夏は過ぎ、もう秋風が立っているというのに、まだ一人で怖い怖いと思いながら丘の上に いる。怖いので友達に電話をかけて呼ぶ。何も知らない友達は喜んでやってくるが、そうい つまでも滞在してはいられないから、三、四泊もすれば帰ってしまう。一人が帰ると次を呼 ぶ。飛行機代をもっから来てよ、といって来てもらうのだから、えらい出費だ。それでも私 は帰らない。なぜ帰らないのか ? わからずに頑張っている。 今でもどうしても理解出来ないのは、古い友達が来た時のことである。三泊した後、彼女 はこだて が函館へ行くというので私も一緒に函館へ行って二泊した。そこから東京へ帰る友達と一緒 死 に帚れい ) しものを、私はまた函館から丘の上の家へ一人で戻ったのだ。一人であの家へ入 なるのが怖いので函館から編集者のさんに電話して、千歳空港で落ち合って一緒に家へ来て ん こもらったりしている。 今から思うと私はその家に ( 土地に ? ) 捉えられていたのだ。そういえばはじめてこの町 へ来て、土地を買う気乗りもせぬままに連れ出されてこのあたりへ来た時、突然、ここに住 みたいという気になって、あと先考えずに話を決めた、あの衝動的なやり口は、私を捉えた ものの力だったのかもしれない。 私が東京へ帰ったのは、講演の予定が入っているためにいやでも帰京しなければならなか とら
大正 , ハ年の父の日記。 七月三十一日 午前九時一一十分 ( 東京 ) 着。福士、阿部出迎え。 喜美子苦悶。痰がのどに詰りしため。 すみよし うすやみ 夕方、薄闇の窓から遥かに住吉を思う。手紙出す。 大正六年の父の日記はこの日から始まっている。〈喜美子〉というのは肺を患っている長 死 女で、〈住吉〉というのは、その頃、私の母がいた大阪の住吉町である。母は女優として大 な成したくて、その頃、父が主幹であった劇団に入り、一方的に父から愛され、それを拒むこ ことが出来ぬままに父との関係が始まったのだった。父は家庭を捨てて住吉で母と暮していた のだが、 喜美子の病状が悪化したので東京へ帰ったのだ。〈福士、阿部出迎え〉とあるのは、 福士さんは東京の父の留守宅を預かっていたものらしい。 かっ その日から八月十四日まで、父は住吉の私の母から手紙が来ないというので、母の愛に渇 えじれにじれている。
んなふうに死一たい 屋根の上の不思議な足音 うらかわ 昭和五十年、五十一歳の年に私は北海道の浦河という町に気に入った土地を見つけて、そ ちとせ こに小さな家を建てた。浦河町は千歳空港から急行電車で三時間余り、車で一一時間半近くか こかる人口二万足らすの牧場と漁港の町である。 なぜそんな所に別荘を建てたのかと、今までに色んな人から何十回訊かれたかしれない。 「東京にいると疲れて、人気のない自然の中で暮したくなるのです」 こその都度、大ざっぱにそう答えていたが、なぜその土地を選んだかということになると、 たまたま案内する人がいて、その人の熱意にほだされて出かけていったのがきっかけです、 とい、つ程度のことしかいえない くうそ はんらん 確かに私は東京の暮しがイヤになっていた。失われていく自然。空疎な言葉の氾濫。何か もう というと文化文化と騒ぎ、考えることは儲かるか儲からぬか、野心と損得だけの町。父祖譲 幻りの野人である私には、生活のためにそんな「東京」と折合いをつけることがだんだん辛く つら
