浮御堂芭蕉翁絵詞伝 ほうふつ りようじん て、ふかぶかとした感動を誘うとともに、ひとり 梁塵ノ飛プヲ彷彿ス どくだん まさひそ せつ 遊びの想いを誘う。遊想はばくの独断にちかい感 節ヲ誤ッテ應ニ倫カニ笑フナルペシ ゅ・フそう ひそ 想にちがいないか、こういう遊想を誘うのも芭蕉 窃カニ聴カント起チテ衣ヲ披ク すて のもっ豊かさとして、これまでも一俳人としての 衣ヲ披クレバ曲ハ已ニ終リタリ げつよき 養いとしてきた。だが、 ~ 巴蕉がより身近に、より 窓月余暉ヲ存ス 大きな存在となったのは一昨夏のシルクロードの 「尉塵飛プ」は、魯の人虞公は美声の持主で、歌旅以来である。 ちり かんりゅう - う を唱うと梁の塵が動いたという。漢の劉向の『別 げいぶんるいじっ 録』 ( 「芸文類聚」巻四十三 ) に見える故事。ばく 近江にひかれる心 には「想像朱脣動」と「誤節應倫笑」の二句がと りんか 一昨年の八月、ソ連中央アジアのシルクロード くに、い深い。床上にねむれぬ夜半、隣家から洩れ るかすかな美しい歌声に耳をかたむけながら、胸 の町々を歩いたが、その旅から戻ると、何故かし あか おうみ きりと近江にさそわれた。 にあえかな女人の朱い唇の動きを想い描く。調子 あふみ おもかげ ひろびろと田起しの雨近江なり を誤ってひとりくくと笑う女人の俤に微笑を送る ・ ) しん 田を植ゑて空も近江の水ぐもり のも詩人のひとなっかしい孤心のあたたかさであ 紅梅を近江に見たり義仲忌 ろう。一抹のユーモアをまじえて、深く平常心に ーいぎ工う おうみ こしんえんや など、それまでも近江の作品をいくつか作って 宿る孤心の艶冶を詠って見事な一詩だ。時に梅堯 しょ ( もく しん ふみづき いるか、いすれも車中からの矚目ないしは連想の 臣四十六歳、「文月や」の句も色蕉四十六歳の作。 おもしろ ふごう この不思議な符合もばくには面白い。四十半ば、 句である。関西への旅で新幹線にのるとおおかた ・一しん 人生いよいよ苦く、その孤、いにともにほのあたた はすぐ眠る。目が覚めると近江である。ひろびろ えんや かい艶冶を宿して共通するところがある。 とした近江の田や湖水を眺めながらやっと新しい しトぐっどう ぶそん 旅の気分になる。だがそれまで一度も近江に足を さて、「写生」を唱導し、色蕉をおさえ、蕪村を すいこう まさおかしき しさフよ・フ 称揚して俳句革新を遂行した正岡子規は、その『色 下ろしたことはなかった。 しさっざっだん 蕉雑談』 ( 明治二十六年 ) でこの「文月や」の一句 を色蕉の悪句の例としてあげている。写生的要素 のないこの一句の「六日も常の夜には似す」が単 なる理屈に見えたにちがいない 。だが、その革新 いかにも明伯の開化 の功、写生説は別としても、 しよせいりゅうめいだん と興隆期の書生流の明断でなしとげたこの革新者 ・」しん の、しかも当時二十七歳の子規に、この孤心のほ のめきが、果して見えたか、どうか。 きへん 色蕉はときどきこうして、机辺の片時、あるい は旅の途上、その時々の心のいろの中にやってき いちまっ そん ころも 154
