魅力的な生き方 「人間は負けるとわかっていても戦わねばならぬ場合がある 私はまずこの文章のはじめに、このバイロンの言葉を置きたいと思う。それは現代の日本で ほとん は殆ど絶滅しかかっている思想であり、ここ数年のうちに完全に姿を消してしまう一言葉ではな いかと考えるからである。 「負けるとわかっている戦いは戦わぬ」 既にそういう利ロ者が次から次へと出はしめている。彼らはすべて平和主義者で、ベトナム 戦争反対は無論のこと、自己の人生の戦いさえも、戦わずにすませたいと考えている若者たち である。日本の国が侵略されたとしたらどうするか。そうだな、オレ、どうするかな、逃げる かな ? それともやるかな。どっちにしてもその時になってみないとわからないよ、などとノ ンキに答える。人間はいかに生きるべきかということを考えたことがない者の答である。 そのときになってみないとわからない それが一人前の男の答として通用すると思っている。 「だってさ、えらそうなこといっててもしそのときになって考えが変わったら困るだろ」そ れを正直な答たといって褒める者がいる。
「あいつは正直でいい。人間味のある男だ」 という。都も卑怯者も怠け者もみな人間味という言葉で許されてしまう妙な世の中が来 たものだ。自分の弱点を克服することの出来ない人間はかっては人間のクズとされたものだ。 はず だが現代ではそれが認められる。昔ならイロキチガイなどといわれる筈の男が、今は「プレイ ポーイ」と呼ばれてマスコミの花形になる。全く現代は人間味の花ざかりである。 「あの人はスマートな人た」 もちろん という表現がある。勿論、ほめ言葉として使われている。魅力的な人、というのとほぼ同義 語に使われている場合もある。 スマートな人間 即ちものわかりがよく、目先がきき、アクセクせず、ムキにならず、失 敗をせず、冷静に合理的にスイスイと生きて行く人間のことである。彼の特徴は調子がよくて 冗談がうまいことた。冗談は現実の抵抗を弱まらせる一つの方法である。冗談を巧みに使うに さいち は才智がいる。従って彼は凡俗の徒ではない。現代における秀才とはこういう形に変わりつつ あるのではないだろうか。 めんばく 時 の かって男が男としての名誉や面目や理想に価値を置いていた頃、男の人生は苦しいことが多 幸かったにちがいない。しかし名誉も面目も理想も放棄することが許されている現代では、男の 人生ははるかにラクになったことと思う。現代では人間としての ( この世の中のではない ) 名 誉や面目よりも、まず「食うことーが第一義を占めてきている。「食って行かなければならな
114 世の奥さんがたにご亭主がたのことを話すとき、ふしぎなことがひとつある。それはノロケ をいうか、悪口のどちらかにかたよることで、その中間がないということである。 むかしの妻は世の中へ出ることもなく、モグラのように家の中でゴソゴソしているたけで、 たまに出ることがあれば、夫のかげで小さくなっているのが良妻とされ、威厳をつけるために ロヒゲなどをはやしたご亭主から、オレサマは偉いんだそ、お前を養ってやっているんだそ、 と恩にきせられると素直にそういうものと思いこみ、ひたすら夫を尊び従い 「ソ・ハは〇〇にかぎる」 といわれれば〇〇以外は決して食べず、 げすげろう 「金をためるやつは下司下郎」 といわれれば、うちが貧乏なのは夫が上等の人間である証拠と思いこみ、 「 x x 部長は無能無才だ」 と聞けば、早速そのことをいいに隣の奥さんをたすねたりして、ホントは無能無才は自分の 夫だったりすることがままあった。 女同士の雑談の席でも、主人がねえ、主人がねえ : : : を乱発して、あの人の話って、ちっと ささやかな進歩フ
いなか ない。入口と出口が別々になっているのは、田舎博覧会かお化け大会くらいのものだと思って いた。それも、歩いていけばひとりでに出口へと出て行けるようになっている。 あわ 文明の生活が進歩すればするほど、人間は慌ただしいコセコセ人間になり、たえず目をキョ こ注意しながら生きて行かねばならないのだ。これでは人生をい ロキョロさせ、いろんな標識冫、 かに生きるかなど考えている暇はない。毎日毎刻、標識を見るだけでせいいはいだ。そうし て緊張し過ぎ、キョロキョロし過ぎ、ノイローゼが増えているという。ノイローゼの気のない 人間はよくよくの鈍感か、足りない人とみなされる傾向さえある。やがてそのうちに文明の世 の中では半病人になるのが健全な人間である証拠たということになるのかもしれない。
だからあんなふうに怒るのだ、怒っても許されるのだ、と思う気持がどこかにあった。新聞を 読んでは、内外の政治家をクソミソにいう父は、私には正義の士と思われたこともあった。 父は長い間少年小説を書いていたが、その愛読者からの手紙に、「先生、氷水を飲みすぎて、 おなかをこわさないように注意してください」とあるのを見て、大粒の涙を流すのたった。父 は実によく涙をこ・ほす人だったし、またよく笑う人だった。その笑い声は隣の家にまで響きわ たるような笑い声たった。そんな大きな声を出せるのも、何か父のなかに普通の人とは違う強 い力があるためのような気がしたものである。 父の生涯は片ときも平和なときのない、格闘につぐ格闘の人生だった。初め政治家を志して 新聞記者となり、政界の醜悪さに愛想をつかして文筆生活にはいるまでの波瀾多い人生のなか で、父はその単純さのために実にたくさんの失敗を重ねた。新聞記者時代に、ある政治家が 「おい、新聞屋」と呼んだのがけしからぬというので、いきなりなぐりつけたという有名な話 がある。 顔母は、父のことを単純な人間だといってよく嘆いていた。私は父について愚痴をこ・ほす母の ち 言葉ばかり聞いて育ってきた。たしかに父は困った夫であり、はらはらさせる父親だった。世 男 の中には単純な人間よりも、複雑な人間のほうがなんとなく高級な人間であるというような見 ハツツアンのイメージがあ 方がある。単純ということには、知生や理生から縁遠い、瓦サ、 るのだ。 はらん
