笈の小安須の浦芭蕉翁絵詞伝 などの二千首あまりの作品と後世の伝説を除けば、 まだほとんど本格的に究明されていない状態であ さい - うき わかやま 西行は紀伊の国 ( 和歌山県 ) を流れる紀ノ川のほ しさっえん ふじわら たなかのしさっ とりにある田中荘という藤原氏の荘園で、荘官を ・ 0 し」・フ ちヤ、し 勤めていた佐藤氏という在地領主の嫡子である。 たなかのしさっ 本拠を田中荘におきながら、都では下級武官の兵 えのじさっ とばいんはくめん 衛尉や鳥羽院の北面 ( 護衛兵 ) になっていたが、二 しゆっ 十三歳の若さで出家して画行と名乗る。無常の思 いにかられたとか、失恋したとか、昔からさまざ まな説があるけれども、要は世を捨てて数奇の道 じゅん に殉じようとしたのであろう。能因以来、こうし た非曽非俗の生き方は多くあらわれていた。 さいぎ - う 出家後の長い生涯の間、西行は三十年ほど高野 学しり くまの おおみね 山で念仏聖の生活を送り、その間に熊野・大峰で やまぶししゅ - う よしの 山伏修行をしたり、またしばしば吉野の山中に草 庵をむすんだりしたのち、晩年には蜘に移「て ふたみがうら かわち おおさか いとん 二見浦に隠遁し、ついに河内の国 ( 大阪府 ) 葛木山 ひろかわてら ドやつめつ 麓にある弘川寺で入滅した。 さいよう すき ~ ごみ 西行の心中には月・花のあわれに酔う数奇心と、 どうしん ごんぐじようど 欣求浄土の道心とがつねにせめぎ合っていたよう で、そうした心のゆらぎを真率に告白した所に、 「生得の歌人」としか評しようのない独特の魅力 みちのく ひらいャみ が生まれた。かれは陸奥の平泉まで二度も旅をし、 すとくいん 祖師空と恩人崇徳院の跡をたすねて四国へ渡り、 いつくしま ゆかり深い平家の信仰する厳島に参るなど、当時 としてはめすらしい大漂泊者であったが、その動 すきごころ 機には仏道修行の意志と歌枕をたすねる数奇心と 、 : フさく が、かれ自身にも分別しがたいほど微妙に交錯し ていたようである 風になびく富士のけぶりの空に消えて ゆくえ 行方も知らぬわが思ひかな ー、・フカいー ( ・フ 晩年に東海道を下りつつ詠んだというこの歌は、 しんそっ かつらぎさん さいぎよう 西行の漂泊者としての複雑な内面を最もよく告白 したものといえよう。また、同しく晩年のこと、 ねがはくは花の下にて春死なん もちづき そのきさらぎの望月のころ と詠んで、願いの通り数年後の二月十六日に往生 じえん んぜい を遂げ、友人の俊成や慈円などに深い感動を与え たいかにも月・花のあわれと仏の道の間を往き さい・ ~ - う っ戻りつした、漂泊者西行にふさわしい最期であ あんぎや 諸国を行脚する若いころの西行法師西行法師行状絵詞俵屋宗達筆 さいぎようはうし たわらやそうたっ 150
漂泊者の系譜 きさめ・た 象潟古図 白河の関の感動 はそみち 『奥の細道』のはしめの所に、「春立てる霞の空 に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心を だうそじん くるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手 につか亠 9 」とい、つ 一節がある。何だか芭蕉自身に “うよく も正体のよく分からない、はげしい票泊の魔のいざ ないを告白した有名な文章であるが、そこで旅の 目標にされたのは「白町の関」であった。 しらかわせき やがて曾良とふたー ) 歩みをかさわて白河の関に か巻な 着いた色蕉は、「、い許なき日かす重るままに、白日 さだま の関にかかりて、旅心定りぬ。」