まい、一つ 八月、シルクロード の長途の旅の疲れが癒える めたバルハシ湖の碧瑠璃のひろがり、雲上に夢の の埋骨の地としておだやかな近江の風光を愛した うきしろ てんざんやまなみ と、すぐ湖南から北、余呉のにでかけ、十月 からであろ、つ。 浮城のように雪をおいて重なり連なる天山の山脈、 ひこわ ちくぶしま その山麓の美しい椒檎の町アルマ・アタ ( カザフ 芭蕉 四方より花吹入れて鳰の海 には仲間の岡井省二君の東道で彦根から竹生島、 おうみまい かただ やむかり おち それから湖西の近江舞子に渡り、堅田で夜泊した。 語で「椒檎の父」の意 ) 、あるいはかってのテイム 病鴈の夜さむに落て旅ね哉 こえび さら 十二月、歳末には雪ふる湖北の海津に宿り、 ール帝国の都サマルカンドの、その一代の英雄テ 海士の家は小海老にましるいとゞ哉 カらさき イムールの柩を収めたグル・イ・エミル廟、レギ に拠賀湾の種の沢に元日を迎え、昨一一月には湖南 唐崎の松は花より朧にて っゅどき おうみはちまんよしか スタン広場にそそり立っシル・ドル、ティリヤ・ 近江八幡の葭刈りを、六月には梅雨季の青々とし など、すぐれた作品もまた多い。だが、その時 おうみ カリ、ウルグべクの三つのメドレセ ( 学林 ) 、ビビ、 た葭の水路を廻った。それからも何回近江の旅を ばくを近江にさそってやまなかったのは ゆくはるあふみ ハヌイムの大寺院、シャーヒ・ジンダ廟群など、 重ねたろう。 芭蕉 行春を近江の人とおしみける うとその それらイスラムの目の覚めるようなモザイクをは だが、近江にひかれたのは、正確にい の一句であった。 そうれい め込んだ歴史的蹟の壮麗、あるいはまたブハラ シルクロード の旅の半ばから、そしてまた単に近 シベリアのほほ中央部にあるノボシビルスクか っの の、まさに色蕉の「夏草や兵ども : : 」を想わせ 江というより、芭蕉の近江にひかれたといった方 ら南へ機上約一時間半、ようやく広大な中央アジ ざんへき ゆいごん きそづか る外城の残壁、灼けるような碧天に突き刺さった かよい。自ら遺言して義仲寺の木曾塚の隣に骨を アの砂漠が広がる。その代赭色の砂の大地をどこ ひうん カリャンの塔、またそれらの町々に住む歴史の悠 埋めた芭蕉は、見果てぬ夢を追って非運に仆れた までも果しなく一直線に貫く気の遠くなるような この野性の武将が好きだったし、何よりもおのれ 砂漠の道、湖上を飛ぶとき一瞬機翼を瑠璃色に染久を刻んだ乾いたアジア人種の顔、ことに早朝か ゅうゆう らチャイ・ハナ ( 茶店 ) に集まって悠々とお茶を 楽しむ老人たちの、小さな澄んだ目をはめこんだ 静かでおだやかな顔々、その悠々はどこからくる のかーーーそれら一つ一つに夢のような深い感動や 想念にとらわれながら、旅の一日の終りの夜の静 かな床上の心に、それらの感動や想念の果てに、 ゆくはる ふと色蕉の「行春を」の一句が浮かび上がり、何 故かふかぶかとした思いにさそった。あれは一体 何だったのだろ、つ。 はそみちちょうと 句は元禄三年の作。前年九月奥の細道の長途の いったん 旅を終った芭蕉は一旦故郷伊に帰り、近江の大 おう ! ん えつねん 津で越年、以後故郷伊賀との往反を重わながら翌 きよら、 ばんち 4 っ さるみの 四年まで近江に瀧在、去飛・凡兆と『猿蓑』を編 む。「猿蓑』には「望一テ湖水「惜ら春ヲ」の詞書で出 ており、『田集』 ( 既調等撰、鷓第十年 ) には真 カらさき せき 蹟として「辛崎に舟をうかべて人々春の名残をい - さよ・らいーー宅っ ひけるに」の詞書で出ている。なお「去来抄』に ばしさっきよらい はこの一句について芭蕉・去来の問答をのせた有 おうみ こなん い冖、 ふき つられ さるみの ひつぎおさ せき へきるり へきてん なごり しん おお 155
