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検索対象: グラフィック版 奥の細道
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1. グラフィック版 奥の細道

うみ : この句の初五を、「ヒトツィエニ」と読む人、がある。 野中の一軒家 ( ヒトッャ ) に寝たのでなく、おなじ家 ( ヒ トツィエ ) に遊女も寝たという意味だから「ヒトツィエ」 でなければいけないという 町期の加舎白雄がいいた して、いまでも従う人が多いのである。 たか、この句を「ヒトツィエ」と読むためには、詩の 丿ズムに対してつんばにならなければならない ツィエ」では、あまりに物をことわっていうような調子 ろはん かある。「ヒトツィエ」ではさびしさがなくなると露伴は いうそれに「ヒトッヤ」といっても、おなじ家という 意味がないわけではない。 えそらごと この句は、どうも絵空事であるらしい。七月十二日に いちぶり いたのだが、 市振の宿につ このとき伊参宮に行く親溿 のなか 1 出立の朝慈悲を乞うニ人の遊女 の遊女が同宿し、あわれな物語りをきいた話が『奧の細 ヾになって 道』にでていて、紀行中のいろつばいヤマノ る。この句を、「曾良にかたれば書きとどめ侍る」と書い ているが、曾良の『随行日記』が発見されてみると、そ んな記述はまったくないのだ。だとすれば、これは紀一丁 に変化と色彩を添えるために、芭蕉がつくりだした話で あり、句なのである。連句なら恋の座にあたる。 、、さかた まっし - ま 紀行の前半では、松島や象潟の風景がアクセントをつ かなざわあいしさフ いちぶり けていたが、後半になると、市振の恋の句、金沢の哀傷 かっし」 - フ の句など、人事の葛藤が織りこまれているのだ。 だから、この句の発想は、はしめから物語り体なのだ。 「ヒトッヤ」は、おなし家という意味のほかに、孤屋の意 えぐち 味をからませている。おそらく芭蕉は、西行と江口の遊 せん 女との故事を、ここでは思い浮かべているのである。『撰 じゅうしさフ 集抄』に、 「世をいとふ人としきけばかりの宿に、いとむ さいよう なと思ふばかりぞ」と歌をよんで西行に宿を貸さなかっ えぐち よ・フきよく た江口の遊女の物語りがある。それをもとにして、謡曲 えぐち 『江口』では、諸国一見の僧が、芦の茂ったさびれた野中 に、江口の君の旧跡を尋ねることになっている。その説 話が、この句に二重うっしになっている。謡曲では「月 澄み渡る河水に、遊女の歌ふ舟遊び、月に見えたる不思 議さよ」と、やはり月夜である。水辺の芦を、萩によみ かえたのも、色蕉の作化だといってもよい。「萩と月」 もなかば仮象なのだ。 これもまた「仮の宿」であるこの人生でのはかなしご かんそう この句にどこかただよっているの とだといった観想が、 である。 えル、ち はべ はぎ 109

