134 人間が目に見えぬものの価値を信じていた時代はもはや過ぎ去ったのたろうか ? 主婦はせ つかく得た余暇を、本当はそういうことを考えるための時間としてほしいのたが。
71 幸福の時間 「あの人はおとなですからね」 という。 どんなおとなかと思うと妥協の中で生きている無気力な人間のことだ。しかし「あの人はお となですからね」というとき、その人はそのことばを、ホメことばとして使っているのである。 ああ、もうおとなはたくさんである。まことの本質に目をふさぎ、現象の中で自足している おとなはたくさんである。わたくしはヤポテンを愛する。 あこが ャポテンの恋、ヤポテンの怒り、ヤポテンの孤独に憧れる。真のヤ。ホテンたけが人間の美し さを残しているのではないだろうか。
87 幸福の時間 いたいと願います。『竹取物語』のかぐや姫が、彼女の愛を求めた五人の男に出した要求は、 ほうらいさん こやす つばめ くび 竜の頸の五色の玉とか、燕の持っている子安の貝とか、蓬葉山にある銀を根とし金を茎とし白 い玉の実のついている木の枝を折って来いとか、ずいぶん無茶なことばかりです。かぐや姫は そうして彼らをたしなめますが、本当はそのなかの誰かが成功することではなく、誰もが失敗 することを願っているわけです。結果は、かぐや姫の意図どおり、五人は失敗し、なかには命 を落とす者さえも出ます。 女の残酷さのさらに奥深いところには、自分への愛のために滅びて行く者を見たいという欲 望が潜んでいます。 カマキリのメスは交尾の後でオスを喰い殺してしまいますが、人間の女にはたとえ自分の性 の快楽を犠牲にしても、自分への愛を抱いたまま、相手が滅びていってほしいという、永遠の 愛への夢が息づいているのではないでしようか。
というものである。私はこれが大嫌いである。。ハグダットの盗賊じゃあるまいし、「開けゴマ」 といえば ( いや、いわなくても ) 、歩いて行けばひとりでにドアーが開くとは、人間の堕落も 極まったという感じがする。 つばっても引 / コっ ある時、私は新幹線でドアーを閉めようと一生懸命にノッ。フを引っぱっこ。 つばってもドアーはビクともせぬ。ムキになって足を踏んばり、「うーむ」とカんだがそれで そば すわ も閉まらぬ。するとそのとき、傍の座席に坐っていた男性が、ポソボソというのが聞こえた。 「ンドウ : : : ンドウ : : : 」 私には何のことやらわからない。またもや「うーむ」とカんでノップを引っぱる。すると、 彼はまたいった。 「ジドウ : : : ジドウ : るやっと私は気がついた。ジドウとは自動ドアーのことなのだ。一歩下がればドアーは難なく もスルスルと閉ったのである。傍の座席の男は、「フン ! 」という顔をして窓から外を見た。私 きは完全にアホウだと思われたのた。 またある日、私はホテルに行こうとして歩いていた。ロビーで待ち合わせている人があり、 ん おおまた 時間が少々遅れている。私は大股の急ぎ足でツカッカとガラス扉の方へ歩いて行き、突然ガチ ャン ! とガラス扉にぶつかった。私は出口と書いてある方へ向かって歩いて行ったのである。 文化生活というものは疲れるものだ。私はつくづくそう思う。片時も神経を遊ばせていられ
幸福の時間
61 幸福の時間 成功とは旅路であるとある人がいった。そのことを本当に知っている人が、現代を最も魅力的 に生きて行く人だといえるのではないたろうか。
魔のとき 中年の主婦が、女学校時代の同窓生数人で旅行することになった。結婚以来、育児や家事に 追われて旅行はおろか、新聞ひとっゆっくり読む時間を持てなかった婦人たちである。年に一 度のクラス会でも、夫の留守時間を気にしながらのことであったから、女ばかりで旅行できる ことになって子供のように興奮した。 旅行は一泊二日の京都の旅である。幹事が新幹線のキップをまとめて買ったが、一人一人に 届けるのも面倒なので、当日、発車の三十分前に東京駅で待ち合わせてキップを受け取ること になり、お互いに電話でその場所を連絡し合った。 れ 哀 「しいこと ? わかったわね。改札ロは幾つもあるらしいから間違えないでね。改札口を通 の 女らないのよ、外よ、外よ 名 とお互いに電話をし合ってくどくどと念を押す。そのさわぎに呆れて夫なる人がいった。 「そんな面倒なことをしないで、新幹線のプラットホームで待ち合わせるのが一番いいじゃ 妻 ないか」 すると奥さんは直然として旦那さんに向かっていった。 「たってそれじゃあ、みんな、入場券を買わなくちゃならないじゃないの : あき
