月山 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 奥の細道
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1. グラフィック版 奥の細道

てわさんざん ばしようしんせき 0 出羽三山短冊芭蕉真積右より とうせい 「涼風やほの三か月の羽黒山桃青」 「雲の峯いくつ崩れて月の山桃青」 「かたられぬゆとのにぬらす袂かな相青」 カーっさん 月山 えがくあじゃり てわ れを休めた。坊に帰ってから会覚阿閉梨の求めで出羽三 たんざく 山順礼の句を一句一句短冊に書いた。その一つ。 しんせきたんざく カ、こめ 真蹟短冊と曾良の『書留』には初五「凉風や」とある。こ れが初案である。「ほの三日月」はほのかに見える三日 はぐろさん 月ということ。三日月にほのかに照らされながら羽黒山 がタ闇の中に神々しい姿を現わしている、といったので、 「凉しさや」が山容のほめ言葉になっている。真夏の昼 はぐろ の暑さが去って、凉しさがたてこめた中に羽黒山の姿を 讃えたのである。 ばしさフがっさん てわ ~ 巴蕉が月山に登ったのは、六月六日であった。出羽三 山の主峰で海抜千九百八十メートル、芭蕉の生涯のうち に登ったいちばん高い山である。山上の角兵衛小屋に泊 べっとうだい あじゃり まり、翌日南谷の坊に帰った。別当代の会阿閉梨の求 たんざ めに応じて、三山順礼の句を三句、短冊に書しオ ) こ。「雲 の峰」の句はそのなかの一句である。 1 主 『奧の細道』に「自 5 絶え、身こごえて頂上にしオ 日没して月現る」とあるので、「雲の峰」の旬は、頂上 でのけしきを詠んだものと思われている。だが、どう見 てもこれは頂上の景ではない。「月の山」とは月山のこ とだが、同時に六日の月のかかったお山でもある。つま り、月光に照らしだされて眼前にはっきりと現われでた ばしよう 雄大な山容である。そこから芭蕉は、昼間に見た雲の峰 のイメージを呼び起こしているのだ。雲の峰がいくっ立 くつくすれてこの月の山となったのであるか、と いっているのである。 「月の山」を目の前にしているけしきと取らなければ、 この句は死んでしまう。世上の解釈に、雲の峰を眼前に しているところと見て、これがいくつくずれたら、夜と なって月の山となるのだろうと解している説があるので、 このことはいっておきたい この句の中心は、月の山な のである。 「月の山」といって、地名の月山を掛けていることに、 現代人はわざとらしさを感ずるかもしれない。「日の光」 とよんで、日光の地名をこめたのとおなしことである。 だが、これはやはり、大国にはいっての芭蕉の挨拶の気 持がこもっていると見ねばならない。感動の実体は月光 それが同時に、月山でなけれ に照らされた山なのだが、 ばならなかったのだ。出羽第一の名山を詠みこむことが、 あじゃり 色蕉の挨拶なのである。それはなにも、阿閉梨に対する 挨拶だというのでなく、この霊地全体に対する挨拶だと 見るべきだ。 てんだいしくわん それに、『細道』の本文には「天台止観の月明かに」と、 につ - : フ てわ がっさん がっさん がっさん