2. グラフィック版 奥の細道

おばなざわ 尾花沢 おばなざわせいふう 尾花沢で清風という者を尋ねた。彼は富んだ者ではあ みぎしいや るが、志は卑しくはない。都にもときどき往来して、さす がに旅人の気持をも知っているので、何日も引きとどめ かん・、、 て、長旅の疲れをねぎらい、さまざまに歓してくれた。 わがやど 涼しさを我宿にしてねまる也 ( お宅のお座敷の涼しさを、満喫し、あたかも自分の家に あるよ、つな気安さで、うちくつろいでいます。「ねまる」 すわ おばなざわ は尾花沢地方では、膝を崩して坐ることの意味。 ) はひ かひや 這出てよ飼屋が下のひきの声 ひざ 、三 ) 三こ 鈴木清風宅で働く人々 ( 養蚕室の下に、ひきがえるの鳴き声がする。そんな暗い、 わび 侘しいところで鳴かないで、明るいところへ這い出て来い ひきがえるよ。 ) まゆよきおもかげ 眉掃を俤にして紅粉の花 おばなざわ ( 尾花沢地方は今しも畑一面の紅の花の盛りである。女 まゆ ↓・ゅは物、 おしろい たちが白粉をつけたあとで、眉を払う眉掃を、眼前に浮べ させる、なまめかしい咲きぶりである。 ) 一 ) が - ひ 蚕飼する人は古代のすがたかな ( 蚕飼にいそしむ人たちは、質朴なみなりをして、古くか しの ら伝わった蚕飼のわざの、古代の姿が偲ばれる。 ) おばなざわ 0 五月十七日出羽国尾花沢に着き、二十六日まで滞在 すずきせいふう した。旧知の鈴木清風方にます宿をとり、それから近く せいふう おばなざわ ようせんじ べにばよ の養泉寺に移った。清風は尾花沢の豪商で、紅花商人で 力、、ド - め あった。「凉しさを」の句は曾良の『書留』には記して いちょ - フしゅ、つ せいふうて、 いないが、『一葉集』などによれば、清風邸で巻いた芭 しさっせいふう そえい しぎんかせんほっ 蕉・清風・曾良・素英の四吟歌仙の発句である。素英とい すずき せいふう うのは鈴木家に出入りの者で、清風に頼まれて色蕉の接 十寸ル又こなった。 / イ : ′ィー すわ 「ねまる」とは、っちくつろいで坐るとい、つことの方一言と いっている。それだと、凉しい座敷に招ぜられてまるで 自分の家にいるようなつもりになってうちくつろいでい ます、とい、つ亠思味で、特に「一保しさ」を一言ったことが主への すずき 挨携となる。たまたま鈴木家の人たちが「おねまり下さ し」・フ そくみよう い」などと言ったのを理由にして当意即妙にその言葉を ようさん てわのくに 曾良

3. グラフィック版 奥の細道

とうさい 0 福井に住む等栽という隠者を訪ねた粗末 ゆうう : お な小屋にタ顔・糸瓜がのびからまって鶏頭 はうきぐさ や帚草が戸口を隠している門を叩くとみす ばらしい女が出て来た彼の妻だと思われた とうさ、 等栽宅にニ夜泊り共に敦賀へ向かって出立した へちま ケイトウ 福井 福井は三里ばかりなので、寺でタ飯をしたためてから 出たが、たそがれの道のおばっかなく、なかなかはかど いんし らない この福井には、等栽という古い隠士がある。 えど つの年であったか、江戸に来て私を訪ねた。十年あまり も前のことである。どんなに老い衰えているだろう、あ るいは、死んではいないかと人に尋ねると、まだ生きな がらえていて、どこそこにいると教えてくれた。市中か らひっそりした一劃に引っこんで、粗末な小家にタ顔・ はうきぐさ へちま 糸瓜が生えかかって、鶏頭や帚草が戸口を隠している。 門を叩くと、みすばらし、 さてはこの家に違いないと、 あんぎや 女が出て来て、「どちらからお出でなされた行脚のお坊さ んでしようか。主人はこの近くの何がしという者の家に 参りました。もし御用ならそちらをお尋ね下さい」と言 ふぜい う。彼の妻であることが分る。昔の物語にこんな風情の 場面が出ていたと、興深く思いながら、やがて彼に逢っ つるカ て、その家に二夜泊り、名月は敦賀の港で見ようといっ かっ て、出立した。等栽も一緒に見送ろうと、裾を面白い合 好にからげて、路案内だと、浮かれ立っ様子である。 敦賀種の浜「るが」ろのはま 一打くほどに、ようやく白根が岳が隠れて、代って比那 あさむず が岳が現れた。浅水の橋を渡り、玉江のはとりに来ると、 あし 古歌に詠まれた玉江の芦に穂が出ていた。の関を過ぎ ひっちじよう かえるやま ゅのお て湯尾峠を越えると、燧が城・帰山に初雁を聞き、十四 し」・フ・ 0 い し」・フ し」・フさ はつかり すそ ゅうがお ひな つるカ 日の夕暮、敦賀の津に宿を求めた。その夜、月はことに 晴れていた。「明日の夜もこんなだろうか」と一一一〔うと、「天 候の変りやすい越路の習いで、明晩のお天気は予測でき ない」と主人は言い、私に酒を勧めるのだった。気比の ちゃっあい 明神に夜参した。仲哀天皇の御廟である。社殿のあたり は神々しく、松の木の間から月光が洩れて来て、神前の ゅ・う 白砂が霜を敷いたようである。「その昔、遊行二世の他阿 土や 上人が、大願を思い立たれて、みすから草を刈り、 さん ' 石を弥い、悪竜の住む泥沼を乾したので、参詣のため往 わずり き来する人の煩いがなくなったのです。その昔の故事が ゅ - うしさつにん 今につづいて、代々の遊行上人が神前で砂をかつがれる のです。これを遊行の砂持と申します」と、亭主は語った。 ゅぎ斗う 月清し遊行のもてる砂の上 ゅイエうしさっ・にん ( 代々の遊行上人が持ち運ばれる神前の白砂の上に、秋の 月がすがすがしく照り輝いている。 ) 十五日の名月の日は、亭主の言葉にたがわす雨が降っ はくこくびよりさだめ 名月や北国日和定なき ( 今宵こそ名月と、楽しみにしていた期待が外され、雨と った。なるほど北国日和は変りやすいことよ。 ) ますお 十六日、空が晴れたので、真赭の小貝を拾おうと、種 てんやなにがし の浜に舟を走せた。海上七里である。天屋某という者が、 ささえ わりご 破籠・小竹筒など十分気を配って整えさせ、男どもを多 数舟に乗せて、追風を受けわすかの間に浜へ吹き着い わび はつけてら 浜にはわすかの漁師の小家があり、侘しい法華寺があっ 133

