゃんとしているし、毅 たの小説の収入は毎月百円ぐらいはおありですか、ときくと、谷然として人にたいするところは、まことにさっそうたるものがあ 崎はーーべらばうめ。たった百円ぐらいでメシがくえるか。人をる。とくに芥川龍之介と座甯を向い合わせにして一ばん上席にす ばかにするな と、どなりつけた。すると税務官吏はーーはあ。わらせたせいでもあるのか、ふたりがさかんに文学を論じあって そうですか。よくわかりました。じゃ月収三百円としておきます いる姿はまさに談論風発という感じがあって、とてもたのもしか といってたちどころに月収三百円で年収三千六百円という査った。 定をつけられて、さすがの谷崎もひどくよわった。年収三千六百 翌大正七年、谷崎潤一郎は中国旅行に出かけている。日本の流 円というと、当時の夏目漱石の朝日新聞の年俸と同じだった。と行作家で中国旅行に出かけたのは谷崎潤一郎がはじめてのように いう話をしたあとで、「べらばうめ ! 一月百円ぐらいでメシがおばえている。芥川も中国へいったが、谷崎のだいぶ後である。 くえるかい」と税務署をどなりつけたところは、じつに痛快だねそのとき谷崎は旅費を作るために中央公論や新小説からずいぶん といって宇野浩二がすっかりよろこんでいた。この頃の谷崎原稿料の前借をしたようだ。それでも足りなくって、春陽堂へ自 分の小説の版権まで売っている。 潤一郎は、彼の悪魔主義を地でいって、生活のなかに生かしてい たと考えられるふしがある。 私も春陽堂から短編小説集を出すことになっていたので、その 私の大学生時代には本郷の下宿同業組合では、正月になると前頃は日本橋通三丁目にあった店に立ちよると、ちょうど谷崎潤一 の年に長期にわたって下宿代を滞納して、そのまま逃げるか追い郎が版権売り渡しの交渉をしているところだった。 出されるかした男の名前を、ずらりとならべて大きく印刷した紙「でも、谷崎さん。版権だけはお売りにならない方がいいんじゃ を、玄関のよく眼につくところに張り出す習慣があった。 ないんですか。一たん手放したら、先にいってまた本をお出しに なるときでも、その分だけの印税はあなたの手にははいらないん その頃私は本郷の弥生町の坂の上にある不破という下宿にいた。 忘れもしない大正三年の正月のことである。不破の玄関にやはりですから、 : 私の方では、買えとおっしゃればよろこんでちょ うだいいたしますけど : : : 」 そういう紙が張り出された。見ると頭から二つめに谷崎潤一郎と いう名がちゃんと出ているではないか。それを見て私はびつくり 木呂子という番頭がしきりに版権を手放すことを惜しんでいる。