やり方、いや見て見ぬふりをしたくはないが、腕力、度胸の方に自信がないので、やむを えず見ぬふりをする、という男性も少なくなく、だから女も危急の際に男に期待するとい う気持ちをいっか捨てた。 「男のくせにーとか「男子たるものが」という言葉、発想。「男意識」というものを根絶 させようとしたのは女の意志だったから、そこに男がいるのに女を助けなかった、「それ 。しいにくくなってしまったようである。 でも男か」とよ、 「男の子だから」といっておだてられ、期待された時代の男は、女と酔漢とが争っている 場面を見て、見ぬふりすることなど出来なかった。男子たるものは弱き者のために強きを くじかなければならぬという男の血が、反射的に湧き立ったものた。 だが今は弱ぎ者のために強きをくじこうと思う男はいない。それをしなくても恥ではな くなった。な・せなら自分が「弱き者」だからである。 持つべきものは : マンション住まいの夫婦が、上の階に住んでいる家族の足音がうるさくて困っていた。 上の家族には学校前の子供が二人いて、一日中、ドタイハタン、飛んだり跳ねたりしてい る。一家は早起きで日曜日でも六時前から、大女の奥さんがドスンドスンと歩く、その足
ていないから、そうですか、というほかないのである。 私は疑うことが嫌いである。面倒くさい、といってもよい。疑うよりも信じた方がらく だから信しる。そのために私の人生は損をすることが多かった。招かなくてもすむ災難を 始終背負い込むことになったが、人は背負い込んだことによって力が出るものなのだとい う確信を持つに到った。だからますます疑わない。損をしてもかまわないのである。その 損から新しいものを産み出せばいいのだ、と考えれば、少しも傷は残らない。 そんなわけで私はお不動さまが守って下さっているということをすぐに信じた。それで、 あいさっ 朝、晩、お不動さまにご挨拶をする。だいたいが無信仰の家に育った身であるから、ご挨 拶といっても正式のご挨拶は知らない。ただお守札に向かって、 「南無大聖不動明王」 三度、念じて感謝するだけである。 「どうしてそんなに簡単に信じられるのかしら」と友達はおかしがった。 はんらん 私は六十年生きて来て現代に氾濫している言葉や批評や分析や「科学の進歩」というも のに疲れたのである。子供のように単純に生きたいと願うようになったのだ。大いなる存 在の下で、ちつ。ほけなものとして生きているーーーそんな自分であることの方が、らくだと 思うようになったのた。 信しることは勇気である :
しかし、もしかしたらそれはこういうことなのかもしれない。 ヨーロッパの中世の騎士が、恋人の窓の下で楽士にセレナーデを奏でさせるように、男 ささや はセレナーデ代わりの一一一一口葉を囁いて、二人の恋のひと時をいやが上にも甘美なものにしな ければならないと考えている。 「ああ、君はなんて素晴らしいんだー この肌の白さ、やわらかさはどうだ ! まるでマ シュマロだー このマシマロは・ほく一人のものだよ : : : 誰にもやらないよ : : : 」 あしにく せりふ なんてことをいいたいところだが、生語、我が国の男子はさようなキザな台詞はゼッタ イに頭に浮かんで来ないといっていい。 「女房と別れるから結婚しよう」とか「女房とはもう二年もシテナイ」なんて言葉は、 「ああ、君はなんて素晴らしいんだー という讃歎の代わりなのである。 の つまり彼は恋人のためにセレナーデを奏でているのであって、だから嘘をついているな 女 楸んていう意識は毛頭ないのであろう。 の 男恋人を喜ばせようと思って、一所懸命、女房の悪口をいっている。結婚後、二人で暮ら すマンションは三がいいかとか二でいいかなどと訊いている。子供の養育費は出 さなくちゃならないだろうが、慰謝料の方は出さなくてもすむよう話を持って行くつもり さんたん
