耶聶鬲 : 尸象ミ冩 6 月沼日 ~ ー 4 日、 洒田 ( 6 月絽日 ~ 24 日 ベ・ : 鼠 ~ ド す、飛セき ( 6 月 6 日 ) 展山レカ鴫ネ / 尾花沢 岩手山 5 月 26 日 リ ? うしやくじ \ .- 立石卍 ( 5 月 9 日 ) -. 店 ( 5 月 2 日 ) 二本・・・文字摺石 日和田みノ % : おリやま 顰ノ、・・積山 野、。那須本 なすゆき . ( 4 月日 ) 4 月日 す・かが・わ 川白真賀川 4 用 9 日 4 月 28 日 ) 4 月一 6 日一 4 月ウ日い ( 4 月 20 日 ) らんカヾんじ 黒し卍雲巌寺 む 5 やしま 中 , ・・室の八島 ー 0 田田 ( 3 月 28 日 ) ノかすべ 日 キ、な 6 月一 0 日 6 月日 / ′弥彦 第出雲畸 第 ( 7 月 4 日 ) 5 一 3 ( 7 月 2 日 ) ( 5 用 4 日 ) いしの、まキ、 ( 5 月 3 日 ) ・今日 かま 奥の細道の旅 カ ( め 164
北陸路 えちご 越後 さカた なごり 酒田の人々と名残を惜しんで日を重ねていたが、これ から出で立つべき陸道の空を遠く望み、はるばるの旅 かなざわ の思いに胸を痛めた。加賀の国府金沢までは、百三十里 わず えちご と聞いた。鼠の関を越えると、越後の地に足を踏み入れ、 えっちゅう いちぶり 越中の国市振の関に至っこ。 オこのあいだ七日、暑さと雨 との辛労に、いを悩まし、病気が起って、出来事を記さな 文月や六日も常の夜には似ず ( 七月と言えば、六日もふだんの夜とは違って、はなやい だ気持がする。六日は七夕の前夜である。 ) ふみづき 越後ーー大垣 荒海や佐渡によこたふ天の日 いずもざき ( 出雲崎から日本海の荒海を望むと、かなたの佐渡が島へ かけて、天の川が大きく横たわっている。 ) なおえっ ふるかわ ■前句は六日直江津での作。その日は宿は古河屋で、夜 に入って人々がききつけ尋ねてきたので、この句を発句 れん 力、、 ( め なお にして連句を巻き、『書留』には二十句ほど記している。直 江津ではゼダの前夜も賑かな祭をする風習があ「たとい けんぎっしよくじよ う。だがこの句は牽牛織女の二星が一年りに会うとい う前夜だから、空の様子も常の夜とは変って、なんとな くなまめいた趣に見え、おのすから心がときめいてくる といったのである。六日の夜、はや星の光も、天の河の 一万第 川ん 悪まも・・トイ ヘ : を物 キ今山 4 、 る学へー 【て石 トに , 龕幡 あま おもれ当 さ′一 あま ほっ 104
萩やすすきをなびかせている。 ) なごり か巻お のぞむはるばる ■「溿計の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のお ひやくさんじゅうり もひ胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞」と きさかた ↓・つし↓・ 書いているとおり、松島・象潟を見た後は、一路加賀の かなざわ 府金沢が目標となっていた。『随行日記』十五日の条に かなざは 、っ・きちべえ ひっし 「未ノ中刻 ( 午後三時 ) 、金沢ニ着。京ャ吉兵衛ニ宿カリ ちくじゃく いっ - ・う ちくじゃく まくだう 竹雀・一笑へ通ズ。艮 ( 即 ) 刻、竹雀・牧童同道シテ来 いっ一・う テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由」とある。 