浮御堂芭蕉翁絵詞伝 ほうふつ りようじん て、ふかぶかとした感動を誘うとともに、ひとり 梁塵ノ飛プヲ彷彿ス どくだん まさひそ せつ 遊びの想いを誘う。遊想はばくの独断にちかい感 節ヲ誤ッテ應ニ倫カニ笑フナルペシ ゅ・フそう ひそ 想にちがいないか、こういう遊想を誘うのも芭蕉 窃カニ聴カント起チテ衣ヲ披ク すて のもっ豊かさとして、これまでも一俳人としての 衣ヲ披クレバ曲ハ已ニ終リタリ げつよき 養いとしてきた。だが、 ~ 巴蕉がより身近に、より 窓月余暉ヲ存ス 大きな存在となったのは一昨夏のシルクロードの 「尉塵飛プ」は、魯の人虞公は美声の持主で、歌旅以来である。 ちり かんりゅう - う を唱うと梁の塵が動いたという。漢の劉向の『別 げいぶんるいじっ 録』 ( 「芸文類聚」巻四十三 ) に見える故事。ばく 近江にひかれる心 には「想像朱脣動」と「誤節應倫笑」の二句がと りんか 一昨年の八月、ソ連中央アジアのシルクロード くに、い深い。床上にねむれぬ夜半、隣家から洩れ るかすかな美しい歌声に耳をかたむけながら、胸 の町々を歩いたが、その旅から戻ると、何故かし あか おうみ きりと近江にさそわれた。 にあえかな女人の朱い唇の動きを想い描く。調子 あふみ おもかげ ひろびろと田起しの雨近江なり を誤ってひとりくくと笑う女人の俤に微笑を送る ・ ) しん 田を植ゑて空も近江の水ぐもり のも詩人のひとなっかしい孤心のあたたかさであ 紅梅を近江に見たり義仲忌 ろう。一抹のユーモアをまじえて、深く平常心に ーいぎ工う おうみ こしんえんや など、それまでも近江の作品をいくつか作って 宿る孤心の艶冶を詠って見事な一詩だ。時に梅堯 しょ ( もく しん ふみづき いるか、いすれも車中からの矚目ないしは連想の 臣四十六歳、「文月や」の句も色蕉四十六歳の作。 おもしろ ふごう この不思議な符合もばくには面白い。四十半ば、 句である。関西への旅で新幹線にのるとおおかた ・一しん 人生いよいよ苦く、その孤、いにともにほのあたた はすぐ眠る。目が覚めると近江である。ひろびろ えんや かい艶冶を宿して共通するところがある。 とした近江の田や湖水を眺めながらやっと新しい しトぐっどう ぶそん 旅の気分になる。だがそれまで一度も近江に足を さて、「写生」を唱導し、色蕉をおさえ、蕪村を すいこう まさおかしき しさフよ・フ 称揚して俳句革新を遂行した正岡子規は、その『色 下ろしたことはなかった。 しさっざっだん 蕉雑談』 ( 明治二十六年 ) でこの「文月や」の一句 を色蕉の悪句の例としてあげている。写生的要素 のないこの一句の「六日も常の夜には似す」が単 なる理屈に見えたにちがいない 。だが、その革新 いかにも明伯の開化 の功、写生説は別としても、 しよせいりゅうめいだん と興隆期の書生流の明断でなしとげたこの革新者 ・」しん の、しかも当時二十七歳の子規に、この孤心のほ のめきが、果して見えたか、どうか。 きへん 色蕉はときどきこうして、机辺の片時、あるい は旅の途上、その時々の心のいろの中にやってき いちまっ そん ころも 154
心ーツー易 氛 ( 一ざ 23
