奥の細道 - みる会図書館


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1. グラフィック版 奥の細道

ようとする意図もあ「た ( 色蕉は伊習者として大かれるが、これはむしろそれより先に『の小鬼』 旅のあわれ 名たちの動きを探知するのが旅の目的の一つだという が断片としてかかれていたのを『奧の細道』に採 用したのであって、「笈の小文』は成稿とする意 説もあるが、左様の説は採らない ) 。 それは字宙間の大自然と自分との触れ合いの良 色蕉起稿の五紀行は、ます『野ざらし』は試稿図がなかったようである。ともかく『奥の細道』 さである。しかし芭蕉の場合はそれに人が加わる。 に全力投球して大成させたのである。 自然と人と自分の融合が旅の情で象形され、それが句であ「た。『鹿島』・『更科』は小文であり、『笈の 小』は近頃議論されるが結局未定稿で終わり、 色蕉は旅費をどうして得たかとよくいわれる。 となり文となる。特に色蕉はそれらの人ーーー武士・僧 ふかがわ・一うじよ・つ ゅうじよ ただ『奥の細道』だけが会心の作であったのであ 「奥の細道』では旅に当って先す深川江上の色蕉 侶・医師・農夫・商人・遊女の区別なく との接触 あん る。『の恥鬼』の野の条にある。 庵を売った。 によって旅のあわれを掬みとったのである。特に心の よしつねへ、 旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれど 草の戸も僊る代ぞひなの家 清い人、旅を愛する人、そして故人では義経・平家の かつば も、夜の料にと、かみこ壱つ、合羽ゃうの物、 の句はその結果の発想である。しかし、長途の旅 武士など史上にあわれをとどめた人に万斛の涙をふり ひるけ ーうカん 硯、筆、かみ、薬等、昼笥なんど物に包て、後 だからそれだけでは不足する。一週間程度の大休 そそぐ いうなれば判官びいきであり、弱、 し者、滅び いとゞすねよはく力なき身の、 に背負たれば、 止は大抵旧知乂は初対面でもかねて音信を通した 行くものに人間愛が波立つ、それを旅の目的の一つと しらカ 跡ざまにひかふるやうにて、道猶す、ます、 人の家で、これは無償と見てよい。その代り懐紙、 する。それから「白髪を重ぬといへ共、耳にふれてい げんじゅうあん は『奧の細道』と重複の文である。また『幻住脆冊を揮毫して謝意を表明する、道中書きは多く まだ見ぬさかひ : : : 」 ( 『奥の細道』 ) というよう のき 言』と『奥の細道』の文とにも共通の文があるか に歌枕を自然の中において擱もうともした。また この例である。だから有料は一泊程度である。ま おうう こぶみ しさっふう せんべっ 奥羽は蕉風未開の地であるから、新風を植えつけ た餞別に金を貰っている。『笈の小文』には、 ら、元禄三年頃に『の』が執筆されたと説 はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あ るは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て ・男ざし る れ 志を見す わ とあるのがそれである。「奥の細道』の旅での会計 た勘定はすべて曾良の係りである。「奧の細道随行日 め 記』の拠賀の条に、身体不調で ~ 巴蕉に別れて先行 休 ばしさフ ゃいちらう を した曾良が、芭蕉のために「雲や弥市良へ尋。 れ 疲 の 隣也。金子壱両、翁へ可渡之旨申頼、預置」と ばしさっ 旅 ある。後から来る芭蕉のため、旅費不足を案して カ 亠蕉 の手だてであった。金一両であることに注目した ば芭 る 芭備は『奧の細道』で平均一日十里 ( 四十キロ ) あ を行進している。徒歩は最も彼の好むところらし の いが場合によっては馬を用いる。駕籠は嫌いだか 家 生 らあまり使用していない様である。籠で行くと 軒自然と隔りが出来るからである。 月 ( 岡田利兵衞・逸翁美術館長 ) つか さらしな なお もようげつけん こぶみ わらじ 145

