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検索対象: グラフィック版 奥の細道
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1. グラフィック版 奥の細道

ささかたのず 0 象潟之図昔は海中に九十九島を浮かべた おうしゅう 潟湖で松島と並び称される奥州の名勝だった 文化元年の地震で土地が隆起して景観は一変 現在では水田の中に小丘が点々と残っている O ねむの花 ような様子である。 象潟や雨に西施がねぶの花 ( 象溿の風情は、雨に濡れながら薄紅の←歓の花が咲いて、 あたかも越の国の美女西施が憂い顔に、眼をなかば閉した ようなさまである。 ) 汐越や鶴はぎ濡れて海涼し はぎ なみ しおごしあさせ ( 汐越の浅瀬に降り立った鶴の脛が、寄せる浪にうち濡れ て、涼しい景色である。 ) きさかた 曾良 象潟や料理何くふ神祭 ( 象溿の櫪現の夏祭に参り合「た。ここは蚶歟の産地 ちそう なのだが、 祭には人々は一体何を馳走に食べているのだろ あまや 蜑の家や戸板を敷きてタ涼知の国の商人耳 ( 漁師の家では、海辺に戸板を敷いて、簡素なタ涼みをし ている。 ) 岩上に雎鳩の巣を見る ・り 波越えぬ契ありてやみさごの巣 ( みさごの巣が海中の岩の上に見える。みさごは詩経にう たわれた夫婦仲のむつましい鳥だから、取り交わした固い 契があって、そのために、あの古歌に言うように、波が岩 - 一きん の上の巣を越えないのだろうか。その古歌は古今集「君を えっ みさご せいし うれ

2. グラフィック版 奥の細道

小屋ミすへ しレ - く - 、も ~ 、 嘱目として取り入れながら「凉しさや」と、あいさつの もがみ 、いをこめている。最上川もと、つと、つここで海にはいって あん しまったと、流れとともに下ってきた色蕉も、はっと安 せんどう 堵したような気持が現われている。これに対して、詮道 なみ 月をゆりなす浪のうきみる と詠んだ。だから、詠んだのは夜に入って月が出てから この句のモチーフは、最上川が自分自身を海に入れて しまったといったような、大河の量感を表明したかった さみだれ のだろう。たが、「五月雨を」の句とおなしく、ここで も「凉しさ」が句のつますきとなっている。 海上三十里も川水が流動するという景観は、「暑き日 を海にいれたり」と改作することで、びたりと捕えられ もがみ 水平線に沈もうとする赤いタ日と、最上川の押し流 す力とのあいだに、 一つのすばらしい対応を見いだし た。三十里も、いや、もっとかなたの水平線まで、太陽 は、大河に押し流されて、沈もうとするのである。自然 のエネルギーとエネルギーとの、相うつような壮観であ だが、この句の「暑き日」を、暑い一日と解する学者 も多い。暑い一日を海に入れてしまったというので、初 案の「凉し」といった気持を生かしているものと取る。 凉しいタ風を感し取っているのだ。だが、これはいかに も初案に引きすられた解釈である。 ~ 巴蕉は思いきった改 作をやってのけた例が、一再ならすある。これもその一 佰 . た もがみ 墨 : フかん 95