こすぎ ちややしんしち 一笑は小杉氏、茶屋新七と通称する葉茶屋業者であっ 十二月六日死去、と曾良が書いているのは十一月六 日の誤まりで三十六歳であった。三月にみちのくの旅に 下った芭蕉は、まだその死の通知を受けていす、金沢の 宿へ着いてすぐ一笑へ通じ、ここに初めて一笑の死を知 って驚くのである。 はぎ さる 1 一 かなざわ 北枝金沢の俳人蕉門十哲の一人 しさつもん いっしさフ 金沢には一笑を中心にして、蕉門のグループがまだ見 ぬ師の来訪を首を長くして待っていた。あまり ~ 巴蕉に心 を寄せる者のいないみちのくや越路の長旅の後に、その かカれんじゅう ような加賀連衆に会うことは、色蕉にとってもこの旅の 楽しみの一つであった。『随行日記』の二十二日の条に「此 いっしゃう ドんねん 日、一笑追善会、於 ( 願念 ) 寺興行。各朝飯後ョリ集。予、 ひっし 病気故、未ノ刻 ( 二時 ) ョリ行、暮過、各ニ先達而帰。 ほうえ べっしさっ 亭主ノ松」とある。ノ松とは一笑の兄で、法会の主人役 のまち がんねんじ を勤めたのである。一笑の墓が野町一丁目願念寺にある とのだりさっさく ことは久しくわからす、戦後、殿田良作氏によってその こレ」ばが、、 墓石が発見された。色蕉はこの句の真蹟の詞書に、 - まち ごろ し比我を待ける人のみまかりけるつかにま、つで、」とあ いっしトっ 一笑との対面を、いに抱きなが るので、 ~ 巴蕉が、いかに ら、歳月を経てきたかがわかる。一笑への愛情は数年に かなざわ わたって持続され、昻まってきたもので、その金沢に折 角たどりついてみれば、もはや一笑は影も形もないので ある。 この句にはその悲しみが激しく表出されている。塚も めいどう 鳴動してわが慟哭の声に応えよ、といっているのだ。折 ごうきゅう からの秋風の響きは、さながら、自分の号泣の声ときき なされる。「塚も動け」の句の表現は、まだ見ぬ人への あいとう 哀啅句としては、誇張にすぎるという論もあるが、この 句のように、 誇張が極度に達すると、それは誇張でなく なるものらしい。十五日に一笑の死を聞いて、二十二日 ついぜんえ の追善会に出席するまでの間には、十分、想を練り上げ しトぐっ・じよう るがあった。心の色として、蕭条たる秋風の声を見出 したのがこの句の眼目で、この句のリズムとしては破裂 かなざわ おのおの はれつ 114
0 親不知などの北国一の難所を越えて市振の ひとま 宿に着いたー間隔てた部屋で若い女ニ人と 年老いた男の話し声が聞こえるニ人の女は 越後の国の遊女で伊勢参宮の途中らしかった O 荒波の砕ける日本海 雨のため八日までいたが、不夬の気持が消えたわけで 六日の夜俳席が開かれ、 文月や六日も常の夜には似す ひろう の句を披露したが、 この日「七夕」と題して、「荒海や」 なおえっ の句も発表したらしい。出雲崎で作って直江津で披露し たといえば、いちおう理屈に合う。だが私は、出雲崎で なおえっ 想を得、直江津につくまでに形がまとまったのだと考え るのか、い っそう合理的だと思う。 いずもざき 不快な感情の残らなかった出雲崎のことにして、「銀河 の序」の文章も書かれたのである。色蕉は案外きつい感 いずもざき 情の持ち主である。もちろんそればかりでなく、出雲崎 さ′、 は佐渡が指呼のあいだにあり、佐渡の金鉱で繁栄した港 町であった。半天に横たわる天の川を「佐渡によこたふ」 いちばんかなったところであった。芭 と表現するのに、 蕉が佐渡といったとき、それはただの島ではなく、古来 の有名無名の流され人たちのことが頭にあった。