名な一条がある。 せんしいはくしゃうはく あふみ ゆくはる 「先師曰、尚白が難に、近江はにも、行春 ゆくとし ある ハ行歳にも有べしといへり。汝いかゞ聞侍るや。 きょ・らい、はくしゃ・つは′、 こすいもうろう 去来、尚白が難あたらす。湖水朦朧として春 まうす をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍るト申。 せんしいは ( 先師日、しかり、古人も止国に春を愛する事、 イ 0 たよりある なん なん イ、・ はべ 芭蕉の種の浜における一日の記録洞哉 ( 等栽 ) 筆本隆寺蔵 ゞ」 はま はんりゆうじ おさ / 、、都におとらざる物を。去来日、止一言 てつ こかん ゆくとしあふみ 、いに徹す。行歳近江にゐ給はゞ いかてか止感 たんば こじ宀ーっ ましまさん。行春丹波にゐまさば、本より止情 まことたみる ふうくわう うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成 、、よら、 きっ十せんしいはくなし し」・ 0 ・小 - フカ 哉ト申。先師日、汝ハ去来、共に風雅をかたる よろこびお べきもの也と、殊更に悦給ひけり」 きよらいしトそっ・ この『去来抄』の一条から、研究家の筆はおお ていしさっ おうみしさつもん むね「軽み」の提唱を契機として、古い近江蕉門 せんな しやどう の尚白、千那らと、新しく頭してきた洒堂、曲 、正秀、乙蝌らとの間の永裂、軋轢に説き及ぶ のがふつうだが、もちろんこの一句の芭蕉の心も、 またばくの関、いもそこにはな、 シルクロードの旅を歩一きなから、しきりにこの 芭蕉の一句が想い出されていたのは、中央アジア おうみ と近江と、全く風土も歴史も、その性格も規模も ゅうきっ ちがうが、そこにあるはるかなもの、その悠久の 思いであろう。この一句の、事実春を惜しんでい るのは近江の人々とであり、またひろやかな湖水 をもっ近江の風土感を詠いこめながら、それらを はるかに越えて、この一句のもつやさしさとなっ かしさは、古来、春を愛し、行く春を階しんでき た日本人の心の、これからもつづくはるかな思い であろう。いわば、そうした日本文化の伝統がこ こにその総体としてあるからである。ばくにはこ の一句を詠った芭蕉の時点に、過去の日本文化の 体がここに集約され、また未来につづく文化の 伝統がここに一一一口いとめられている、そんなはるか な思いかあった。 さらに言えば、この一句のもつおおらかで豊か むじよう な呼吸とそのやさしさは、人生の無常を根底にお ' んこんへんふうが 「転坤の変は風雅のたね也といへり。静なるも のは不変の姿也。動るものは変也。時としてと ふへん みやこ 、一とさら うごけ ふるさー、 「古里や臍のをに泣くとしのくれ」句切 とむ めざればとどまらす。止ると」 い、は見とめ聞と ひくわらくえふちりみだる むる也。飛花落葉の散乱るも、その中にして見 とめ聞とめざれば、おさまることなし。また活 たる物だに消えて跡なし」 ( 『三冊子』 ) いち ~ 一いちえ といった芭蕉の、一期一会の心のきびしさをひ めた、近江への、そして同行の近江の人々への、さ らに「此国の春を愛」してきた古人たちへの親し あいさっ い挨拶 ( いわば俳諧の横の座、の座につらなる ) の 心の豊かさであり、そのやさしさは、 「常に飛花落葉を見てものをながめても、 かるまひを 此世の夢まばろしの心を思ひとり いうげん やさしく幽玄に心をとめよ」 ( 『匕の くりごと』 ) れん力ししんけい 遠く中世の連歌師心敬の心につなが るものであろう。 