越え - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 奥の細道
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1. グラフィック版 奥の細道

ーイ さフへ 「荒海や・稲の香や」芭蕉自筆草稿 一面にそろった早稲の穂波 ( 富山・高岡市 ) たかおか 岸をそれて高岡へきた。 ありそうみ 有磯海というのは、もともと普通名詞だ。海が荒く、 やかもち 岩石の多い磯ということ。家持が歌によんでから、固有 名詞としての語感をもつようになり、 歌枕とされた。 あびじようし 伏木港から西、阿尾城址あたりに至るまでの海岸で、そ あらいそ 、わさきはな よしつわあまらしいわからしま のなかに、岩崎鼻や義経雨晴岩や唐島などが、荒磯の点 景になっている。色蕉は、見かえり見かえり、有磯海に えっちっ 、いを残しながら歩いていった。米どころ越中は、ちょう わせ ど早稲の季節であり、そのたれた穂のあいだを、かき分 いく。日にはえる黄色の柵槽の けるようにして進んで 波、その右手には、初秋の海がかなたに輝いている。そ のようなにおいたっ明るさが、この句から感しられる 「加賀の国へ入る」として、紀一丁にはこの句がでている えっちっ ところから、これは越中と加賀の国境の倶利伽羅峠あた りでよまれたのだろうという説がある。私は数年前 この地方の青年が、峠から右手に夢のように見える湖水 のと おうち・カた 能登の邑知潟を認めて、 ~ 巴蕉は例のフィクションで、 ありそうみ 有磯海にしてしまったのだと主張するのをきいた。最近 せいせんすい では井本農一氏がたしか倶利伽羅峠説だ。井泉水氏は、 えっちっ 越中平野へはいってきてから、たえす見ていた海辺風景 と、山へはいって加賀へちかついてきた気持とのモンタ ジュだという。この前文が、解釈者を倶利伽羅峠にこ だわらせるのだ。 のう だか、ここでは加・越・能を一括して、加賀といった かカ - ま・えだ のだ。ことに呉西の地にはいると、文字どおり加賀前田藩 の領分になるのである。色蕉は、大国へはいった挨拶句と とやま して、古くからの歌枕をもってきた。実際は富山湾の ふしき もとの - フいち 111

2. グラフィック版 奥の細道

O 八月五日曾良は大聖寺にひと足先におも ゼんしようじ 師に別れ むき町はすれの全昌寺に泊った 一晩中眠ることができす寺 たさびしさに の裏山に吹く秋風の音を聞いて夜を明かした 0 全昌寺 離の思いもひとしお深いものがあった。笠に「乾坤無住、 同行二人」と書いてある書付を今日からは消そう、笠の じゅんれい 露で、という意味。この書付は一人旅の巡礼でも書いて いて、同行二人とは、仏と自分と二人、という意味なの だが、ここではその意味をすらせて、曾良と自分と二人、 という意味にとったのである。露で秋季となる。 そらだいしさフじおもむ 八月五日、曾良は大聖寺に赴き、町はすれの全昌寺と っ寺に泊った。翌朝、曾良が発った後、 ~ 巴蕉もまた北 こ - まっ 枝と小松からやって来て、この寺に泊った。その時曾良 よもすから ぜんしよう かこの全昌寺に書き残して置いた「終宵」の句を見た。 一人でこの寺に泊ってよもすがら眼が冴えていろいろの 思いが駈けめぐって眠れなかった。寺の裏山には秋風が 一晩吹き続けた、というので、秋の夜の旅情がしみ通っ よもすから た旬である。色蕉もよはど感動したとみえ、「終宵」の / さるみの は『 ( ~ 異』に一用している せみしようし 八月六日に全昌寺に泊った ~ 巴蕉が、朝出立する時、こ のお寺に書き残した・旬か「庭掃いて」の旬である。大 しさフじ えちぜれの ( に かかの′、・ 聖寺は加賀国の西のはずれで、ここを越えれば越前国へ かカまえだはん まつだいら 入る。ここは加賀前田藩ではなく、松平藩七万石の町で ある。 寺に一宿した時は、翌朝出立する時寺を掃いて仏恩を 謝するのが仏家の法であるという。色蕉は朝の食事を終 えてすぐ出立しようとしたのだが、折から庭の柳が散り かかったので、せめて、この庭を掃いて感謝の気持のい く分をあらわして発ちたいものだ、といったもの。「卯 、り 散る」は「桐一葉」と同じく秋を報せるものとして、特 別に秋の季題にたてられている。 ぜんしさつじ けんこん 126

