やガスレンジのある北側の窓は出窓にして風もよく通る。そのダイニングキッチンを中心 にして左へ母の住居、右へ我々の住居というふうに部屋が並んだため、ただ横に長いだけ の趣のない家になってしまった。 「チャチャメチャになる家」からその家に移り住んでから、私の夫は事業を始めるように なった。そうして何年か後には一一一口葉通り「チャチャメチャ」になって家を出て行った。残 された私は母のためにこの家を死守せねばならなくなった。そうしてどうやら死守出来て、 みまか 母は八十歳までこの家に住んで身罷った。 私のモト夫がチャチャメチャになったのは、前の家で「チャチャメチャ運ーを吸い込ん でしまったためだろうか、それから逃げるためにここへ来たのに、もう手遅れだったのだ ようや ろうか、と時々、私は考えた。夫の借金を代わりに返済して、漸く晴れてこの家の主とな った私は、波瀾はあったがます順調に生きて来ている。 ハアと笑った。何ですかと訊 ある日、家相の先生が遊びに来て、この家を見るなり、 方 くと、この家は「女天下の家」ですな、という。台所が家の中心にある。こういう家は女 し しり 暮が中心になる家相ですから、主人は出て行くか、出て行かなければ女房の尻に敷かれた甲 の 私斐性なしになるか、どっちかなんです、と。 うなず 「なるほどーと私は肯いた。私たちが別れることになったのは、平素の心掛けが悪かった のではなく、家相のせいだったのか。 はらん
140 女天下の家 考えてみるとやはりあの家は家相が悪かったのだろうと思うが、どこがどう悪かったの かはわからない。 とにかく家相というものがあって、それによって住む人の運勢に影響が あるらしいという程度に私は家相のことを考えるようになった。 しかしそれも最近のことで、何十年かを私は家相方位を無視して家を選んで来た。ある 時は「誰が住んでも将来、チャチャメチャになる」という家に住み、確かにチャチャメチ ヤになりかけて泡を喰って引っ越した。またある時は茶の間の下に井戸が掘ってあったと いう家に暮らして、痔になっこ。 今住んでいる家は古家を壊して建て替えた家である。建てたのは「チャチャメチャにな る家ーに住んだ後だったが、それでも家相に注意するということはなかった。陽のよく人 る家が好きな私の母と共同出資で建てた家であるから、どの部屋も陽が人るように南向ぎ 台所というものは、昔は北側の寒い陰気な所に造られることが多かったので、明るい台 所というのが主婦である私の長い間の夢だったのだ。 それで台所は家の中心、南に面したダイニングにつづいた造りであるから明るい。流し
138 病人の出る家 生まれて間もなくから、およそ十歳になるまで暮らした家は、変わった家だった。およ つぼ そ何坪くらいあったのか、子供の私には見当もっかなかったが、とにかく大きな家で、三 階建てだった。三階建てといっても、鉄筋などない時代であるから、木造で、お城のよう に上へ行くほど小さくなっている。私はその家が自慢でたまらなかった。 しかし母はその家を暗くて風通しが悪いといっていやがっていた。 うなぎ 「鰻の寝床みたいな」という表現をよく使っていたが、南に向いている部屋は二部屋だけ で、あとの部屋はその南の部屋へ行くまでの通路のような趣で並んでいるのだった。西側 そび には松の生えた土堤が聳えている。東側はびったり隣家に密接しており、私の家の外壁が 塀の役目を果たしているのだった。 この家は暗くて風が通らないけれど、こういう家は金が溜まる家なのだ、と誰かが母に 家相のせい
しし明るい家に いっていた。母はお金なんか溜まらなくてもいいから、もっと風通しの、 、、、望み通りの家を自分で設計して建てた。 住みたいと口癖のようにしし それは途方もなく広々としていて明るく、風は南から北へ吹き抜け、北側にも南側にも 庭があって、南の庭と北の庭は趣が変えてある。四百坪の土地に百一一十坪の建坪の家だっ た。つまり、それだけの家を建てるだけの蓄財があの暗い暑い家で出来たのである。 その明るい大きな家へ移ってから、母は病弱になった。それまで「健康美人」と父が呼 んでいた母が、次々と病気をするようになった。私たちはその家に十二年ほど住んだが、 その間に父は老いて仕事をしなくなり、また老人性の病気なども出て来て、広い家に父と 母と私の三人が、 ( 戦争のために家事手伝いの人も雇うことが出来なくなって ) 寂しく暮 らさなければならなくなってしまった。 といった人がいた。しかし母は笑って、人間、年を その頃、この家は家相がよくない、 とれば若い頃の勢いはなくなって、仕事も減って行く、長く生きていれば病気も出て来る 方だろう、それが自然なのだといって相手にしなかった。 暮結局、その家は戦火が激しさを増して来たので売ることになり、私は結婚して家を出、 私父母は静岡県の興津へ疎開した。その後、その家を買った人は間もなく亡くなり、長男も 若くして亡くなった後、未亡人が何年か一人暮らしをした後、やはり死亡されたという話 である。今、その家には留守番の人が住んでいるという。 おきっ