2. グラフィック版 奥の細道

・んど と - フえいざんかんえいじ る。この寺は江戸の東叡山寛永寺に属する。天台止観 ( 天台宗の中心教義。月の澄み切「たりの心境 ) の月が明らか えんどんゅづう に照って、円頓融通 ( 円満で頓速に融通無貶な悟りの境地 ) むね しゅげんじゃしゅぎよっ の法燈をかかげて、僧坊は棟を並べ、修験者は修行をは ごりやく げみ、霊山霊地の御利益を、ひとびとは尊び、また怖れ つつしんでいる。この繁栄は永久に続くようで、めでた いお山と言うべきであろう。 がっさん 八日、月山に登った。木綿しめを身に引きかけ、煢冠 ~ 一 - フりキ、 をかぶり、強力という者に導かれて、雲や霧や山気の中 に、氷や雪を踏んで登ること八里ばかり、さらに日や月 の通路である大空の中に入るかと疑われるほどで、呼吸 も苦しく、身も凍え、ようやく頂上に登ると、日が入っ ささ しのまくら て月が出て来た。笹を敷き、篠を枕として寝ながら、夜 明を待った。朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方に 下った。 降りる途中、谷の傍らに鍛冶小屋とい、フのがある。こ けっさい の国の刀鍛冶が、霊水を選んでここに地を定め、潔斎し て剣を打ち、ついに月山と銘を切って世にもてはやされ りようせん た。かの中国汝南西平県の竜泉の水には焼いた剣をひた かんしさフ したという。呉の名工干将と妻莫耶の昔をしたう、一道 にすぐれた者の浅からぬ執心が知られるのである。岩に つばみ 腰かけしばし休んでいると、三尺ばかりの桜の莟のなか ば開いたのがある。降り積む雪の下に埋れていて、春を 忘れすに咲く遅桜の花の心は、自然の理とは言うものの、 かんさ、 そ・フ いじらしいものである。宋の簡斎が言う「炎天の梅花」 ぎっそんそ、フじよう が、ここに薫るようである。行尊僧正の歌のあわれもこ のとき思い出され、この桜の花のあわれがそれにもまさ かお がっさん

3. グラフィック版 奥の細道

はぐろさ人 つ六月三日羽黒山に登った図司左吉とい みなみだに う者を尋ね南谷の別院に案内された翌日 えくあじゃり べっとう′ごい はんばう 本坊へ上って別当代の会覚阿闍梨に会い歓 はいカ・いかせん 待された続けて九日まで俳諧歌仙を巻いた やまいた はぐろさん 羽黒山五重塔 ( 山形・羽黒町 ) ゅどのさんちゅう って感ぜられるのである。総してこの湯殿山中の細かな ことは、他言することを禁じている。それで筆をとどめ あじゃり てこれ以上は記さない。坊に帰ると、阿閉梨の求めによ たんざく って、三山順礼の句々を短冊に書いた はぐろさん 凉しさやほの三日月の羽黒山 はぐろ ( 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を、南谷の坊 から見ていると、娘何にも凉しい感じである。 ) 雲の峰幾つ崩れて月の山 いっさん ( 月山が月の光にくまなく照らされて、眼前に雄偉な山容 くっ立ち を現している。昼間立っていたあの雲の峰が、い はの くっ崩れて、現われ出た月のお山であるか。 ) 語られぬ殿にぬらす袂かな ( 湯殿山の神秘は人に語ることを禁しられている。その語 られぬ感動を胸に籠めて、ひそかに感涙に袂を濡らすこと ゅどの物って であるよ。季題は「湯殿亠」 曾良 みを山銭ふむ道の溿かな ゅどの ( 湯殿山に詣でる人の賽銭が道々に散らばり、それを踏み ながらお宮に詣で、感涙にむせぶことよ。季題は前に同じ。 ) ずしさきち ・一んどう よぐろさん ■六月三日に ~ 巴蕉は豺黒山に登り、図司左吉 ( 近藤氏、 み′ / だに 号甼山下の染物屋 ) に会い、南谷の本坊隠居所へ同 道した。長い石段道を下り、左へ折れて入ったところに 南谷の別院の跡が、かっての池などを残して遺っている。 た力あしだ この長い石段の道を僧たちは高足駄をはいて登り下りす えカくあ べっとうだい り、別当代の会覚阿 る。翌日の昼時、 ~ 巴蕉らは本坊へ上 はい力いかせん じゃり えっ 閉梨に謁し、そば切りをふるまわれた。本坊で俳諧歌仙 みたみだド を巻き、表六句を詠み、表六句でこの日は南谷に帰った が、その後詠みついで、この歌仙は九日に巻き終った。 ばしさフみたみだー この間すっと芭蕉は南谷に宿泊してこまやかなもてなし を受けた。 「有難や」の句の、初案の結句は「風の音」となって かゼかを いる。「風薫る」という季語はこの時代には新しく、芭 ざゅう ぞうやま かゼか′ [ 蕉が座右に置いた季寄せ『増山の井』に「風薫」を録し なんくん こぶんぜんしやっ て「南薫。六月にふく涼風也。薫風自南来と古文前集に いへり」とといている。「雪をかほらす風の音」で風薫 さいせん

