私だけが知らない海 私が少女時代を過ごした家は、木造の三階建ての借家だったが、その三階はいつも雨戸 が閉ざされていて一度も使われたことがなく、特に子供は上がることを禁じられていた。 しかし四つ違いの私の姉は、近所の遊び友達に、 「うちの三階から海が見えるねん」 とよくいっていた。それで私も遊び友達に向かって、 「うちの三階へ上がったら海が見えるねん」 信 確といった。五歳か六歳ぐらいの頃だった。 私海は私の家のある集落からはほど遠く、海へ行くには小さな路面電車に十五分ほど乗っ て行くのである。たから海が見えるねんという時の姉の抑揚には、海が見える三階建ての 家を自慢している気配があり、だから私も同じ気分になった。鉄筋の家などなかったその 私の海
138 病人の出る家 生まれて間もなくから、およそ十歳になるまで暮らした家は、変わった家だった。およ つぼ そ何坪くらいあったのか、子供の私には見当もっかなかったが、とにかく大きな家で、三 階建てだった。三階建てといっても、鉄筋などない時代であるから、木造で、お城のよう に上へ行くほど小さくなっている。私はその家が自慢でたまらなかった。 しかし母はその家を暗くて風通しが悪いといっていやがっていた。 うなぎ 「鰻の寝床みたいな」という表現をよく使っていたが、南に向いている部屋は二部屋だけ で、あとの部屋はその南の部屋へ行くまでの通路のような趣で並んでいるのだった。西側 そび には松の生えた土堤が聳えている。東側はびったり隣家に密接しており、私の家の外壁が 塀の役目を果たしているのだった。 この家は暗くて風が通らないけれど、こういう家は金が溜まる家なのだ、と誰かが母に 家相のせい
頃では、木造の三階建ては珍しかったのだ。 しかし実際に私は海を見たことがなく、姉が本当に見たのかどうかもわからなかった。 私はまだ一度も海へ行ったことがなかったから、海とはどんなものかもわからない。 絵本で見る海は、ただ一色の明るい紺色で、真っ直ぐな横線で空と区分されている。そ れと同じ紺色の海を私は想像しようとしたが、うまく頭に描くことが出来なかった。絵本 の空間は限られているが、現実の空間は際限なく広がっている。 どこからどこまでどんなふうに存在しているのか、私に想像出来ること は、その明るい紺色だけなのだった。 「うみて、どんなん ? と私は姉に訊いた。姉は私の質問にうまく答えることが出来ないで、 「どんなんいわれたって、海は海やー と突き放す。 「海はなあ、そら広いんでっせ。ざぶりーん、ざぶりーんと、波が岸に寄せてきますね と「はるやーと呼ばれていたお手伝いさんがいった。三階の窓からは、その「ざぶりー んざぶりーんと波が寄せてくる」様子も見えるのだろうか ? 「アホ ! そんなもん、見えるわけないわ」
たとい一つ。 「君はぼくに ( ナタレ小僧の読むものを書けというのか ! 」 しかし加藤氏の熱意に負けて、父は「ああ玉杯に花うけて』を書いた。以来、休むこと なく昭和十五年まで、幾つかの少年小説を書きつづけた。 私が憶えているのは、大きいが暗い、日当たりの悪い三階建ての家の、二階の八畳の真 すわ 中に、十人ほども坐れそうな大机を置いて原稿を書いていた父の姿である。 ほとん 父は殆ど二階にいて原稿を書いており、滅多に階下へ降りて来ない。来客があると二階 がね から破れ鐘のような父の大声が聞こえて来る。しかしそれは上機嫌の印であって決して怒 っているわけではない。だが階下の母のところへ来る客はそれを怒号の声だと思って、腰 を浮かせて落ち着かないのであった。 大きなことを考えろ 確父の大声は沸き立っエネルギーの現われである。その大声はまた兄ハチローにも伝わっ にしのみや 私ている。その頃、私たちの家は兵庫県、今の西宮市にあったが兄は東京にいて、何をして いるのか、子供の私にはわからなかった。いや、子供の私だけでなく、父や母にもよくわ からなかった。
しし明るい家に いっていた。母はお金なんか溜まらなくてもいいから、もっと風通しの、 、、、望み通りの家を自分で設計して建てた。 住みたいと口癖のようにしし それは途方もなく広々としていて明るく、風は南から北へ吹き抜け、北側にも南側にも 庭があって、南の庭と北の庭は趣が変えてある。四百坪の土地に百一一十坪の建坪の家だっ た。つまり、それだけの家を建てるだけの蓄財があの暗い暑い家で出来たのである。 その明るい大きな家へ移ってから、母は病弱になった。それまで「健康美人」と父が呼 んでいた母が、次々と病気をするようになった。私たちはその家に十二年ほど住んだが、 その間に父は老いて仕事をしなくなり、また老人性の病気なども出て来て、広い家に父と 母と私の三人が、 ( 戦争のために家事手伝いの人も雇うことが出来なくなって ) 寂しく暮 らさなければならなくなってしまった。 といった人がいた。しかし母は笑って、人間、年を その頃、この家は家相がよくない、 とれば若い頃の勢いはなくなって、仕事も減って行く、長く生きていれば病気も出て来る 方だろう、それが自然なのだといって相手にしなかった。 暮結局、その家は戦火が激しさを増して来たので売ることになり、私は結婚して家を出、 私父母は静岡県の興津へ疎開した。その後、その家を買った人は間もなく亡くなり、長男も 若くして亡くなった後、未亡人が何年か一人暮らしをした後、やはり死亡されたという話 である。今、その家には留守番の人が住んでいるという。 おきっ