泥棒の話 、つらかわ 私が北海道の浦河町に小さな夏の家を建てたのは十一年前である。その間に三回、泥嫉 に入られた。私の家は人里離れた丘の上の一軒家で、私が東京にいる間は閉め切って無人 である。一軒家であるから、泥棒は人目を怖れすゆっくり仕事が出来るのである。 どこへ出かけるにも戸閉 しかし地元の人は、このへんには泥棒なんか一人もいない、 りなんかしたことがない、 と自曼するので、私はすっかり安心していたのた。東京の人け クルマを駐車する時にキイをかけるしな、といって皆笑うのである。 の針を盗ん「 ところが泥棒は人った。一回目は階段の明かり取りから入って、レコード 行った。盜まれたものはそれたけである。いかに盗むものがない家かという証拠だわ、 笑っていたら、二回目、風呂場の窓ガラスを破って入られていた。今度は浴室の鏡を外 1 暮て持って行った。その時も鏡だけである。 私よくよく盗む物がない家なんだな、と話を聞いた人は皆笑う。私も一緒になってまた竺 っていた。 おそ
私だけが知らない海 私が少女時代を過ごした家は、木造の三階建ての借家だったが、その三階はいつも雨戸 が閉ざされていて一度も使われたことがなく、特に子供は上がることを禁じられていた。 しかし四つ違いの私の姉は、近所の遊び友達に、 「うちの三階から海が見えるねん」 とよくいっていた。それで私も遊び友達に向かって、 「うちの三階へ上がったら海が見えるねん」 信 確といった。五歳か六歳ぐらいの頃だった。 私海は私の家のある集落からはほど遠く、海へ行くには小さな路面電車に十五分ほど乗っ て行くのである。たから海が見えるねんという時の姉の抑揚には、海が見える三階建ての 家を自慢している気配があり、だから私も同じ気分になった。鉄筋の家などなかったその 私の海
と生返事。 「きっと迎えに行くから : : : 。片づけ終わったら、きっと迎えに行くわ。新しいお家へ行 くんだからね : : : 」 女の想像力、男の想像力 「新しい家、という一言葉に私ははしめて若い母親を注目した。それまでは子供の動作ばか り見ていたのだ。 若い母親は細面に白粉の浮いた疲れた顔をしている。彼女がこの上なく優しいのは疲労 のためだろうか、それともその疲労のもとである何らかの心労のためだろうか、と私は考 「新しい家」とは何だろう ? 家を新築してそれまでのアパート住まいから引き移る。そ ののためいろいろ忙しい思いをして来て、彼女は疲労している。そしてこれ以上疲れないた めに引っ越しの足手まといになる子供を、これから実家へ預けに行くのだろうか。 それとも、彼女と夫との間で別れ話が決まって、母子は新しい家へ出て行くことになっ たのではないかフ そう考えると彼女のこの上ない優しさ、悲しいまでの静かな抑揚の意味がわかるような おしろい
とも 「電気が点ったら帰ってくるんだよ」というのが、私がもの心ついた頃、遊びに出て行く 子供にいう親たちの一一一口葉だった。 その頃、 それは昭和のはじめ頃のことだがーータ方、ある決まった時間がくると、 各家の軒燈が一斉に「ポッ」と点ったものである。軒燈はそれそれの家でめいめいが好き な時間に点すのではなく、電力会社の操作によって一定の時間に点るものだったのだ。 その時間が五時だったのか、六時だったのか、わからない。「電気がつく」ということ が時計の代わりで、それによって子供の一日は終わったのである。 ほとん その頃の子供の遊び場は戸外と決まっていた。殆ど道端、あるいは原つばである。家の し中で遊ぶのは雨の日か、友達の誰かが風邪をひいている時くらいなものだった。遊びに夢 暮中になっていると音もなく、全く唐突に、 の と軒燈が点る。町並みのどの家も皆、同じ格好の、丸いガラスの中に電球が入っている 軒燈で、それが一斉に点ると子供たちははっとして、いつの間にか空に暮色が広がってい あの頃の電気 かぜ
134 ぜん 小さなお膳のものを食べるそのことが嬉しかったのだから。 私の家の雛人形はいっ買ったものか、もの心ついた時、それは既に私の家にあった。母 が「嫁人りの時に持参した」というような、そんなたいそうな家柄ではないから、もしか したら古物商か何かから買ったものかもしれない。 だいりびな びようぶ それは屏風の前に内裏雛が並んでいるのではなく、青銅の大屋根のある御殿を組み立て たその中の壇上の間に内裏雛、回廊に三人官女、回廊から下る階段の左右に右大臣左大臣 を侍らせるといった、重々しく立派なものだった。 つか その御殿の大屋根が部屋の天井に支えるので、雛壇の壇数は五段にしなければならない。 友達の家はみな七段で、ふだん可愛がって遊んでいる人形まで全部飾っている。私はそれ うらや が羨ましく、 「あんたのところ何段 ? 」 と訊かれ、 「五段」 と答えなければならないのが、口惜しかった。 先日、こんな夢を見た。 私が育った家に私 ( 子供の私ではなく、今の私 ) と娘がいて、私が娘にいっている。 「そろそろお雛さまを出そうか ? 」 はべ
怖い人、強い人、その名は父 まま 私の父は短気で我が儘ですぐに怒鳴る人だった。だが子供の頃の私は、それは父個人の キャラクターであるとは思わず、「父親というもの」のキャラクターだと思っていた。と いうのも私の隣家でもお父さんはいつも怒っていて息子を殴り、また一軒おいた向こうの 家でもお父さんはいつも苦虫を噛みつぶしたような、一触即発といった顔で道を歩いてい たからである。 おそ どこの家でも父親というものは「怒る人」で怖ろしかったのである。だからどの子供も 友達の家へ行くと必ず、「お父さんいる ? と訊いたものだ。お父さんがいる時は敬遠し て表で遊んだのである。まったく、優しいお父さんなんてどこへ行ってもいなかったのだ。 お父さんはどこのお父さんも怖い人である代わりに、強い人だった。本当は強くなかっ 親の地肌 こわ