4. グラフィック版 奥の細道

め : っさん 月山に登った木綿しめを身に引き掛けて ごうりき はうかん 宝冠をかぶり強力という者に案内されて 雲や霧のたちこめる山気の中を氷雪を踏 んで登ること八里ばかり呼吸も苦しく身 も凍えようやく頂上へ登ると月が上った み ( だ るという季語を含んでいるが、「風の音」を「南谷」に 改めたのはそこに南薫の語を含むとみたのである。六月 しんじよう もりのてい 二日に新庄の盛信邸で、 - もがみがは 風の香も南に近し最上川 なんくん と詠んでいるが、これも「南薫」の季語をとり入れた発 句である。 はぐろ 「有難や」とは、羽黒山のような霊地に泊まることがで えカくあじゃり あいさっ きたことの謝意を含み、同時に会覚阿閣梨に対する挨拶 でもある。山深いところだからまだあちこちに残雪が見 あ・りカた なんくん られたのであろう。薫風がその雪の香を運んでくる、と いったのだが、南谷という地名を季語の一部としたのは、 、う やはりやや窮した技巧というべきだろう。「風の音」の方 が良かったと思うが、それでは土地の名が入っていない ことが不満だったのだろ、つか まぐろごんデん ばしよう 六月五日 ~ 巴蕉は豺黒権現に詣で、六日は月山頂上まで ゅどのさん 登る。山小屋に一夜を明かして、七日には湯殿山神社に詣 でた。この日付は曾良の『書留』に依ったので、『奧の細 道』本文とは少し違っている。以後十二日まで南合で疲 がっさん / 、オご

5. グラフィック版 奥の細道

カ : っさん 月山出羽三山の主峰処々に万年雪が残 カ : っさんじんじゃ っさよみのみこと り頂上に月山神社があって月 = ロ冗叩をまつる 芭蕉像 も - つわん はっきり書いている。つまり、妄念をやめて、月の曇り のないように明知が現われるということだ。雲の峰がく すれて、月の山が現われでると詠んだ裏には、そういっ た意味がかすかにこめてある。だが、旬がらはあくまで 無邪気で、わらべうたのような語感をもっておおらかな リズムが脈打っている。 要 : フじて ! しよう ゅどのもう 、『己一丁こは「物 5 而此山 色蕉の湯殿詣では六月七日だが糸イ』ー 中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。仍て ゅどのさん 筆をとゞめて記さす」とある。湯殿山の微細は今日でも 秘事が多く、神秘陸を漂わせている。その神秘陸に触れ ゅ ばしよう て ~ 巴蕉も袂をぬらした、というのだが「ぬらす」とは湯 えんご どの 殿の縁語である。三山順礼の句の中では一番感銘の乏し い句が「語られぬ」である 一見するとこの句には季語がないようだが、貞門以来 ゅどのごり ゅどの当って ゅどのきフ 「昜殳一丁」「昜殳詣「湯殿垢離」が夏の季題とされ、芭 しよう 蕉はそれに従ったのである。 力、ごドこめ 曾良の『書留』に、 ふん 銭踏で世を忘れけりゆどの道 とあるのが初案。あるいは芭蕉が手を加えたのかもしれ ない。それにしてもつまらない旬はつまらない句だ。 すかこもしよう 『菅菰抄』に「この山中の法にて、地へ落ちたるものを 取るあたはす。故に道者の投抗せし金銭は小石のごとく、 銭は土砂にひとし。人その上を往来す」と注してある。 地にちらばった銭など ~ 困牙にもかけす、その上を踏み歩 くという超俗的な気持に誰しもなっているというので 「世を忘れけり」といった。改案では、そのような霊山 の有難さに感涙にむせぶ、といっているのである 0 ていもん 0 さかた し・けゅ、、 よぐろ 聊黒を発って、鶴岡の城下、長山氏重行という武士の さきち はい力いカせん 山巻を巻いた。左吉もここま 家に迎えられて、俳諧歌イ さカた で送って来てくれた。川舟に乗って酒田の港に下った。 え・れあんふぎよく 淵庵不玉という医師の家を宿とした。 あつみ山や吹浦かけてタ涼み あつみ ( 南に見える温海山から、北に見える吹浦へかけて、広々 ちょうばう とした海の叫望をはしいままにしながら、タ一保みをしてい る快さよ。あっ ( 暑 ) ・ く ( 吹 ) はともに凉みの縁語。 ) 、わ・かみかは 暑き日を海に入れたり最上川 もドみ ( 最上川の滔々たる水流が、一日照っていた暑い太陽を、 押し流し、西の海の彼方へ押し入れてしまって、凉しいタ 方となったことよ。 ) あかかわ まぐろ よしよう もがみ 0 六月十三日、色蕉は豺黒を出て、最上川の支流赤川 さかた を舟で下り、酒田におもむいた。それから二十五日出発ま とうげんじゅん さかた でおおかた酒田の伊東玄順という医者の家に厄介になっ 本町三丁目横丁の饑宅地内であ「た。俳号を淵庵 げんじゅんてい ふぎよく 不玉という。この旬は十九日に玄順邸で催した芭蕉・不 さんぎんかせん 玉・曾良の三吟歌仙で、二十一日に巻き終った。『継尾 こ - フじようのばんほ . っ ふぎよくわきく 集』 には「江上之晩望」という前書があり不玉の脇句は、 ほ . ら みるかる幾ここ : オ、む帆莚 である。 「あつみ山や」の句は、卸の港に舟を浮べてタ凉みを 0 酒田 つるおか ながやま やっかい つぎお

