さいやく を生きてきた。そのための苦難災厄に遭うことが予想されていても、それをやめることが出 来ないのである。それが私にとっての「生きる」ということだった。死後を考えることによ って、私のそんな生きざまは変るだろうか ? ゆる 私は毎朝、神仏に手を合せつづける。しかし今のところ宥しや救いを神仏に乞うているわ けではない。まして健康や繁栄を願うことは、考えてもいない。私の生き方は神の意に添う あいさっ か添わぬかわからない。私はただそこに存在するものに対して親しみと敬をもってご挨拶 にをしているのである。挨拶をしつづけているうちに、私の中に自然に変化してくるものがあ るのか、ないのか、それも私にはわからないが。わかることは、死後への思いと今生の暮し なとの間で私は揺れ始めているということである。 ん こすべては死が来た時、その時にはじめてわかることである。 その時まで私はもの書きとして生きつづけるしかない。 「私の自然 , に生きて、まっすぐ霊界へ行くことが出来なければ、私は死に変り生き変り輪 廻転生をくり返す覚悟を決めるだろう。 144
そういう時にその人をなだめるのが「前世の業、因縁」という考え方なのだと私は勝手に ていねん 解釈していた。苦しい現世を生きるための諦念の必要から輪廻観は生れたものだと思ってい たのだ。 よこしま 現世で行なった正しいことも、邪なことも、その人間が死んでしまえばすべて消滅してし まうのだとしたら、悪いことのし得、し放題ということになる。「死んでしまえばいいんだ るてん ろ」と捨てばちになった人は簡単にいう。しかし死んだ後にも、永遠につづく流転があると したら、そんなことをいってすましてはいられないだろう。輪廻観は生きるための諦念の必 死 ばくぜん そばく 要から生れたものであるのと同時に、極めて素朴な倫理観念なのだと私は漠然と思っていた。 ふ 輪廻によって現世に生れ変って来るのは、前世で犯した罪を消滅させるためだという。それ こを消滅させなければ、死んでまた、次の世に生れてくる。そうして永遠に生と死を反復して 六道とは地獄、餓 。それを六道輪廻といし 火輪の廻るごとく流転して熄むときがない しゆら 鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの迷界であるという。しかし地獄、餓鬼、畜生という一一一一〕 葉は ( 極楽という言葉と同じように ) 私にとって毒々しい絵具で塗った見世物小屋の絵看板、 絵空ごとの世界だった。だからそれについて私は考えなかったのだ。 しかし私にはどうやら、輪廻転生を考えなければ ( 信じなければ ) ならない時か来たよう 109 や
らに生きてきたつもりだったが、本当は何ものかの意志のままに俗世を漂う人形、棋士に動 かされる将棋の駒、ウトマサの妻の代役にすぎないのたろうか ? 私の主体はどこにあるのか ? 私は何なのだ ? それ以上に考える力を私は失った。考えるのを私はやめた。 ほうまっ それにしても我々人間は、なんて無力でちつほけで、泡沫のような存在なのだろう。そう かす こつけいかん 思うと私の胸の底には、それでも一心に生きる人間の哀れさと、そして微かな滑稽感が残っ 死 、」 0 そ・つりよ なある時、ある通夜の席で一人の初老の女性が人は死んだらどうなるのかという質問を僧侶 ん こに向ってしていた。 「死んだらまず、幽界というところへ行きますな。この世を舞台と考えて、そこはいうなら 楽屋ですな。死んだ人はその楽屋で次の出番を待っています。お前の出番やで工ということ つまりこの世に生れてくる。そこで生きて、また死んだら楽 になったら、その人は舞台 屋で待っている。たいていはそのくり返しです。 しかしこの世で善行を積んで前世の罪を消滅した人は、幽界、つまり楽屋を通り抜けて奥 111