泥棒の話 、つらかわ 私が北海道の浦河町に小さな夏の家を建てたのは十一年前である。その間に三回、泥嫉 に入られた。私の家は人里離れた丘の上の一軒家で、私が東京にいる間は閉め切って無人 である。一軒家であるから、泥棒は人目を怖れすゆっくり仕事が出来るのである。 どこへ出かけるにも戸閉 しかし地元の人は、このへんには泥棒なんか一人もいない、 りなんかしたことがない、 と自曼するので、私はすっかり安心していたのた。東京の人け クルマを駐車する時にキイをかけるしな、といって皆笑うのである。 の針を盗ん「 ところが泥棒は人った。一回目は階段の明かり取りから入って、レコード 行った。盜まれたものはそれたけである。いかに盗むものがない家かという証拠だわ、 笑っていたら、二回目、風呂場の窓ガラスを破って入られていた。今度は浴室の鏡を外 1 暮て持って行った。その時も鏡だけである。 私よくよく盗む物がない家なんだな、と話を聞いた人は皆笑う。私も一緒になってまた竺 っていた。 おそ
あれば、朝から晩まで愛人のことばかり考えて暮らし、あらぬ妄想にさいなまれることか らいくらか救われる。 精神的自立などと一口にいうが、それは仕事や目的を持っていることによって、男性と 対等の立場に立っていることを意味している。 私は知的な仕事にたすさわっている女性の中に、妻子ある愛人との関係を上手に定着さ せた人を何人か知っている。その人たちに共通していることは決して強さなどではなく、 そうめい 聡明さであり、そうして仕事に対して情熱を燃やしているということだ。 しかし彼女たちといえども、最初からその愛人関係が安定していたわけではない。酔う と急にたけだけしくなって愛人にからみ、傍にいる私まで閉ロした時代がある。 ののし が また別の人には会うたびに愚痴をこ・ほし、愛人を罵るのを生き甲斐にしているのではな いらだ いかと思われた時代もあった。それそれに苦しみ、苛立ち、争い、泣き、責め、その山河 を越えて安定を得た人たちである。 如彼女たちにそれが出来たのは、仕事を通じて自分を律する力を得たということかもしれ 楸ない。愛人を生活の中の第一義ではなく、仕事の次に位置させることが出来た。その時か の 男ら彼女たちの愛は安定したのであろう。 不倫の愛人関係において、男性が払う努力の分量と女性の努力の量を比較した場合、ど 冫。しかないだろう。 う考えてもフィフティフィフティというわけこよ、
100 男性教師はそのオッパイ群に向かって号令をかけていたわけだが、その時の彼の心中は いかばかりであったか。宝の山に入った心地だったか、それとも非常時を乗り切る頼もし いホルスタインの群れと見たか。 だがあの緊迫した時代の女学生は、教師の心中などだれも気に止めなかった。男性が女 性の乳房に特別の関心を持つなどということを想像しなかったのだ。 これが今ならどんな騒動になるか。騒動が起きるのは平和のしるし。めでたいことなの であろう。 それにしてもあのころの男性教師の心中、正直なところを聞きたいものである。 大和撫子 東京大田区の円道信子さんという方から次のような手紙を頂戴した。 「『オッ。ハイ群』を拝読致しまして、私も戦時中、女学生時代を過ごした者ですが、『ハダ 力体操』に似たことをしていたので思わず苦笑してしまいました。それは女学校二年生、 つまり戦争が敗色濃くなり出した昭和十九年ごろだったと思います。毎朝始業時前に教室 で先生をはじめクラスの生徒全員、上半身裸で乾布摩擦を致しました。先生の号令も勇ま しく『イチッ、二ツ、三、四ッ』と上半身をタオルで摩擦するのです。先生は近眼なのか、
り込む道ならプロダクションを探せば何とかなるかもしれませんよ。運がよければチャン スに恵まれるかもしれない。しかしあなたの場合は目的が〃自己表現〃でしよう。〃真実 の探究〃にあるのたということになるとこれはむつかしいですよ。 何よりもまず、共通の目的意識を持っている仲間が必要ですね。それから演じる舞台、 相棒、照明、装置、そして何よりもお金が要る。それに自分も食べていかなければならな 。その金を作るために演劇青年たちはどんな苦労をしているか。例えばタクシーの運転 手、スナックの。ハーテン、酒場のポーイ、皿洗い、女はホステスやモデル、歌の歌える人 はキャパレーで歌わせてもらったり : : : そのうち生活に疲れて、初心を失って行く。もう 真実の探究も、自己表現もヘッタクレもなくなるんです。お母さんが反対なさるのは母の 立場として当然です。説得の方法はないかといわれても、私には説得なんか出来ません」 来「そうですか。わかりました」 9 と彼女は素直にいった。もしかしたら私の大演説に閉ロしたのかもしれない。 人「考え直すことにします」 新 て もしかしたらほんとうは彼女は有名になりたかっただけなのかもしれない。芝居が好き そで好きでたまらなかったのかもしれない。しかし彼女はそういわずに「自己表現」をした いといった。そういう方が何となく高尚に聞こえて、もっともらしくなると思ったのかも しれない。「お手伝い」として働くというよりは「人生勉強をしている、といった方が