4. グラフィック版 奥の細道

日光路 ひょうはく 0 漂泊の思いやますみちのくへの旅心につ すみ かれ春の訪れとともに出立を決心した隅 田川のほとり芭蕉庵を引き払い門人曾良と 江戸を発った奥の細道画巻逸翁美術館蔵 しんせきたんざく ひな 0 「草の戸もすみかはるよや雛の家」真蹟短冊 ばしようあん 月日は永遠の旅客、き交う年もまた、旅人である。 舟の上に生涯を送る飛も、馬のくつわを取「て老を迎 える馬子も、その日その日が旅であり、旅を栖としてい る。古人も旅に死んだ者が多い。私もまた何時の年から ・はく か、ちぎれ雲のように風にまかせて歩く漂泊の思いが止 し , いたりした。去年の ます、先年は海浜地方をさすら、歩 すみだ 秋、隅田川ほとりの破れ小屋に帰り、蜘蛛の古巣を払っ てしばらく落着いた。ようやく年も暮れ、春になって霞 江戸深川ーーー殺生石芦野 ガ第 2 第を / を 4 一下人 + 石 /. 4 下経守 物古円石 ・一市第 2 ーへ十 0 2 、東照宮竊 2 キ保神肥タ 4 - 一万る す下石◆ . し・らかわ の立っ白河の関を越えようと、わけもなく神に取り憑か 2 こうそじん れてもの狂おしく、道祖神の招きを受けているようで落 - も - もひ、、 着いて何も手に着かない。そこで股引の破れをつくろい ひざがレり 笠の紐をつけかえて、三里 ( 膝頭の外がわ ) に灸をすえた まっし・ま りなど、旅支度にかかっているうちに、松島の月は如何 さんぶう かとまず気にかかって、住む庵は人に譲り、杉風の別荘 に移ったので、 草の戸も住替はる代ぞ雛の家 そうあん ( 住み棄てた草庵も、新しい住人の住居となって、折しも せつ いんとんしゃ 桃の節供のころとて、私のような隠遁者と違い、はなやか ひな に雛を飾る家になっていることだろうよ。 ) カ ほっく この句を発句にした表八句を作り、庵の柱に懸けてお かさひ - も す よ ひな