と記す。ここま では旅も序のロで、ここからかいよいよ本舞台だ ぞという、気負いのような武者ぶるいのようなも しらかわ のが感じとられる書き方である。白河の関は「み ちのく」の玄関だから、これは当り前の事だと言 ってしまえばそれまでだが、芭蕉の感動の根はも っと深かったと私は田 5 う。では、ほかに理由があ ったか、たとえば特別に風景のうつくしい所だな 『奥の細道』には、「嶋の月まづ心にかかりて」 ともあり 「松しま・象潟の共にせん」ともあ 上・つーし↓・ きさかた しらかわせき って、松島と象潟が白河の関と並んで主要な目標 まっしま きさかた にされていた。ただ松島と象潟は「笑ふがごとく」 ばしようみわく また「うらむがごとし」の風景美で芭蕉を魅惑し せき しらかわせき たのだが、さびれはてた白河の関にはそんな魅力 はまったく無かったのだ。 にもかかわらす ~ 巴蕉が きもめい なぜここで「旅、い定りぬ」とまで肝に銘したのか、 その理由を考えてみることは、『奧の細道』ひい ては ~ 巴蕉の漂泊の本質を理解する鍵になるであろ ともかく本文を引用して、くわしく説明してみ よ、つ こみもと か尹よ 心許なき日かす重るままに、白川の関にかかり たーり て、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也 ふ・フ : フ 中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心を もみぢ とどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、亠冂 こャゑなは しろたへ 葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、奬の花の かんむり 咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を しャつあらため 正し、衣装を改し事など、清輸の筆にもとどめ 置れしとぞ。 曾良 卯の花をかざしに関の晴着かな この文章は、はしめから終りまで故事来歴を裏 に秘めているのであって、もしその知識なしに読 も、つとすればチンプンカンプンになってしま、つに しオし たとえば「 いかで都へ」と便りを求め ・ロ一わり たのも「断」 ( 当然 ) だと書いているが、これは たいらのかねもり あん 「こよりあ、らばし 安中期に平兼盛という歌人が、 かで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」 と詠んだ故事を念頭においての「断」なのである。 おか 目奇徳衛 さんかん しらかはせき 146
がため、楽しいものでなかった。従って紀行文は なく、 おより曾良と杉風に送った二通の長文報 告書翰によってあらましを知り得るのである。 ばしさつじよう、、 - う みそかげんろく 芭蕉は貞享五年六月 ( 九月晦日元禄に改元 ) 岐阜 の長良川の鵜飼を見てからだろう。魚肉を取らぬ ようになったので栄養失調のきざしがあったらし きせん く、とかく不健康で、ついに花の宿舎で帰泉し た。旅での死は芭蕉にとっては満足であったろう。 色蕉は我国の古典をすべて作諧の世界に導入して、 古典では味わえない俳諧文を作リ上げようとした。 日記、紀行、詩歌、絵巻のすべてがそれで、どれにも 成功している。だから旅には紀行文を聿日くことを一 こぶみ 目的の一つとしていたのである。