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検索対象: こんなふうに死にたい
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1. こんなふうに死にたい

むざん 死は布ろしく無慚なものである。だからこそそれについての準備が必要なのだ。 きようかたびら 昔は年をとると死支度と称して自分の経帷子を縫う女性がいた。それはいっかくるであろ ろうば ならやまぶしこう う自分の死を迎え容れるための心の準備だったのだろう。「楢山節考』の老婆おりんは自分 死 たた わずら の丈夫な歯を石で叩いて欠いた。それも彼女なりの死を迎える支度である。知識の煩いを受 なけていない人たちは、そんなふうにして、自然に死ぬ用意をした。平凡に素直に生き、ある ん がままに死を受け容れた人たちが、昔は大勢いたにちかいなし孑 : 斤にふれ「お迎え」を考え、 おも 先に死んでいった人たちのことを想い、 そうして死に馴染んでいったのであろう。 たず ほとん どんなふうに死にたいか、と私は時々自分に訊ねる。殆どの人が願うように私もやはり 「ポックリ」死ぬことが理想である。しかしそんな幸福な人はごく少数の選ばれた人たちで あろうから、私はやがて訪れる私の死を何とか上手に受け容れたいと考える。上手に受け容 137 れるということは、出来るだけ抵抗せず自然体で受け容れたいということだ。 おそ ぃⅣの の 頭 り か ね 昼 寝 す る

2. こんなふうに死にたい

こんなふうに死にたい 「そ、つやないでしようか。侍がついておられるっていっとられますから : ば先生、あのお札所に滝かありましたでしよう」 「ああ、登り口の近くね , 「あすこで先生が滝の水を手に受けて飲まれましたわね」 きれい 「あんまり細くて綺麗な水だったから」 「私も先生の後をついて行ったんですけどね : : : 」 そういって節子さんは布そうな目になった。 「先生の立っておられた右手の崖の途中に、何やらぼーっと立っているものが見えたん で、私、怖くなって逃げたんです , そういえばあの時、私につづいて滝への踏み石を踏みかけた節子さんが、急に引き返 おぼ したことを億えている。 その時、ぼーっと立っていたもの、それが今、私に憑いている侍だったのだろうか ? じようきげん なんでそれをいってくれなかった。そんなこととはっゅ知らぬ私は上機嫌で滝の水を受 けて飲み、 ・ : 身体の底まで浄められるようだわ」 「ああ、冷たい : そういえ

3. こんなふうに死にたい

私たち兄妹もみな、その影響を受けてたのだ。 私の心の中にはいつも父力しオ 、ゞ、こ。可かにつけて私は良こいった。 「おじいちゃんが生きていたら : : : 」 なっ 「おじいちゃんが生きていたら」と懐かしんでいうのではなく、おじいちゃんが生きていて、 ののし たんがい 現代社会のこのもろもろの現象を見た、さそかし怒り罵るだろう、と社会や現代人を弾劾 する時にその言葉を使、つのだった。 「堕落、腐敗の極みだ , 死 と私はよく叫んだが、 そんな時、私父そのものになった。私の人生観、生き方は父から な得たものだった。私には四人の兄と一人の姉がいるか、長兄はよくこういった。 こ「我々兄妹の中で、一番親父に似ているのは愛子だ」と。 ほこりたま 私はそれを自覚していたから、だから父の回忌を忘れたり、仏壇に埃が溜っていてもかま わないと思っていた。父は仏壇の中に一るのではない。私の胸の中にいる。毎日の私の言動 ぶき の中には父の息吹が籠っている。これ以上、私は亡父に対して何もする必要はないと思って いたのだ。

4. こんなふうに死にたい

んなふうに死にたい 138 そのために私は ( 昔の人がしたように ) 死と親しんでおかなければならないと思う。死を 拒否しようと努力するのでなく、馴染んでおきたいと思う。少しずつ死に近づいていよう。 無理な健康法はするまい。不自然な長命は願わない。余剰エネルギーの始末に苦しまなくて からたむちう もいいように、身体に鞭打って働きつづけよう。「人間の自然」を見詰めよう。死は苦しい ものかもしれないが、それが人間の自然であれば、あるがままに受け容れよう。ポケ老人に なることも人の自然であれば、それを受け容れよう。ポケることによって死の恐怖を忘れ、 もうねん 種々の妄念から解放されて死んでいく。あるいは老いてポケることは、神の慈悲というもの かもしれないのである。ならば遠慮なくその慈悲を受け容れよう。 考えてみればこの世にも苦しいことは多々あった。私はそれに耐えてきた。その苦闘の経 こ験はもしかしたら最期の苦しみを耐える上にいくらか役立つかもしれないと、そう思おう。 そうはいうものの、現実の私の死は「あるがままに受け容れる」のとは程遠い様相になる かもしれない。その心配はあるが、それでも私はいいたい。あんなことを書いていたけれど、 佐藤愛子はあのザマだといわれることを私は怖れない。そういわれても、 しい。私かム又ここ にそれを述べることが、自分の覚語を促し固めることに役立っと思うからだ。 だが、そんなふうにして死に肉体を開け渡すことが完了したとしても、まだその後の問題

