奥の細道 日光路 序・ 日光・ せっしようせきあしの 殺生石芦野 : 。し・らか . わ 白河 : さしフしよ、フド ) 佐藤庄司が跡 : つばのいしぶみ 壺碑・ ひらいずみ 平泉・ 出羽路 尿前 もがみわ 、さかた、 象潟・ 目次 〈ロ絵〉三画一軸旅路の画巻・松尾芭蕉筆芭蕉画像・小川破笠筆奥の細道屏風・与謝蕪村筆芭蕉翁絵 詞伝・象潟・狩野正栄筆芭蕉翁絵詞イ 云・親不知・狩野正栄筆 すかカわ あさか しのぶ 百 ( ロ員日 浅香信夫 : みやぎの ・さか力さし - またー 宮城野 : 鮫坂笠島武隈・ ↓まっし↓ 6 しおが↓ま 品塩竈・ 松島・ : ~ 咼館芭蕉を招いたみちのくの哀史 : 那な出 須す立 おばなざわ 尾花沢・ てわさんざん 出羽三山 : - 里草 ・手声う上→む - 云・ん . 至、ろ 巌の 寺じ八や 島 立石寺 : さカた 酒田・ : りつしやくじ
ばしよう 芭蕉筆旅路の画巻 ばしよう 芭蕉筆旅路の画巻 渡し場 旅寝する芭蕉と従者 142
芭蕉筆旅路の画巻 城下町の街道 すげいさ しぐれ 芭蕉筆旅路の画巻 菅笠をおさえる芭蕉 時雨の中 143
まつおば [ よう 急流を流れる筏と山峡を行く芭蕉 松尾芭蕉筆柿衞文庫蔵 三画一軸 芭蕉筆旅路の画巻 ばしよう いかだ ばしよう
やまなか です。山中で曾良は芭蕉と別れ、一人 曰兄弟の嫁坂に藤原秀衡の臣佐藤・山形美術博物館蔵与謝蕪村筆 : 彖ー函表■ つか もとはる 元治の城があった。義経に従った、そ 先行しますが、あれは長旅の労れで気 ま奧の細道画冊夏草小杉放菴筆 つぐのぶ ただのぶ の子継信・忠信が戦死したので、悲し 六曲中屏風一隻。狭い天地によくも持が険悪になったのさ、というのが放 目杉一雄氏蔵 わか , りか、 かっちゃっ かいたものである。よって画は少なく む母親を嫁若桜と楓が夫の甲冑をつけ 菴居士の説です。でも兼六公園でその ■函裏■ 力いじん あくたがわ。ゅうのすけ 凱陣の姿をして慰めた時の姿。蕪村は九景、兵庫の豪家で蕪村の門人であり、 夏自殺した芥川竜之介の故居を見た時 蝉塚山形県立石寺 はしんみりしたようです。日本中描い 白石の古寺の一一人の人形から発想した。 後援者であった北風來屯のためにかい ■表紙裏見返し■ あんえい ー ) おが↓・ 琵琶法師五月八日塩竈に泊った夜、 たもの。安永八年の作である。これもてない所のないような放菴居士ですが、 素龍清書本奥の細道西村弘明氏蔵 おくじ - フるり 隣室で法師が奧浄瑠璃を語るのを襖を画巻のうちの秀作。重要文化財に指定 この「奧の細道画行」は気に入ったらし ■片かんのんロ絵・ 芭蕉をかかす余白でムされている。 、前後二通りの画冊を作っています。 旅路の画巻松尾芭蕉筆柿衞文庫蔵隔てて聞いた。 ードを出している。 ■芭蕉翁絵詞伝・ ■その他■ たかだち ひらいずみちっそんじ ・出光美術館蔵野を横に詠草 : 国平泉中尊寺に詣った際、高館に登・義仲寺蔵狩野正栄筆 : ・奥の細道画巻・ つはもの 何云宛芭蕉書簡・ 「夏草や兵どもが夢の跡」とよんで ・逸翁美術館蔵与謝蕪村筆 : ふじわら 5 . 8 . . 絽 . っこ つ」 8 8 奥の細道平泉小杉放菴筆 : 藤原一二代の栄華をしのんだ。その景で ぶそん 芭蕉顕彰につくした蝶夢が翁の略伝・芭蕉翁記念館蔵芭蕉遺言状 : 本点は蕪村筆の『奥の細道画巻』のある。 おうう あんえい 一つで、彼六十四歳の冬、安永八年に因尿前の関五月十五日、奥羽山脈のを記し、それに照応した画を法橋芭蕉画像小川破笠筆・ した。が旅券のことで正栄にかかせ三巻としたもの。三十三蕉門高弟図録 : 門人黒柳維駒にかいて与えたもの。蕪厖前に着、 し」カ 村は尊敬する色蕉の傑作を後世にのこ関守に咎められた。大雨にあった。表画はすべて極彩色の密画である。寛政古里や臍のを句切 : ぎちゅうじ 日本から裏日本へと効果的な暗転演出五年の芭蕉百回忌に義仲寺へ奉納した。 俳諧七部集 : すため、挿画を加えて十本はどかいた をねらったのである。 目で見て芭蕉生涯を知るに便宜である。 ・人文社蔵日本海山潮陸図元録四 と思われる。本巻はその中の最長のも ・ 0 CO 7 ー のである。画が多く十四面ある。だか囮曾良と別離八月五日、曾良は腹をそのうちの・壺礪・湯殿山・象・年版 : おやしらず ら勢い長尺となった。この頃は芭蕉百病んで山中温泉から伊勢へ先行する。 親不知・多田神社などを掲載した。本・橋問久助氏蔵草の戸も短冊 : ・木村九兵衛氏蔵日光山懐紙 : は別に三冊本として公刊されている。 年忌が近づ いたので、 ~ 巴蕉志向の運動その離別の場。この画だけが俳画手法巻 ・吉田幸一氏蔵奥の細道画譜松本 が高揚した、その一つのあらわれ。左でない。それは両人の切なる心情表現■奥の細道画册・ . 7 ・ . 8 のためか。 交山・田中朗卿筆 : 0 乙 4- 4 ・小杉一雄氏蔵小杉放菴筆 : の九景について説明する。 ぜんしさっ 7 . 0 . (D . 8 . 0 0 . 00 . 4- . . CD っこ . 8 . 0 L.n ロ 0 7 ・ 7 ー 8 囚全昌寺先夜曾良が泊った。芭蕉も っムっこっこ CO (V) CO 4- 曰旅立 ~ 巴蕉が「行春や鳥啼魚の目ハ たえだ りゅうべっ せんじゅ 文政五年板奥の細道 : 泪」の留別の句をよんで千住を出発す一宿して出発しようとすると修行僧が 錦百人一首あづま織勝川春草筆 : 彼を囲んで句を請うた。そこで「庭掃 るところ。黒衣は随行者曾良である。 ほうあん 先考放菴居士が『奥の細道画冊』を ・麻生磯次氏蔵かさしま懐紙 : いて出でばや寺に散る柳」の句作りし 見送る人と行く者との離別の情がよく ゅうけ、 4 . LD 描こうと思いたったのは昭和二年秋の 0 ) 0 ) ・本問美術館蔵酒田港古図 : ・ 雄勁な筆力の画である。 窺われる。 おおドき とうきゅう すかがわ ことでした。同行は弟子すしに当る静玉志亭懐紙・ ロ軒の栗須賀川駅の里長等窮の案内 g 大垣の如行宅長旅の疲れを藩士近 ざんきしなみひやくそうきょ どうじよ - 1 う 8 で街路に面した栗の大木によせて小屋藤如行の家で癒した。門人衆も集まり、山岸浪百艸居です。翁と曾良とを気取象潟古図 : ちっこ せせんぐう お , よ かしん ったものとみえます。 ・東京国立近代美術館蔵屋島の義経 翁の肩を叩くのは少年竹戸。伊勢遷宮 を結び隠棲する可伸を訪れ「世の人の 丈夫な二人ですから当時の紀行を読松岡映丘筆 : を拝むため「蛤のふたみにわかれ行秋 見付けぬ花や軒の栗」の句を与えた。 こレ一と ・瑠璃光山医王寺蔵弁慶の笈・ : 全巻の画は俳画の特長として悉く背景ぞ」の句をのこして、九月六日また旅んでも、翁の『奥の細道』にある悲壮 とうさ に出た。 感はなく、風景がよければ其処を泊り 義経と佐藤兄弟岸邨翼筆・ : をかかないが、ここと福井の等栽庵だ ときめるなど、羨しいほど楽しげな旅・中尊寺金色堂内陣中央壇・ 、クがえがかれている。 ■奥の細道屏風■ やまなか いざかふじわらのひてひら よしつね さとう きむろ かんせい 166
図版目録 ・大石田町東町蔵大石田古図 ■「奧の細道」の諸本■ ているようだから、それを呈しよう。 ・佐藤茂兵衛氏蔵最上川歌仙 : 今、伊釶の兄の家に預けてある。もし 『奥の細道』の定本とされるものは、 つるめ にしむらひろあき そりゅう ・山形美術博物館蔵出羽三山短冊 : 敦賀市の西村弘明氏架蔵の素龍清書本私が死ななかったら返してはしい」と ・柿衞文庫蔵象潟懐紙 : 言ったので、去来の手に移った。芭蕉 ( 重要文化財 ) である。所在不明であっ 荒海や・稲の香入句切 : は成本を得てから僅かの日しか手元に たが昭和十八年に発見された。これが みちの 本 芭蕉旅立ちの画像森川許六筆 : 無事伝存したのも西村家が道野村の一置いていなかった。ところが去来の没 つるカ 後親戚の久米氏に移り、その娘が敦賀 三画一軸中の旅路の画巻松尾芭蕉筆軒家であったためか。 へ縁付く時に几遊へ聟引出として持参。 一月へ一り八、の》」物 ) イ 11 ~ 柿衞本奧の細道 : それから重縁の琴路に、そしてまた西 むらやかく 。