ひしやげた柏もち 今までにもらった贈りもので、私が一番うれしいと思ったのは、五個の柏もちである。 その柏もちは、ある女性誌の読者。 ( ーティで私が講演することを知った二人の娘さんが、 みやげ とよはし わざわざ豊橋から買ってきてくれたお土産である。読者会はあるホテルでの一泊二日の催 しーんば」く しで、一日めの夜に親睦。 ( ーティがあった。その。ハーティで前記の二人の娘さんから、佐 藤さんは柏もち好きですか、ときかれた。じつは豊橋にとてもおいしい柏もちを作る店が 方 あるが、そこの柏もちを買うためには四時に起きて行列に並ぶのだという。二人の娘さん し 暮は早起きをして、その柏もちを五個、私に買ってきてくれたのである。 の 私 ーティが終わると、彼女たちは私の部屋へ柏もちを持ってきてくれた。ちょうど居合 わせた私の娘にお茶をいれさせて、みんなで一個すっ食べる。残った一個は翌朝、私が食 べた。 、いこスるエ白 、 " 享々・ / 一三ロ かしわ
それを撒いておけば、鬼畜は伝染病を怖れて家の中へ押し入って来ないだろうと、村長 きゅうしゅぎようぎ 以下、鳩首凝議してとり決めたのであった。吸血鬼伝説のにんにくじゃあるまいし。 その頃、私が疎開していた静岡県の海岸の漁村でも、鬼畜が来たらどう対応するか、協 議した。どう対応するかといっても、鬼畜の実物と会ったことがないので見当がっかない。 そのうち、誰がいい出したともなく、鬼畜とは牛のようなものだということになった。牛 ならば赤いものを見ると暴れるであろう。子供や娘たちは赤いものを身につけてはいけな いという通達が各戸に伝達された。 私の近所にミッチャンという元気のいい女の子がいたが、彼女は鬼畜が本当に赤いもの に反応するかどうかを確かめたいと思った。折しも秋晴れの日曜日、村の海岸でアメリカ 兵が三人、磯遊びをしているのが目に人った。早速、彼女は赤いネルの腰巻を持って海岸 へ走り、半ば逃げ腰でアメリカ兵に向かって腰巻を振った。 アメリカ兵は気がついて、ふしぎそうにこちらを見ている。しかし、ただ見ているだけ 信 ミッチャンは帰って来て近所に報告した。 確である。何の反応もない。 私「牛とはちがうよ、アメリカ人は」 まち そのうちにあちこちの街にジープに乗ったアメリカ兵が現われ、子供たちにチョコレー トやチ、ーインガムをくれるようになった。だからジープが現われると、子供たちは先を おそ
と姉はさも、、ハ力にしたようにいう。 三階から見える海のことを思うたびに私はわくわくした。 心の中の海 その海は電車に乗って行けば見られる海とは違って、「特別の海 [ なのだった。この家 に住む者だけが見ることの出来る「海ーなのである。「その海」を父や母は知っている。 はるやも、多分、姉も知っている。そしてそのうちに私もそれを見るだろう。 そのうちにだんだん、私は本当にその海を見たような気持ちになって来た。それは絵本 の海のように真っ青で、うす白い空の下に浮かんでいる。ただそれだけのものである。 ( それ以上に私の空想は広がらない ) そしてただそれだけのものであるために、それは鮮 明に私の中に灼きついた。私は姉や遊び友達から、「嘘つきーといわれても頑強に、確か にその海を見た、といい張ったのだった。 信 確ある日、私はとうとう三階へ上がれるようになった。大掃除の日が来たのである。年に ぞうきん ほ′」り・ 私一度の大掃除の日だけ、三階の雨戸を開けて風を通し、一年間の埃を掃き出す。雑巾バケ ほ、つき ツや箒やハタキを持ったはるやの後ろから、こっそり私は三階に上がって行った。子供は 三階へ上がってはいけないという母のいいつけを、はるやは私のために内緒で破ってくれ