3. グラフィック版 奥の細道

はぐろさ人 さかたのず 酒田之図六月十日羽黒山を発って なやましげゆき 鶴岡の城下町へ行き長山重行という 武士の家に迎えられて歌仙を巻いた 六月十三日鶴岡から舟で酒田へ下り 不玉という医者の家に厄介になった つるおの・ さカ・た ふぎよ ( 、ツィ 1 ・ びま十里温あを西し ) えり五ほ海 : 供にた 日ど山し袖名時 い巴ばに にのて之のの る宿あ大い浦 3 作 がをるきる 広越と砂な 東あ 々後っ浜眺ー とをてで望の小こ 屋や山も たえる芭ば開つ之の上 蕉けの浜川 海る 岸時温あはて浦がの 線宿海 : こくを突河 を泊山 : のる出きロ 見しは前。離出を 通た酒 : に吹↑れてか き浦らる し温あ田た はと舟え 潟 酒 : ・東がる 温ガら っ泉芫南分田た西かよ のの西イ丁のに 地後十、余北吹竜のに 名に里方浦。便し でそあ 、ハと且ぎて ~ え岡 えちご をムし ふくら あつみ 東西の眺望を代表させたのである。必すしも吹浦と温海 山を見通したというのではない。だがこの頃は央晴続き のうりよう あつみ であるから、見えたかもしれない 納凉の句だから温海 ふくら の地名に暑さをかけ、吹浦の地名に風が吹く意味をかけ 他愛ない技巧ではあるが、風景に対してのうちくっ ろいだ気分は出ていよう。 さかた 翌十四日は暑い日だった。その日は酒田の豪商、寺島 ひこすけ かせん せんどう れいどう , 山を巻き、 彦助 ( 号は詮道また令道 ) に招かれた。ここで歌イ ばしさフ はっ 例によって、芭蕉が発句をよんだ。 てらしまひこすけ この寺島彦助がどういう人物で、その邸宅かどこにあ へん さかた たか、久しくわからなかったが、 最近、酒田の市史編 纂の人たちなどによって、およそのことがわかってきた。 さかたみなと 彼は酒田湊の御城米浦役人であった。浦役人とは幕府の ばしさっ おわりなるみ 米置場の役人である。かれは芭蕉と親しかった尾張鳴海 てらしまそうげんやすのり の本陣寺島業言 ( 安規 ) の枝流で、安というのは寺島家の やすたね ひこすけ 取字と思われ、彦助はまた、安種という。 やすたね そてのうら つぎおーっ・ 『継尾集』には「安種亭より袖之浦を見渡して」とあっ て、これまでアンジュ ~ 甼と呼んできたが、どうもこれは ひこすけ げんろく ャスタネ亭であるらしい。元禄年間の絵図面に彦助邸は さカた 出ていて、それは本町三之丁、今酒田郵便局のある地内 もがみ そてのうら である。今は、ここからは最上川も袖之浦も見晴らすわ 、フ・かわ けにはゆかないか、当時は家の前がすぐ内川で、そこか もがみ そてのうら らは最上河口も、対岸の袖之浦もながめられたと思われ そこで詠んだ句は、はじめ、 、もカみかは 凉しさや海に入れたる最上川 と ) い、つ廾オオ 彡ごっこ。寺島邸からなかめられる河口の大景を、 さん てらしまてい てらし・ま ばくふ てらしま