『笈の小文』に、 ちゃうめい あっ そもそも 一ものは、紀氏・長明・阿仏 抑、、道の日記とい、い お・げ の尼の、文をふるひ情を尽してより、余は皆俤似 かよひて、其糟粕を改むる事あたはす。まして浅 智短才の筆に及べくあらす。 と記している。言葉は謙虚であるがなみなみでな い意欲のほどがわれている。 とうす、 芭蕉はどの旅でも旅そのものに陶酔している。 おばなざわ 『奥の細道』の尾花沢の匏でいっている。 をばなざわ 尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。彼は富める者 こころざし なれども、志いやしからす。都にも折々通ひて、 さすがに旅のをも知りたれば、日比とどめて、 長途のいたはりさまみ , 、にもてなし侍る ふうしゅ どれはどの富者でも旅の情、風趣、あわれを知ら 漑風は体験 ない者は旅人を遇する道を知らない によって旅のいも甘いもわかっているというこ せいふう とで清風の心高く評価している。裏返していうと 花旅には様々の面白さがある。それを知らないもの は共に語るに足らぬというわけである。これなど 木は旅をくらしとしてそれをしみしみ愛する者の言 , 芭える言葉である。 せいふう ごろ はべ 141
芭蕉の旅 いない。『奥の細道』の有名な計頭の文「舟の上に 出発を初めの計画より少しすらせたが、次の正月 旅は日常生活の延長 はんざえもんあてしさっしよかん 十七日付、半左衛門宛色蕉書翰から考えると立案生涯をうかべ、馬のロとらえて老をむかふる物は、 さい・ ~ - うれんが そうぎ 和歌の西行・連歌の宗祇・謐の色蕉をわが国した予定があったことがわかる。 日々旅にして旅を栖とす」が物語っているように、 ざいあん の三大旅行詩人という。けれどもこの三人の旅行 北国下向之節立寄候而成、関あたりち成と在施するよりも、旅に居る方が彼の平常姿勢であ も廻路いたししょ / \ 可申上候 を分析すると、おのすからその旅の性格を異にし ったと考えるのである。かの湘水の舟の上で生活 ていることがわかる。 芭蕉の目標は一ヶ所だけでなく、全旅行を通し し、舟上で死んだ杜前が羨しかったのであろう。 さいてっ学っはく えどふかドわ て道々に見聞をひろめ詩想を練っている。 すなわち西行は漂泊の旅人である。そして所々 天和一一年 ( 一六八二 ) 十二月二十八日に江戸深川 いおり ばしようあん こんごうイ・う で気のむいた時は施を結び、人寰から遠ざかってれば彼は自ら「漂泊の思ひやます」といっている の芭蕉施が類焼してから、かの金剛経の「応無所住 そうぎ しらかわ 独り住みをしている。 ~ 示祇には『白河紀一打』 . 『筑 が単なる漂泊の旅人ではないし、後の旅は日常生而生其心」の禅教が心に一つの悟りを与え、それ しみちのき ふうりゅう 紫道記』などあるが多くは地方の風流な大名・豪活そのものの延長である。いや、むしろ旅の方が から多く旅に出た。『野ざらし紀行』 ( 大和四年八月 あんきょ きんき 族に招請され、そこで安居して連歌・古典を説い 日常生活でなかったか。だから旅は案外気楽で苦出立、東海道・伊・吉野・近畿に毬り軈麥を経て盟 じようきト・つ ている。旅はその目的地へ往復する道中であった。 にならなかったのであろう。今のわれわれにして年四月帰江 ) ・『膳島紀行』 ( 貞享四年八月鹿島神社月見 こぶみ 芭蕉は漂泊の旅人でない また山中で結施した もが、目的地へ、予定した時間であるこうとする 行 ) ・『笈の小文』 ( 貞享四年十月出発、東海道・郷里 げんじゅうあん げんろく ことも幻住施の五ヶ月 ( 元禄三年四月上旬より入山 ) と気ぐるしい。