美輪さんはそんな家は売ってしまいなさいという。しかし何も知らずに買った人はどうな るのか。それを思うと私には売ることが出来ない。それなら住まずに戸を閉し、立ち腐れに してしまうか。私の人生は損つづき。損をすることに馴れつこになっている人間だから、家 を立ち腐れにすることを昔しいとは思わない。だが美輪さんに聞くと、たとえ住んでいなく むしば ても名儀が私の名前になっている限り、やがて私の健康は蝕まれ不運に見舞われていくだろ うという。不運の方は馴れているからいいとしても、健康でなくなるのは困る。 いったい私はどうしたらいいのだろう ? 死 さすがに向う意気の強い私も進退窮まった。美輪さんはとにかく東京へ帰っていらっしゃ ふ その時に相談しましようという。家の問題だけじゃなくて、佐藤さんに頼っている霊が ん こあなたの背中に重なり合っているのが見える、そのことも何とかしなくてはいけないでしょ 、つとい、つのである。 だがなぜか、私は帰らなかった。なぜか帰る気にならないのである。怖い怖いといいなか ら丘の上にいるのだ。手伝いの文学少女もいなくなり、娘も学校が始まるので東京へ帰って しまった。私は一人である。東京には住み馴れた家があるのだから、ここにいなければなら ない理由は何もないのだ。なのに私は帰らない。なぜか帰ろうと思わないのである。 きわ
し こんなふうに死にたい 新潮文庫 さー 20 ー 2 平成四年十一一月十五日発行 平成五年十一月十日三刷 著者佐藤愛子 式 株 発行者佐藤亮 本 製 株式【耳月十 ~ 発行所 会社寺不悍 ネ 9 0 郵便番号 東京都新宿区矢来町七一褓 営業部 ( 〇一一 l) 三二六六ー五一一一 電話 編集部 ( 〇一一 D 三一一六六ー五四四〇明 4 振替東京四ー八〇八番 価格はカバー に表示してあります。 乱丁・落丁本は、ご面倒ですが小社読者係宛ご送付 ください。送料小社負担にてお取替えいたします。
た。そうとでも思わなければ、怖くていられないからである。 その、っちに私は気がついた。 狐は高い所に登れないということに。 からす イソップ物語にそういう話かあった。すると今度は島だということになった。しかし烏が 夜中に飛ぶものだろうか ? 鳥は夜は目が見えないのではなかったか ? 結局のところ「神経だべさ」ということになって、私の恐布は無視された。無視されたば かりでなく、笑いものになった。笑ってすませられる人はいいが、私の方は夜な夜な足音を 死 聞く身である。笑うどころではない。そのうちに足音ばかりでなく、昼間でも家のあちこち よじ なで空間が弾けるような鋭い音がしていることに気がついた。その音はもしかしたら、足音に ん こ気がつく前からしていたのかもしれない。しかし新築の家というものは、柱や板がきしんだ り弾けたりするものだという知識があったので気にも留めていなかったのだ。 だかこうなるとこの家には絶えず色んな物音がしていて、それ以外にふしぎなことも幾つ かあることに気がつくようになった。例えば確かにあった物かいつの間にかなくなっている という事実である。東京から送った本を詰めたダンポール八個、確かに玄関に置いてあった のにいつの間にか六個になっている。
鳴り響いていた音が鎮っている。指を折ると最初の年から七年ほど経っていた。美輪さんか らも、つ大丈夫、といわれ、こんなに佐藤さんが一所懸命やるとは思わなかった、といわれる うれ と、先生に褒められた小学生のように嬉しくて、 「どうです ? この頃、例の音は ? と事情を知っている人に訊かれると、 「私が鎮めました。私のカで」 と得意になって答えた。その人たちは笑って、家屋の材木が、漸く乾き切って弾けなくな 死 はんばく ったのだろうという。その説に反駁するにも発想に共通の土台かないから、私はそういうこ なとにしておく。 ん こしかしかっての騒ぎが嘘のような静かな日々がつづくと、その私でさえも、もしかしたら あれは自分の思い過しではなかったか、という気がふとしたりするのであった。 あいさっ そんなある夏、東京から親しい女性編集者の村田さんが遊びに来た。すると挨拶を交して すわ 村田さんが居間のソフアに坐った時から、それまで鎮っていた居間の天井のあたりが急に 騒々しくなったのである。といっても例の、木の弾けるような高い強烈な音ではない。居間 の私たちが坐っている頭の上で、ゴトッパチッと低い物音が始まったのだ。私は「あ ? ーと ・つそ