5. グラフィック版 奥の細道

はぐろさ人 さかたのず 酒田之図六月十日羽黒山を発って なやましげゆき 鶴岡の城下町へ行き長山重行という 武士の家に迎えられて歌仙を巻いた 六月十三日鶴岡から舟で酒田へ下り 不玉という医者の家に厄介になった つるおの・ さカ・た ふぎよ ( 、ツィ 1 ・ びま十里温あを西し ) えり五ほ海 : 供にた 日ど山し袖名時 い巴ばに にのて之のの る宿あ大い浦 3 作 がをるきる 広越と砂な 東あ 々後っ浜眺ー とをてで望の小こ 屋や山も たえる芭ば開つ之の上 蕉けの浜川 海る 岸時温あはて浦がの 線宿海 : こくを突河 を泊山 : のる出きロ 見しは前。離出を 通た酒 : に吹↑れてか き浦らる し温あ田た はと舟え 潟 酒 : ・東がる 温ガら っ泉芫南分田た西かよ のの西イ丁のに 地後十、余北吹竜のに 名に里方浦。便し でそあ 、ハと且ぎて ~ え岡 えちご をムし ふくら あつみ 東西の眺望を代表させたのである。必すしも吹浦と温海 山を見通したというのではない。だがこの頃は央晴続き のうりよう あつみ であるから、見えたかもしれない 納凉の句だから温海 ふくら の地名に暑さをかけ、吹浦の地名に風が吹く意味をかけ 他愛ない技巧ではあるが、風景に対してのうちくっ ろいだ気分は出ていよう。 さかた 翌十四日は暑い日だった。その日は酒田の豪商、寺島 ひこすけ かせん せんどう れいどう , 山を巻き、 彦助 ( 号は詮道また令道 ) に招かれた。ここで歌イ ばしさフ はっ 例によって、芭蕉が発句をよんだ。 てらしまひこすけ この寺島彦助がどういう人物で、その邸宅かどこにあ へん さかた たか、久しくわからなかったが、 最近、酒田の市史編 纂の人たちなどによって、およそのことがわかってきた。 さかたみなと 彼は酒田湊の御城米浦役人であった。浦役人とは幕府の ばしさっ おわりなるみ 米置場の役人である。かれは芭蕉と親しかった尾張鳴海 てらしまそうげんやすのり の本陣寺島業言 ( 安規 ) の枝流で、安というのは寺島家の やすたね ひこすけ 取字と思われ、彦助はまた、安種という。 やすたね そてのうら つぎおーっ・ 『継尾集』には「安種亭より袖之浦を見渡して」とあっ て、これまでアンジュ ~ 甼と呼んできたが、どうもこれは ひこすけ げんろく ャスタネ亭であるらしい。元禄年間の絵図面に彦助邸は さカた 出ていて、それは本町三之丁、今酒田郵便局のある地内 もがみ そてのうら である。今は、ここからは最上川も袖之浦も見晴らすわ 、フ・かわ けにはゆかないか、当時は家の前がすぐ内川で、そこか もがみ そてのうら らは最上河口も、対岸の袖之浦もながめられたと思われ そこで詠んだ句は、はじめ、 、もカみかは 凉しさや海に入れたる最上川 と ) い、つ廾オオ 彡ごっこ。寺島邸からなかめられる河口の大景を、 さん てらしまてい てらし・ま ばくふ てらしま

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ささかたのず 0 象潟之図昔は海中に九十九島を浮かべた おうしゅう 潟湖で松島と並び称される奥州の名勝だった 文化元年の地震で土地が隆起して景観は一変 現在では水田の中に小丘が点々と残っている O ねむの花 ような様子である。 象潟や雨に西施がねぶの花 ( 象溿の風情は、雨に濡れながら薄紅の←歓の花が咲いて、 あたかも越の国の美女西施が憂い顔に、眼をなかば閉した ようなさまである。 ) 汐越や鶴はぎ濡れて海涼し はぎ なみ しおごしあさせ ( 汐越の浅瀬に降り立った鶴の脛が、寄せる浪にうち濡れ て、涼しい景色である。 ) きさかた 曾良 象潟や料理何くふ神祭 ( 象溿の櫪現の夏祭に参り合「た。ここは蚶歟の産地 ちそう なのだが、 祭には人々は一体何を馳走に食べているのだろ あまや 蜑の家や戸板を敷きてタ涼知の国の商人耳 ( 漁師の家では、海辺に戸板を敷いて、簡素なタ涼みをし ている。 ) 岩上に雎鳩の巣を見る ・り 波越えぬ契ありてやみさごの巣 ( みさごの巣が海中の岩の上に見える。みさごは詩経にう たわれた夫婦仲のむつましい鳥だから、取り交わした固い 契があって、そのために、あの古歌に言うように、波が岩 - 一きん の上の巣を越えないのだろうか。その古歌は古今集「君を えっ みさご せいし うれ