それと反対に一歩一歩楽しみなが ・吉野・須磨を訪い翌年四月京に着く ) ・『更紀行 あらかじ しんーゅうさらしな だけである。旅行は必す予めスケジュールを立てら歩行すると、知らぬ間に達して、少しも苦痛に ( 貞享五年八月信州更科の月見行 ) ・『奥の細道』 ( 元 ひらいずみきさかた ならない てそれによって行動した。 禄二年三月江戸発、平泉・象潟を経て北陸道より同年 『奥の細道』の場合も 芭蕉の長途の旅もそうであったにちが 八月大垣に着 ) のどれもが紀行文を伴った五つの旅 てんな をしている。天和三年から客死にいたる約十一年 筆 十ヶ月の間に江戸在は六年九ヶ月、旅は五年一一 よ・午 さ = = ロ ヶ月。だから旅はその四十五パーセントである。 い森 げんろく この期間で江戸門人に呼び戻された元禄四年二 画 六九一 ) 十月から同七年四月までの二年半余は彼 の ち にとって、おもしろくなかったくらしである。 立 旅 最後の元禄七年五月十一日出発のおがへの旅だ 冂上果巍強をけは、目標が大阪の之道と洒道との調停であ「た じんかん 1 てんな おおがき てんな 140
ますおの小貝 である。 同し時の作「ますおの小貝」の句は穆の浜の特産で、 うすべ・ 薄紅のさした美しい貝である。それが波間の砂原に散ら はぎ ばっている中に萩の花が散りこばれ、花の紅と小貝の紅 ちり とまごうばかりに散り敷いている、といったもの。「塵」 と言い「くす」と言っても、散りこばれた萩の花であれば かれん ほっけてら 可憐な美しさである。萩の花は多分、法華寺の庭に咲き たうさ こばれていたのである。紀行には「其日のあらまし等栽 ほんりゅうじ に筆をとらせて寺に残す」とあるが、本隆寺に伝わ「て いる畿紙には次のように聿日いてある 気比の海のけしきにめで、いろの浜の色に移りて、 ますはの小貝とよみしは、西上の形見成けらし。 されば、所の小はらはまで、その名を伝えて、汐のま ごろ やつがれ をあさり、風雅の人の心をなぐさむ。下官、年比思ひ ばしさっと - フせ、 渡りしに、此たび武江芭蕉桃青巡国の序、このはまに まうで侍る。同じ舟にさそはれて、小貝を拾ひ、袂に つ、み、盃にうち入なんどして、彼上人のむかしをも てはやす事になむ。越前ふくゐ洞哉書。小萩ちれます げんろく ほの小貝小盃、元禄一一仲秋 さい・・う 西行の歌というのは『山家集』に、 内に見合はせせんとせさせ給ひけるに人にかはりて 汐染むるますほの小貝ひろふとて 色の浜とはいふにゃあるらむ なみ とある。なお等栽が書しオ月 、こ「、萩散れ」の句は、「浪の 間や」の句の初案であった。 あさむず あそうづ あさみず えちぜんあすは 浅水の橋は、越前国足羽郡麻生津村の浅水川にかか ま , らの・つ・し ていた橋。『枕草子』に「橋はあさむづの橋」と書いてあ ひ さかづき とうさ さんか 0 その っ る。「あさんつ」と読み、「あそ、つつ」ともいう 朝津の橋のとどろとどろと 降りし雨の古りにし我を 誰ぞこの仲人たてて みもと かたち・せう要、こ 御許の容姿消息し とぶら ( 催馬楽 ) 訪ひ来るやさきむだちゃ あそうづ あしあすは 玉江の芦は足羽郡麻生津の江川というが、外にも説が ある。 玉江漕ぐ芦刈小舟さしはけて ごせん よみびと 誰を誰とか我はさだめむ読人知らす ( 後撰集 ) なんじよう 、ましレフ い・えるむら すぎつ 帰山は南条郡今庄町付近。鹿蒜郷から杉津浦に至る山 、にしえほくろく′、 - フ 路で、古の北陸道にあたる。越路から都へ帰る時越える 印象の深い山だったらしい 我をのみ思ひつるがの越ならば かへるの山は惑はざらまし かへる山いつはた秋と思ひこし ふじわらの、えたか 雲弗の雁も今やあひ見む藤原家隆 ( 続後拾遺集 ) っか 敦賀の津は紀には「角鹿」として出ている。