6. グラフィック版 奥の細道

さみだれ もみカ : わ 0 最上川白糸の滝おりからの五月雨に水 もめ : みめ かさを増した最上川は水勢ますます急とな って流れ下り見る目にも危いほどであった もがみカ : わかせんカ・いし O 最上川歌仙懐紙芭蕉真蹟 「さみだれをあつめてすゝしもかみ川」 しらいと もがみ 最上川の本情を捕えているといってもよい。出羽の国に もがみ はいってから、 ~ 巴蕉は最上川を詠むことにひどく執心し たが、この句に至ってその望みを果たしたのである。 最お川は畆を流れる大河で、色蕉が『紀行』の本文 いなふね に聿日いている「稲・卅」とは、 - もかみ・か 2 いなふね 最上川のほればくだる稲舟の なにはあらすこの月ばかり ( 古今集大歌所御歌 ) うたまくらもがみ によったもの。歌枕最上川の景物として、セットとして よ さいとうもきちおおいしだ おううじゅんこう 詠みこまれる。斎藤茂吉が大石田に疎中、奥羽巡行の め - も、ち 天皇が召されて、話をきいた。その時茂吉はこの歌をと しん、」 - フ りあげて、女の月のものの歌である、と進講した逸話が 、「支 , よ。 , ゑ・ 50 スてく 1 ま ー》し 2 レ てわ 出羽三山でわさんざん まぐろ 1 , しさきち 六月三日、豺黒山に登った。図司左吉という者を尋ね みなみだに べっとうだし えカくあじゃり て、別当代の会覚阿閣梨にお目に掛った。南谷の別院に かんたい 泊め、こまやかに心の籠った歓待をして下さった。 こ - フぎトフ 四日、本坊で俳諧を興行した。 有難や雪をかをらす くんぶう ( まだ残雪のある南谷に、薫風が南から吹き渡って、雪の 香をかおらせる。有難いことである。季語は「風薫る」。 ) のうじよだいし はぐろごんげんもう 五日、羽黒権現に詣でた。当山の開基能除大師は、い えんぎ うしっさとやま ずれの代の人とも分らない。延喜式に羽州里山の神社と ー ) み」しゃ ある。書写の際、黒の字を里と書き違えたのだろうか。 うしゅうくろやま てわ はぐろ 羽州黒山を中略して羽黒山と言うのだろうか。出羽とい みつぎ た一主っ うのは、鳥の羽毛をこの国の貢として献るからだと、風 2 こ」 ゅどの 土記に記してあるとか。月山・湯殿山を合せて三山とす がみ ーしよう ごてんはやぶさ ある。色蕉は碁点・隼などの難所について書いているが、 それは大石田より上流で、その難所を芭蕉が川下りで経 ふるくち 4 わし」あ - い力い 験したわけではない。 色蕉は六月三日本合海から古口ま で一里半ほど舟に乗った。また、十二日には鶴岡から最 あかかわ もがみ 上川の支流赤川を舟に乗って最上河口の酒田まで七里ほ し・らいし」 ひたちばうかいそん どを舟で下った。古口までの間に白糸の滝や常陸坊海尊 力いそんよしつね を祭った仙人堂は今でもある。海尊は義経の家来だが、 たかだち 高館の合戦の時寺参りに行って居合せなかったばかりに、 よしつね いつまでも生きながらえて義経主従の物語を語り歩い 」し、つ 0 せんにん ふるくち がっさん