7. グラフィック版 奥の細道

もんはぎ せんだい 宮城野仙台に入り画工加右衛門に萩で知られる宮城野を案内された みやぎの みやぎの った名所も、おおかたわからなくなっていたのだが、彼 は年ごろ調べて考えて置いたからといって、案内してく れたのだった。 夜にはいって、紹介状をもらってきていた甚兵衛もき たので、色蕉は二人に、短冊と横物を一幅すっ書いて与 えた。嘉右衛門は、芭蕉に乾飯一袋とわらし二足を贈り、 翌朝また海苔一包みを持ってきた。 しおが上・ せんだい 八日の午前十時ごろ、仙台をたって塩竈へ向かった。 えもん 二人とも嘉右衛門がくれたわらしをはいている。そのわ らじには紺の染め緒がつけてあった。その色のあざやか さに、彼の好意はあふれ、彼こそはんとうの「風流のしれ もの」と思えるのだった。そのとき、彼に贈ったのが「あ やめ草」の句である。 せつく し“うぶ おりから菖蒲の節供の日で、家々の軒には菖蒲がさし てある。いただいたわらしの緒に菖蒲を結んで、健脚を 祈ろう、というほどの意味。菖蒲はもともと魔よけの意 味がある。もちろん、あるじへの感謝の念をこめた挨拶 の句である。紺の染め緒のことは句の上にはいっていな いが、言外にこめて、におうような紺色と菖蒲の高い香 りとのうつりを、賞しているのである。 だが、実際にはわらしの緒に菖蒲を結ぶようなことは、 しなかったにちがいない。おそらくこれは、前夜圭日き与 たんざく えた短冊の句ででもあったのだろう。だが、そういう車 いフィクションを構えだすことも、その場にのぞんでの 一興である。「あやめ草」といって、そのときの季節を はっきり示すとともに、それによって、心のこもった紺 の染め緒に対する称賛と感謝の気持をにおわすのだ。当 えもん じんべえ

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そりわきざし だら、頼もしそうな若者が反脇差を腰にさし、樫の杖を 。「ムコ日こそきっと 携えて、われわれの先に立って行く 危い目にも遭うべき日だろう」と、びくびくの思いで後 ろについて行った。あるじの言葉にたがわす、高山はし したやみ んと静まりかえって、一鳥の声も聞えない。木の下闇が 茂り合「て、夜行くようである。「雲堺に既る」 ( 杜也よ うな気持がして、小笹を踏み分け踏み分け、水を渡り岩 もがみしさフ にけつますいたり、 肌に冷汗を流しながら、最上の庄に 出た。かの案内人が言うには、「この道はかならす不意 の出来事が起るのですが、今日は無事にお送り出来て、 しあわ 仕合せでした」と喜んで、別れて行った。後に聞いてさ え、胸がどきどきする話である。 いちのせき 0 五月十四日に、色蕉は一関から引き返し、出羽の最 いわてやま 旅上の庄へ越えようとしてその日は岩手山に泊まった。翌 日は尿前の関を ~ て、奥羽山脈のを越え、堺田 ~ ひらいャみ よしつねべんけ 泊まった。義経・弁慶の一行が越えて平泉へ向かった道 を、逆にたどったわけだ。 さかい村」 ほ - つじん 堺田では、封人 ( 関守 ) の家に泊めてもらい、三日の 間風雨が荒れたので、「よしなき山中」に逗留した、と 『奥の細道』に書いてある。だが、実際は二泊で、十七日 には発っている。堺田は、海抜三百五十四メートルの山 中にある小さな部落である。泊めてもらったのは和泉屋 せ、、 - もり しさつや という庄屋の家で、関守と農業をかね、旅人には乞われ るままに〔旧めていたらしい いまの有路氏は、和泉屋の あとという ( 早坂忠雄氏「芭蕉と出羽路し。 芭蕉はすいぶんむさくるしいところに泊まったように しとまえ 出羽の国へ越えようと尿前の関にさしかかった こ・ささ かしつえ いずみ