名な一条がある。 せんしいはくしゃうはく あふみ ゆくはる 「先師曰、尚白が難に、近江はにも、行春 ゆくとし ある ハ行歳にも有べしといへり。汝いかゞ聞侍るや。 きょ・らい、はくしゃ・つは′、 こすいもうろう 去来、尚白が難あたらす。湖水朦朧として春 まうす をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍るト申。 せんしいは ( 先師日、しかり、古人も止国に春を愛する事、 イ 0 たよりある なん なん イ、・ はべ 芭蕉の種の浜における一日の記録洞哉 ( 等栽 ) 筆本隆寺蔵 ゞ」 はま はんりゆうじ おさ / 、、都におとらざる物を。去来日、止一言 てつ こかん ゆくとしあふみ 、いに徹す。行歳近江にゐ給はゞ いかてか止感 たんば こじ宀ーっ ましまさん。行春丹波にゐまさば、本より止情 まことたみる ふうくわう うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成 、、よら、 きっ十せんしいはくなし し」・ 0 ・小 - フカ 哉ト申。先師日、汝ハ去来、共に風雅をかたる よろこびお べきもの也と、殊更に悦給ひけり」 きよらいしトそっ・ この『去来抄』の一条から、研究家の筆はおお ていしさっ おうみしさつもん むね「軽み」の提唱を契機として、古い近江蕉門 せんな しやどう の尚白、千那らと、新しく頭してきた洒堂、曲 、正秀、乙蝌らとの間の永裂、軋轢に説き及ぶ のがふつうだが、もちろんこの一句の芭蕉の心も、 またばくの関、いもそこにはな、 シルクロードの旅を歩一きなから、しきりにこの 芭蕉の一句が想い出されていたのは、中央アジア おうみ と近江と、全く風土も歴史も、その性格も規模も ゅうきっ ちがうが、そこにあるはるかなもの、その悠久の 思いであろう。この一句の、事実春を惜しんでい るのは近江の人々とであり、またひろやかな湖水 をもっ近江の風土感を詠いこめながら、それらを はるかに越えて、この一句のもつやさしさとなっ かしさは、古来、春を愛し、行く春を階しんでき た日本人の心の、これからもつづくはるかな思い であろう。いわば、そうした日本文化の伝統がこ こにその総体としてあるからである。ばくにはこ の一句を詠った芭蕉の時点に、過去の日本文化の 体がここに集約され、また未来につづく文化の 伝統がここに一一一口いとめられている、そんなはるか な思いかあった。 さらに言えば、この一句のもつおおらかで豊か むじよう な呼吸とそのやさしさは、人生の無常を根底にお ' んこんへんふうが 「転坤の変は風雅のたね也といへり。静なるも のは不変の姿也。動るものは変也。時としてと ふへん みやこ 、一とさら うごけ ふるさー、 「古里や臍のをに泣くとしのくれ」句切 とむ めざればとどまらす。止ると」 い、は見とめ聞と ひくわらくえふちりみだる むる也。飛花落葉の散乱るも、その中にして見 とめ聞とめざれば、おさまることなし。また活 たる物だに消えて跡なし」 ( 『三冊子』 ) いち ~ 一いちえ といった芭蕉の、一期一会の心のきびしさをひ めた、近江への、そして同行の近江の人々への、さ らに「此国の春を愛」してきた古人たちへの親し あいさっ い挨拶 ( いわば俳諧の横の座、の座につらなる ) の 心の豊かさであり、そのやさしさは、 「常に飛花落葉を見てものをながめても、 かるまひを 此世の夢まばろしの心を思ひとり いうげん やさしく幽玄に心をとめよ」 ( 『匕の くりごと』 ) れん力ししんけい 遠く中世の連歌師心敬の心につなが るものであろう。 まさおかしき 現代俳句は、正岡子規が近代的文芸意識の下に、 連句を文学に非すとし、個の文学として俳句を独 しやせい 立させ、西洋絵画の方法をそのままとって「写生」 を噛して以来、それを根幹として、部鴻虚子の はんき かちょうふうえい きやくかんしやせい 「客観写生」と「花鳥諷詠」、それに叛旗をひるが みずはらー、つおうし じよじよう なかむらくさた えした水原秋桜子の抒情の解放、中村草田男、加 とうーゅうそん いしだは鬯う 藤楸邨・石田波郷らによる戦前・戦中にかけての にんげんたん、う 「人間探究」、さらには戦後の「生活俳句」「社会性 0 句」っづく今日の統俳句など、さまざまの 旗幟をかがけて変革をつづけ、その成果とともに さまざまな個性的な花を開かせてきたが、同時に それらの旗幟が示すようにおおむね方法論ないし たいしさフろん は対象論に終始してきたきらいがある。子規の近 はぞ こんかん さんぞうし 156
