安心して迷惑がかけられる友達 六十年も生きて来ると、友達の数はもう数えきれないほどである。もの心つき始める頃 の、まず人生最初の友達は、多分、誰もがそうだと思うのだが、隣やお向かいや裏の子供 たちだが、それから幼稚園、小学校、とだんだん生活が広がって行くにつれて、自然に友 達の数も増えて行く。 しかしそれらの友達の大部分は、丁度、汽車の旅に出ると、小さな駅が次々に現われて は彼方へ消え去って行くような、そんな小駅のような友達で、その中には通過駅のような 確友達もいれば、三分停車の友、五分停車の友、あるいは乗換駅、といった趣の友達もいる。 私それらの友達の数は、もう何百人という数に上「ているだろうが、その通過して行く何 いつまで経っても通過して行かない何人かの友人がいる。「親友、である。 百人の中に、 私の親友は四人いる。四人とも旧制高等女学校一年の時からの友達だから、姉妹のよう 愚友親友
あいさっ 生活様式が変わりつつある今は、当然、挨拶のし方も変わるべきではないか。 大学生に会うと私はいつも彼らのお辞儀がうなすくたけ、あるいはあごをしやくるだけ であることに驚かされる。どうやらお辞儀は滅びかけているのである。彼らが今にお辞儀 に代わるいい作法を考え出してくれるかもしれない。 私はそれを期待しますと人にいうと、しかし彼らもそのうち就職すると、たちまちお辞 儀党になります、といわれた。 オッパイ群 戦時中に女学生だった友人が来て思い出話をしているうちに、当時の女学校では毎朝、 こうよう 戦意昂揚を目ざしてハダカ体操というものをしたという話になった。下半身はスカートを はいているが、上半身は裸、乳房をむき出して体操をしたのだという。 の日本が太平洋戦争に突人して、「一億一心火の玉」になって戦わなければならなくなっ た時は、私はもう女学校を出ていたから ( ダカ体操は知らない。しかし話を聞いただけで、 男クラス中の女生徒のオッ。 ( イがブルン・フルン揺れて熱気が立ちのぼり、それはすさまじい 光景だったろうと想像するのたが、友達にいわせると一向にすさまじいとも恥ずかしいと も思わなかったという。
181 私の暮らし方 かと、私は物識りの友達に尋ねに行った。 この物識りの友達は、物識り顔をしたいために、時々、いい加減なことを断定的にいう 癖があるが、彼曰く、 「おむつの親分がふんどしであるだと ? それは大きな間違いである。アダムは知恵の木 しゅうちしん の実を食べて羞恥心に目覚め、イチジクのはつばでソコのところを隠した。ふんどしの元 祖はイチジクのはつばなのである」と。 ふんどしは「隠しどころ」を隠すために考え出されたものだが、おむつは羞恥心とは関 係がない。あくまで実用的なものであるから、そもそもの発想が違う。親分子分の関係と いうよりは、「他人の空似」といったようなものである、とのことであった。 ものし
私だけが知らない海 私が少女時代を過ごした家は、木造の三階建ての借家だったが、その三階はいつも雨戸 が閉ざされていて一度も使われたことがなく、特に子供は上がることを禁じられていた。 しかし四つ違いの私の姉は、近所の遊び友達に、 「うちの三階から海が見えるねん」 とよくいっていた。それで私も遊び友達に向かって、 「うちの三階へ上がったら海が見えるねん」 信 確といった。五歳か六歳ぐらいの頃だった。 私海は私の家のある集落からはほど遠く、海へ行くには小さな路面電車に十五分ほど乗っ て行くのである。たから海が見えるねんという時の姉の抑揚には、海が見える三階建ての 家を自慢している気配があり、だから私も同じ気分になった。鉄筋の家などなかったその 私の海
216 なんで、あなたからそんなことを頼まれなくちゃならないんですか。私だって忙しいんで すよ。見ず知らずの人のカンゲキを伝えるほど暇じゃないんですっ」 ついに大声になった。今度は本格的に憤怒したのである。 「そうですか、すみませんでした」 にら ぼうぜん 受話器を下ろして呆然と宙を睨む。彼女はどう思っただろう ? 私の怒る理由がわかっ ただろうか ? それともなぜ怒られるのかわからないで、 うわさ 「佐藤愛子って、やつばり噂通りの怒リンポよ」 といっているだろうか。それとも、 「佐藤愛子ってケチくさくて、威張り屋よ。それくらいしてくれたっていいじゃないのね 「ねーえ」 「ねーえ」 と友達といい合っているか。 相手の立場というものを考えないですむ人は倖せでいいなあ : ・ しかしその倖せな人間とっき合わされる方は、少しも倖せでないのである。 しあわ
怖い人、強い人、その名は父 まま 私の父は短気で我が儘ですぐに怒鳴る人だった。だが子供の頃の私は、それは父個人の キャラクターであるとは思わず、「父親というもの」のキャラクターだと思っていた。と いうのも私の隣家でもお父さんはいつも怒っていて息子を殴り、また一軒おいた向こうの 家でもお父さんはいつも苦虫を噛みつぶしたような、一触即発といった顔で道を歩いてい たからである。 おそ どこの家でも父親というものは「怒る人」で怖ろしかったのである。だからどの子供も 友達の家へ行くと必ず、「お父さんいる ? と訊いたものだ。お父さんがいる時は敬遠し て表で遊んだのである。まったく、優しいお父さんなんてどこへ行ってもいなかったのだ。 お父さんはどこのお父さんも怖い人である代わりに、強い人だった。本当は強くなかっ 親の地肌 こわ