7. グラフィック版 奥の細道

につこうざん 0 朝日のもれる杉並木四月一日日光山に さんけい 参詣空海大師開山以来ニ荒山の威光は天 下に満ちわたり国土は平穏である今詣で てみると改めて深い感動が呼び起こされる くうかい ねん 御懸念なく、ゆっくり今夜はおやすみ下さい」 何という仏がこのった現世に姿を現して、こんな僧体 こじきじゅんれ、 の乞食巡礼のような者を助けられるのかと、あるじの振 舞に気をつけて見ると、ただひたすら無知・無分別で、 ごうきばくとつじん 正直一点張りの男である。論語に言う剛毅木訥で仁に近 いといった陸質で、生来の清らかさはもっとも尊ぶべき である。 むろ そ - フじゃ むろ ■室の八島は下野国都賀郡国府村大字惣社にある室の むろ やしま うたまくら 大神神社。中世以来室の八島といって歌枕となった。 いかでかは思ひありとも散らすべき むろ やしま ふじわらのさねかた 室の八島の煙ならでは 藤原実方 ( 詠 ) やしま むろ 煙かと室の八島を見しほどに みた , とのとしよりせんざいーう やがても空のかすみぬるかも源俊頼 ( 千載集 ) よ しみず その他煙を詠んだ歌が数多い。野中に清水があって、 その水気がたちのばって煙のように見えるので、ここで よ はもつばら煙を、冰むならいになった。 おおみわ やしま . し一もつけ ・下ぎろも 「あらたふと木の下闇も日の光」真蹟懐紙 日光 さんけ 四月朔日、お山に参詣した。その昔このお山を二荒山 と書いたのを、空海大師が開基されたとき、日光と改め られた。千年の未来を予見なさったのか、今このお山の おんこく 光は一天にかがやいて、その沢は八方にあふれ、すべ ての民が穏な生活を送り、おだやかに治ま「ている。 なおこのお山については、多言は恐れ多いので筆をとど あらたふと青葉若葉の日の光 ( 何と尊く感しられることか。この日光山の青葉若葉にか がやく日の光は。 ) くろかみ 黒髪山は霞がかかって、雪がまだ白く残っている。 ころもがヘ 曾良 剃拓てて黒髪山に衣更 すみぞめ ( 出立の前、黒髪を剃捨て、墨染の衣にかえたが、この黒 かみ ころもがえ 髪山まで来たとき、四月朔日の衣更の日になり、新衣に更 えた、あのときのことが思いかえされることだ。 ) かわい そう ~ ) ろう ばしさつあん ふ力がわ 曾良は河合氏で、惣五郎という。 深川の芭蕉庵のほと すいじせんたく りに軒を並べて、私の炊事洗濯などの仕事を助けてくれ まっし↓・ た。今度一緒に松島・象潟の見物ができることを見び、 また私の旅中の辛労をいたわろうと、出立の早朝、髪を 墨、う . ご すみぞめ 剃って墨染にさまを変え、名も惣五を宗唐と改めた。そ くろかみ ころもカえ ういう次第で、この黒髪山の句があるのだ。衣更の二字 が力強くきこ、たる 二十余町山を登って行くと滝がある。岩ほらの頂から のき ついたち につこ、フ 0 そりす ついたち につ・ : フ - っ・ : っ こうさん