ーイ いんれき のか。陰暦四月十六日から七月十五日までの九十日間、 げぎ工う しゅ - う あんご 仏家で一室に籠って修行する行事を、安居・夏籠・夏行 という。その夏行の始めに、しばらくこのに籠ったと いう意味である。 ばしよう 裏見滝では外に ~ 巴蕉は、 ほレぎす 郭公うらみののうらおもて うら見せて凉しき滝の心哉 などと作っている。 - フ・らみ
漂泊者の系譜 きさめ・た 象潟古図 白河の関の感動 はそみち 『奥の細道』のはしめの所に、「春立てる霞の空 に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心を だうそじん くるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手 につか亠 9 」とい、つ 一節がある。何だか芭蕉自身に “うよく も正体のよく分からない、はげしい票泊の魔のいざ ないを告白した有名な文章であるが、そこで旅の 目標にされたのは「白町の関」であった。 しらかわせき やがて曾良とふたー ) 歩みをかさわて白河の関に か巻な 着いた色蕉は、「、い許なき日かす重るままに、白日 さだま の関にかかりて、旅心定りぬ。」と記す。ここま では旅も序のロで、ここからかいよいよ本舞台だ ぞという、気負いのような武者ぶるいのようなも しらかわ のが感じとられる書き方である。白河の関は「み ちのく」の玄関だから、これは当り前の事だと言 ってしまえばそれまでだが、芭蕉の感動の根はも っと深かったと私は田 5 う。では、ほかに理由があ ったか、たとえば特別に風景のうつくしい所だな 『奥の細道』には、「嶋の月まづ心にかかりて」 ともあり 「松しま・象潟の共にせん」ともあ 上・つーし↓・ きさかた しらかわせき って、松島と象潟が白河の関と並んで主要な目標 まっしま きさかた にされていた。ただ松島と象潟は「笑ふがごとく」 ばしようみわく また「うらむがごとし」の風景美で芭蕉を魅惑し せき しらかわせき たのだが、さびれはてた白河の関にはそんな魅力 はまったく無かったのだ。 にもかかわらす ~ 巴蕉が きもめい なぜここで「旅、い定りぬ」とまで肝に銘したのか、 その理由を考えてみることは、『奧の細道』ひい ては ~ 巴蕉の漂泊の本質を理解する鍵になるであろ ともかく本文を引用して、くわしく説明してみ よ、つ こみもと か尹よ 心許なき日かす重るままに、白川の関にかかり たーり て、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也 ふ・フ : フ 中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心を もみぢ とどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、亠冂 こャゑなは しろたへ 葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、奬の花の かんむり 咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を しャつあらため 正し、衣装を改し事など、清輸の筆にもとどめ 置れしとぞ。 