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図版目録 ・大石田町東町蔵大石田古図 ■「奧の細道」の諸本■ ているようだから、それを呈しよう。 ・佐藤茂兵衛氏蔵最上川歌仙 : 今、伊釶の兄の家に預けてある。もし 『奥の細道』の定本とされるものは、 つるめ にしむらひろあき そりゅう ・山形美術博物館蔵出羽三山短冊 : 敦賀市の西村弘明氏架蔵の素龍清書本私が死ななかったら返してはしい」と ・柿衞文庫蔵象潟懐紙 : 言ったので、去来の手に移った。芭蕉 ( 重要文化財 ) である。所在不明であっ 荒海や・稲の香入句切 : は成本を得てから僅かの日しか手元に たが昭和十八年に発見された。これが みちの 本 芭蕉旅立ちの画像森川許六筆 : 無事伝存したのも西村家が道野村の一置いていなかった。ところが去来の没 つるカ 後親戚の久米氏に移り、その娘が敦賀 三画一軸中の旅路の画巻松尾芭蕉筆軒家であったためか。 へ縁付く時に几遊へ聟引出として持参。 一月へ一り八、の》」物 ) イ 11 ~ 柿衞本奧の細道 : それから重縁の琴路に、そしてまた西 むらやかく 。・』 / ) 人人ーもネのよュす ・天理図書館蔵あかあかと自画賛 【 1 づ、 , 下と , : をッ - ズらの 頭村野鶴に移動したのである。つまり芭 冒 曾良随行日記 : 蕉の手沢本として最も権威あるもので 曾良本奧の細道 : 本ある。この本がまだ京にあった頃、書二十号参照 ) 。調べを進めると疑いのな そ。ゅう ・多田神社蔵実盛の甲 : 清肆弗筒屋がこれに着目して元禄末年に い素龍の筆である。異同が多い。その点 , ャ , 譱リいっ / 一、すり・、 2. 勹・、一去の乢、ー、龍 ・石川県美術館蔵山中温泉懐紙 : 素上梓した。ところがベストセラーであを究明して三者の順位は、曾良本が最 おくカ にー」む・ら ・建聖寺蔵芭蕉木像北枝作 : ったらしく明和七年に蝶夢が奥書きをも早く、柿衞本は西村本との中間に位 かんせい ーこ、ー I ー・ - りー朝よっ ・蚶満寺蔵象潟古図 : 加えて重板し、更に再板本を寛政元年置することがわかる。異同の考証は省 略するが、それによってあれこれ疑問 ・逸翁美術館蔵芭蕉画像与謝蕪村卩Ⅱに出した。以後も諸種の板本が出たが、 にしむら イ - ・つかい 筆・・ 点が水解されるのである。 筆すべてこの西村系の本である。 にー」む・ら ・渡辺昭氏蔵西行法師行状絵詞俵 素龍の書風は西村本よリ古典的であ 別にお蜘諏の久保島若人が曾良の遺 芭 屋宗達筆 : るが、書癖は全く合致する。察するに 品として所持した『曾良本奥の細道』 そりゅう ・本隆寺蔵洞哉筆遺文 : ・ がある。今はた図書館の蔵である。 これは初め素龍か書いて芭蕉に見せた ・つかん はいカ、ーん ・高見沢研究所蔵蛤の句色紙 : 、、ト皆本はもっと気楽なものにして 西村本とは若十異同があって興味が多が 紙 ・富嶽三十六景葛飾北斎筆 : 河西家に伝わる河西本もこの系統はしいとの希望があって、その意味に に属する。 叶う様に改めたのでないかと思われる。 ・撮影・ 叫村本が普通半紙でであるのに対 市瀬進 / 猪野喜三郎 / 木下猛 / 関孝 / し、これは厚手鳥の子料紙の大和綴で 色蕉は「奥の細道」の旅を終ってか 亠 , い・ : フ げんろく あり、書風も西村本はに、権衞本 坂口よし朗 / 島津久敬 / 薗部澄 / 米田ら五年間推敲を重ねて元禄七年に成稿 頭 ゅうがてれ、 じようだいよう 冒 は優雅典麗になっている。 太三郎 / 世界文化フォト / ダンディフを得た。それを門人で上代様の能書家 かしわぎそ 0 ゅう 本 或いはまた別の推定を加えると、素 柏木素龍に清書をさせた。出来上った ずだ 曾龍は師色蕉から傑作文の書を委嘱さ のが初夏 ( 四月 ) である。それを頭陀 ■編集協力■ れたので、その機会に自家用本として 大原久雄 / 角川書店 / 義仲寺史蹟保存に入れて測、花 ~ の旅に五月十一日出 一、二同時に写したのではあるまいか 発した。閨五月末、嵯峨の落柿舎に投 会 / 玉井昭三 / 中野沙恵 力、、ー 0 り もう一つ柿衞文庫蔵の素龍筆の『柿柿衞本には本文の終りに「芭蕉菴主 ■地図作製・ した。芭蕉が『奥の細道』を去来に見 せたのはこの時であったろう。のち十衞本奥の細道』がある。これは昭和三記之」と素龍が書いている。これは他 蛭問重夫 月、色蕉は浪花の病床で見舞に来た去十四年に、ある店頭に塵まみれでいた本には絶対に見ないものであリ、注目 ■図版監修■ 飛に「そなたは「奥の細道』を熱望しのを発見したもの ( 「連歌俳諧研究」第されている。 岡田利兵衞 / 中村溪男 / 宮次男 かぞう しんせき わず ちり 167