156 三十五年目の宿 たかとお 昭和二十八年の冬、私は長野県高遠の奥の山室鉱泉という鉱泉宿にいた。作家への夢ば ふところ かり大きく現実はうらぶれて、あてのない一人旅だった。もとより懐も寂しいので、安い ところを探してついに山室まで行ったのである。一泊二食っき六百円というのを四百円に 値切って一か月滞在した。 しよくぜん 宿の食膳には毎日、冷凍イカが出た。こんなに毎日冷凍イカばかり出して恥ずかしくな いのかと思ったが、四百円じや無理もないと考え直しておとなしく食べていた。 宿の建物は六、七十坪もあったろうか。妙に大きくて普請もしつかりしている。主人夫 婦のほかに中学へ行っている手伝いの女の子が一人いるだけで、掃除などしてくれない。 ほこりた 部屋は立派で床の間や違い棚があったが、そこは文字が書けそうに埃が溜まっている、そ ほり′」たっ の埃の中、炭火の掘炬燵に人って、朝から晩までガラス障子の外の景色を私は眺めていた。 宿は一日に二、三回通るだけの山中の。 ( ス道から、だんだん畑を下って来たところに、 渓流を見下ろす形で建っている。渓流は私の部屋の向こう正面から流れて来て、宿の足も とで右へ曲がり、その先は見えない。渓流には一本橋が掛かっていて、その先は人一人が
182 天井 北海道浦河町に夏の家を造ってから、今年で丁度十年目になる。それでこのほど十年の 記念行事として、二階の天井をつけた。十年の間、二階には天井がなかったのだ。家を建 てる途中でお金が足りなくなったので、それなら、と天井をつけるのを取りやめにしたの である。 けんでん 遠藤周作さんが階段のない家を私が建てたと喧伝するのでそう信じている人が多いので、 この際訂正しておく。 階段はある。大工さんの犠牲的精神で漸くついた。その代わり天井がなかったのだ。 しかし天井がなくても、屋根があれば暮らしには困らないのである。私はそう思って東 京の友人知己を盛んに招待した。 客は天井なしの部屋に寝かされる。天井のない部屋に寝かされてもうコリゴリという人 時代遅れ ようや
140 女天下の家 考えてみるとやはりあの家は家相が悪かったのだろうと思うが、どこがどう悪かったの かはわからない。 とにかく家相というものがあって、それによって住む人の運勢に影響が あるらしいという程度に私は家相のことを考えるようになった。 しかしそれも最近のことで、何十年かを私は家相方位を無視して家を選んで来た。ある 時は「誰が住んでも将来、チャチャメチャになる」という家に住み、確かにチャチャメチ ヤになりかけて泡を喰って引っ越した。またある時は茶の間の下に井戸が掘ってあったと いう家に暮らして、痔になっこ。 今住んでいる家は古家を壊して建て替えた家である。建てたのは「チャチャメチャにな る家ーに住んだ後だったが、それでも家相に注意するということはなかった。陽のよく人 る家が好きな私の母と共同出資で建てた家であるから、どの部屋も陽が人るように南向ぎ 台所というものは、昔は北側の寒い陰気な所に造られることが多かったので、明るい台 所というのが主婦である私の長い間の夢だったのだ。 それで台所は家の中心、南に面したダイニングにつづいた造りであるから明るい。流し
泥棒の話 、つらかわ 私が北海道の浦河町に小さな夏の家を建てたのは十一年前である。その間に三回、泥嫉 に入られた。私の家は人里離れた丘の上の一軒家で、私が東京にいる間は閉め切って無人 である。一軒家であるから、泥棒は人目を怖れすゆっくり仕事が出来るのである。 どこへ出かけるにも戸閉 しかし地元の人は、このへんには泥棒なんか一人もいない、 りなんかしたことがない、 と自曼するので、私はすっかり安心していたのた。東京の人け クルマを駐車する時にキイをかけるしな、といって皆笑うのである。 の針を盗ん「 ところが泥棒は人った。一回目は階段の明かり取りから入って、レコード 行った。盜まれたものはそれたけである。いかに盗むものがない家かという証拠だわ、 笑っていたら、二回目、風呂場の窓ガラスを破って入られていた。今度は浴室の鏡を外 1 暮て持って行った。その時も鏡だけである。 私よくよく盗む物がない家なんだな、と話を聞いた人は皆笑う。私も一緒になってまた竺 っていた。 おそ
184 「何が変わってるの ? 」 「わざわざ北海道まで来て、何がおもしろくて走るんだ。うまい魚食って、酒飲んで、の んびりすれま、 しいって喜んでたわ」 「空気がいいから、走るのがとてもキモチ、 「キモチ、 しいってか。走るのが。汗流してハアハアいってたけどな」 「それがキモチいいのよ < さんは嘆息した。 「オレらは働いて汗流すから、汗流すていえばそうタノシミなもんじゃないけどな」 東京の人はカワッテル、と < さんはいう。第一、東京の人は家を建てると塀を造るもん な、という。こっちではあの野郎、塀みたいなもん立てて、と悪口いわれる。塀は自分の 生活を守ろうとする意志の現われで、そういうのはケチな根性なのだ。それにさんにい わせると東京の人はラーメン食べる間もクルマをロックする。それもカワッテル、という ことだ。 時代遅れ