2. グラフィック版 奥の細道

やまなか です。山中で曾良は芭蕉と別れ、一人 曰兄弟の嫁坂に藤原秀衡の臣佐藤・山形美術博物館蔵与謝蕪村筆 : 彖ー函表■ つか もとはる 元治の城があった。義経に従った、そ 先行しますが、あれは長旅の労れで気 ま奧の細道画冊夏草小杉放菴筆 つぐのぶ ただのぶ の子継信・忠信が戦死したので、悲し 六曲中屏風一隻。狭い天地によくも持が険悪になったのさ、というのが放 目杉一雄氏蔵 わか , りか、 かっちゃっ かいたものである。よって画は少なく む母親を嫁若桜と楓が夫の甲冑をつけ 菴居士の説です。でも兼六公園でその ■函裏■ 力いじん あくたがわ。ゅうのすけ 凱陣の姿をして慰めた時の姿。蕪村は九景、兵庫の豪家で蕪村の門人であり、 夏自殺した芥川竜之介の故居を見た時 蝉塚山形県立石寺 はしんみりしたようです。日本中描い 白石の古寺の一一人の人形から発想した。 後援者であった北風來屯のためにかい ■表紙裏見返し■ あんえい ー ) おが↓・ 琵琶法師五月八日塩竈に泊った夜、 たもの。安永八年の作である。これもてない所のないような放菴居士ですが、 素龍清書本奥の細道西村弘明氏蔵 おくじ - フるり 隣室で法師が奧浄瑠璃を語るのを襖を画巻のうちの秀作。重要文化財に指定 この「奧の細道画行」は気に入ったらし ■片かんのんロ絵・ 芭蕉をかかす余白でムされている。 、前後二通りの画冊を作っています。 旅路の画巻松尾芭蕉筆柿衞文庫蔵隔てて聞いた。 ードを出している。 ■芭蕉翁絵詞伝・ ■その他■ たかだち ひらいずみちっそんじ ・出光美術館蔵野を横に詠草 : 国平泉中尊寺に詣った際、高館に登・義仲寺蔵狩野正栄筆 : ・奥の細道画巻・ つはもの 何云宛芭蕉書簡・ 「夏草や兵どもが夢の跡」とよんで ・逸翁美術館蔵与謝蕪村筆 : ふじわら 5 . 8 . . 絽 . っこ つ」 8 8 奥の細道平泉小杉放菴筆 : 藤原一二代の栄華をしのんだ。その景で ぶそん 芭蕉顕彰につくした蝶夢が翁の略伝・芭蕉翁記念館蔵芭蕉遺言状 : 本点は蕪村筆の『奥の細道画巻』のある。 おうう あんえい 一つで、彼六十四歳の冬、安永八年に因尿前の関五月十五日、奥羽山脈のを記し、それに照応した画を法橋芭蕉画像小川破笠筆・ した。が旅券のことで正栄にかかせ三巻としたもの。三十三蕉門高弟図録 : 門人黒柳維駒にかいて与えたもの。蕪厖前に着、 し」カ 村は尊敬する色蕉の傑作を後世にのこ関守に咎められた。大雨にあった。表画はすべて極彩色の密画である。寛政古里や臍のを句切 : ぎちゅうじ 日本から裏日本へと効果的な暗転演出五年の芭蕉百回忌に義仲寺へ奉納した。 俳諧七部集 : すため、挿画を加えて十本はどかいた をねらったのである。 目で見て芭蕉生涯を知るに便宜である。 ・人文社蔵日本海山潮陸図元録四 と思われる。本巻はその中の最長のも ・ 0 CO 7 ー のである。