3. グラフィック版 奥の細道

す力ナ 高館 芭蕉を招いたみちのくの哀史 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里 きんけいざん ひてひら こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山の きたかみがは まづたかだち み形を残す。先高館にのほれば、北上川南部よ ころもドは り流る、大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、 やすひら 高館の下にて大河に落入。康衡等が旧跡は衣が 関を隔て、南部口をさし堅め夷をふせぐとみえ 偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一 く巻しら 時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして 草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を 落し侍りぬ。 つはもの 夏草や兵どもが夢の跡 ひらいャみ 『奥の細道』の中でも平泉のこの一節は、知らな 0 へだぞ さて えいえう えぞ だいもん い人も少ないだろうが、読み返す度毎に新しい感 動の高鳴りを覚えるのである。千里に旅して古戦 おきなじよう力い 一ーや た去だ 場の跡に万斛の泪止めあえぬ翁の情懐の深さ、濃 かさを、夏草の一句の響きの中には読み取ること えいようわわただ ひらいャみ が出来るのだ。平泉三代の栄曜と慌しいその没落、 殊にその没落劇中のクライマックスとも言うべき たかたち 高館にける義経主従の悲しい最後ーーー草深い陸 奥に語り伝える民族の哀史が、恐らくは翁の此度 どうそじん はついん の大旅行発願に当っての「道祖神の招き」なので のういん はなかったか。秋風吹くと能因法師の歌に名を止 しらかわ すて たいてん めた白河の関を打ち越えることが、既に不退転の 一大決意を要した。同行の曾良に止められて思い ちしま えぞ 止りはしたが、蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも はや おんぞうし と彼が思い逸った時、『御曹子島わたり』の跡を 慕う心が仄かに在ったかも知れぬとさえ思うので ある。 よしつね 民族が生活を営んでいるいや果ての地帯に義経 への信仰と物語とが根を卸し、『義経記』のよう ひそ よしつね おろ よしつわ 屋島の義経松岡映丘筆 みち な文学を華咲かせたということは、一つの驚異と よしつね 思えたであろう。あちらの素朴な村人達が、義経 主従の物語をあのようにも暖く育み世々語り伝え て来たかなしいしおらしさは、人情風俗の機微を 知り尽したあのわけ知りの「をきな」の魂に触れ ひらいャみ なかった筈はないのだ。『奥の細道』は平泉、既 たかたちちっそん ち高館と中尊寺とがなかったら、仮に笑うが如き ↓ - っー」↓ - きさかた 松島、恨むが如き象潟の絶景があったとしても、 ひらいャみ 感動の意味は弱いであろう。少なくとも平泉の件 りに細道の旅の頂点を見ることは、先に引用した なっとく 一文の響きの高さからも納得してよいことだ。そ してそれは同時に芭蕉の打ち樹てた俳諧精神の或 本質的な面を捉えることにもなる。日本全国の土 に根ざしてしおらしく、また豊かに咲き出でた庶 民子女の美意識の発見、そしてそれへの驚きと共 - うはく 感との深さが、少なくともあんなにまで漂泊の田 5 いに誘われ続けた彼の心情の根にはあったのだ。 旅は単に未知の風光に接することだけではない。 それはまた人間の歴史と運命とを我々に教えるの ぎんこう である。吟行なんぞと称してけちな風景画を探し しよせんばしさフ て歩いている手合は、所詮芭蕉の旅を栖とし、旅 に果てることを田 5 った悲しい、いばえとは無縁であ る。月日は百代の過客にして、行き交う年も旅人 っ との述懐には、芭蕉が、神に憑かれたように票泊 の境涯を思いつめた詠歎が打ち籠っている。「命 なりけりさやの中山」と歌った人は、彼が片時も 思いを離さなかった文学系譜上の先達であった。 そうぎ ば、 - うせんー・う さい・・う が、芭蕉の先蹤は何も西行や宗祇だけではなかっ ありまのみこ ひとまろあか おみのおおきみ たのである。有間皇子・麻績王、または人麿・赤 くろひと なりひらたかレらさわかた ひと 人・黒人の昔は問わぬとしても、業平や篁や実方 ずみしきぶ や、或は小町・和泉式部と言った王朝高名の詩人・ - : フひ 文士・美女たちが、諸国のロ碑に依って広汎な足 跡を残した旅行者として印象づけられているのも、 えいたん せんだっ さき

