ような、若い者にとって自分は無用の人間であるという自信を失ったことなかれ主義が情けな いというのである。 やっかい 賢いネコは年老いると、飼い主に厄介をかけたくないと考えて、死が近づくと家を出ていく という。しかしわれわれ中年はネコではない以上、ネズミをとらなくなったからといって養老 院へ姿をかくす必要は少しもないのである。老人は年老いたことによって、はたして無用の長 物となるのであろうか ? ひと昔前の老人は必要以上にいばりすぎていた。その反動か、いまの老人は必要以上に遠慮 しすぎている。 「もうもう若い人たちのおじゃまはいたしませんですよ。若い人たちには若い人たちのやり かたというものがありますからハイ。それはいろいろ、見かねることはないではありませんけ れどもね工、オホホホ : : : 」 さみ と笑う声には、心から喜んで隠退したのではない、寂しいあきらめがにしみ出ているのであ る。大切なことは、若い者にとって、年寄りの存在が必要であることを感じさせる老人になる 冫しい知恵を貸してもらえるという信頼を若者に与える ことだ。経験者としてイザというときこ、 しゅうとめ 老人になることである。ふだんはうるさい姑さん、ガンコばあさんでも、信頼と尊敬を持て いちもく る人間であれ・は若い者は一目おくし、その存在を必要とするものなのた。 ろうびよ、つ 同じ養老院へ行っても、むすこたちの心の一角に存在している場合と、老猫ナミの養老院行 きとは大いにちがうのである。
「亡くなられてみると淋しくてねえ」 たいせき と私の友達がいったのは、二十五年間のそうした沈澱物の堆積のためではないだろうか。 私はこれからの若い人にとって必要なものは、この沈澱物ではないかと考える。ごたごたと 入り組んだ雑多な現実を経験することから、人は人間というものを理解する力を身につけて行 くのだ。母親に対立する古い意見があっていい。 その対立の中で子供が吸収するものが必ずあ る。そのときはマイナスに見えていても、おとなになってからそのマイナスがものをいうこと がある。 おばあさんの歌う調子外れの歌、らちもない昔の思い出話、愚痴のくり返し、ひとり言 : それら何の意味もないように見えることが、どこかでいっか子供の清操を養っている。 日本人の親から子へ、子から次の世代へと受け継ぎ語り継がれて行くべきものが、今断ち切 られようとしている。それは例えば惣菜料理の作り方であるとか、昔話であるとか、手まり歌 であるというようなことだけではなく、それらすべてをひっくるめた中で伝えられて行く日本 人の暮らし、日本人の歴史、日本という国への愛情である。 今の世の中は無駄なもの、即効性のないものは切り捨てられて行く世の中だ。老人の価値は どこにあるか ? と聞いた人がいた。あたかも価値があれば認め、価値がなければ切り捨てよ うと気構えているかのように。 老人の価値は若者よりも沢山の人生を生きていることだと私は思う。失敗した人生も成功し なま がんこ た人生も頑固な人生も、怠け者の人生も、それなりに生きて来た実績を抱えている。 そうざい
208 夫の無抵抗主義を排す 近頃、サラリーマンの家庭サービスという問題で、色々とサラリー御亭主の苦情や嘆きを耳 やれ棚を吊ってちょうだい、 にします。折角の日曜や夏休みを、やれ動物園、やれデ。ハート、 やれ庭の草むしり、やれゴロゴロ寝転んでばかりいないでよ、という調子でやられたのでは、 いったい何のための休みなのか、俺たちは家庭の奴隷ではない、という嘆きです。 男子が一歩家を出れば、七人の敵ありと昔の人はいったそうですが、今はそんな生やさしい ものではありません。満員電車に押し込まれる騒ぎにはじまって、再びそれから吐き出される 夕刻まで、毎日、膨大な社会機構の歯車の間にはさまって、慢性的に心身を消耗させられてい ーマン氏は嘆いていいました。現代を る。この男の辛さが女にはわからないのたとあるサラリ あきら いかに忍耐と諦めが必要か、いかに心身をすり減らしているか、その消耗を補 生きる男には、 うために、 いかに酒を飲むことが必要か、好むと好まざるとにかかわらず、いかにキャ・ハレー などの女とたわむれたりなどしなければならぬか、時には人にもオゴらねばならず、ハシゴ酒 などもせねばならず、時には月給袋に手のつくことなどもいかに必要か、そのためいかに疲れ、 いかに日曜日はゴロゴロ寝そべっていたいものか : : : それが女房にはわからない、全くわから ない、実に無理解だ、いや女房というものは夫を理解しようとさえ思わないものーーーと。 たなっ