8. グラフィック版 奥の細道

堂・経堂の内部の光景を語っているのみ で、昭和十八年に『奥の細道随行日記』 ってくれたさまを、「蘇生の者に会ふが にすぎない。しかも、実際の地形に反して、 と題して世に紹介され、以後の『細道』 ごとく、かっ喜び、かついたはる」と書 そせき ころもがわ いているが、芭蕉の虚構の旅は、まさに 研究の重要な礎石となった。『奥の細道』衣川が高館の直下で北上川に合流してい ) イ ? 々奇スカへ : 、、 /. べっとう という紀行文が、実際の旅で経験した事るかのように述べ、別当が留守のために 「蘇」のことばのとおり、歴史 ~ の旅、 9 り・んネ 実とはかなりかけ離れた、それ自体一個開帳してもらえなかった経堂の内部に、 ある〔は詩 ~ の旅の中で、さまざまな古・、 0 て、々 , : イ ' ナスカ 独立した文学作品として草されたもので実際には存しない藤原三代の像を拝した人との詩による対話をかさわた果てに、 ふたたび現実の世界によみがえり、現在 かのごとく書いている。芭蕉は、そのよう あることが明らかになったのは、この『随 よしつね に書くことによって、義経への思墓や藤の自分、現在の人々との交わりを、「月 イ日言』の発見以来のことである 出 ひらいャみ 日は百代の過客」という永遠の相の中で たとえば、前引「平泉」の章のもとに原三代への追製の思いを託したのである。 紀行文の中の色蕉は、高の古戦場に再確認しようとしたものだった。それは、 なった旅の事実は、『随行日記』には次 = = ロ 日 0 ' かるみ″の精神を示すために説かれた 立って、そのかみの悲劇の歴史をしのぶ のようにしるされている 一求リ示ノミぐッ ″ ~ 咼語帰俗 , のことばに置き代えること 一十三日、天気明。巳ノ尅ョリ平とともに、さらに「国破れて山河あり、 ら良 おも、 もできる 泉へ趣。山ノ目、平泉へ以上弐里半城春にして草青みたり」と、争乱のただ とろ ゅうもん 何よりも、六百里の路を踏破した果て そうした " 高悟。の高みに立って " 俗 , 中にあっての憂悶を吐露した杜前の詩句 ト云ドモ弐リニ近シ。高館・衣川 に、「旅のものうさもいまだやまざるに」 なる現実を見直すとき、この人生の愚か や、古戦場を望んで争乱の歴史を回顧し 衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さく ひてひら た胡伯雨の詩句を反芻しつつ、「時の移に愛すべき、笑えぬ笑いに満たされたす「世の遷宮拝まんと、また舟に乗」「 ・さくら山・秀平やしき等ヲ見 がこがはっきりと見えてくる。冒頭からて旅立ってゆく、その「わりなき」生き るまで涙を落としはべりぬ」という長い ル。霧山見ゆるト云ドモ見へズ。タ ゆかず 回想の時間の中から、眼前の夏草をとら数えあげてゆけば、船頭・馬方の「日々旅かたこそ、最も大きな笑いでなければな ッコクガ岩ャへ不行。三十町有由。 につこうはとけのござえもんせん つはもの にして、旅を栖とす」る生活、漂泊を定住るまい。あるいは日光の仏五左衛 え直し、「夏草や兵どもが夢の跡」の一 月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主 とうさ、 だい あかず とするありかたからして、すでに矛盾を台の画工加右衛門、福井の等栽ら、もし ニテ不開。金難山見ル。シミン堂尢句を成就する。曾良の『随行日記』が、 なすの いちぶりゅうじよ りゃうごうゐん くは那須野の小姫、市振の遊女ら、さま 空間的な旅の事実の記録であるのに対し含んでおかしい。しかもそれは、ひとり船 量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。 詩人として純ざまな人々とのふれあいの中で発見され 曾良とともに見聞したこれだけの事実て、芭蕉の『奥の細道』は、歴史への旅頭・馬方のものではなく、 ひかり ばしさったかだち の中から、芭蕉は高館よりの眺望と、光の幻想の中で、古人の、いごころを反芻す粋に人生を生きようとする者に課せられた、とりどりの人間模様。 それらを、古人との対話を交えながら、 た宿命的な生きかたでもあるのだ。 ることを通して現在をとらえ直そ、つとし れんく さながら連旬における付合の呼吸にも似 の巷に離別の涙をそそぐ」 この世を たもの、も一ついいかえれば、現在の一 紙 た自在の連想の動きに託してくりひろげ 瞬を生きる自己の生を、永劫の時の流れ幻の巷と諦観すれば、そのはかない人生 色 蹟 いく、そこにこそ、王朝の紀行とも、 におけるかりそめの別れに涙する要はて の中に位置づけよ、つとしたものにはかな 真 みちゅき らなかったといっていし ないはすと知っていても、涙がこばれて中世の語り物文芸の道行とも違った、ま ぞ ひらいャみ 秋 さに笑いの文学としての俳文紀行独自の しようがない、それも人生の笑えぬ笑い それは単に「平泉」の章のみにかぎら めんばく 「さりがたき面目があったといえる。「奥の細道』を 一別す、実はこの紀行文における色蕉の虚構のすがたであれば、また、 はなむけ み 、イプルを読むよ、つなしかつめらしい顔 「各大の煩ひ」 の旅の基本的な姿勢を物語っている。色餞」を「うち捨てがたく」足、一 おおドき ふ と困惑するのも、愚かにも愛すべき人生で読むのはまちがいだろう。 蕉は『奥の細道』の最終章「大垣」のく の ( 東京教育大学助教授 ) だりで、多くの門人たちが自分を迎えとの真実であろう。 .3 さる あるよし 0 し人せき わら ふじわら きたかみ はんすう 0 ていかん すみか こひめ 161