4. グラフィック版 奥の細道

世様 れ石、 文の 摺を 説摺す 出出 つつ は 後黒塚の岩屋老いた鬼女が住んだという岩屋 あさか あさかやま ひわだ 0 あさか山は磐代国安積郡日和田町の安積山公園のあ る丘だという あさか山影さへ見ゆる山の井の 火き、いを我か田 5 はなくに うねめまんに↓フ 采女 ( 万葉集巻十六三八宅 ) うねめ この歌については葛城王と采女との伝説が伝えられて 「あさかの沼 いる。またあたりの沼をあさか沼といし : フしようじ こ詠まれた。今は東勝寺のあ の花かつみ」といって古歌 ! = たりの田んばをこの沼の跡ともいう。 みちのくのあさかの沼の花かつみ 、一きん かつ見る人に恋ひや渡らん読人知らす ( 古今集 ) いわしろ かつらぎおう くろづカ・ この花かつみは古来は真菰の花だといっている。 あぶくまがわおかべ ばしさフふくしま 五月二日に、芭蕉は福島を立ち、阿武隈川の岡部の渡 りを舟で越え、山の谷あいを十七、八丁 ( 一・九ー二キロ ) もじずりいし しのぶ はいって信夫の里の文字摺石を見た。ここはむかしから、 奧州の歌枕にされていた。 みちのくのしのぶもぢすり誰ゅゑに 乱れそめにし我ならなくに みなも”あとおる という河原の左大臣源融の歌が、百人一首にはいってい しのぶ る。名物であるもぢすりぐるみ、信夫の里は歌枕と考え られた。釶群とい「たら若紫ゃうけらが花を、最上川 いなふね あさか といったら稲舟を、浅香の沼といったら花かつみを連想 するのとおなじである。 しのもぢすりとはなにか。むかしからいろんな説が 立てられている。もぢという薄布に、しの京の葉をたた きつけて、その形を模様にしてすりだしたもの。『伊勢物 かりぎね 語』の業平は、しのぶずりの狩衣を着ているが、しのの おみごろも 葉形は小忌衣の模様であった。石に草の汁をつけてすり だすというのは、後世のことで、それからもぢすり石の イ一三カできあがったのである せんさく もちろん芭蕉は、そんな穿鑿などしたわけでなく、土 地の伝承にすなおにしたがって、石を見に行ったのであ たんざく る。「早苗とる」の句はそのとき、短冊に書いて、加衛 門加之という人に与えたらしい。最初の形は、 さをとめ 五月乙女にしかた望んしの摺 というので さなへ 早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺 というのが第二案である。だんだん表現が純化していっ なりひら ずり