曾良 卯の花をかざしに関の晴着かな この文章は、はしめから終りまで故事来歴を裏 に秘めているのであって、もしその知識なしに読 も、つとすればチンプンカンプンになってしま、つに しオし たとえば「 いかで都へ」と便りを求め ・ロ一わり たのも「断」 ( 当然 ) だと書いているが、これは たいらのかねもり あん 「こよりあ、らばし 安中期に平兼盛という歌人が、 かで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」 と詠んだ故事を念頭においての「断」なのである。 おか 目奇徳衛 さんかん しらかはせき 146
おうーう とうのちゃっじようさねかた 奥州までさすらった藤中将実方の悲劇は旅人芭蕉の心 にとっても無縁ではなかった。雨と疲労とで思いを果す さねかた ことはできなかったが、遠くからでも実方の霊へ一言呼 びかけないではいられない心か、「笠島はいっこ」とい さみだれ う句にこもっている。『紀行』の本文に「五月雨の折に触 みのわ れたり」というのは蓑輪とか笠島といった地名が雨の縁 語になっていることをたわむれたのである。『随行日記』 そらも によると、この日は少し雨がやんで陽が差すような空模 よ・フ 、一たったたかこの句からは梅雨どきのはっきりしない ばんやりと遠く影のように笠島のあたりが浮び上ってい おも る景色を慮い苗けばよい。それと旅人との間に、水かさ の増した五月の田が広がって、道はぬかるみ、それが笠 島まで行くことを拒んでいる。行けないのでなおさら、 かさし上・ ばしト唸っ・、、 - うり 芭蕉の胸裡では笠島という土地の名が、半ばうらめしい 心をこめた激しい思慕と化するのである。 くまみようじん 「桜より松は」の句は五月四日の作。物の隈明神の べっとうじ 別当寺の後に、竹垣をした武隈の松を見に行った。江戸 とうのらゆうじようさねかた 藤中将実方の墓 ( 宮城・名取市 ) かさし上・ かさし↓・ えん ′、さかへきょは・、 せんべっ 出立の時、草壁挙白が餞別に 隈の松みせ申せ遅桜 という句を送ったので、ここから挙白へ返しの一句を送 ったのである。挙の『四季千句』という集に「むさし ころ 野は桜のうちにうかれ出て、武隈はあやめふく比になり ぬ。かの松みせ申せ遅桜と云けむ挙白何がしの名残も思 ちり ひ出て、なっかしきま、に、 散うせぬ松や二木を三月ご し」。夏の季語に松落葉があるので、「妛より」の句は ちり 「散うせぬ松」で夏の句となる。桜はとっくに散ってし ときわぎ まったが、武隈の松は常磐木だから散ることがない、 ちワ いう意味で「散うせぬ松」といったのである。その二木 に別れた松をあなたに見よと言われてから三月越しに見 ちり ることが出来た、といったものだが、改案では「散うせ ぞう ぬ松」が除かれたから雑の句となった。芭蕉は名所の句 ぞう には雑の句があってもよいといったので、これは名所の ぞう 雑の句ということになろう。たが、桜が散ってから三月 かんじよう 越し、というので、勘定すれば夏の句ということになる。 三月越しとはあしかけ三月の意。細道の句の中でも理屈 たちばなすえみち つばい駄句ということになろう。なおこの句は橘季道の 武隈の松はふた木を都人 いかにととはばみきと大口へむ ( 攝赫集 ) とあるのを踏まえており、三月越しにはやはり「見つ」 のういん という意味をこめている。本文に挙げた能因法師の歌は、 隈の松はこのたび跡もなし ( 攝赫集 ) 千歳を経てや我は来つらむ である。 なごり