画が多く十四面ある。だか囮曾良と別離八月五日、曾良は腹をそのうちの・壺礪・湯殿山・象・年版 : おやしらず ら勢い長尺となった。この頃は芭蕉百病んで山中温泉から伊勢へ先行する。 親不知・多田神社などを掲載した。本・橋問久助氏蔵草の戸も短冊 : ・木村九兵衛氏蔵日光山懐紙 : は別に三冊本として公刊されている。 年忌が近づ いたので、 ~ 巴蕉志向の運動その離別の場。この画だけが俳画手法巻 ・吉田幸一氏蔵奥の細道画譜松本 が高揚した、その一つのあらわれ。左でない。それは両人の切なる心情表現■奥の細道画册・ . 7 ・ . 8 のためか。 交山・田中朗卿筆 : 0 乙 4- 4 ・小杉一雄氏蔵小杉放菴筆 : の九景について説明する。 ぜんしさっ 7 . 0 . (D . 8 . 0 0 . 00 . 4- . . CD っこ . 8 . 0 L.n ロ 0 7 ・ 7 ー 8 囚全昌寺先夜曾良が泊った。芭蕉も っムっこっこ CO (V) CO 4- 曰旅立 ~ 巴蕉が「行春や鳥啼魚の目ハ たえだ りゅうべっ せんじゅ 文政五年板奥の細道 : 泪」の留別の句をよんで千住を出発す一宿して出発しようとすると修行僧が 錦百人一首あづま織勝川春草筆 : 彼を囲んで句を請うた。そこで「庭掃 るところ。黒衣は随行者曾良である。 ほうあん 先考放菴居士が『奥の細道画冊』を ・麻生磯次氏蔵かさしま懐紙 : いて出でばや寺に散る柳」の句作りし 見送る人と行く者との離別の情がよく ゅうけ、 4 . LD 描こうと思いたったのは昭和二年秋の 0 ) 0 ) ・本問美術館蔵酒田港古図 : ・ 雄勁な筆力の画である。 窺われる。 おおドき とうきゅう すかがわ ことでした。同行は弟子すしに当る静玉志亭懐紙・ ロ軒の栗須賀川駅の里長等窮の案内 g 大垣の如行宅長旅の疲れを藩士近 ざんきしなみひやくそうきょ どうじよ - 1 う 8 で街路に面した栗の大木によせて小屋藤如行の家で癒した。門人衆も集まり、山岸浪百艸居です。翁と曾良とを気取象潟古図 : ちっこ せせんぐう お , よ かしん ったものとみえます。 ・東京国立近代美術館蔵屋島の義経 翁の肩を叩くのは少年竹戸。伊勢遷宮 を結び隠棲する可伸を訪れ「世の人の 丈夫な二人ですから当時の紀行を読松岡映丘筆 : を拝むため「蛤のふたみにわかれ行秋 見付けぬ花や軒の栗」の句を与えた。 こレ一と ・瑠璃光山医王寺蔵弁慶の笈・ : 全巻の画は俳画の特長として悉く背景ぞ」の句をのこして、九月六日また旅んでも、翁の『奥の細道』にある悲壮 とうさ に出た。 感はなく、風景がよければ其処を泊り 義経と佐藤兄弟岸邨翼筆・ : をかかないが、ここと福井の等栽庵だ ときめるなど、羨しいほど楽しげな旅・中尊寺金色堂内陣中央壇・ 、クがえがかれている。 ■奥の細道屏風■ やまなか いざかふじわらのひてひら よしつね さとう きむろ かんせい 166