4. グラフィック版 奥の細道

カ : っさん 月山出羽三山の主峰処々に万年雪が残 カ : っさんじんじゃ っさよみのみこと り頂上に月山神社があって月 = ロ冗叩をまつる 芭蕉像 も - つわん はっきり書いている。つまり、妄念をやめて、月の曇り のないように明知が現われるということだ。雲の峰がく すれて、月の山が現われでると詠んだ裏には、そういっ た意味がかすかにこめてある。だが、旬がらはあくまで 無邪気で、わらべうたのような語感をもっておおらかな リズムが脈打っている。 要 : フじて ! しよう ゅどのもう 、『己一丁こは「物 5 而此山 色蕉の湯殿詣では六月七日だが糸イ』ー 中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。仍て ゅどのさん 筆をとゞめて記さす」とある。湯殿山の微細は今日でも 秘事が多く、神秘陸を漂わせている。その神秘陸に触れ ゅ ばしよう て ~ 巴蕉も袂をぬらした、というのだが「ぬらす」とは湯 えんご どの 殿の縁語である。三山順礼の句の中では一番感銘の乏し い句が「語られぬ」である 一見するとこの句には季語がないようだが、貞門以来 ゅどのごり ゅどの当って ゅどのきフ 「昜殳一丁」「昜殳詣「湯殿垢離」が夏の季題とされ、芭 しよう 蕉はそれに従ったのである。 力、ごドこめ 曾良の『書留』に、 ふん 銭踏で世を忘れけりゆどの道 とあるのが初案。あるいは芭蕉が手を加えたのかもしれ ない。それにしてもつまらない旬はつまらない句だ。 すかこもしよう 『菅菰抄』に「この山中の法にて、地へ落ちたるものを 取るあたはす。故に道者の投抗せし金銭は小石のごとく、 銭は土砂にひとし。人その上を往来す」と注してある。 地にちらばった銭など ~ 困牙にもかけす、その上を踏み歩 くという超俗的な気持に誰しもなっているというので 「世を忘れけり」といった。改案では、そのような霊山 の有難さに感涙にむせぶ、といっているのである 0 ていもん 0 さかた し・けゅ、、 よぐろ 聊黒を発って、鶴岡の城下、長山氏重行という武士の さきち はい力いカせん 山巻を巻いた。左吉もここま 家に迎えられて、俳諧歌イ さカた で送って来てくれた。川舟に乗って酒田の港に下った。 え・れあんふぎよく 淵庵不玉という医師の家を宿とした。 あつみ山や吹浦かけてタ涼み あつみ ( 南に見える温海山から、北に見える吹浦へかけて、広々 ちょうばう とした海の叫望をはしいままにしながら、タ一保みをしてい る快さよ。あっ ( 暑 ) ・ く ( 吹 ) はともに凉みの縁語。 ) 、わ・かみかは 暑き日を海に入れたり最上川 もドみ ( 最上川の滔々たる水流が、一日照っていた暑い太陽を、 押し流し、西の海の彼方へ押し入れてしまって、凉しいタ 方となったことよ。 ) あかかわ まぐろ よしよう もがみ 0 六月十三日、色蕉は豺黒を出て、最上川の支流赤川 さかた を舟で下り、酒田におもむいた。それから二十五日出発ま とうげんじゅん さかた でおおかた酒田の伊東玄順という医者の家に厄介になっ 本町三丁目横丁の饑宅地内であ「た。俳号を淵庵 げんじゅんてい ふぎよく 不玉という。この旬は十九日に玄順邸で催した芭蕉・不 さんぎんかせん 玉・曾良の三吟歌仙で、二十一日に巻き終った。『継尾 こ - フじようのばんほ . っ ふぎよくわきく 集』 には「江上之晩望」という前書があり不玉の脇句は、 ほ . ら みるかる幾ここ : オ、む帆莚 である。 「あつみ山や」の句は、卸の港に舟を浮べてタ凉みを 0 酒田 つるおか ながやま やっかい つぎお

5. グラフィック版 奥の細道

てわさんざん ばしようしんせき 0 出羽三山短冊芭蕉真積右より とうせい 「涼風やほの三か月の羽黒山桃青」 「雲の峯いくつ崩れて月の山桃青」 「かたられぬゆとのにぬらす袂かな相青」 カーっさん 月山 えがくあじゃり てわ れを休めた。坊に帰ってから会覚阿閉梨の求めで出羽三 たんざく 山順礼の句を一句一句短冊に書いた。その一つ。 しんせきたんざく カ、こめ 真蹟短冊と曾良の『書留』には初五「凉風や」とある。こ れが初案である。「ほの三日月」はほのかに見える三日 はぐろさん 月ということ。三日月にほのかに照らされながら羽黒山 がタ闇の中に神々しい姿を現わしている、といったので、 「凉しさや」が山容のほめ言葉になっている。真夏の昼 はぐろ の暑さが去って、凉しさがたてこめた中に羽黒山の姿を 讃えたのである。 ばしさフがっさん てわ ~ 巴蕉が月山に登ったのは、六月六日であった。出羽三 山の主峰で海抜千九百八十メートル、芭蕉の生涯のうち に登ったいちばん高い山である。山上の角兵衛小屋に泊 べっとうだい あじゃり まり、翌日南谷の坊に帰った。別当代の会阿閉梨の求 たんざ めに応じて、三山順礼の句を三句、短冊に書しオ ) こ。「雲 の峰」の句はそのなかの一句である。 1 主 『奧の細道』に「自 5 絶え、身こごえて頂上にしオ 日没して月現る」とあるので、「雲の峰」の旬は、頂上 でのけしきを詠んだものと思われている。だが、どう見 てもこれは頂上の景ではない。「月の山」とは月山のこ とだが、同時に六日の月のかかったお山でもある。つま り、月光に照らしだされて眼前にはっきりと現われでた ばしよう 雄大な山容である。そこから芭蕉は、昼間に見た雲の峰 のイメージを呼び起こしているのだ。雲の峰がいくっ立 くつくすれてこの月の山となったのであるか、と いっているのである。 「月の山」を目の前にしているけしきと取らなければ、 この句は死んでしまう。世上の解釈に、雲の峰を眼前に しているところと見て、これがいくつくずれたら、夜と なって月の山となるのだろうと解している説があるので、 このことはいっておきたい この句の中心は、月の山な のである。 「月の山」といって、地名の月山を掛けていることに、 現代人はわざとらしさを感ずるかもしれない。「日の光」 とよんで、日光の地名をこめたのとおなしことである。 だが、これはやはり、大国にはいっての芭蕉の挨拶の気 持がこもっていると見ねばならない。感動の実体は月光 それが同時に、月山でなけれ に照らされた山なのだが、 ばならなかったのだ。出羽第一の名山を詠みこむことが、 あじゃり 色蕉の挨拶なのである。それはなにも、阿閉梨に対する 挨拶だというのでなく、この霊地全体に対する挨拶だと 見るべきだ。 てんだいしくわん それに、『細道』の本文には「天台止観の月明かに」と、 につ - : フ てわ がっさん がっさん がっさん