・』 / ) 人人ーもネのよュす ・天理図書館蔵あかあかと自画賛 【 1 づ、 , 下と , : をッ - ズらの 頭村野鶴に移動したのである。つまり芭 冒 曾良随行日記 : 蕉の手沢本として最も権威あるもので 曾良本奧の細道 : 本ある。この本がまだ京にあった頃、書二十号参照 ) 。調べを進めると疑いのな そ。ゅう ・多田神社蔵実盛の甲 : 清肆弗筒屋がこれに着目して元禄末年に い素龍の筆である。異同が多い。その点 , ャ , 譱リいっ / 一、すり・、 2. 勹・、一去の乢、ー、龍 ・石川県美術館蔵山中温泉懐紙 : 素上梓した。ところがベストセラーであを究明して三者の順位は、曾良本が最 おくカ にー」む・ら ・建聖寺蔵芭蕉木像北枝作 : ったらしく明和七年に蝶夢が奥書きをも早く、柿衞本は西村本との中間に位 かんせい ーこ、ー I ー・ - りー朝よっ ・蚶満寺蔵象潟古図 : 加えて重板し、更に再板本を寛政元年置することがわかる。異同の考証は省 略するが、それによってあれこれ疑問 ・逸翁美術館蔵芭蕉画像与謝蕪村卩Ⅱに出した。以後も諸種の板本が出たが、 にしむら イ - ・つかい 筆・・ 点が水解されるのである。 筆すべてこの西村系の本である。 にー」む・ら ・渡辺昭氏蔵西行法師行状絵詞俵 素龍の書風は西村本よリ古典的であ 別にお蜘諏の久保島若人が曾良の遺 芭 屋宗達筆 : るが、書癖は全く合致する。察するに 品として所持した『曾良本奥の細道』 そりゅう ・本隆寺蔵洞哉筆遺文 : ・ がある。今はた図書館の蔵である。 これは初め素龍か書いて芭蕉に見せた ・つかん はいカ、ーん ・高見沢研究所蔵蛤の句色紙 : 、、ト皆本はもっと気楽なものにして 西村本とは若十異同があって興味が多が 紙 ・富嶽三十六景葛飾北斎筆 : 河西家に伝わる河西本もこの系統はしいとの希望があって、その意味に に属する。 叶う様に改めたのでないかと思われる。 ・撮影・ 叫村本が普通半紙でであるのに対 市瀬進 / 猪野喜三郎 / 木下猛 / 関孝 / し、これは厚手鳥の子料紙の大和綴で 色蕉は「奥の細道」の旅を終ってか 亠 , い・ : フ げんろく あり、書風も西村本はに、権衞本 坂口よし朗 / 島津久敬 / 薗部澄 / 米田ら五年間推敲を重ねて元禄七年に成稿 頭 ゅうがてれ、 じようだいよう 冒 は優雅典麗になっている。 太三郎 / 世界文化フォト / ダンディフを得た。それを門人で上代様の能書家 かしわぎそ 0 ゅう 本 或いはまた別の推定を加えると、素 柏木素龍に清書をさせた。出来上った ずだ 曾龍は師色蕉から傑作文の書を委嘱さ のが初夏 ( 四月 ) である。それを頭陀 ■編集協力■ れたので、その機会に自家用本として 大原久雄 / 角川書店 / 義仲寺史蹟保存に入れて測、花 ~ の旅に五月十一日出 一、二同時に写したのではあるまいか 発した。閨五月末、嵯峨の落柿舎に投 会 / 玉井昭三 / 中野沙恵 力、、ー 0 り もう一つ柿衞文庫蔵の素龍筆の『柿柿衞本には本文の終りに「芭蕉菴主 ■地図作製・ した。芭蕉が『奥の細道』を去来に見 せたのはこの時であったろう。のち十衞本奥の細道』がある。これは昭和三記之」と素龍が書いている。これは他 蛭問重夫 月、色蕉は浪花の病床で見舞に来た去十四年に、ある店頭に塵まみれでいた本には絶対に見ないものであリ、注目 ■図版監修■ 飛に「そなたは「奥の細道』を熱望しのを発見したもの ( 「連歌俳諧研究」第されている。 岡田利兵衞 / 中村溪男 / 宮次男 かぞう しんせき わず ちり 167
那須野を行く芭蕉と曾良 25 馬のあとを走って来るふたりの子供 芭蕉翁絵詞伝 狩野正栄筆
おやしらず いちぶり 親不知の難所と市振の宿の遊女 = 芭蕉翁絵詞伝狩野正栄筆義仲寺蔵
きさかた らようかいさん ばしようおうえことばてん ぎちゅうじ 鳥海山と雨の象潟 芭蕉翁絵詞伝狩野正栄筆義仲寺蔵
吉中暉尾円池 行村峻崎地田 淳真 之一康秀文 介郎隆樹子郎 はりつ 門人破笠の描いた芭蕉像小川破笠筆 ばしよう