まさおかしき 現代俳句は、正岡子規が近代的文芸意識の下に、 連句を文学に非すとし、個の文学として俳句を独 しやせい 立させ、西洋絵画の方法をそのままとって「写生」 を噛して以来、それを根幹として、部鴻虚子の はんき かちょうふうえい きやくかんしやせい 「客観写生」と「花鳥諷詠」、それに叛旗をひるが みずはらー、つおうし じよじよう なかむらくさた えした水原秋桜子の抒情の解放、中村草田男、加 とうーゅうそん いしだは鬯う 藤楸邨・石田波郷らによる戦前・戦中にかけての にんげんたん、う 「人間探究」、さらには戦後の「生活俳句」「社会性 0 句」っづく今日の統俳句など、さまざまの 旗幟をかがけて変革をつづけ、その成果とともに さまざまな個性的な花を開かせてきたが、同時に それらの旗幟が示すようにおおむね方法論ないし たいしさフろん は対象論に終始してきたきらいがある。子規の近 はぞ こんかん さんぞうし 156
市 言田 浜 むじようぞうか 代は、色蕉のもっていた無常も造化も切り捨てた が、それはそれとしていいとしても、現代俳句は 未だそれに代る大きな思想も哲学ももちえていな いのではないか。ことに戦後の俳句は自我の定着 という方向にその新しさと鋭さを増したが、この ゆくはる 「行春を」のもっ色蕉のおおらかで豊かな呼吸を つる 0 : 失ってきたこともまた事実であろ、つ。 おうみ ばくは度重なる近江の旅の間、この行く春を惜 しんだ色蕉の一句を放さす持ち歩き、また『去来 こすい・わう・ろう たよりある 抄』の「水朦朧として春を階しむに便有べし」 の一句を呪のように胸につぶやいていた。いわ ば、この ~ 巴莅がもつ、やさしく、しかもはるかな ものをかかえこんだその豊かな呼吸を、もう一度 自分の作品の呼吸として呼び込んでみたかったか らだ。 さて、 えちごーう あふみ 稲終へて淡海見に来ぬ越後衆 うみ けいとうしゅん 鶏頭の旬を過ぎたる湖平ら 城多く寺多くして秋の湖 たまのをの花を消したる湖のいろ かいっ・ 鳰人をしづかに湖の町 ひら 淡海きて高きに登り比良の山 羽づかふ見えて淡海を雁渡る - フ、、かもめ など、拙句集『浮鵰』の巻末に収めた「淡海」 二十余句は、おおかた、先に書しオ 、こ一昨年十月堅 わしとじ 田夜泊の旅宿で、同行の岡井省二君と、和紙綴の ばくひっ 画帖に、まるで連句でも巻くように交互に墨筆で だざそっこく 句作を楽しむ、いわば打座即刻のあそびの中に生 れたものだが、芭蕉の呼吸を願う心の飢えはなお おおっ かただ 癒えなかった。翌日、堅田から大津に出て、はじ ぎちゅうじ めて義仲寺に詣で、義仲と色蕉の墓に線香を供え て、ある感動としんとした心の静まりを覚えなが ら、その帰り、あの小さな電車の吊皮を握って揺 られているとき、ふ、つつと胸から呟きがのばるよ 秋の淡海がすみ誰にもたよりせす 澄雄 の句が浮かんで、ひとりその飢えをなぐさめる 思いがあった。だがもう一つ、先の「羽づかふ」 かただ の句とともに堅田の旅宿の朝に出来た、 せつ つぶや きよらい 澄雄 雁の数渡りて空に水尾もなし かんめい にも感銘の田 5 い出があった。 旅の朝の遅い目覚め、そのまま部屋から湖畔の あし 葦の中につきでたヴェランダに出て、ひろびろと した朝の湖水の眺めに目をやっていると、たまた ま湖北の空から湖南にかけて、秋の澄んだ制上の 空を羽ばたきが見える距離で雁の列が渡っていっ やむかワ ほかならぬ色蕉の「病雁」の堅田で、予期せ ばうゼん ぬ雁の列を見たやや呆然とした感動の心に、しば らくその列が消えていったあとの青空を仰いでい しよくもく たが、単なる矚目の実景としてなら、一句の上五 は「雁の列 : : 」として詠ってすませばよかった。 だが「雁の数」としたのは、その一羽一羽を見送 あいせき る愛階のまなざしとともに、あるいは昨日も渡り 明日も渡るかも知れぬ、また遠く芭蕉の時代にも 渡ってきた、そうした雁たちへの、またはるかな芭 蕉に田 5 いをつなぐ、いもあった。 ・ 1 ・、、めもめ おうみ 以下は、その後の近江の旅の作。最後の『浮鵰』 さいまっ の句は、一昨年の歳末、雪ふる湖北の渺津から、 色の『奥の細道』の 芭蕉 しさや須に勝ちたる浜の秋 はぎ 浪の間や小貝にましる萩の塵 つるが の敦賀の種の沢 ( 色の浜 ) に廻って元日を迎え た折の作。 あふみかぶ せうき 澄雄 色蕉忌の酢漬の冷や近江蕪 の海紅梅の咲く渚より 近江いまも信、いの国かいつむり さいぎゃうき はるかより鵰の女ごゑ西行忌 雪暮れて湖を見せすに鳰のこゑ 寝るときの冷や眇を身のうちに 葉や湖の空より鳶のこ うきかもめ 白をもて一つ年とる浮鵰 とび 杉」主宰 ) 157
那谷寺なたでら 山中温泉に行く道のほど、白根が岳を後ろにして歩み かざん やまぎわかんのん を進めた。左の山際に観音堂がある。花山法皇が西国三 だいじだいひ 十三か所の巡礼を遂げさせられて後、ここに大慈大悲の しらわ 像を安置され、那律寺と名づけられたという。三十三か 、、 : ぐみ 所の霊場の最初と最後の跏・汲の二字を分ち取られ たのだと伝える。奇石の形がさまざまで、古松が植え並 かや べられ、萱ぶきの小さな堂が、岩の上に造り懸けてあっ て、すぐれた、ありかたい土地である。 石山の石より白し秋の風 ( この那谷寺の石山は、近江の石山の石よりも白く曝され ている。だが、そこへ吹き渡る秋風はいっそう白く、山全 体の白さの感しが加重される。 ) 0 『随行日記』八月五日の条に「朝曇。昼時分、翁・北枝、 こままんしにてあうため こ・まっ 那律へ趣。明日、於小松ニ、生駒萬子為出会也」とある。 やまなか 紀一丁には山中へ行く前に那谷寺へ行ったように書いてい やまなか るが、本当は、山中を発ってここへ来たので、曾良は色 だいしさつじおもむ 蕉に別れて、一足先に大聖寺に赴い - - うかいカん 寺には石英粗面岩質の凝灰岩からなる灰白色の岩山が かんのん あり、岩に観音を祭「ている。その白く曝された石よ りも吹き過ぎる秋風はさらに白い感じがする、といった のである。四季を色に見立てた時、秋に白色 ( 無色 ) を ちゅ・つ・ごく 配する中国の考え方に基き、秋風を「色無き風」ともい っている。それにこの時、芭蕉が秋風を白いと感したの つれだ は、気持の底に長い道中を連立ってきた曾良と別れたと さくーく いう悲しみがあって、索漠とした思いを深くしていたの おうみ であろう。多くの注釈がこの石山を近江の石山ととり、 石山寺の石より那谷寺の石がさらに白い、という意味に とっているか、そういう比較は詩としてつまらない おうみ くだり 120
北陸路 越後・ かなざわ 金沢 だいしようじ やまなか 山中大聖寺 : いろはま つるが 敦賀種の浜・ 漂泊者の系譜・ 芭蕉の近江 ・解説・奥の細道 0 芭蕉の旅 : 0 蕉門十哲ーー芭蕉の門人たち : ・ 0 地図ーー奧の細道の旅 : 0 図版目録 : 装幀・レイアウト : えちご -4 ・日下弘 133 121 市振 多田神社 汐越永平寺 : おおがき 大垣 : しおごしえいへいじ いちぶり ありそうみ 有磯海 - アよ」′し・ら 那谷寺 : 1 倡井 : 166 164 162 140 野を横に詠草句・芭蕉画・許六 尾森目 形崎 澄徳 仂雄衛 158 146 え升蜀 152