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グラフィック版 奥の細道

4. グラフィック版 奥の細道

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5. グラフィック版 奥の細道

奥の細道 凸毯公ネを 山本健吉

6. グラフィック版 奥の細道

図版目録 ・大石田町東町蔵大石田古図 ■「奧の細道」の諸本■ ているようだから、それを呈しよう。 ・佐藤茂兵衛氏蔵最上川歌仙 : 今、伊釶の兄の家に預けてある。もし 『奥の細道』の定本とされるものは、 つるめ にしむらひろあき そりゅう ・山形美術博物館蔵出羽三山短冊 : 敦賀市の西村弘明氏架蔵の素龍清書本私が死ななかったら返してはしい」と ・柿衞文庫蔵象潟懐紙 : 言ったので、去来の手に移った。芭蕉 ( 重要文化財 ) である。所在不明であっ 荒海や・稲の香入句切 : は成本を得てから僅かの日しか手元に たが昭和十八年に発見された。これが みちの 本 芭蕉旅立ちの画像森川許六筆 : 無事伝存したのも西村家が道野村の一置いていなかった。ところが去来の没 つるカ 後親戚の久米氏に移り、その娘が敦賀 三画一軸中の旅路の画巻松尾芭蕉筆軒家であったためか。 へ縁付く時に几遊へ聟引出として持参。 一月へ一り八、の》」物 ) イ 11 ~ 柿衞本奧の細道 : それから重縁の琴路に、そしてまた西 むらやかく 。・』 / ) 人人ーもネのよュす ・天理図書館蔵あかあかと自画賛 【 1 づ、 , 下と , : をッ - ズらの 頭村野鶴に移動したのである。つまり芭 冒 曾良随行日記 : 蕉の手沢本として最も権威あるもので 曾良本奧の細道 : 本ある。この本がまだ京にあった頃、書二十号参照 ) 。調べを進めると疑いのな そ。ゅう ・多田神社蔵実盛の甲 : 清肆弗筒屋がこれに着目して元禄末年に い素龍の筆である。異同が多い。その点 , ャ , 譱リいっ / 一、すり・、 2. 勹・、一去の乢、ー、龍 ・石川県美術館蔵山中温泉懐紙 : 素上梓した。ところがベストセラーであを究明して三者の順位は、曾良本が最 おくカ にー」む・ら ・建聖寺蔵芭蕉木像北枝作 : ったらしく明和七年に蝶夢が奥書きをも早く、柿衞本は西村本との中間に位 かんせい ーこ、ー I ー・ - りー朝よっ ・蚶満寺蔵象潟古図 : 加えて重板し、更に再板本を寛政元年置することがわかる。異同の考証は省 略するが、それによってあれこれ疑問 ・逸翁美術館蔵芭蕉画像与謝蕪村卩Ⅱに出した。以後も諸種の板本が出たが、 にしむら イ - ・つかい 筆・・ 点が水解されるのである。 筆すべてこの西村系の本である。 にー」む・ら ・渡辺昭氏蔵西行法師行状絵詞俵 素龍の書風は西村本よリ古典的であ 別にお蜘諏の久保島若人が曾良の遺 芭 屋宗達筆 : るが、書癖は全く合致する。察するに 品として所持した『曾良本奥の細道』 そりゅう ・本隆寺蔵洞哉筆遺文 : ・ がある。今はた図書館の蔵である。 これは初め素龍か書いて芭蕉に見せた ・つかん はいカ、ーん ・高見沢研究所蔵蛤の句色紙 : 、、ト皆本はもっと気楽なものにして 西村本とは若十異同があって興味が多が 紙 ・富嶽三十六景葛飾北斎筆 : 河西家に伝わる河西本もこの系統はしいとの希望があって、その意味に に属する。 叶う様に改めたのでないかと思われる。 ・撮影・ 叫村本が普通半紙でであるのに対 市瀬進 / 猪野喜三郎 / 木下猛 / 関孝 / し、これは厚手鳥の子料紙の大和綴で 色蕉は「奥の細道」の旅を終ってか 亠 , い・ : フ げんろく あり、書風も西村本はに、権衞本 坂口よし朗 / 島津久敬 / 薗部澄 / 米田ら五年間推敲を重ねて元禄七年に成稿 頭 ゅうがてれ、 じようだいよう 冒 は優雅典麗になっている。 太三郎 / 世界文化フォト / ダンディフを得た。それを門人で上代様の能書家 かしわぎそ 0 ゅう 本 或いはまた別の推定を加えると、素 柏木素龍に清書をさせた。出来上った ずだ 曾龍は師色蕉から傑作文の書を委嘱さ のが初夏 ( 四月 ) である。それを頭陀 ■編集協力■ れたので、その機会に自家用本として 大原久雄 / 角川書店 / 義仲寺史蹟保存に入れて測、花 ~ の旅に五月十一日出 一、二同時に写したのではあるまいか 発した。閨五月末、嵯峨の落柿舎に投 会 / 玉井昭三 / 中野沙恵 力、、ー 0 り もう一つ柿衞文庫蔵の素龍筆の『柿柿衞本には本文の終りに「芭蕉菴主 ■地図作製・ した。芭蕉が『奥の細道』を去来に見 せたのはこの時であったろう。のち十衞本奥の細道』がある。これは昭和三記之」と素龍が書いている。これは他 蛭問重夫 月、色蕉は浪花の病床で見舞に来た去十四年に、ある店頭に塵まみれでいた本には絶対に見ないものであリ、注目 ■図版監修■ 飛に「そなたは「奥の細道』を熱望しのを発見したもの ( 「連歌俳諧研究」第されている。 岡田利兵衞 / 中村溪男 / 宮次男 かぞう しんせき わず ちり 167