えちゼん 加賀と越前の国境吉崎の入江を舟で渡って 汐の松を尋ねた丸岡の天竜等に旧知の住 職を訪間金沢から見送って来た北枝とこ えいへいじ で別れ五十丁山に入って永平寺を礼拜した そうとうしゅう どうげんぜんじ 道元褝師が開かれた曹洞宗の大本山である かなざわ わかれかな もの書て扇子へぎ分る別哉 わきく いて脇句「笑ふて霧にきほひ出ばや北枝となく / \ 申侍る」とある。「へぎ分る」とは扇の両面に合せた地 紙をへぎわける意味で、離れ難いものを無理にはがそうと する心のうずきがこめられている。だが、それでは別れの 辛さの表現が余りにあからさまなので「引きさく」と改め せんす た。別離の句を何かと扇子に書いてみては、意に充た いで引きさいてしまう、それほど別離の悲しみが深く、 なごり それは言葉に尽し難いのだ。「扇の余波」「秋扇」「捨扇」な ど、みな秋の季題である。 まうしはべ よ′、し ごおりよし・さき えちぜんり、にさか 汐越の松は、加賀との国境に近い越前国坂井郡吉崎の しおごし はまさカみ、 北潟の入江の西岸にある浜坂の岬を汐越という。芭蕉がこ さい工う さんか こに挙げている西行の歌は『山家集』その他の歌集にも見 よし・さ、」 れんによしようにん あたらないので、蓮如上人の歌ではないかという。吉崎 は上人ゆかりの地であるから、土地の人にきいた歌を心 にとめたのかもしれない。芭蕉は激賞しているようだが、 実景によく合っていることをいったにすぎない。多分、 曾良もこの歌を耳にして「夜もすがら秋風きくや」と詠 ゼんしさつじ んだのであろうか。二人とも全昌寺の僧にでもきいたの しおごし 129
笈の小安須の浦芭蕉翁絵詞伝 などの二千首あまりの作品と後世の伝説を除けば、 まだほとんど本格的に究明されていない状態であ さい - うき わかやま 西行は紀伊の国 ( 和歌山県 ) を流れる紀ノ川のほ しさっえん ふじわら たなかのしさっ とりにある田中荘という藤原氏の荘園で、荘官を ・ 0 し」・フ ちヤ、し 勤めていた佐藤氏という在地領主の嫡子である。 たなかのしさっ 本拠を田中荘におきながら、都では下級武官の兵 えのじさっ とばいんはくめん 衛尉や鳥羽院の北面 ( 護衛兵 ) になっていたが、二 しゆっ 十三歳の若さで出家して画行と名乗る。無常の思 いにかられたとか、失恋したとか、昔からさまざ まな説があるけれども、要は世を捨てて数奇の道 じゅん に殉じようとしたのであろう。能因以来、こうし た非曽非俗の生き方は多くあらわれていた。 さいぎ - う 出家後の長い生涯の間、西行は三十年ほど高野 学しり くまの おおみね 山で念仏聖の生活を送り、その間に熊野・大峰で やまぶししゅ - う よしの 山伏修行をしたり、またしばしば吉野の山中に草 庵をむすんだりしたのち、晩年には蜘に移「て ふたみがうら かわち おおさか いとん 二見浦に隠遁し、ついに河内の国 ( 大阪府 ) 葛木山 ひろかわてら ドやつめつ 麓にある弘川寺で入滅した。 さいよう すき ~ ごみ 西行の心中には月・花のあわれに酔う数奇心と、 どうしん ごんぐじようど 欣求浄土の道心とがつねにせめぎ合っていたよう で、そうした心のゆらぎを真率に告白した所に、 「生得の歌人」としか評しようのない独特の魅力 みちのく ひらいャみ が生まれた。かれは陸奥の平泉まで二度も旅をし、 すとくいん 祖師空と恩人崇徳院の跡をたすねて四国へ渡り、 いつくしま ゆかり深い平家の信仰する厳島に参るなど、当時 としてはめすらしい大漂泊者であったが、その動 すきごころ 機には仏道修行の意志と歌枕をたすねる数奇心と 、 : フさく が、かれ自身にも分別しがたいほど微妙に交錯し ていたようである 風になびく富士のけぶりの空に消えて ゆくえ 行方も知らぬわが思ひかな ー、・フカいー ( ・フ 晩年に東海道を下りつつ詠んだというこの歌は、 しんそっ かつらぎさん さいぎよう 西行の漂泊者としての複雑な内面を最もよく告白 したものといえよう。