その歴 史的回想のかなしさが、冒頭に「荒海や」と強く置い 芭蕉の主観の色でもあった。 ついでにいえば、「よこたふ」は他動詞だから、ここ では「よこたはる」としなければ文法上のあやまりだと きんだいち、・すけ っ学者の説を、私は取らない これは故金田一京助博 士の説くように「寄する浪」などという言い方と同様、 再帰動詞 ( 形は他動詞で、意味が自動詞的な用法の動詞 ) と取 るべきである。天の川が自分を横たえるという言い方で、 意味としては自動詞になるのだ。大詩人の語法は、学者 せんさく の文法的穿鑿を超越して、日本語の自然法におのすから かなっているのである。 ふみづき ずもざき いずも 106
第物第ト るより、いそいそとした浮世の煤払いの様子をむ しろなっかしいものとして眺めていたのではない か。その時はそうとって、追われている原稿仕事 のはかなさとともに、逆に遠くから鈴の音のよう いろ、あい にはなやいでくるこの一句の色合が胸にしみ渡り、 しばらくなぐさめられた。 えちぜん これもいっかの夏休み、越前の日本海の海岸を よし・さき ~ ばう 歩く旅をしていて、吉崎御坊の近くに宿をとり よく晴れた日本海の星空を眺めて、ひとりの床に 目をつむったとき、これもふと 文月や六日も常の夜には似す 芭蕉 あお の一句が思い浮かび、いま仰いだ星空の空間と ふみづき 1 」イ すすはら わ び 琵琶湖 ともに、旅中の芭蕉の孤心のほのめきといったも のが胸にしみ、その体温のようなほのあたたかさ げんろく にくるまれた。句はいうまでもなく元禄二年 ( 一 ほそみち 六八九 ) 『奥の細道』の旅の作。『奥の細道』には、 なごり か巻お さカた のぞむえうえう 「酒田の餘波日を重て、北陸道の雲に望。遙々 おも。胸を〔。ましめを加賀 0 府ま 0 百卅第〔「 ) 4 、々 里と聞。鼠関を = ゆれば越後 0 地に歩行を、、、、《っ ~ , ? 、を、」り , れ て、越中の国一ぶり ( 市振 ) の関に到る。此間 しよしつ 九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事 をしるさす」 として、 つね 文月や六日も常の夜には似す さど あまのがは 荒海や佐渡によこたふ天河 あらうみ ずもざき の二句が置かれている。「荒海や」は出雲崎での えち ~ ) いままち 作。「文月や」はそれより先七月六日、越後今町、 なおえっ いまの直江津での作。『奥の細道』が歌仙を心にお いちぶり いた紀行文なら、次の市振での ひとつや いうぢよ はぎ 一家に遊女もねたり萩と月 につづく恋の座のはしめであろう。明日は七夕、 けんぎゅうしよくじよ 牽牛と織女の二星が年に一度天の川をへだてて逢 う星恋の夜である。七夕には、雛ほどは「きり ぶそん しているわけではないが、 蕪村にも 恋さまざま願の糸の白きより の句があるように、どこか女の祭としてのやさ しさと恋のさざめきのようななっかしさがあろう。 色蕉は長い旅の疲れの孤心の中に、その前夜の天 の川や星のまたたきを仰ぎながら、何かほのめく ような遠い思いを感じていたのかも知れない おもむき この一句から、ばくは少し趣はちがうか、北宋 よい・・うしん の詩人梅堯臣 ( 一〇〇二 5 一〇六〇 ) の「夜聴鄰家 よるりんか 唱ーーー夜鄰家ノ唱フヲ聴ク」の詩を思い出してい ばいようしん 梅堯臣の詩には、唐の杜甫や李白の気宇の壮 かれい いちまっ だい 大も華麗もないが、一抹のユーモアをましえて日 ふみづき あらうみ しん はくろくだう かせん あ じようかん 常のこまやかな情感があり、ほくの好きな詩人だ。 夜聴鄰家唱梅堯臣 夜中未成寝 鄰歌聞所稀 想像朱脣動 髣髴梁塵飛 誤節應倫笑 窃聴起披衣 披衣曲已終 窗月存余暉 夜中未ダ寐リヲ成サズ 隣ノ歌ハ聞クニ稀カナル所 しゅしん 朱唇ノ動クヲ想像シ ねむ な ば【よ 5 ゆいごじよう まつはんざえも 芭蕉遺言状兄の松尾半左衛門宛 153