7. グラフィック版 奥の細道

「奥の細道 日本の古典 11 グラフィック版 世界文化社

8. グラフィック版 奥の細道

すけし、ー」 げんろく 資俊は元禄五年六月二十六日に没してい最後の旅の際、その頭陀の中に携行され しい連衆との出逢いを求め、また一つに 諸本と成立 まつおはんざえもん うたま・み るから、曾良の書写した草稿は、少くとて、郷里伊賀の兄松尾半左衛門に贈られ は、各地の歌枕を巡礼することによって、 すい、一う げんろく た。幾次かの推敲の果てに完成した作品 元禄二年の秋に「奥の細道」の旅を終もそれ以後に書かれたものであるにちが 古人の詩心の伝統を探り、そこに新しい ぶんじん しオし を出版も企図せす、別に文人というわけ えた後、二年にわたる上方滞在の間につ 創造への源泉を汲もうとするものである。 げんろく ーっぷ てんな ところで、その元禄五年の八月に出府でもない兄に贈った芭蕉の胸中は、今日 づられたのは、その「細道」の旅の紀行 一方からいえば、それはまた、天和期の じよう、、・う して芭蕉に入門し、翌六年の五月に江戸の常識からは理解しにくいが、この年春 ではなく、それに先立っ貞享四年 ( 一六 暗い空のもと、深川の施住生活の中での ・りか。わ、、ト・り′、 ひこわ げんろく かいげん 八七 ) 冬から翌元禄元年夏にかけての旅を発って彦根に帰国した森川許六は、そのころからしきりに死の近きを予感しつ 漢詩文調の試作を通して開眼した自然と こぶみ を記念する『の小文』だった。おそらの冬、その帰路の旅についてつづった「旅つあった色蕉は、これを自己の生涯の総 人生への関心を、日本の風土に焼きつけ わがお′よ れんじゅ られた詩心の伝統と新しい連衆との触れ 、その旅の同行者であった杜国の死 ( 懐狂賦」という文章に、「我翁、白川の決算と考え、死後の形見とするつもりだ ったのではあるまいか 合いの中で、より確かなものに深めてゆ禄三年三月 ) が、その執筆をうながす直田植歌をきいて奥羽象潟を廻り、高館の どほう つはもの 夏草に兵どもが夢を驚し、あつみ山ふく 伊賀の門人土芳の書いた『三冊子』に 接の契機となったものと思われる。 くための旅であったといっていし それら無用の旅についてつづった芭蕉 では、紀行文『奥の細道』がつづられ原かけてタ凉み、佐渡に横たふ天の川を「ある年の旅行、道の記すこし書けるよ さんじゅうよ れん たのはいつのことであろうか。そのこと見付、蛤の二見をわたりて、七百三什余し、物語りあり。これを乞ひて見むとす の紀行文、それは古人の詩心や新しい連 じゅ れば、師のいはく、さのみ見るところな は、この作品の執筆意図を探る上に大き程を吟す。曾良が落髪の力量を感して、 衆たちとの出逢いを記念するとともに、 し、死してのち見はべらば、これとても はつかなる一鉢の飯を分て風流を尽さる」 く関係する。 また、そうした出逢いの中で進められた としるしている。芭蕉の絵の師とされるまたあはれにて、見るところもあるべし、 さいわいなことに、『奧の細道』には、 新風開発の過程を確認する意義をもつ。 、、ト・り第、 げんろく てんな 感心なることばなり。見ざれど 許六は、元禄六年の春に芭蕉・曾良師弟となり。 