また、同しく晩年のこと、 ねがはくは花の下にて春死なん もちづき そのきさらぎの望月のころ と詠んで、願いの通り数年後の二月十六日に往生 じえん んぜい を遂げ、友人の俊成や慈円などに深い感動を与え たいかにも月・花のあわれと仏の道の間を往き さい・ ~ - う っ戻りつした、漂泊者西行にふさわしい最期であ あんぎや 諸国を行脚する若いころの西行法師西行法師行状絵詞俵屋宗達筆 さいぎようはうし たわらやそうたっ 150
ア内舞 寺満を 象曷きさかた 旅に出てから、諸国の川や山や、水陸の佳景をたくさ ん賞美してきたが、今私は象潟に心が駆り立てられてい さかた る。酒田の港から東北の方向へ、山を越えを伝い、石 しお を踏んで、その間十里、日影がやや傾くころ、汐風が砂 - 、も・フ : フ ちさつかいざん を吹き上げ、雨に朦朧として鳥海山も隠れてしまった。 さくげん もさ′、 僧策彦が言ったように、「暗中に摸索して、雨も亦奇な り」とすれば、雨後の晴れた景色もまた楽しみなことだ ひざ と、漁師の粗末な小屋に膝を入れて、雨の晴れるのを待 その翌朝、空がよく晴れて、朝日が華やかにさし出る きさかた のういんじま ころ、象潟に舟を浮べた。ます能因島に舟を寄せて、彼 しず が三年間閑かに住んでいた跡を訪ね、その向う岸に舟を つけて上ると、そこには「花の上漕ぐ」と詠まれた桜の かたみ 老木があって、西行法師の記念を残している。水辺に御 じんぐうこうごう かんまんじゅじ 陵があり、神功皇后のお墓という。 寺を干満珠寺と言っ ぎ」・つ、 : フ ている。ここに行幸されたことはまだ聞いたことがない ほうじようすわ どうしたわけでお墓があるのだろう。この寺の方丈に坐 すだれま って簾を捲くと、風景が一望のうちに見渡されて、南に そび は鳥海山が天を支えるばかりに聳え、その影は入江に映 せきじ っている。西はむやむやの関路のあたりまで見え、東に よを築いて秋田 ~ 通う道が遙かに、北には海を控えて なみ しおごし 浪が入江に打入るところを汐越と言う。入江は縦横一里 おもかデ ー↓・つし↓・ 上・つ、し↓・ ばかり、その俤は松島に似て、また違っている。松島は ふぜい 、、さカた 笑っているような風情、象潟は限むような景色である。 寂しさに悲しみを加えて、土地の有様は人の心を悩ます ささ
日本文学史の或一面を確かに物語っているのであ であったか。西一行にしろ芭蕉にしろ、旅に憑かれ る。旅の歌と言えば、「旅にしあれば椎の葉に盛 果てなき旅を思い描いたその一途さに於て、信仰 ひっキ - う 畢竟そ る」とか 「はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」とか 者の情熱とも言うべきものを持っていた。 れもこれも、此島国に於て誰にも懐しい魂の故郷 いう古歌を直ぐにも思い出すのだが、これらの古 歌が我々の想像以上に深い共感を後世人の心に喚である共通の土地に、共通の根生いとして咲き出 び起しているのも、それらの中に民族の本情を的 た華であって、 ~ 巴蕉や西行の真の国民詩人として の、いばえの奧深さを、そういう点からも田 5 いみる 確に突いているものがあるからである。羇旅歌は ち、せん ことが出来るのである。 『古今集』以来勅撰集の重要な部立てであり、紀行 とさ いわなみ 潁原退蔵氏の編纂した岩波文庫本の『芭蕉俳句 文は『土佐日記』以来我国の重要な文学ジャンル せん 集』には、『白馬集』なる撰集の中で夏草の句に であった。