「蚤しからん。よしわかった。今度からそうい、つことをいうャツかいたら、私がやつつけて やるわ」 といいながら、彼の手の、まるで松の木のように荒れて堅くなった感触に、それまで彼が 耐えに耐えてきたものが思われて、ああこの人に少しでもいいことがありますようにと願え ば、私の目は不意の涙に曇ったのだった。 なぜ私はあの人たちに親愛を覚えるのだろうと、何度か私は自分で自分の気持を不思議に に思ったことがある。そしてそれはアイヌ民族の血の中に流れている純真さ、優しさ、自然さ、 しずいや むく うずま 無垢さが、損得の価値基準が渦巻く東京の生活で荒れた私の心に郷愁を呼び起し鎮め癒して なくれるからだろうと解釈していたのだった。 ん だが、もしかしたらあの人たちと私とは、一六 , ハ八年頃、この丘で共に戦った仲だったの かもしれない。私はそう思い、そう思うことはたいそう私の気に入ったのである。 くわ たまたま私はアイヌ民族の歴史に委しいという老人に会ったので、オニビシの姉でウトマ サの妻だった女性について質問した。するとその老人はたちどころにいった。 「ああ、あの女。あれはもう、どうしようもない女だ。アイヌの女はみんな従順だからね。 ああいうのは、あとにも先にもいないね」 107
〈オニビシの姉はこの時に戦死し、部下たちの多くは山中に逃げ散る〉 もしかしたら、美輪さんのいうアイヌの女酋長というのは、このオニビシの姉 ( ウトマサ の妻 ) ではないのか ? 私は思い出した。この地に家を建てようと思い決めた時の、私のただごとではなかったあ の情熱を。人に誘われてこの町へ来たものの、気乗りせぬままに別荘地を買うことはやめて 帰ろうとしていたあの時、この丘の下へ来て突然、魅入られたように気に入った。値段を聞 にくのも上の空で話を決め、預金通帳の中身も考えずに建築にとりかかった。金が底をついて、 天井なし内壁なしの家になるのもかまわなかった。あの情熱はまさしく魅入られ引き寄せら れた者の、説明のつかぬ熱中だったといえる。 もしやこの地は私の前世の故郷ではなかったか。ここはシャクシャインが砦を構えた静内、 こも オニビシがいた新冠に近い。オニビシの姉が弟の復讐をするために立て籠ったアッペッもみ な同じ日高地方の南部に属している。あるいはここは、戦い敗れたオニビシの姉が逃げ延び おび てきて、命を落した土地かもしれない。私が家に起る異変に怯えながら、 ( そこにいる必要 は何もないのに ) なぜか東京の家へ帰ろうとせず、秋になっても一人で頑張っていたのは、 ここが私のかっての死場所だったためなのか , み がんば
私は自分の死後について考えるより先に、成仏出来ずにいる父母、先祖、アイヌ兵士たち の霊を鎮めなければならなかった。 とい、つ 、と。知った以上は捨てておけない、 私はそう田 5 った。そうしなければならない よだいじ 持だった。とりあえず私は提寺の住職にすべてを話して相談した。しかし住職はいった。 「そ、ついうことはあまり気になさらない方かいいと思いますよ」 にちれんしゅうそうりよ それだけだった。また近くの日蓮宗の僧侶に相談したところ、こういわれた。 「宗旨を変えていただかないと、私の方では何もしてあげられません」 死 その頃、私は講演や取材で地方へ旅をすることが多かったが、その旅先の宿でかってはな びわ なかった経験を再三するようになっていた。最初の経験は北海道から帰ってすぐに行った琵琶 こ湖畔のホテルでのことである。仕事を終えて部屋に入って間もなくから、部屋の天井とも 壁ともっかぬ、どこかわからぬ掴みどころのない空間から激しいラップ音が聞えて来て、そ れはひっきりなしに鳴り、眠ろうとする私を起すのである。 ラップ音は北海道の家で聞き馴れてはいたが、それとは比較にならぬほど大きな強い音だ。 早朝東京を発ち、一日中仕事をして私は疲れ果てている。とにかく眠りたい。なのにとろと ろとしかけると、ラップ音は激しく鳴って起すのである。 つか