『古事 おうじん 言』応神天皇の歌に、 この蟹ゃいづくの蟹 うんん ももづたふ角鹿の蟹云々 とある。かへる山で引用した歌にも「我をのみ思ひつる かの越ならば」とある。 「ますおの小貝」の「ますほ」は「まそは」の転化で、赤土。 塗料に用いるので赤みがかったものの名に「ますはのト 貝」あるいは「ますほのすすき」などといっている。 こまえ よ よみびと 読人知らす ( 後撰集 ) 0 137
やまとやきゅうべえ ろ ) だった。唐人が橋のたもとの大和屋久兵衛という宿 、ずもややいちろう きんす へ泊まり、隣りの出雲屋弥市郎へ金子一両を芭蕉へわた てんやごろうえもん すようにと預け、また天屋五郎右衛門方に芭蕉への手紙 を預けて、十一日にたっていった。この一両はどうした つるカ 金なのか、山中から敦賀までのあいだに、曾良がえた金 なのか。 ばし」第・つるが いたのは、十四日の夕暮であった。 芭蕉が敦賀の宿につ 福井に住んでいる等栽という旧知の俳人が同行した。 やまなか とうさ、 気比明神に夜参した境内は神々しく松の木の間から月光が洩れ神前の白砂が霜を敷いたようであった 135
ンを纛 た。ここで茶を飲み、酒を温めて、夕暮方の寂しさは、 感に堪えた。 寂しさや須磨にかちたる浜の秋 ( 古来寂しいと言われている須磨の秋にもまさって、この 穆の浜の寂しさは、ひとしおである。 ) ちり はぎ なみ 浪の間や小貝にまじる萩の塵 ( 種の浜にうち寄せる波の引いた合間に、打上げられた美 つる 0 ー えちゼんのくに 気比神宮越前国一の宮仲哀天皇ほか七神を祀る ( 福井・敦賀市 ) しい真赭の小貝にまじって、海辺に咲いた萩の花屑が散っ ている。 ) その日のあらましは、等栽に筆を取って書かせ、寺に 残した。 さるみの じんぐう つるカけ 0 八月十四日、敦賀気比神宮での作である。『猿蓑』に みなと げんろく も収められていて「元禄二年つるがの湊に月を見て、気 まうンー - ゅうーうにん 比の明神に詣、遊行上人の古例をきく」との前書がある。 初案は ゅら・ なみだしくや遊行のもてる砂の露 ゅ工うしさっ・にん 紀行の本文にあるように、遊行上人二世の事蹟を記念 ゅ工うしさフにん して、その後代々の遊行上人がここへ来ると、海岸の砂 を神前ににない運ぶ行事が行なわれた。芭蕉がやって来 たこの年にもその儀式があって、芭蕉はそのことを宿の 亭主にきいた。その夜、気比神宮に詣でて、十四日の月 に照らされた神前の砂の清らかさを詠んだのである。「遊 によじっ 行のもてる」とは上人が砂をかついだそのさまを如実に 想像したのである。 しの そんげんしさつにん 初案は神域の尊厳や上人の徳を偲んで、かたじけなさ に涙をこばす、という意味で「涙しくや」といったもの。 その涙で砂がぬれることから「砂の露」といったが、涙を ふん いうことはあまりに誇張にすぎた。神社の雰囲気の清浄 さだけを言いとれば十分だとして、改めたのである。 やまなか 山中温泉に滞在中、同行の曾良を先に立たせてからは、 色蕉のひとり旅である。だからその後の行程は、曾良の 『随行日記』で正確にたどることはできない つるが いたのは、八月九日未の刻 ( 午後一時ご 曾良が敦賀につ ますお とうさ、 ひつじ はなくず 134
0 いを 4 一み 4 第・ド ~ をも第第ト , 、すをを , ーンツ