小松といふ所にて ・ ) 上・つ しをらしき名や小松吹く萩すすき ・ ) - まっ かれん ( 小松とは可隣な名であることよ。その小松に秋風が吹き、 かなざわけんろくえん 金沢兼六園 ( 石川・金沢市 ) そうあん ある僧庵にいざなはれて、 うりなすび てごと 秋涼し手毎にむけや瓜茄子 まんきっ ( 草庵のもてなしに、残暑もうち忘れ、秋の涼気を満喫し ている。皆うちくつろいで、手ごとに瓜や茄子をむこうで はないか ) ぎん 途中咥 あかあかと日は難面も秋の風 ( あかあかと入日は無情にそ知らぬ顔で照りつけるが、そ さわ の一方、爽やかな秋の風が吹き渡ってくる。 ) そうあん つれなく 「あかあかと日はつれなくも秋の風」芭蕉自画賛 113
め : っさん 月山に登った木綿しめを身に引き掛けて ごうりき はうかん 宝冠をかぶり強力という者に案内されて 雲や霧のたちこめる山気の中を氷雪を踏 んで登ること八里ばかり呼吸も苦しく身 も凍えようやく頂上へ登ると月が上った み ( だ るという季語を含んでいるが、「風の音」を「南谷」に 改めたのはそこに南薫の語を含むとみたのである。六月 しんじよう もりのてい 二日に新庄の盛信邸で、 - もがみがは 風の香も南に近し最上川 なんくん と詠んでいるが、これも「南薫」の季語をとり入れた発 句である。 はぐろ 「有難や」とは、羽黒山のような霊地に泊まることがで えカくあじゃり あいさっ きたことの謝意を含み、同時に会覚阿閣梨に対する挨拶 でもある。山深いところだからまだあちこちに残雪が見 あ・りカた なんくん られたのであろう。薫風がその雪の香を運んでくる、と いったのだが、南谷という地名を季語の一部としたのは、 、う やはりやや窮した技巧というべきだろう。「風の音」の方 が良かったと思うが、それでは土地の名が入っていない ことが不満だったのだろ、つか まぐろごんデん ばしよう 六月五日 ~ 巴蕉は豺黒権現に詣で、六日は月山頂上まで ゅどのさん 登る。山小屋に一夜を明かして、七日には湯殿山神社に詣 でた。この日付は曾良の『書留』に依ったので、『奧の細 道』本文とは少し違っている。以後十二日まで南合で疲 がっさん / 、オご
ずいめ : んじ 0 松島に舟で渡り雄島の磯についた瑞巌寺 さんけい うんごゼんじ ざゼ に参詣雲居褝師の坐褝堂や道心者の庵を尋 ね八幡社夫堂を見た入江に帰って宿を とり海に面した窓を開くとまさに絶景の眺望 であるもはや句を作るどころではなかった 現することが出来ようか。 おじま 雄島のは陸から地つづきで海に出た島である。雲居 ざぜんいし ぜんじ 褝師の別室の跡や坐褝石などがある。また、松の木陰に おちばまっかさ ーつけとんせい 出家遁世している人もまれに見られて、落穂・松笠などを そうあんしず 焼く煙が立っている草庵に閑かに住まいし、どんな人と も分らないながら、まずかしく思われて立ち寄ると、月 おもむき は海に映って、画の眺めとはまた変った趣であった。入江 のほとりに帰って宿を求めると、窓を開いた二階家で、 自然の風景の中に旅寝することで、言うに言われぬ霊妙 な気持になってくるのだった。 