9. グラフィック版 奥の細道

奥の細道 日光路 序・ 日光・ せっしようせきあしの 殺生石芦野 : 。し・らか . わ 白河 : さしフしよ、フド ) 佐藤庄司が跡 : つばのいしぶみ 壺碑・ ひらいずみ 平泉・ 出羽路 尿前 もがみわ 、さかた、 象潟・ 目次 〈ロ絵〉三画一軸旅路の画巻・松尾芭蕉筆芭蕉画像・小川破笠筆奥の細道屏風・与謝蕪村筆芭蕉翁絵 詞伝・象潟・狩野正栄筆芭蕉翁絵詞イ 云・親不知・狩野正栄筆 すかカわ あさか しのぶ 百 ( ロ員日 浅香信夫 : みやぎの ・さか力さし - またー 宮城野 : 鮫坂笠島武隈・ ↓まっし↓ 6 しおが↓ま 品塩竈・ 松島・ : ~ 咼館芭蕉を招いたみちのくの哀史 : 那な出 須す立 おばなざわ 尾花沢・ てわさんざん 出羽三山 : - 里草 ・手声う上→む - 云・ん . 至、ろ 巌の 寺じ八や 島 立石寺 : さカた 酒田・ : りつしやくじ

10. グラフィック版 奥の細道

北陸路 えちご 越後 さカた なごり 酒田の人々と名残を惜しんで日を重ねていたが、これ から出で立つべき陸道の空を遠く望み、はるばるの旅 かなざわ の思いに胸を痛めた。加賀の国府金沢までは、百三十里 わず えちご と聞いた。鼠の関を越えると、越後の地に足を踏み入れ、 えっちゅう いちぶり 越中の国市振の関に至っこ。 オこのあいだ七日、暑さと雨 との辛労に、いを悩まし、病気が起って、出来事を記さな 文月や六日も常の夜には似ず ( 七月と言えば、六日もふだんの夜とは違って、はなやい だ気持がする。六日は七夕の前夜である。 ) ふみづき 越後ーー大垣 荒海や佐渡によこたふ天の日 いずもざき ( 出雲崎から日本海の荒海を望むと、かなたの佐渡が島へ かけて、天の川が大きく横たわっている。 ) なおえっ ふるかわ ■前句は六日直江津での作。その日は宿は古河屋で、夜 に入って人々がききつけ尋ねてきたので、この句を発句 れん 力、、 ( め なお にして連句を巻き、『書留』には二十句ほど記している。直 江津ではゼダの前夜も賑かな祭をする風習があ「たとい けんぎっしよくじよ う。だがこの句は牽牛織女の二星が一年りに会うとい う前夜だから、空の様子も常の夜とは変って、なんとな くなまめいた趣に見え、おのすから心がときめいてくる といったのである。六日の夜、はや星の光も、天の河の 一万第 川ん 悪まも・・トイ ヘ : を物 キ今山 4 、 る学へー 【て石 トに , 龕幡 あま おもれ当 さ′一 あま ほっ 104