122 完全無欠の理想の夫など世の中には金輪祭いはしないのだ。隣の旦那さんのことは一部分し か見えないが、わが夫は全体が見える。悪い部分もいい部分も見える。悪い部分の裏側は、あ る面からはいい部分かもしれず、いい部分の裏側は悪い面かもしれない。現実というものはそ ういう形をも 0 ていて、人間はその総和を生きているので、そう考えれば人間の比較ほど無意 味なことはないのである。
71 幸福の時間 「あの人はおとなですからね」 という。 どんなおとなかと思うと妥協の中で生きている無気力な人間のことだ。しかし「あの人はお となですからね」というとき、その人はそのことばを、ホメことばとして使っているのである。 ああ、もうおとなはたくさんである。まことの本質に目をふさぎ、現象の中で自足している おとなはたくさんである。わたくしはヤポテンを愛する。 あこが ャポテンの恋、ヤポテンの怒り、ヤポテンの孤独に憧れる。真のヤ。ホテンたけが人間の美し さを残しているのではないだろうか。
せること、ぬきん出ること、勝っことにあるもののようである。今日、一つの会社、一つのグ ループを見ても、その中では勢力争いがいかに多いことだろう。自分を偉いものに見せるため けんぼ、フじゅっさくうず に人を憎んたり、陥れたり、争ったり、かけひきをしたり、あの手この手と権謀術策が渦まい ている。この世界に足を踏み入れたが最後、正しさが勝利を占めるなどという考えはまるつき り通用しなくなっていく。そして正しさに目をつぶることが、一人前のおとなであるかのよう な不思議な錯覚の中に生きるようになるのである。 昔からおしゃべりで、人の悪口をいったり、ねたんたりするのは女であるとされていた。し かし、こうした男性の生態をよく注意して見ていると、必すしもそうでないことがわかるだろ しっと う。出世したい、偉くなりたいの欲望にかられているが、現実がそれに伴なわない場合の嫉妬 や恨みは、とても女のやきもちなどの比ではない。女の嫉妬は感情から出るが、男の嫉妬は本 能から出るからである。自分は有能なのだが、その有能は今のような事なかれ主義の上役には かえって理解されないのだ、とか、現代では真の有能な人間は出世できない機構になっている 本 のなどと、いろいろと熱弁をふるったり、わざと女房をアゴで使ったり、恋人にいばってみたり する傾向が出てくる。 本 男の自尊心の強さは、とても女には理解できぬほど強いものであるらしい。自分を実際以上 の 男によく見せようと宣伝したり、上役の欠点をあばき立てたりするのも、自尊心の傷を回復させ ようという無意識のあらわれなのであろう。 わが国の男性には、なんでもかんでも「仕事のため」「出世のため」といえば、どんなこと おとしい
をもとに流行作家になったりタレントになったりして金もうけをしているのた。その金でさら にイロゴトをし、それをもとに再び金をもうけ、「先生」などと呼ばれて、趣味と実益をかね るという驚くべき人生が平然と許されているのである。 年をとると若い者のことをとやかくいいたくなるという人間の習癖は、もう何百年にもわた ってくり返されてきたものなのであろうが、最近はその人間の歴史に反逆することによって、 自分の若さを保とうとしている一群の人たちがあらわれて来た。 「年よりらしくない年より」といわれるのを名誉のように思ってニコニコと若い者の肩を持 つ。こう、ものわかりがよいおとながたくさんあらわれたのでは、反抗したくてウズウズして いる若者たちは反抗したいにも反抗のアテがなく、かえっていらたってしまうのではないだろ いまほど否定のない時代は、かってのどの時代にもなかったのではないたろうか。いまほど 現象のみで人間が動く時代はなかったのではないだろうか。なんでもかでもしたい放題。裏切 ほ、つらっ りや無責任や放埒に対して顰蹙したり非難したりするのは「ヤポテン」のそしりを受ける。む かしは「石頭」とか「ガンコ親父」とか「ウルサガタ」などということばは若者からおとなに 向かって投けつけられたことばだった。だがこのごろはおとな同士の間でそうしたことばが投 げられる。 「おとなの恋」ということばを使った人がいる。なんのことと思ったら、要領よくやる浮気 のことだ。「おとなのケンカ」というのは、なれあいケンカのことだ。 、 0
しかし自分はグウタラ人生の主人公であっても、子供には一応、こういう。 「計画を立ててものごとをやることの出来ないような人間はダメよ」 かか 私は小さい時、父からよくそういわれた。よくそういわれているにも拘わらず、私は無計画 な人間になってしまったが、それというのも父の生き方が私に強い影響を与えたためたろうと 思う。 いくらロでいっても、親が身をもって示さねば教育の実は上がらぬ、という見本である。 それはわかっているがやはり、子供にはそういうことを一応はいっておくことが必要なのであ る。 編集部から与えられたテーマは、″流れたこと、計画倒れ〃というテーマであるのに、こん とが な文章が出来てしまった。これまた無計画の咎である。