見たからだった。佃島は私の故郷でもなければ、思い出の土地でもない。ただ何となくぶらり と一、二度訪れただけの行きずりの町である。それなのにその小さな二軒の家の、まるで申し 合せたようにみがきこまれた格子戸や、窓わくやハメ板に、私は故郷を感じたのだった。 へんぼう 「みがきこむーということには、今では故郷の感じがある。すっかり変貌してしまった故郷 の町外れに、思いがけす残っていた一本の大いちょうの木を発見したときのように、あるいは とっくに死んだと思っていた屋台のタコヤキ屋のおじいさんが、まだ元気でかっての場所に屋 台を出しているのを見たときのように、私は佃島のあの家を思う。それほどみがくということ は、私たちの生活の遠くへ行ってしまったのだ。長い時間をつみ重ね、かっての女はものをみ がき上けた。みがくことで忍従の涙をまぎらせたこともあれば、かしがいしい心がみがく腕に 力をこめたこともあるだろう。私たちは今、時間をかけずにものをみがく。手つとり早く艶を 出す。悲しみもよろこびもこめる暇なく、みがき上げられてしまう。たから私たちのみがいた ものたちの光は、かっての女のひとの手でみがかれたものとは光の質がちがうのである。 ふるさと
106 かって妻と呼ばれる身であったころ、私は朝にタに夫に対して腹を立て、怒りののしってい る妻であった。その原因は大ていの場合、夫がいかに家庭の建設に対して非協力的であるか、 いや非協力というより時には破壊者であるか、というようなことであった。 例えば夫は時間 ( ことに帰宅時間 ) を一切守らぬ。出先はいわぬ ( 留守中、私が死したら どうなるか ! ) 。家計に無関心。むだづかい。家計費を持出す。ふろ場が白アリに食われよう とタナが落ちて来ようとどこ吹く風 しかし、こんな私の夫も極悪亭主というわけではなく、およそ日本の夫婦の九割までは、同 ふんまん じようなモメごとにかかずらっており、ほとんどの妻はこういう不満、直懣を終始、夫に対し て抱きつづけ、夫はその憤懣を投げつけられて閉ロ、あるいは閉ロしたフリをして今日に至っ ているのであろう。 まいしん 女房という存在の哀れは、彼女が″家庭の建設〃という大義名分に向かって一心不乱に邁進 する点にある。私は女房をやめて、ハッキリそれがわかった。まじめに、ひたむきにキッと目 的をにらんで進む勇敢な兵士のようなひたすらな猛進の中に、何ともいえぬ哀れがある。本当 女の哀れ
結婚・その城の幻影がくずれるとき ある日、知りあいの若い奥さんから手紙が来て、その最後に一行、「現実暴露の悲哀を感じ ている今日この頃です」とあった。その奥さんは結婚してまだ一年にもならぬ新婚夫人だった ートに立ち寄ってみた。そしてよく話を聞いてみると、 ので、私は所用のついでに彼女のアパ 彼女のいう「現実暴露の悲哀」とは、ご亭主が土曜日というと、徹夜マージャンに出かけて行 って、日曜日の昼すぎにならないと帰らないということなのである。 「私はなにもマージャンをやるのが悪いとはいわないわ、折角の土曜と日曜日を、妻と過ご すよりもマージャン友達と過ごす方が楽しいということが、ロ借しいのよ、情けないのよ : そういう一言葉をきっかけとして、彼女は延々数時間にわたって、彼女の結婚に対する夢が、 みじんくだ ーマン夫婦にとって土曜日の午後と日 微塵に砕かれてしまったことを嘆いたのだった。サラリ 曜日は、どれほど貴重な時間であるか、そしてまたいかに妻はその日を充実させるためにいろ : ところがどう いろと楽しいプランを心に練り、その日のご馳走のために倹約をしているか : だろう。夫は自分の楽しみだけを追うエゴイストだったのだ。いや、本当に夫がマージャンを それほど好きなのならば、妻たる者は夫の喜びのために耐え忍ぶであろう。だが本当は、夫は