涙に髭は似合わない ()n 子の友達の美はミ = ージシャンの恋人に金を貸していた。三か月という期限だった が、半年経っても一向に返す気配がない。五万くらいの金でとやかくいうのも、と思って 黙っていたが、 ( このあたりも新時代の到来を思わせる ) そのうちに美は、恋人が赤毛 の女の子とデイトしている現場を偶然目にして金が返せない理由を察知した。 そこである日、美はと・ほけていってみた。 「あのオカネ、どうなったの ? 」 「どうして返せないの ? 」 デイトの現場を目撃されているとは知らない恋人は、見えすいた口実を並べてノラリク ラリとごま化す。それを聞いているうちに美はだんだんムカムカして来た。ムカムカが 頂点に達した時、美はゲンコを固めて彼を殴った。 ふうさい ところでその恋人はどんな風采の男かというと、チョビヒゲをはやして顔は福相。若い 水野晴郎先生、という趣の男なのだそうだが、それが殴られてふり向き、 ( というのは丁 度その時、ファミコンをしている最中だったのだそうで )
とも 「電気が点ったら帰ってくるんだよ」というのが、私がもの心ついた頃、遊びに出て行く 子供にいう親たちの一一一口葉だった。 その頃、 それは昭和のはじめ頃のことだがーータ方、ある決まった時間がくると、 各家の軒燈が一斉に「ポッ」と点ったものである。軒燈はそれそれの家でめいめいが好き な時間に点すのではなく、電力会社の操作によって一定の時間に点るものだったのだ。 その時間が五時だったのか、六時だったのか、わからない。「電気がつく」ということ が時計の代わりで、それによって子供の一日は終わったのである。 ほとん その頃の子供の遊び場は戸外と決まっていた。殆ど道端、あるいは原つばである。家の し中で遊ぶのは雨の日か、友達の誰かが風邪をひいている時くらいなものだった。遊びに夢 暮中になっていると音もなく、全く唐突に、 の と軒燈が点る。町並みのどの家も皆、同じ格好の、丸いガラスの中に電球が入っている 軒燈で、それが一斉に点ると子供たちははっとして、いつの間にか空に暮色が広がってい あの頃の電気 かぜ
134 ぜん 小さなお膳のものを食べるそのことが嬉しかったのだから。 私の家の雛人形はいっ買ったものか、もの心ついた時、それは既に私の家にあった。母 が「嫁人りの時に持参した」というような、そんなたいそうな家柄ではないから、もしか したら古物商か何かから買ったものかもしれない。 だいりびな びようぶ それは屏風の前に内裏雛が並んでいるのではなく、青銅の大屋根のある御殿を組み立て たその中の壇上の間に内裏雛、回廊に三人官女、回廊から下る階段の左右に右大臣左大臣 を侍らせるといった、重々しく立派なものだった。 つか その御殿の大屋根が部屋の天井に支えるので、雛壇の壇数は五段にしなければならない。 友達の家はみな七段で、ふだん可愛がって遊んでいる人形まで全部飾っている。私はそれ うらや が羨ましく、 「あんたのところ何段 ? 」 と訊かれ、 「五段」 と答えなければならないのが、口惜しかった。 先日、こんな夢を見た。 私が育った家に私 ( 子供の私ではなく、今の私 ) と娘がいて、私が娘にいっている。 「そろそろお雛さまを出そうか ? 」 はべ
ていないから、そうですか、というほかないのである。 私は疑うことが嫌いである。面倒くさい、といってもよい。疑うよりも信じた方がらく だから信しる。そのために私の人生は損をすることが多かった。招かなくてもすむ災難を 始終背負い込むことになったが、人は背負い込んだことによって力が出るものなのだとい う確信を持つに到った。だからますます疑わない。損をしてもかまわないのである。その 損から新しいものを産み出せばいいのだ、と考えれば、少しも傷は残らない。 そんなわけで私はお不動さまが守って下さっているということをすぐに信じた。それで、 あいさっ 朝、晩、お不動さまにご挨拶をする。だいたいが無信仰の家に育った身であるから、ご挨 拶といっても正式のご挨拶は知らない。ただお守札に向かって、 「南無大聖不動明王」 三度、念じて感謝するだけである。 「どうしてそんなに簡単に信じられるのかしら」と友達はおかしがった。 はんらん 私は六十年生きて来て現代に氾濫している言葉や批評や分析や「科学の進歩」というも のに疲れたのである。子供のように単純に生きたいと願うようになったのだ。大いなる存 在の下で、ちつ。ほけなものとして生きているーーーそんな自分であることの方が、らくだと 思うようになったのた。 信しることは勇気である :