5. グラフィック版 奥の細道

のういんはラし 「秋風を耳に残し」という句は、能因法師の「都を は霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 おもかげ もみぢ という有名な歌を踏まえている。「紅葉を俤にし げんざんみよりまさへ、 て」という句は、源三位頼政 ( 家打倒の旗上げを して敗れた武将 ) の者 : 「にこはまだ亠冂葉にて見しかど も紅葉散りしく白河の関」による。この秋風や 紅葉と重ねあわせてはしめて、眼のあたりに見る 「青葉の梢」が芭蕉の感動をさそったのである。 松島芭蕉翁絵詞伝 色蕉の眼には「卯の花」や「の花」が映って いたが、それをも雪の関路を越えた多くの古人へ の回想と関連させる。そしておしまいは、むかし にゆき 竹田大夫国行という人が陸奥に下った時、関を過 し」唸っそく ぎる日とくに装束をひきつくろったという故事を ふじわらのきょすけ へいあん 思い出した。これは平安末期の歌人藤原清輔の『袋 のそうし 草紙』にみえる話で、なぜと問われた国行は、「あの のういん 能因法師が秋風ぞ吹くの名歌を詠まれた場所を、 どうして普段着のままで通られようか」と答えた という。曾良の句もこの故事を踏まえて、ではせ めて私などは卯の花でも笠につけて晴着の代り しましよ、つと丿 、什諧めかしたので、師弟ともども 古人・古歌にとり憑かれたおもむきである。 みなもと 白河の関での感動の源は、風景美ではなく、歴 史であり古典であった。 名所・歌枕の成立 代々の古歌に詠みこまれ、数々の逸話にいろど られたこうした場所が、「名所」であり「歌枕」 である。色蕉はみちのくの名所・歌枕を求めて、 はるばると「前途三千里」の旅に出たのであった。 ひょうはく そこで『奥の細道』の漂泊をもたらした精神の系 譜を明らかにするためには、さしずめ歌枕の成立 みちのく にまでさかのば、らねばな、らない あぶくま 阿武隈に霧たちくもり明けぬとも きみをばやらし待てばすべなし わが背子をみやこにやりて塩がまの 籬の島のまっぞこひしき いなふね 最上川のばればくだる稲舟の なにはあらすこの月ばかー きみをおきてあだし心をわがもたば なみ 末の松山浪もこえなん みちのく 『奥の細道』に出てくる陸奥の地名を詠みこんだ これらの歌は、いすれも『古今和歌集』の作品で へいあん ある。この歌集は芭蕉よりも八百年はど昔、平安 ちよくせん 中期につくられた最初の勅撰和歌集で、その後な れんが カく和歌・牛言・連歌・俳皆・謡曲その他すべて きはん の古典文化の規範となった。そこで古今集を規範 とし、その作品を下敷きにして多くの和歌が詠み 継がれる間に、阿武疆・塩がま・最上川・末の 山といった地名は、もう実在の場所そのままでは なく、無限にうつくしいイメージに転化し、人び との、いに定着してしまう。歌枕とは、そ、ついう虚 の存在である。王朝の美意識の結品である。 したがって、歌枕はわざわざそこを訪ねて肉眼 で確かめてみても仕方のないものである。観念や 一一口葉は現実よりもはるかにうつくしいからだ。た よさぶそ人 芭蕉画像与謝蕪村筆 147