皿洗い機というものが家庭に行きわたって、女が皿を洗わなくなったときの台所。 ま、何と 風景なものになることだろう。なぜなら皿洗い機にはそれを美しくしようという心がないから だ。一枚の皿一つのコップへの愛情がないからた。合理的に簡便にすべてが片づいてしまうと いうことには、感情の入りこむ余地がない。皿洗い機のそばに母に叱られた娘が立っているシ ーンーーそれでは、何ものも表現することはできないのである。皿への愛情、大根への愛情と いえば人は笑うたろうか。しかし皿への愛情、大根への愛情は、すなわち自分の家庭への愛情 にほかならないのである。女は洗うことによって家庭への愛情を表現し、それを自分の心に還 元する。しらずしらずのうちにそれを深めている。そのことを女はもう一度、知り直す必要が あるのではないだろうか。 機械は合理的生活を女にもたらし、女を肉体の疲労や家事の煩雑さからある程度解放した。 まず最初にあらわれたのが洗濯機で、それは洗い、し・ほり、更に乾かすことによって女性の生 活からタライと不自然な洗濯姿勢を追い出した。たがそれと同時に、私たちは晴れ上がった空 いきおい さお の下に勢よくタライの水を流し、洗濯ものを竿に干し上げる喜びを失いつつある。 日常生活の中のリズムとは、案外、そうしたところにポイントがあるものなのではないだろ なが うか。洗い上げて手を拭いたときの水の冷たさが、薄くれないに縁どった指を美しいと眺める 心、その心が単調な生活に潤いを与えているのではないだろうか。 洗う必要がない世の中がもし来たら、私たち女はいったい何を喜びとするだろう ? それに はんざっ
148 「とにかく、あたしってホントにダメなのねえ」 と、今度は自分のダメさにホトホト感心している。 「どうしてこの子はこんなにメソメソ泣いてばかりいるのかしら。ホントによく泣くわねえ とまた感心している。 「それにくらべて隣の x ちゃんはいい子だわ。泣かないし、元気がよくて、手がちっともか からないの、うらやましいわア とにかくどこかで、このグルグルまわりを打ち切る必要がある。それにはともかく、しゃべ るのをやめて考えることです。
しかし自分はグウタラ人生の主人公であっても、子供には一応、こういう。 「計画を立ててものごとをやることの出来ないような人間はダメよ」 かか 私は小さい時、父からよくそういわれた。よくそういわれているにも拘わらず、私は無計画 な人間になってしまったが、それというのも父の生き方が私に強い影響を与えたためたろうと 思う。 いくらロでいっても、親が身をもって示さねば教育の実は上がらぬ、という見本である。 それはわかっているがやはり、子供にはそういうことを一応はいっておくことが必要なのであ る。 編集部から与えられたテーマは、″流れたこと、計画倒れ〃というテーマであるのに、こん とが な文章が出来てしまった。これまた無計画の咎である。
現代紳士の条件 子供のころ、無声映画というものを見たことがある。映画の筋は忘れてしまったが、弁士が ノドをつまらせたような声で、 「きようもきようとてメリーさんは、公園のべンチの端に腰うちかけておりますと、そこへ やってきた一人の紳士 : : : 」 といったせりふが妙にはっきりと記憶に残っている。 それ以来、私にとって、「紳士」というものは、ステッキを小わきに、高いカラーにちょう ネクタイ、縁なしメガネをかけて、髪を油でかため、女のように細くて長い指をヒラヒラさせ て、気どってものをいうキザな男というイメージがやきついてしまった。そのころは男の価値 が荒々しさや強さやいかめしさに置かれていた時代だったので「紳士」は必要以上に喜劇的に 顔あっかわれていたのであろう。 ち そんな時代に育った私には、 男 「彼は紳士だね」 と聞くと、どうも魅力を感しない。なにか不自然に作り上げられたもの、技巧のかたまり、 男としての自然さを失った人物のように感じられてならないのである。