まっしまつる 松島や鶴に身をかれほとゝぎす ( 古人は「千鳥も借るや鶴の毛衣」と言っているが、この はととぎす まっしま 松島の佳景では、時鳥も美しい鶴の身を借りて、島々の上 を鳴き渡れ。 ) 私は句が浮ばす、眠ろうとしたがねられなし 、 : 日庵を 、こ・フ ↓・つし土・ はらあんてき せんべっ 出で発ったとき、餞別に素堂は松島の詩を、原安適は松 ずだぶ , っ が浦島の和歌を贈ってくれた。頭陀袋を解いてそれらを さんぶうだくし ↓・つし↓ 6 取り出し、今宵の友とした。また杉風・濁子の松島の発 句もあった。 4 も・フ ずいがんじ 十一日、端巌寺に詣でた。この寺は三十二世の昔、真 につし」 - フ かべへいしろう 壁平四郎が出家して、入唐帰朝の後開山したものである。 うんごぜんじ その後に雲居褝師の徳化によって、七堂の建物も改築さ じようど こんべき れ、金壁や仏前の装飾が光を輝かし、この世に浄土を出 ナ、カらん けんぶつ 現させたような大伽藍となった。またあの見仏聖人の住 んでいられた寺は一体どこなのだろうと、慕わしく思わ れるのだった。 、そ 曾良 ほっ ↓・つしま ずいがん しおが上 ■五月九日塩竈から舟で松島に着いた。その日は瑞巌 ・わ・フ ↓ 6 っし↓ 6 はち↓・ん 寺に詣で、島々をめぐり、八幡社や五大堂を見、松島に きさかた 上・つし上・ 一泊した。江戸を発っ時から松島と象潟の景色を見るこ ばしよう 上・つし上 6 とが目的として意識されていた。だが松島では芭蕉は不 ただし、 田 5 議に句が出来なかったらしい しようお・フ ( 蕉翁文集 ) 島る \ や千々にくだけて夏の海 という句が出来たが、 さして芭蕉の意に充たない句であ ↓・つーし↓・ った。それで紀行では、松島の描写の方では改まった態 度で文を彫琢した。句の方は曾良の句を借りて済ませ さるみの 」まっし上・ この「松島や」の句は『猿蓑』にも収められ「松島一見 の時千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ」という前書 ↓・つし↓ 6 をつけて収められている。松島で鳴き過ぎるほととぎす ↓・つし上・ の声をきいたのか、松島の佳景にははととぎすの一声は まことにふさわしいが、「身」の方はやや不足に思われ る。姿のいい鶴に身を借れよ、とほととぎすに言いかけ 一 )AJ ばがき かものちょうめ、 たもの。詞書の「千鳥もかるや」というのは鴨長明の むみよっしさっ 『無名抄』に見え、「千鳥もきけり鶴の毛衣」とある。だ がこの歌の上の句はわからない まっ 「余は目をとじて眠らんとしていねられず」とあり、松 しまぜっ 島の絶景が瞼に浮んで眠ろうとしても眠られす一句も出 まっ 来なかった、と言っているので、できなかったことが松 島の佳景の最高の賛辞となっているのだ。 ↓・つし↓ 松島は日本三景の一つ。 をじま ↓・つし↓ 6 松島や雄島が磯をあさりせし そて 海人の袖こそかくはぬれしか - し↓ 6 まぶた かみ カ みなもとのしげゆき 源重之 ( 後拾遺集 ) み