私たち兄妹もみな、その影響を受けてたのだ。 私の心の中にはいつも父力しオ 、ゞ、こ。可かにつけて私は良こいった。 「おじいちゃんが生きていたら : : : 」 なっ 「おじいちゃんが生きていたら」と懐かしんでいうのではなく、おじいちゃんが生きていて、 ののし たんがい 現代社会のこのもろもろの現象を見た、さそかし怒り罵るだろう、と社会や現代人を弾劾 する時にその言葉を使、つのだった。 「堕落、腐敗の極みだ , 死 と私はよく叫んだが、 そんな時、私父そのものになった。私の人生観、生き方は父から な得たものだった。私には四人の兄と一人の姉がいるか、長兄はよくこういった。 こ「我々兄妹の中で、一番親父に似ているのは愛子だ」と。 ほこりたま 私はそれを自覚していたから、だから父の回忌を忘れたり、仏壇に埃が溜っていてもかま わないと思っていた。父は仏壇の中に一るのではない。私の胸の中にいる。毎日の私の言動 ぶき の中には父の息吹が籠っている。これ以上、私は亡父に対して何もする必要はないと思って いたのだ。
落の一部まですべてが見えるのだった。 「今はタ焼がとてもきれいねえ : : : 素晴しいタ焼だわ : 「はあ、その通りです , 私の心臓は珍しく高鳴っていた。私にとって生れてはじめての経験が始まろうとしていた。 ちよとっ 私は猪突猛進、布いもの知らずに生きて来た人間だ。「人は負けると知りつつも戦わねば ならぬ時がある」という父の信条を、私の信条として生きてきた。いかなる時も困難から逃 にげずに進めば、必ずや道は開けると信じてやってきた。 しかし今、その信条をもってしても乗り越えることの出来ない事態が私の前に立ちはだか なったらしいのである。 ん こ「あなたはとんでもないところに家を建てたのよ。どうしようもないところ。すぐに売りな 美輪さんはいった。私の家のある丘、ここは多分、アイヌ民族の古戦場だったこと。ここ には戦死して成仏出来ない霊がうようよしていること。その上にこの丘はこの集落を守る神 さまの丘であって人間が住んではいけない土地であること。私の家に起っているさまざまの 現象は、どれが成仏出来ない霊魂の仕業でどれが神さまの怒りなのか、もうこんぐらがって じようぶつ
佐藤家の過激な血脈 不思議なことを経験した時、人はなぜ「不思議だねえ」とだけいってすませてしまうこと ほとん が出来るのだろう ? 世の中の殆どの人は、不思議を不思議のまま放置して落ちつき払って いる。それが私には不思議でならない。 死 北海道に建てた家に不思議な現象が次々に起きた時、私はそれを解明しようと努力したが、 な解明出来ぬままに、神と霊魂の存在を信じた。それを信じれば、すべてが納得出来るのであ こる。納得したいために私はそれを信じた と前に私は書いた。だが私が信じたのは、単に 「納得したいため」だけではなかった。「納得せずにはいられない」解明が、美輪明宏さんの 霊視から開けて行ったからである。 私がこれから語ることを、おそらく読者の大半はナンセンスだというだろう。なぜなら現 代に生きる大部分の人は、目に見えるもの、耳に聞えるもの、科学的に分析実証出来るもの しか信じないからだ ( かっての私もまたその一人であった ) 。
そうか、そういう気か。眠らせまいとしているのか。それならそれでいい眠らなければ いいんだ、と闘争的な気持になって持っていった本を読み始めた。そのうちにまた眠くてた まらなくなる。本を開いたままつい眠る。しかし一瞬後には激しい音に起されているのだ。 そのうちに胸を圧されるように息苦しくなって来た。どうしよう、フロントに電話をかけて 誰かに来てもらおうか。しかしフロントの人に何といって説明しよう。説明すればするほど、 うさん臭い奴だと田 5 われるだけではないか ? その時、美輪さんの言葉が私の頭に浮かんだ。 死 なむみよ・つほうれんげきよう 「佐藤さん、ラップ音に悩まされた時は、南無妙法蓮華経を唱えなさい。それを唱えていれ なばず鎮りますよ」 ん なむあみたぶつ こしかし私は生れてこの方、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も知らずに生きてきた人間だ。 北海道の家でも霊能者の山口さんに頼って、自分では一度も念仏もお題目も唱えなかったの である。 「南無妙法蓮華経」という言葉はいったい何なのか、どういう意味、力を持っ言葉なのか私 にはわからない。そのわからない言葉を誰もいない部屋で大声で唱えることにはためらいか あった。誰が見ているというわけではないが、何となく恥かしいのである。 やっ お