118 とはいうものの、現実生活というものは、さまざまの矛盾した要素の組み合わせによって成 り立っているものであるから、時と場合によっては、せつかくその生まじめさや正義感も所を 得ずにただ爆竹のようにハネまわることがある。 「とにかく女ってのはヤキモチやきだねえ」 といった男性の一言に、マナジリをけっして、 「そうさせたのはだれです ! あなたがた男じゃないの、男がいつも信頼出来る相手なら、 女だって嫉妬深くなったりしませんよ ! 何さ、男なんて、自分のことも反省しないで、勝手 なことをいうなんて、許さないわよー という調子である。なにもそんなにカンカンになるほどのことはない。男と女の愛情の質を 考えてみれば、女がヤキモチやきなのは当然なので、ヤキモチもやかない女は女ではないので ある。 「女は、、ハ力で困るよ と男がいったときは、黙ってニコニコしているのがよい。人間は常に一分のスキもないほど , 力である時は大いに。ハ力であるほうがいいのだ。そこで男と女の・ハ 利ロである必要はない。・、 ランスがとれる。男のほうだって、たいして利ロなのがそろっているわけではないのた。弱き それで男が女 男が優越を示そうとして女を・ ( カ呼ばわりするときは、そうさせてやればいい。 をやつつけたつもりでいるならば、やつつけられたフリをしているのがいいのだ。 しっと
用なものである。 たが一つたけ私が明瞭にしておきたいことは、人間の本性の中には ( 男女を問わず ) 浮気へ の欲望があり、それを否定することは出来ないということである。私たち女はまず、そのこと をハッキリと認識して、浮気を大問題と考えないように訓練することが必要なのではないかと 思う。 男が浮気をするのは、ただチャンスがあったかないかの問題だけであって、妻への愛情とは まったく無関係のところで行なわれるということである。ネコがネズミを追いかけるのは、飼 い主のくれる食いものに不服があるわけではない。ネズミがそこにいるから追うだけのことな のだ。ネズミのきりようや気だてにかれたわけでもない。 そうた、妻たるものは夫の浮気の相手をネズミと心得ればよろしい。ネズミに逃げられたネ れ きゅうそか 哀コ、うまく捕えて食べてしまったネコ、あるいは窮鼠に噛まれたネコ、いろいろあってもやが 女ては飼い主のもとに帰ってくる。飼い主たるものはそれくらいの自負自信をもって悠然と構え 名 ているのがよい よく夫の浮気防止法として髪にクリップをまきつけ、栄養クリームのテカテカ顔でアクビま 妻 じりに夫の帰宅を出迎えるな、などとしたり顔していう男がいるが、たとえどんなに身だしな みをよくし、心から仕えたとしても、男は浮気するときはする。それを防止しようなどと思う ときから女の不幸ははしまるのである。
愛がわかったころに、人は死んでいく 愛の形というものは、年を加えるに従って変化していくものだと私は思っている。 十代の頃、私は愛することより愛されたいという欲望でいつばいだっこ。 、つとはなしに少し それから二十代、三十代と年代を経て、四十代の後半にはいるまでに、し ずつ、愛されることより愛することのほうに幸福を感じるようになってきたように思う。 私は三年前に十五年あまり連れ添った夫と離婚した。 その直接の原因は、夫の事業の失敗である。その失敗の混乱を収拾するためには、私たちは 戸籍上の離婚をする必要があった。しかし、そのとき私たちは戸籍上の離婚などたいして問題 ではないという考えを持っていたので、たとえ離婚はしても私たちの夫婦としての愛情は変わ らぬという自信を持っていたのだ。 つぐな 私は夫の事業の失敗を償うために、私の身としては過大な借金を背負った。そしてその借金 きんこう を返すために働きまくっているうちに、私と夫との間にあった均衡がいっとはなしに崩れて行 って気がついた時は、形式ばかりでなく、夫婦としての愛情が変質していたのである。 それで私たちは今度は実質的にも別れた。実質的にも別れたが、私たちの間には夫婦、恋人 としての愛情ではなく、別種の愛情が生まれていることに気がついた。