出雲崎から望む日本海波は荒く黒々として かなたに見える悲しい歴史を秘めた佐渡が 島にかけて天の川が大きく横たわっていた たたすまいも、日頃とは違った感じに見えるのだ。 「荒海や」の有名な句はどこで詠まれたのか。いまても ずも・さき なおえっ 出雲崎と直江津とで争っている。道筋からいえば、その かーざき 中間の柏崎も、名のりをあげる資格があったはすだが、 芭蕉の宿を断わって、不快な目にあわせたばかりに、そ の資格をうしなった。 えちごじ 越後路だったら、どこだっていいではないかと一一口いた いが、土地の人たちの気持としては、自分のところへ引 きつけたいのだろう。だが、芭蕉が書いた「銀河の序」 いずもざき には、はっきり出雲崎と圭日いてある。 かしわざき いずもざき 出雲崎に泊まったのは七月四日。翌日は、柏崎で断わ はち・さき ちょうしんじ なおえっ られて鉢崎に泊まった。 六日は今町 ( 直江津 ) の聴信寺で ふんぜん 宿を断わられたので、憤然として行きかけると、石井善 じろう 次郎という男が芭蕉の名を知っていたのか、再三ひとを こんドん やって、もどるように懇願したので、おりふし雨も降っ てきたし、これ幸いと立てた腹をおさめて引き返した。 105
はぐろさ人 つ六月三日羽黒山に登った図司左吉とい みなみだに う者を尋ね南谷の別院に案内された翌日 えくあじゃり べっとう′ごい はんばう 本坊へ上って別当代の会覚阿闍梨に会い歓 はいカ・いかせん 待された続けて九日まで俳諧歌仙を巻いた やまいた はぐろさん 羽黒山五重塔 ( 山形・羽黒町 ) ゅどのさんちゅう って感ぜられるのである。総してこの湯殿山中の細かな ことは、他言することを禁じている。それで筆をとどめ あじゃり てこれ以上は記さない。坊に帰ると、阿閉梨の求めによ たんざく って、三山順礼の句々を短冊に書いた はぐろさん 凉しさやほの三日月の羽黒山 はぐろ ( 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を、南谷の坊 から見ていると、娘何にも凉しい感じである。 ) 雲の峰幾つ崩れて月の山 いっさん ( 月山が月の光にくまなく照らされて、眼前に雄偉な山容 くっ立ち を現している。昼間立っていたあの雲の峰が、い はの くっ崩れて、現われ出た月のお山であるか。 ) 語られぬ殿にぬらす袂かな ( 湯殿山の神秘は人に語ることを禁しられている。その語 られぬ感動を胸に籠めて、ひそかに感涙に袂を濡らすこと ゅどの物って であるよ。季題は「湯殿亠」 曾良 みを山銭ふむ道の溿かな ゅどの ( 湯殿山に詣でる人の賽銭が道々に散らばり、それを踏み ながらお宮に詣で、感涙にむせぶことよ。季題は前に同じ。 ) ずしさきち ・一んどう よぐろさん ■六月三日に ~ 巴蕉は豺黒山に登り、図司左吉 ( 近藤氏、 み′ / だに 号甼山下の染物屋 ) に会い、南谷の本坊隠居所へ同 道した。長い石段道を下り、左へ折れて入ったところに 南谷の別院の跡が、かっての池などを残して遺っている。 た力あしだ この長い石段の道を僧たちは高足駄をはいて登り下りす えカくあ べっとうだい り、別当代の会覚阿 る。翌日の昼時、 ~ 巴蕉らは本坊へ上 はい力いかせん じゃり えっ 閉梨に謁し、そば切りをふるまわれた。本坊で俳諧歌仙 みたみだド を巻き、表六句を詠み、表六句でこの日は南谷に帰った が、その後詠みついで、この歌仙は九日に巻き終った。 ばしさフみたみだー この間すっと芭蕉は南谷に宿泊してこまやかなもてなし を受けた。 「有難や」の句の、初案の結句は「風の音」となって かゼかを いる。「風薫る」という季語はこの時代には新しく、芭 ざゅう ぞうやま かゼか′ [ 蕉が座右に置いた季寄せ『増山の井』に「風薫」を録し なんくん こぶんぜんしやっ て「南薫。六月にふく涼風也。薫風自南来と古文前集に いへり」とといている。「雪をかほらす風の音」で風薫 さいせん