「野ざらし紀行』は、天和の漢詩文調を脱色蕉の自筆本こそ伝わっていないが、ま ふう ~ 3 の旅姿を描いてもおり、おそらく江戸滞も、あはれ深し」と見えるのは、この「奥 だ定稿に至る以前の色蕉の草稿を忠実に 却し新たに風狂の世界を拓いてゆく過程 あらの には『曠野』『猿写した本や、色蕉がみすから定稿と認め在の間ひそかに「細道」草稿の披見を乞の細道』をさしての問答ではなかったか を象徴し、『笈の小文』 まなてし うて許されたのであろう。 と、私には思われる。兄に贈られた素龍 本文を人に清書させ郷里の兄に贈った 蓑』の新風をともに模索してきた愛弟子た 許六の見た本文と曾良本の底本との前清書本が門人去来の手によって京都井筒 杜国への鎮魂の色が濃い。同様のことは、本など、自筆本とひとしい価値をもった 後関係はわからないが、定稿本の筆写者屋から刊行されたのは、芭蕉没後八年を この『奥の細道』についても、またあて本が伝存して、その成立の時期を示唆し げんろく そりゅう ている。 素龍が別に写した柿衞本と呼ばれる写本経た元禄十五年 ( 一七〇二 ) のことだっ はまらないであろ、つか の本文が、曾良本と定稿本との中間の形 その一つ、世に曾良本と呼ばれるもの ばしさっすいこう ところで、色蕉が「奥の細道』の執筆 は、この旅に同行した曾良が、芭蕉の草を伝えていることは、芭蕉の推敲が何次 云 にかかっていたと考えられる元禄六年は、 にも及んだことを推測させる。そして最 4 、、稿をその消したり書き加えたりしている すい・一 - っ 「細道」の旅を終えてより四年後のこと 翁推敲の跡までそのままに写し取ったもの後に決定稿に達した本文が、芭蕉の師北 ゅぎっやたタ むらきぎん であるが、その「遊行柳」の条では、本村季吟門の能書家素龍の手によって清書であり、あたかも芭蕉がしきりに " かるみ。 ー・芭 げんろく への工夫をこらしていた時期にあたる。 攣 " 蕉文に「この所の郡守戸部某」とある「戸されたのは、元禄七年四月のことであっ ば芭 色蕉晩年の最大の課題となった " かる 部某」の部分を、もと「故戸部某」と書 ふえき。ゅうこう 从庵 原稿の完成は六年冬か七年春と見てほばみ。への志向が、 " 不易流行。の理念と いて、後から「故」の字を消してある。 あし あしの ば芭 誤りあるま ともに芭蕉の中にめばえたのは、「奧の 戸部某とは、遊行柳のある芦野の領主芦 げんろ ( あしの とくめ , 一一】 ( 野民立。俊を匿各で呼んだもので、芦野素龍清書本は、元禄七年五月の色蕉の細道」の旅中のことであ「た。とするな みの れんじゅ ちんこん ふかがわ こぶみ ひら ろく かみがた た。清書に要した時日を考慮に入れれば、 さんぞうし 159

9. グラフィック版 奥の細道

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10. グラフィック版 奥の細道

北陸路 越後・ かなざわ 金沢 だいしようじ やまなか 山中大聖寺 : いろはま つるが 敦賀種の浜・ 漂泊者の系譜・ 芭蕉の近江 ・解説・奥の細道 0 芭蕉の旅 : 0 蕉門十哲ーー芭蕉の門人たち : ・ 0 地図ーー奧の細道の旅 : 0 図版目録 : 装幀・レイアウト : えちご -4 ・日下弘 133 121 市振 多田神社 汐越永平寺 : おおがき 大垣 : しおごしえいへいじ いちぶり ありそうみ 有磯海 - アよ」′し・ら 那谷寺 : 1 倡井 : 166 164 162 140 野を横に詠草句・芭蕉画・許六 尾森目 形崎 澄徳 仂雄衛 158 146 え升蜀 152