「デッサンって、どうすればいいんですか と重ねて訊くのである。そこで、 「ます、小説を沢山読むことですよ」 というと、これが必ず、 「誰の小説を読めばいいでしよう ? 」 という質問になって返ってくるのである。 「だから、はじめは片っ端から読むんですよ。そのうちに好きな作家、好きな文体が見つ かって来ます。そしてその影響を受けて行く。その文体を研究し、真似してみるのも一つ の勉強だと私は思っていますけれど」 私の場合でいうなら、まず最初井伏鱒二先生の文体を真似し、三島由紀夫を真似し、そ 味れから ( ミングウイ ( といっても、福田恆存先生の訳文だが ) を真似し : : : という具合 に真似に真似を重ねてやっと、その中から自分の文体らしきものを作って来た。いうまで ぎつばく : とは似ても似つかぬ雑駁な文体にな 人もなく、井伏先生、三島由紀夫、ヘミングウ = イ : てってしまいはしたが。 し そしかしそれよりも前に、なぜ小説を書きたいのか。何を書きたくて小説家になろうとし ているのか、そこのところが最も大切な点なのである。 「なぜ書く人間になりたいのですか ? 」
116 「俺だって苦しんでいるんだ ! 」 たの と男はいう。たしかに不倫の愛を愉しんだッケは男にも廻って来る。しかし男は廻って 来たツケを払えばよいが、女の方は人生そのものが曲がってしまう場合が往々にしてある。 もしもその人生に毎いを抱いた場合、「男に欺された」とはいわず、「私は覚悟をもってこ の道を選んだ」といえる自負心を持ちたい。男に気に入られようとして心を砕くよりも、 私はその自負心を培いたい。 おれ だま
200 どうしたら小説が書けますか 若い女性からの質問で一番閉ロするのは「小説を書きたいのですが、どうしたら書けま すか」という質問である。 めいりよう 「どうしたら」といわれても、ミシンのかけ方のような明瞭、具体的な方法があるわけじ ゃないのである。 これが絵であれば、 「まずデッサンをしつかりおやりなさい。それが基礎ですー ととりあえす簡単にいえるのである。 音楽でもそうだ。「まず発声練習をーとか。ヒアノの場合なら、「指の訓練をーといえる。 しかし小説の場合は何といえばいいのか、「まずデッサンを」といっても、「画用紙に木 無邪気は美徳か ?
118 けんか 出来ようそ。喧嘩好きの人間には、喧嘩となると逃げ一方という人のキモチがわからない のと同じである。 「弱虫 ! なぜ逃げる ! 」と怒っても仕方がない。 弱虫は弱虫なのである。怪しからんといわれてもそうなのだ。気の優しい人に、キック なれといっても、一朝一タになれないのである。私は数学の低能で、子供の時から六十二 歳の今日に到るまで、数 ( ものの値段、金勘定 ) に関したことになると、何と人から説教 ののし ひど され、怒られ、罵られ、損つづきの酷い目に遭ってもどうすることも出来ない。別れこ、 のに別れられない人というのは、このようなものかもしれないと私は想像するのである。 だがそんなことばかりいっていても仕方がないので、なぜ、その人は別れたいのに別れ られないのか、その理由を考えてみることにする。 ます第一に考えられることは、その人は気が弱すぎる、あるいは優しすぎるということ もちろん だ。勿論、この場合、相手の愛盾は冷めていないのであって、こっちの気持ちが冷めつつ あって別れることを考えているとは夢にも思っていないのである。この「夢にも思ってい ない」ということが、この場合ガンなのである。相手の信頼、愛情はゆるぎなく ちが揺らいでいるのがわからないくらい 自分を包んでいる。その信頼、愛情をいきな り打ち破るに忍びない、その勇気がない、 というのが、たいがい気の優しい人が別れられ
に気心が知れている。四人のうち三人は関西に住んでいるが、私と子の二人は東京にい るので、子と私はお互いに迷惑のかけっこをしてこの二十年余りを過ごして来た。 安心して迷惑をかけられる友達なんて、そうザラにいるものではない。若い頃、といっ ても四十代の頃のことだが、私は子のためにわざわざ一緒に京都まで行き、秋雨降る深 たたず 夜の先斗町の、とある酒場の前に一時間、濡れしょ・ほたれて二人で佇んだことがある。 なにゆえ、そんなところに佇んでいたかというと、子のご亭主は仕事で時々京都へ行 くが、酒場のマダムとただならぬ仲になっているらしいことを子が察知し、その確証を ねら 掴むためにご亭主の京都出張の日を狙って、そこへ張り込むことになったのである。 「モノ好きねえ」 「ヒマだねえ」 などといわれるかもしれないが、「親友」の中にはこういう時に賢くたしなめる親友も いるだろうけれど、お互い愚かな部分が呼応し合って親友になるという場合の方が多いの であって、私のオッチョコチョイ性と子のオッチョコチョイ性はこういう場合にはいっ も見事に響応し合うのである。 「なに、浮気 ! 怪しからんー と私も我がことのように憤慨して、 行ったげるー つか ぽんと