6. グラフィック版 奥の細道

しト小いト小 心が定まったのも、おのすからなのである。 みちのくの域内に踏みこんで、旅情が身内にかたまって 来たのである。 ここで芭蕉は、新関の方へ出ながら、それでは満足せ へいあん す、わざわざ古関の跡を尋ねている。奈良・平安以来、 あと 多くの風騒の士のたどった古関の跡へ立ち寄らないのは、 如何にも不本意だったのだ。紀一丁にはこのくだりで、三 首の和歌を文の中に裁ち入れている。 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと 都をば ~ ともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく白河の関 ふ - フそ - フ あと 源省 第頼 ( 集 ) のういん 能因法師 ( 後拾遺集 ) しらかわ 白河の古関跡 ( 福島・白河市 ) せんざい ここを越えるときは、どうしても一首または一句詠む ことが、風流人のさだめだった。色蕉も句を案したのだ さなへ 早苗にもわがいろ黒き日数哉 のういん と詠んでみて、意に充たなかった。この句は能因が「都 ひろう をば」の歌を披露するとき、わざわざ顔を日に焼いてみ ちのくへ旅したように見せかけたという故事を踏まえた 句である。後でこの句は、 まづさなへ 西か東か先早苗にも風の音 しらかわ と直している。白河では今ちょうど、植えられたばかり のういん さなえ の早苗に風の音が聴き取られるというので、これも能因 の「秋風ぞ吹く」を踏まえている点は、同様なのである。 だか、これにも満足しないで、芭蕉は細道の本文では、 代りに曾良の句を入れてすませているのだ。 しらかわ ふじわらのきょすけ ふくろ : フし 藤原清輔の『袋草紙』に、作田大夫風行が白河の関を しさっぞく 通る時、わざわざ装束を引きつくろったので、人がその のういん 理由を問うと、能因があのような名歌を詠まれた処を、何 で褻形 ( ふだん着 ) で過ぎられよう、と言ったとある。そ の故事を踏まえて「関の晴着」と言ったので、卯の花を しよくもく しらかわ かざし 挿頭にしたとは、芭蕉の文にある通り、白河での嘱目の 季節の景物を詠みこんだのである。 曾良の『俳諧書留』に、「誰人とやらん、衣冠をたた ふ・、ろさうし してこの関をこえ玉っと云事、清輔が袋草紙に見えたり、 上古の風雅、誠にありがたく覚へ侍て」と前書をつけて、 しらかわ この句を記している。紀行の白河のくだりで、一句もな もっ いわけには行かないのだから、曾良の句を以てこれに当 うたまくら しょち てたのは、適切な処置であった。また、ここは歌枕趣味 きょすけ けだのた

7. グラフィック版 奥の細道

13 ′ つき合いであるらしい。其角の『枯尾華』 うかひ こほたみだかな 鵜飼見し川辺も氷る泪哉 ついし」・フ′、 と芭蕉の追悼句を詠んでいる。またまた商用のついでに 、」さ力す い、細道に一句を採用さ 象潟に行った時芭蕉にめぐり会 えん れた。一期一会の縁である。 ~ 、 - もドま きさかた みさ ~ 一 象潟の九十九島の中に鶚島という名の島があって、岩 上にみさごの巣がかかっていた。詩経の冒頭に「関々た よ - っちょ・フ ー ) ト・きゅ - フ ・」・フきゅ - っ る雎鳩は河之州に在り、窈窕たる淑女は君子の好逑」と むつま あるとおり、雌雄の仲が睦しい鳥といわれている。それ が高い岩上に巣を作っているのは、波も越えることので ちきり きない夫婦の堅い契があってのことだろうか、といった こ、、ん のである。『古今集』の、 、みンみ かれおばな 有耶無耶の関跡に群生する大樟の木 君を置きてあだし心をわが持たば すゑまつやま 末の松山波も越えなむ ( 後拾集 ) という歌を踏まえているのである。季語は「水島の巣」 みさ : で夏。鶚は水鳥ではないが、水辺の鳥なので水鳥に準じ 、、さかた 、」さカた 象潟は由利郡象潟町にかってあった潟湖である。文化 ー、カん 元年二八〇四 ) の地震で地面がもりあがり、潟の景観は なくなった。昔九十九島といわれた島ははば残っていて、 さみだれ 昔の潟は水田になっている。五月雨の季節に田に水をは さなえ って早苗を植えるころ昔の景観の ) しくぶんをとり戻す 、、さカた 世の中はかくてもへけり象潟や とまや あまの苫屋を我が宿にして のうい 能因法師 ( 後拾赫集 ) きさかた さすらふる我が身にしあれば象潟や あまのとまやにあまたたび寝む ふじわらのあきなか しんこきん 藤原顕仲 ( 新古今集 ) きさかた 象潟の桜は波に埋もれて そうぎ あま めいしょはうがくし、やっ 宗祇 ( 名所方角抄 ) 花の上こぐ蜑の釣舟 この最後の歌を芭蕉は西行法師の歌と思い込んでいた。 きさかた むやむやの関は由利郡象潟町関にあったという関所で、 あき きさかた ふくら うやむや 有耶無耶の関ともいう。今吹浦から象潟へこえる途中、秋 、、いし・さ、、 や↓・がた 計・山形県境の師崎に関の跡といわれる森がある。今 オ十きささ 国道はその東側を通っているので、薄や笹を分けて小道 を入ると、森の中に関所の跡が残っている。た樟の巨木 が森をなし、自生の北限をなしている。 もののふの出づさ入るさにしをりする とやとや鳥のうやむやの関 ( 色葉和歌集 ) ぶんか 103