6. グラフィック版 奥の細道

め : っさん 月山に登った木綿しめを身に引き掛けて ごうりき はうかん 宝冠をかぶり強力という者に案内されて 雲や霧のたちこめる山気の中を氷雪を踏 んで登ること八里ばかり呼吸も苦しく身 も凍えようやく頂上へ登ると月が上った み ( だ るという季語を含んでいるが、「風の音」を「南谷」に 改めたのはそこに南薫の語を含むとみたのである。六月 しんじよう もりのてい 二日に新庄の盛信邸で、 - もがみがは 風の香も南に近し最上川 なんくん と詠んでいるが、これも「南薫」の季語をとり入れた発 句である。 はぐろ 「有難や」とは、羽黒山のような霊地に泊まることがで えカくあじゃり あいさっ きたことの謝意を含み、同時に会覚阿閣梨に対する挨拶 でもある。山深いところだからまだあちこちに残雪が見 あ・りカた なんくん られたのであろう。薫風がその雪の香を運んでくる、と いったのだが、南谷という地名を季語の一部としたのは、 、う やはりやや窮した技巧というべきだろう。「風の音」の方 が良かったと思うが、それでは土地の名が入っていない ことが不満だったのだろ、つか まぐろごんデん ばしよう 六月五日 ~ 巴蕉は豺黒権現に詣で、六日は月山頂上まで ゅどのさん 登る。山小屋に一夜を明かして、七日には湯殿山神社に詣 でた。この日付は曾良の『書留』に依ったので、『奧の細 道』本文とは少し違っている。以後十二日まで南合で疲 がっさん / 、オご