わが爆破恋 にじ 失恋について語れといわれたが、私には血が滲むような失恋の経験がないので語ること が出来ない。私の場合は「失恋」というよりは「爆破恋」とでもいうようなもので、 「クソッタレ ! 」 と思ってプチ壊してしまう。 ブチ壊したのだから「恋を失った」ことにはちがいないのだが、・フチ壊すときの怒りの 如 = ネルギーがもうもうと黒煙を上げているので、「失恋の傷手、なんてどこにあるのか、 楸そんなものに胸を噛まれている暇がなかった。 男あれを思いこれを思って懐かしんだり、後悔したり、失ったものに執着してメソメソし ているのはどうも性に合わない。執着したいにも「クソッタレ ! 」と思ってブチ壊したの であるから、出来ないのだ。 失恋なき時代
121 男の秤、女の秤 人にも、誠実でなければいけない。誠意をもって自分の気持ちを説明することだ。その場 合、いくら誠意をもって説明しても相手がわからないことがある。いやわからない場合の 方が多い。 しかし、あえてそれをやるのが人生修業というものなのだ。そう思って所信を述べる。 もしかしたら相手は混乱し、殴りかかってくるかもしれない。しかしそのゲンコを誠実に 受け止めることが、かって愛し合った者への義務であり礼儀である。臍下丹田に力を籠め こぶし て、その拳を受けるーー・・・その覚悟を定めた時、その人は別れ話を切り出す資格を身につけ あきら たというべく、それが出来ないうちは、リ 男れることは諦めてウジウジとくつついているの がよろしいのである。 せいかたんでん
お辞儀 日本女性のお辞儀の姿ほど優美なものはない、 と何かで読んだ記憶があるが、私はお辞 儀が上手な方ではないから、ほんとうかしら、と思ってしまう。茶道や日舞をたしなんだ 人は、さすがと思える美しいお辞儀をされるが、たいていの日本女性のお辞儀は今はお粗 末である。 なぜお粗末かということを反省を込めて考えてみたら、どうもこれは洋服を着てかかと の高い靴を履くためではないかと思われる。私も和服を着ている場合は、洋服の時よりも いくらか落ち着いたお辞儀が出来るような気がするのだが、洋服の時はどうもうまくいか ハイヒールを履いてお辞儀をすると、前へつんのめって行くからで、「優美」どこ ろではなく、下手をすると相手に頭突きを喰わしかねない。だから頭突きを喰わさぬよう に大急ぎで頭を上げるのだ。どうして優美になんそ出来よう。 大和撫子
この人は気が優しいために、自分のキモチが冷めて来ていることを相手に気取られまい として努力する。私にいわせるとこの努力がいかんのだ。この場合の努力は気取られまい とするのではなく、少しずつ気取らせて行くことに向けられるべきである。 傷つかすに渡れる人生はない デイトの回数を少しずつ減らして行く。あるいは早く帰ろうとする。むやみに忙しがる。 留守が多い。浮かぬ表情をしている : : : そういうことを少しずつ見せて行って、相手にそ れとなくわからせるように仕向けて行くのである。当然、相手はおかしい、と思うように なる。それから不安を覚える。おかしいと思い、不安を感じているうちに、あれやこれや と考えて少しずつ下地が作られて行く。 そうしてあらかたの下地が作られていると話が切り出し易い の 「この頃、あなた ( あるいは「君」 ) どうしたの ? 何だかへンよ : : : 」 女 楸と相手が切り出してくれれば、 の 男「実はね : : : 」といい出すことが出来る。この時に気弱さが出て、 「ううん、なんでもない・ ・ : ただちょっと疲れてるだけ : : : 」 なんて、キレイごとをいいたくなるだろうが、ゆめいってはならないのである。気の弱
114 「あなたツ ! 奥さんには指一本さわっていないっていったくせに、どういうこと ! 」 といきまいてしまうのである。 夫婦として生活していれば、愛情がなくても妻を抱いてしまう、あるいは抱かなければ ならなくなるという諸般の事青に取り巻かれていることぐらい、わかりそうなものなのに、 をいかなくなるのだ。これが何とも厄 と第三者には簡単に思えることが、当事者にはそうよ 介なのである。 「わかっちゃいるけどやめられない」というやつだ。 覚悟の中には、自分が「わかっちゃいるけどやめられない」という状態になってしまう ことも入れておくべきである。つまり「孤独な苦悩に身をよじる、という状態に耐えなけ ればならないことを」、である。 愛人には資格がいる あきら 不倫の愛には安定はない。諦めと忍耐はどこまでもついて廻る。そうでない場合は闘い となる。愛人の妻との闘い、愛人との闘い、そして己れの情念との闘いだ。 たから不倫の愛に身を委ねる人には、資格が必要だということになってくる。まず第一 に経済的に自立していること、自分の仕事、進むべぎ道を持っていることである。それが