えちゼん 加賀と越前の国境吉崎の入江を舟で渡って 汐の松を尋ねた丸岡の天竜等に旧知の住 職を訪間金沢から見送って来た北枝とこ えいへいじ で別れ五十丁山に入って永平寺を礼拜した そうとうしゅう どうげんぜんじ 道元褝師が開かれた曹洞宗の大本山である かなざわ わかれかな もの書て扇子へぎ分る別哉 わきく いて脇句「笑ふて霧にきほひ出ばや北枝となく / \ 申侍る」とある。「へぎ分る」とは扇の両面に合せた地 紙をへぎわける意味で、離れ難いものを無理にはがそうと する心のうずきがこめられている。だが、それでは別れの 辛さの表現が余りにあからさまなので「引きさく」と改め せんす た。別離の句を何かと扇子に書いてみては、意に充た いで引きさいてしまう、それほど別離の悲しみが深く、 なごり それは言葉に尽し難いのだ。「扇の余波」「秋扇」「捨扇」な ど、みな秋の季題である。 まうしはべ よ′、し ごおりよし・さき えちぜんり、にさか 汐越の松は、加賀との国境に近い越前国坂井郡吉崎の しおごし はまさカみ、 北潟の入江の西岸にある浜坂の岬を汐越という。芭蕉がこ さい工う さんか こに挙げている西行の歌は『山家集』その他の歌集にも見 よし・さ、」 れんによしようにん あたらないので、蓮如上人の歌ではないかという。吉崎 は上人ゆかりの地であるから、土地の人にきいた歌を心 にとめたのかもしれない。芭蕉は激賞しているようだが、 実景によく合っていることをいったにすぎない。多分、 曾良もこの歌を耳にして「夜もすがら秋風きくや」と詠 ゼんしさつじ んだのであろうか。二人とも全昌寺の僧にでもきいたの しおごし 129
曾良と一夜を隔てて北枝と大聖寺に泊った えちゼん 翌朝今日は越前の国に入ろうと心あわただ しく朝食を終えてすぐ出立しようとした時 若い僧たちが紙や硯をかかえて追って来たの わらじ で草鞋をはいたままで一句書き与えた しおごしえいへいじ しおごし えちゼん 越前の境、吉崎の入江に舟を棹さして、汐越の松を尋 ねた。 よもすがら 終宵嵐に波をはこばせて しはごし 月をたれたる汐越の松 汐越永平寺 さお 1 ( 夜どおしの嵐に、波を寄せさせて、汐をかぶった枝の間 から、月の光を輝かせた滴がしたたり落ちる汐越の松よ。 れんによしさつにん 実は蓮如上人の作。 ) よ この一首でこの地の数々の景色は詠み尽されている。 もし一言一句でもつけ加える者は、五本の指にもう一本 無用の指を圭日き加えるようなものである。 丸岡の苹の長老は、古い縁故があるので尋ねた。 かなざわほくし また、金沢の北枝という者が、ついちょっと見送るつも りだったのが、と、つと、つここまで慕って来た。彼は、道 すがら方々のよい風景を見過さす句を案しつづけて、時 じようしゅ おり情趣のある着想の句を見せるのであった。今、いよ のぞ いよ別れに臨み、 物書いて扇引きさく余波かな むだ ( ここまで持って来た夏の扇に、無駄書きなどしては、引 な ~ 一り き裂いて捨てようとするが、いざとなると名残が階しまれ る。そのように、長いあいだを共にした北枝との別れも、 すてつぎ 名残惜しいことよ。季語は「捨扇」。 ) ド ( ・フげん 五十町山に入って、永平寺を礼拝した。道元褝師の開 やまかげ かれた寺である。畿内の地を避けて、こんな山陰に跡を 残されたのも、尊い理由があったという ( 入宋当時の師、 じよじよう えっーう 如浄褝師が越州の人だったので、越と聞くだけでも慕わしく、進 えちぜん んで越前に下ったという ) かなざわ えちぜんまつおか ■金沢から連れそってきた北枝と越前松岡で別れる時 ・れはべり うたっしゅう の句である。『卯辰集』に「松岡にて翁に別侍し時、あふ ぎに書て給る」と前書して、 0 なごり しお ~ 一し 128