8. グラフィック版 奥の細道

そてしほひ 我が袖は汐干に見えぬ沖の石の : じよういんさぬきせんざい 人こそ知らね乾く間もなし「一条院讃岐 ( 千載集 ) まっしようざんほ - っこくじ 4 」カじよ・つ まつやま 末の松山は同じく多賀城市八幡にある末松山宝国寺の まつやまはちまんぐう 後ろの末の松山八幡宮砂丘にその遺跡と伝えられるとこ ある。 すえ こうわかまい めくらほうし へいけびわ びわ 琵琶を鳴らし奥浄瑠璃を語る盲法師平家琵琶とも幸若舞とも違う片田舎に残された遺風を伝えていた ろがある。 君を置きて仇し心を我が持たば すゑまつやま こきんーゅうおおうたどころおうた ( 古今集大歌所御歌 ) 末の松山波も越えなむ ちぎ 契りきなかたみに袖をしばりつつ すゑまつやま きょらのもとす ' 清原元輔 ( 後拾遺集 ) 末の松山波こさしとは しおが上・ しおが - ま ー ) おが↓・ 塩竈は今塩釜市。塩竈の浦を千賀の浦ともいう。 みちのくはいづくはあれどしほがまの 浦こぐ舟の綱手かなしも 松島ま。しま 上・つし↓・ 、。を借りて松島に渡った。そ 日はすでに正午に近し おじま の間二里余り、雄島の磯に着い ↓・つし - ま 一体、言い古されたことだが、松島は日本第一の佳景 で、決して洞庭・西に較べても劣ることはない。東南か ら海が湾入して、入江の中は三里四方、その中にあの浙江 、つしお のような潮をたたえている。島々が無数にちらばり、そ ばだつものは天を指し、伏すものは波にはらばっている。 あるいは二重・三重に重なり合って、左の島と離れてい 小さな島を背負 るかと思えば、右の島に連なっている。 ったもの、抱いたものがあり、子や孫を愛撫しているよ しおかゼ うである。松の緑がこまやかで、枝葉は汐風に吹きたわ かっ、 : フ められて、曲った枝ぶりはおのすから矯めた好をして ふゼい いる。その風情は物田 5 いに沈んだようで、美人の粧った しわざ かみよ おおやまつみ 顔のように美しい。神代の昔、大山祗の仕業だろうか 一て - フか : 司をつくして表 造化の神の巧みは、誰が画筆をふるし どうていせいこ あた そて ( 古今集大歌所御歌 ) せつこう