7. グラフィック版 奥の細道

はぐろさ人 つ六月三日羽黒山に登った図司左吉とい みなみだに う者を尋ね南谷の別院に案内された翌日 えくあじゃり べっとう′ごい はんばう 本坊へ上って別当代の会覚阿闍梨に会い歓 はいカ・いかせん 待された続けて九日まで俳諧歌仙を巻いた やまいた はぐろさん 羽黒山五重塔 ( 山形・羽黒町 ) ゅどのさんちゅう って感ぜられるのである。総してこの湯殿山中の細かな ことは、他言することを禁じている。それで筆をとどめ あじゃり てこれ以上は記さない。坊に帰ると、阿閉梨の求めによ たんざく って、三山順礼の句々を短冊に書いた はぐろさん 凉しさやほの三日月の羽黒山 はぐろ ( 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を、南谷の坊 から見ていると、娘何にも凉しい感じである。 ) 雲の峰幾つ崩れて月の山 いっさん ( 月山が月の光にくまなく照らされて、眼前に雄偉な山容 くっ立ち を現している。昼間立っていたあの雲の峰が、い はの くっ崩れて、現われ出た月のお山であるか。 ) 語られぬ殿にぬらす袂かな ( 湯殿山の神秘は人に語ることを禁しられている。その語 られぬ感動を胸に籠めて、ひそかに感涙に袂を濡らすこと ゅどの物って であるよ。季題は「湯殿亠」 曾良 みを山銭ふむ道の溿かな ゅどの ( 湯殿山に詣でる人の賽銭が道々に散らばり、それを踏み ながらお宮に詣で、感涙にむせぶことよ。季題は前に同じ。 ) ずしさきち ・一んどう よぐろさん ■六月三日に ~ 巴蕉は豺黒山に登り、図司左吉 ( 近藤氏、 み′ / だに 号甼山下の染物屋 ) に会い、南谷の本坊隠居所へ同 道した。長い石段道を下り、左へ折れて入ったところに 南谷の別院の跡が、かっての池などを残して遺っている。 た力あしだ この長い石段の道を僧たちは高足駄をはいて登り下りす えカくあ べっとうだい り、別当代の会覚阿 る。翌日の昼時、 ~ 巴蕉らは本坊へ上 はい力いかせん じゃり えっ 閉梨に謁し、そば切りをふるまわれた。本坊で俳諧歌仙 みたみだド を巻き、表六句を詠み、表六句でこの日は南谷に帰った が、その後詠みついで、この歌仙は九日に巻き終った。 ばしさフみたみだー この間すっと芭蕉は南谷に宿泊してこまやかなもてなし を受けた。 「有難や」の句の、初案の結句は「風の音」となって かゼかを いる。「風薫る」という季語はこの時代には新しく、芭 ざゅう ぞうやま かゼか′ [ 蕉が座右に置いた季寄せ『増山の井』に「風薫」を録し なんくん こぶんぜんしやっ て「南薫。六月にふく涼風也。薫風自南来と古文前集に いへり」とといている。「雪をかほらす風の音」で風薫 さいせん

8. グラフィック版 奥の細道

ー , 新を 地ヨー 4 四十両借金した証文を、飯野哲二氏は発見している。 一栄宅のすぐ裏手は、燧お川に面していて、そのあた りの流れはゆるやかで舟ももや「てあ「た。一一十九日に、 もがみ おそらく最上川に面した裏座敷で、四吟歌仙を巻い 芭蕉・一栄・曾良・川水で、川水は芭蕉が尾花沢に滞在 中、や「てきたことがある。そのときょんだ芭蕉の句が、 さみだれ 五月雨を集めて涼しお川 たったこのときの歌仙はイりかけては見物にでかけ、 道々また詠みついだりして、翌日にな「て完結している。 「集めて涼し」とい「たのは、もちろん、一栄 ~ の挨拶 である。「一保し」とい「たのが、相手のもてなしに対し ての謝辞なのである。梅雨どきの水を集めて最上川 「ぶりした水量を示していた。この二日ばかり、あやし もがみ い空模様だったが、 あやうく雨は降らなかった。最上川 を詠んだことも眼前の風景ながら、大国へはいって句を よむ心構えとして、当然のことである。 六月一日には、大行田を立ち、一栄のあ「せんで、山 しんじよう から最上川を新庄まで下「た。そ 0 あ〔だ一一里八丁。 しんじよう ー 0 し、あー、物 ~ い 三日には新庄を立ち、本合海から舟に乗り、古口を ~ て 、、ト・か・わ ふる第、・ 清川へ下っこ。 オこのあいだ約五里。古口から下になると、 下両岸がやや迫 0 て流れが急になる。この経験が色蕉に 「一保し」ではだめだと感しさせたらしい 集めて早し」という句は、いつできたかわからない 改作された形を、曾良は書き留めていないし、元禄四年 の『猿蓑』にも採られていないから、す「と晩年にな「 △ム て改めたのであろう。た「た二字の入れかえで、この句 は面目を一新した。灣そのものの即物的な把握であり、 もがみ せんすい かせん のてつじ せんすい

9. グラフィック版 奥の細道

0 両岸は山が覆い樹木の茂みの中に船を下す O 芭舊が乗船した本合海付近 ( 山形・新庄市 ) もとあ、、カ癶ー

10. グラフィック版 奥の細道

、第 1. . . を・評 0 みらを を ) ーをト 、の い - ぐ・物つ