と美輪さん自身が幼女の身ぶりでいい出したのだという。 「その時、佐藤さんとご先祖の話をした後だから、これは佐藤さんに関係のある霊が来たん だな、と思っていたんだけどというのが美輪さんの説明であった。 「まりちゃんーが、いったい何をいいたくて出て来たのかわからない。しかし、美輪さんは 確かに「まりちゃん」という名を口にしたのだ。明治四十年代に生れて三、四年生きただけ で死んでしまい、我が家の古アルバムの中のたった一枚の写真でしかその存在を示し得ない わずら それからまた、やはり私とは腹違いの、胸を患って十八で死んだ喜美子という姉の姿も美 な輪さんには見えた。美輪さんが見えるという少女の容姿と、古アルバムの中の喜美子とが一 ん こ致したのである。その後、私は長兄の娘にその話をしたところ、彼女はすぐいった。 「パパが死んだとき墓地をいじったのよ。まりちゃんや喜美子さんのお墓を全部取り去って、 ( 墓石は一人ずつ別々に建っていた ) 『サトウハチローの墓』という墓石の下にひとまとめに 入れてしまったのよ。それでじゃないの ? その後わかったことによると、「まりちゃん」と喜美子はキリスト教式の埋葬をされてお り、そのため遺骸は焼かずにそのまま埋められていた。その骨を拾わないで、そのまま上に に「まりちゃんーの名を。
れ以前にも旅はよくしている。それこそお化けの出そうな山奥の古宿に泊ったこともある。 きっかい しかしどこへ行ってもそ、つい、つ奇怪な目に遭ったことは一度もなかったのだ。まるでそれは、 考えようによっては私を「南無妙法蓮華経」という一言葉に馴れさせるために起きてくるかの よ、つだった。 そうして私はお題目を唱えることに馴れていった。なぜそれは「南無妙法蓮華経」なのか。 なぜ「南無阿弥陀仏」ではないのか。私は何もわかろうとせずに苦し紛れにロにした。かな にらずしもその言葉が持っ力を信じていたわけではない。かといって信じていなかったわけで もない。その時私が信じたのは美輪明宏さんの言葉だったといえる。 とうりゆ・つ からっ はまたま 至着した なある年の冬、私は佐賀県唐津の近くの浜玉という町に四十日余り逗留していた。リ ん こたっ こ日、案内された部屋の炬燵に入って女主人と話をしながらお茶を飲んでいると、聞き馴れた あの音が、「バシッ ! 」と頭の後方の空間で弾け、一瞬、私はいやアな感じを持った。その 音は琵琶湖湖畔のホテルで最初の経験をした時の、あの音に勝るとも劣らぬ激しい響を伴っ ている。琵琶湖の時は講演のための一泊だけであったから何とか無事に過ぎたが、今回は四 十日の長逗留である。私は「スニョンの一生ーという長篇小説を書くために、モロタイ島の 山中にただ一人で三十年間生きた台湾元日本兵中村輝夫に関する資料を山のように抱えて来
我々は死と対峙することを回避し、引き延ばす。 「人間というものは、どんな状態に陥っても生きつづけたいと思うものだ」 と医師は信じている。そしてい、つ 「人はどこまでも生きようという意欲を持たなければいけません」 なお しかしそれでも尚、死はやはり、やってくるのである。 川上宗薫の最後の八カ月は「死と戦った八カ月」というよりは、「死支度をした八カ月」 だったと私は田 5 う。彼が最後まで仕事をしたのは、「作家魂」などというものではない。今、 死 引私は気がついた。死ぬために川上さんは苦しい息の下で仕事をしたのだ。「ロ述筆記は生き ふ つづける手段だったにちがいない と私は先に書いた。しかし彼のロ述筆記は生きつづける ん こ手段であると同時に、死ぬための手段でもあったのだ。死ぬために彼は残ったエネルギーを 使い果さなければならなかった。本能が彼にそう教えたのだ。エネルギーの強い人間が死ぬ よよ ためには、それだけの苦闘が必要なのだろう。自然に枯れ朽ちていくことを科学のカで阻み たど 拒否する今は「めでたい死」はなくなりつつある。我々の大多数は死に辿りつくために苦闘 の月日を経なければならなくなっている。 これだけ科学が進歩しても、我々は死後を解明することが出来ない。超常現象というもの 134