9. グラフィック版 奥の細道

それはまだ東北の素朴なおもかげを残しているが、それ にならって最近医王寺でもとびぬけて美女につくったモ ダーンな人形二体を飾っている。 せつ はっ 『細道』の発句はます雛の節句に始っているから、ここ しさフぶ せつ でどうしても菖蒲の節句の句が欲しいところで、芭蕉は そうにっ 後になってこの句を作り、ここに挿入したものと思われ ししカかさしま たけくま 飯坂笠島武限 その夜飯坂にとまった。温泉があるので湯に入ってか ら宿を借ると、土間に莚を敷いたしい貧家である。灯 ろり もないので、囲炉裏ののとどく近くに寝床を取って 寝た。夜に入って雷が鳴り、雨がしきりに降って、寝て じち のみ いる上から洩り、蚤や蚊に食われて眠られない。持病さ いざか おうじ ひな え起って、気も失うばかりに苦しんだ。短夜の空がよう よう明けると、また旅立った。なお、昨夜の痛みが残っ 、一おり ていて、、いが晴れない。馬を借りて桑折の駅に出た。思 に遙かな前途をかかえて、こんな病気の有様ではお あん へんび ほっかないけれども、もとより、これは辺鄙な地方の行 脚で、俗界の身を捨て、無常を観して出て来た旅なのだ から、道の途中で死のうとも、それも天命なのだと考え て、気力をいささか取り直し、元気よく道を縦横に踏ん だて おおきど で、その名も伊達の大木戸を越えた。 とうのちゃっじようさねかた みずりしろいし 摺・白石の城を過ぎ、笠島郡に入り、藤中将実方の 塚はどの辺だろうと人に問えば、「これよりはるか左に どうそじんやース・ やまぎわ みのわ 見える山際の里を、箕輪・島と言い、道祖神の社や形 見の薄が今でもあります」と教えてくれた。このごろの さみだれ 五月雨に道が非常に悪く、体は疲れてもいたので、よそ みのわ ながら眺めやって過ぎたが、箕輪・笠島という名も五月 だれ 雨の季節にゆかりがあるとて、 新はいづ , 小のぬかり道 第つのちゅ第・さねかた ( 藤中将実方の塚のある笠島はどの辺であろう。行ってみ さみだれ たいが、五月雨の降りつづいたこのぬかり道では、それも かなわす、振りかえり振りかえり心を残しながら、私は立 ち去って行く。 ) いわま その夜は岩沼に宿った。 隈の松は、まことに目の覚める心地がした。根は生 ぎわ え際から二つに分れて、昔の姿を失っていないことが分 のういん った。ます第一に、能因法師のことが思い出された。昔、 むつのかみ 陸奥守となって京都から赴缶して来た人が、この木を伐 ぎや

10. グラフィック版 奥の細道

そりわきざし だら、頼もしそうな若者が反脇差を腰にさし、樫の杖を 。「ムコ日こそきっと 携えて、われわれの先に立って行く 危い目にも遭うべき日だろう」と、びくびくの思いで後 ろについて行った。あるじの言葉にたがわす、高山はし したやみ んと静まりかえって、一鳥の声も聞えない。木の下闇が 茂り合「て、夜行くようである。「雲堺に既る」 ( 杜也よ うな気持がして、小笹を踏み分け踏み分け、水を渡り岩 もがみしさフ にけつますいたり、 肌に冷汗を流しながら、最上の庄に 出た。かの案内人が言うには、「この道はかならす不意 の出来事が起るのですが、今日は無事にお送り出来て、 しあわ 仕合せでした」と喜んで、別れて行った。後に聞いてさ え、胸がどきどきする話である。 いちのせき 0 五月十四日に、色蕉は一関から引き返し、出羽の最 いわてやま 旅上の庄へ越えようとしてその日は岩手山に泊まった。翌 日は尿前の関を ~ て、奥羽山脈のを越え、堺田 ~ ひらいャみ よしつねべんけ 泊まった。義経・弁慶の一行が越えて平泉へ向かった道 を、逆にたどったわけだ。 さかい村」 ほ - つじん 堺田では、封人 ( 関守 ) の家に泊めてもらい、三日の 間風雨が荒れたので、「よしなき山中」に逗留した、と 『奥の細道』に書いてある。だが、実際は二泊で、十七日 には発っている。堺田は、海抜三百五十四メートルの山 中にある小さな部落である。泊めてもらったのは和泉屋 せ、、 - もり しさつや という庄屋の家で、関守と農業をかね、旅人には乞われ るままに〔旧めていたらしい いまの有路氏は、和泉屋の あとという ( 早坂忠雄氏「芭蕉と出羽路し。 芭蕉はすいぶんむさくるしいところに泊まったように しとまえ 出羽の国へ越えようと尿前の関にさしかかった こ・ささ かしつえ いずみ