5. こんなふうに死にたい

なかったから縋った。効力があるのかないのかわからないが、じっとしていられないからそ うしたのだ。外見はともかく、私は弱い人間なのである。 そうとうしゅう 私の家の宗旨は曹洞宗であるから、お題目を唱えてはいけないと注意してくれる人がいた が、しかし私は「南無妙法蓮華経」をいい馴れてしまったのだ。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀 ゆた まけきよう 仏に帰依してすべてを委ね、死後極楽へ行くことを願う。「南無妙法蓮華経」は汝華経の中 くどく の「妙法蓮華経」に帰依して法華経の功徳を得るということだという程度の知識しか私には しゅしよう になく、だからといって法華経の勉強をしようというような殊勝な気持も私にはなかった。 しず そんな私に美輪さんは実に簡単明快な答を与えてくれた。お題目がなぜ霊を鎮める力を持 ふちょう なっかというと、それは字宙の神、仏を呼び出す符牒のようなものだと考えればよい。それを ん こ唱えれば宇宙の数多い神仏の中のどれかの神仏が訪れて力を貸す、そのキーワードである。 そしてそれによって神仏の力を借りるだけでなく、自分の中に眠っている仏性も呼び醒まさ れてくるのであると。 じようふつ 先祖を成仏させるのはあなたに課せられた使命だといわれると、私はそれならそうしよう という気になる。お題目が神仏の力を借りるキーワードだといわれると、それを唱える。だ がその説には証拠がないではないか、もし先祖が成仏していないというのが美輪さんの幻想

6. こんなふうに死にたい

てはず ているのだ。資料はこの後も続々送られてくる手筈になっている。 しかし、今到着して炬燵に入ったばかりで、部屋を替えて下さいとはいいにくい。しかも 宿の女主人は、この旅館で一等上等の部屋を格安の料金で貸してくれているというのにだ。 しず 私は我することにした。お題目で鎮められるかどうか、やってみようと、いに決めたので ある。そのうち、地元の女性で、この旅館を紹介してくれた知人が来て一緒に食事をした。 その間気をつけていると音は時々鳴ってはいるが、さっきほど強くはなくなっている。遅く ころはとん よもやまばなし にまでその人と四方山話をし、彼女が帰った頃は殆どラップ音のことは忘れていた。風呂へ入 りテレビを見、寝床に入って少し本を読んでから電燈を消した。 ふ と、まるで静かになるのを待っていたように、 ん ギョッとするようなものすごい音だった。この音を、さっき女客がいるうちに立ててくれ しばら たらよかったのに、と思うような音だ。暫くじっとしていると、またバシッー 琵琶の時と同様、眠りに入りかけると起そうとするように鳴るのだ。あのときのように 私は起きてお題目を唱え始めた。お題目を上げている間は鎮っているように思うが、それは もしかしたら私の声の方がラップ音よりも大きかったためかもしれない。鎮ったと思って布 ふろ

7. こんなふうに死にたい

といったそうだ。そういった時の心のうちを私は思う。その時、川上さんは死を受け容れ る覚悟を決めたのだ。最後の最後までカの限り仕事をして、そうすることによって死を受け 容れる準備が整ったのだ。 しつかは私も辿ら 死に到るまでに川上さんが抱え込まされた孤独な己れとの戦いの道は、 ) なければならぬ道である。そう思うと私は入学試験に合格した友人を見る浪人生のように、 - つらや 川上さんを羨ましいと思わずにはいられない。 その夜、私たち友人は遅くまで川上邸に残って葬儀のうち合せをした。午前零時を過ぎた 死 頃だったろうか。突然、家中の電燈が消えた。 な「あ」 ん とも と声が上った時、パッと点った。安、いして話をつづけようとしたら、もう一度消え、又す ぐパッとった。 けげん しばら すやま 暫くすると川上家に出入りしている電気商の須山さんが怪訝そうな顔を出した。 「おかしいんですよ。どこを見ても故障の箇所がわからないんです : : : 。内も外も全部見た んですが・ : ・ : 」 川上さんだ : ・ 125