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水門川ほとりの住吉燈台 ( 岐阜・大垣市 ) ていはっ らしを脱いだのは、元藩士で剃髪していた如行の家だ。 くわな 古くからの友人で『野ざらし紀行』のとき、桑名をへて ふう - う なごや 名古屋まで、二人づれの風狂の旅をやった、船問屋の谷 えつじん ろつう 木因もあった。色蕉の来着をきき伝えて、越人・路通な どもやってきたし、九月三日には、伊勢の長島から曾良 もやってきた。急に芭蕉の身辺は、にぎやかになった。 おおがき 何日か大垣に滞在してのち、九月六日に芭蕉は伊勢へ 出立した。十日の御遷宮に間に合おうというのだ。水門 ・も , 、いん ーの船着場のほとりの、木因の家でごちそうになり、木 オ。この川の舟運の 因の世話で、午前八時ごろ舟に乗っこ 便は、三、四十年前までは盛んだったといわれ、これは くわな びがわ 揖斐川へ通していて、川口の桑名へ出るのである。同行 ろつう は曾良・路通。越人は船着場で別れ、荊ロほか一人は三 オこの句は、このときの留別の句である。 里ほど送っこ。 4 、ら・とば えんは・、り 桑名や二見ヶ浦の縁で蛤を出し、「蛤の二見」と枕詞の ように使った。「たまくしげ二見」と古歌にある用法の丿 はまル・ら・ふた 者化である。「一一見」はまた「蛤の蓋・身」にかけてい る。「二見にわかれ」は、行く者と帰る者と二手に別れ るという意味をこめ、季節はちょうど「行く秋」に当っ ているのだ。 古い技巧の縁語や訶を使っていて、新鮮な感銘のあ そっ物・うぎん 時にのぞんでの即興の吟としては、人 る句ではないが、 人にある感銘を与えたであろう。一大決心で遂行した大 旅行を終わった者から見れば、今度はほんの小旅行であ り、行く者にも送る者にも、悲壮な感情はまったくない その気持が、おのすから句の調子の軽やかさとなって現 われているのである。 もくいん くわな えんご えつじん 139