道行文は近世の演劇にまで絶えす繰り じよ - っ要、う 冠してある前書を録してある。「さてもそののち 返され、庶民子女の情操の養いとなったのである。 比、鞍馬の寺を忍び 御ざうしは、十五と申はるの 日本文学の伝統に於て、少なくとも庶民の心に最 出、あづまくだりの旅衣、はるけき四国西国も、 も密接に触れ、その生活感情を美しく育て上げて 此高館の土となりて、申ばかりはなみだなりけり」 来た文学の流れは、宗教的な旅行者の種蒔いたも のであって、それは我民族性の上に強い色彩を残 潁原氏の注に依れば、恐らく此集の撰者が付 ったな もちろんばしさっ したものかと言う。此拙い文辞は勿論芭蕉のもの してもいるのだ。流離する神々をさえ思い描かね ではないが、「さてもその、ち」と古浄瑠璃の常 ばならなかった我々の祖先は、どのような心から 套文句を彼の句の感銘から導き出したことにて、 或意味では芭蕉の心懐に期せすして触れているも のがあるのである。 たカたち ・ ) うわか 古浄瑠璃でも幸若でも『高館』は重要な曲目で あった。我民族の生活感情を親しく結合し、民族 性として共通の色に染め上げるのに、宗教的な旅 行者の手で全国津々浦々にまで持ち運ばれた語り 物文芸程、興ってカのあったものはなかったのだ。 よしつわ とは言え西国は平家に、東北は義経に、関東は曾 ひいき 我兄弟にと、郷人の贔屓心の異なるものはあった のだが、同じく悲しい古戦場の跡に手向けられた え・ : フ 民族の廻向の文学である点に変りはなかった。早 せんれん く宮廷文化の洗煉を受けた『平家』は別として、 『義釜記』や『曾我物語』には土の匂が強い。編纂 されてあの大冊をなしたのは京都に於てであると しても、その主要な部分が生れ立ったのは夫々東 へんさん ころ や′だ 私の『義経記』への愛着は、柳田国男先生の「東 北文学の研究』に接した時から始まる。もっと正 おりぐちしのぶ 確に言えば、大学にて折ロ信夫先生の「熊野聖 の文学」という題目での特殊講義を聴いた時に始 まる。同時に舞の本の『部館』の課外演習も受け た。これらから私の『義経記』へのイメージは基 礎を与えられた。『東北文学の研究』は『雪国の 春』に収められているから大方の眼に触れている ことと思うが、私は其頃雑誌の切抜を借りて来て 読んだ。あれ程の『義経記』論を私は未だ知らな いのである。それは熊野の信仰と東北の土地とを 基礎として『義経記』が成り立った様を述べてい るのだが、筆者の『義経記』へ寄せる愛情が滾滾と して湧き出るようである。東北の庶民子女の記 カめ よしつわべんけ ただのぶすずき の中に、如何にして義経や弁慶や忠信や鈴木・亀 北の辺土であり、富士山麓の村々であった。芭蕉 の俳諧精神とは俗談平話の精神であって、そこに は土の香の中に生れ育った庶民子女と感懐を一つ にして、而もそれをばおおらかな心根に包み籠め ようとした者の情愛が豊かに波打っている。彼の 俳諧は直かに深く庶民生活の諸相に触れているが、 それは単に彼等の生活記録と呼ぶべきものではな 。そこでは庶民の生活様相・生活感情の採集者 が、同時にそれへの総合者・組織者として現われ ているのである。だから民芸の大成者と言うべき ぜあみ ちかまっ 世阿弥や近松と芭蕉の位置とは、実はさまで隔っ よう、、・′、じよ・つるり たものではなかったのだ。謡曲や浄瑠璃が何故あ よしつね れ程までに平家や義経や曾我の物語に執着し、繰 り返し同じ畑に鋤を入れて来たのか、こういうこ とを考えてみるのも、日本文学史の重要な一面を 把握することになるのである。 ◇◇ くまの さんろく こ人こん