8. こんなふうに死にたい

私は自分の死後について考えるより先に、成仏出来ずにいる父母、先祖、アイヌ兵士たち の霊を鎮めなければならなかった。 とい、つ 、と。知った以上は捨てておけない、 私はそう田 5 った。そうしなければならない よだいじ 持だった。とりあえず私は提寺の住職にすべてを話して相談した。しかし住職はいった。 「そ、ついうことはあまり気になさらない方かいいと思いますよ」 にちれんしゅうそうりよ それだけだった。また近くの日蓮宗の僧侶に相談したところ、こういわれた。 「宗旨を変えていただかないと、私の方では何もしてあげられません」 死 その頃、私は講演や取材で地方へ旅をすることが多かったが、その旅先の宿でかってはな びわ なかった経験を再三するようになっていた。最初の経験は北海道から帰ってすぐに行った琵琶 こ湖畔のホテルでのことである。仕事を終えて部屋に入って間もなくから、部屋の天井とも 壁ともっかぬ、どこかわからぬ掴みどころのない空間から激しいラップ音が聞えて来て、そ れはひっきりなしに鳴り、眠ろうとする私を起すのである。 ラップ音は北海道の家で聞き馴れてはいたが、それとは比較にならぬほど大きな強い音だ。 早朝東京を発ち、一日中仕事をして私は疲れ果てている。とにかく眠りたい。なのにとろと ろとしかけると、ラップ音は激しく鳴って起すのである。 つか

9. こんなふうに死にたい

「人の厄介者にならないうちにコロリと逝きたい いつまでも若々しく健康でいて、そうしてコロリと逝くことがすべての老人の切実な願い である。近代科学の進歩は我々に長命という幸福を約束した。しかしその長命のためにポケ を布れ、病院のべッドにくくりつけられる植物老人になることを心配しなければならなくな った。しかし医学はコロリと逝くことなど教えてくれない。医学が懸命にやっていることは とにもかくにも「逝かせない」ことだからである。 かって、老いは自然にやってくるものだった。春が来て花が咲き、やがて実を結び、そう 死 めぐ していっか葉を落して枯れ朽ちて土に戻るように、自然の廻りに従って人は老いに入ってい なった。特別に身構えも覚悟もいらなかった。それが人間の自然であるということを誰もが一 ん こ様に知っていて、それに従った。長寿がめでたいのは、長く生きたことによって自然に枯木 わた になって死んでいけるからであろう。エネルギーが涸れれば、執着も自我も怨みも嫉みも、 まんのうげだっ そして死への怖れも枯れていく。「悩の解脱」など、我々凡人には肉体が枯れる以外にそ やす うた易く出来るわけがないのである。 我々は長命を与えられた。それでいてなかなか枯れない。死は悪であるかのように拒否さ すが れている。近づく死を近代科学は総力を挙げて押し返す。その力に頼り、縋ることによって 133 やっかいもの か

10. こんなふうに死にたい

死についてのこの記述を、私は私自身の経験事実だけに基づいて考えてきた。例えばスウ エーデンポルイというスウェーデンの科学者、宗教思想家がいる。この人は五十五歳の時に まわ 死後の世界を廻るという超常体験をして『天界とその驚異及地獄』などの著書を残している が、その中のどの描写も彼自身が肉眼で見たことによる驚くべき具体性を持っているといわ なれている。カントはスウェーデンポルイの霊視能力の調査を行なったが、その結果、彼の奇 こ跡的能力について肯定的評価を下さざるを得なかったということだ。 しかし私は故意にそれを読まずにこの記述を始めた。私はまったく個人的に私の見解を述 べようと考えたのであって、それをまとめ上げるまでは他の書物によって影響を受けたくな かったのだ。私は誰の影響も受けずに、自分の経験した現象だけを観察し探求したいと思っ た。先学の著書で得た知識によって簡単にわかった気にはなりたくなかったのである。また 先学の論を借りて、私の見解に反対意見を持つ人を黙らせようとはしたくなかったのだ。 126 私は思った。その瞬間、そう感じた。なぜかはわからない。しかし私ははっきりと、川上 さんのパワーが私たちに挨拶を伝えたのだと思った。