ア内舞 寺満を 象曷きさかた 旅に出てから、諸国の川や山や、水陸の佳景をたくさ ん賞美してきたが、今私は象潟に心が駆り立てられてい さかた る。酒田の港から東北の方向へ、山を越えを伝い、石 しお を踏んで、その間十里、日影がやや傾くころ、汐風が砂 - 、も・フ : フ ちさつかいざん を吹き上げ、雨に朦朧として鳥海山も隠れてしまった。 さくげん もさ′、 僧策彦が言ったように、「暗中に摸索して、雨も亦奇な り」とすれば、雨後の晴れた景色もまた楽しみなことだ ひざ と、漁師の粗末な小屋に膝を入れて、雨の晴れるのを待 その翌朝、空がよく晴れて、朝日が華やかにさし出る きさかた のういんじま ころ、象潟に舟を浮べた。ます能因島に舟を寄せて、彼 しず が三年間閑かに住んでいた跡を訪ね、その向う岸に舟を つけて上ると、そこには「花の上漕ぐ」と詠まれた桜の かたみ 老木があって、西行法師の記念を残している。水辺に御 じんぐうこうごう かんまんじゅじ 陵があり、神功皇后のお墓という。 寺を干満珠寺と言っ ぎ」・つ、 : フ ている。ここに行幸されたことはまだ聞いたことがない ほうじようすわ どうしたわけでお墓があるのだろう。この寺の方丈に坐 すだれま って簾を捲くと、風景が一望のうちに見渡されて、南に そび は鳥海山が天を支えるばかりに聳え、その影は入江に映 せきじ っている。西はむやむやの関路のあたりまで見え、東に よを築いて秋田 ~ 通う道が遙かに、北には海を控えて なみ しおごし 浪が入江に打入るところを汐越と言う。入江は縦横一里 おもかデ ー↓・つし↓・ 上・つ、し↓・ ばかり、その俤は松島に似て、また違っている。松島は ふぜい 、、さカた 笑っているような風情、象潟は限むような景色である。 寂しさに悲しみを加えて、土地の有様は人の心を悩ます ささ
えちゼん 加賀と越前の国境吉崎の入江を舟で渡って 汐の松を尋ねた丸岡の天竜等に旧知の住 職を訪間金沢から見送って来た北枝とこ えいへいじ で別れ五十丁山に入って永平寺を礼拜した そうとうしゅう どうげんぜんじ 道元褝師が開かれた曹洞宗の大本山である かなざわ わかれかな もの書て扇子へぎ分る別哉 わきく いて脇句「笑ふて霧にきほひ出ばや北枝となく / \ 申侍る」とある。「へぎ分る」とは扇の両面に合せた地 紙をへぎわける意味で、離れ難いものを無理にはがそうと する心のうずきがこめられている。だが、それでは別れの 辛さの表現が余りにあからさまなので「引きさく」と改め せんす た。別離の句を何かと扇子に書いてみては、意に充た いで引きさいてしまう、それほど別離の悲しみが深く、 なごり それは言葉に尽し難いのだ。「扇の余波」「秋扇」「捨扇」な ど、みな秋の季題である。 まうしはべ よ′、し ごおりよし・さき えちぜんり、にさか 汐越の松は、加賀との国境に近い越前国坂井郡吉崎の しおごし はまさカみ、 北潟の入江の西岸にある浜坂の岬を汐越という。芭蕉がこ さい工う さんか こに挙げている西行の歌は『山家集』その他の歌集にも見 よし・さ、」 れんによしようにん あたらないので、蓮如上人の歌ではないかという。吉崎 は上人ゆかりの地であるから、土地の人にきいた歌を心 にとめたのかもしれない。芭蕉は激賞しているようだが、 実景によく合っていることをいったにすぎない。多分、 曾良もこの歌を耳にして「夜もすがら秋風きくや」と詠 ゼんしさつじ んだのであろうか。二人とも全昌寺の僧にでもきいたの しおごし 129
ぐる鍬の光や春の野ら」「がつくりと ぬけそむる歯ゃあきの風」。 じゅようけん ちょうすいだい 立花北枝別号鳥翠台・寿夭軒。加賀 かなざわ 小松の生まれで生年は未詳。金沢に移 り住み、兄牝童 ( 蕉門 ) とともに研刀 とぎやげんしろう を家業とした。通称を研屋源四郎とい げんろく う。元禄二年二六八九 ) 、「奥の細道」 やまなか あんぎや 行脚中の芭蕉を金沢に迎え入門、山中 温泉へ案内した折に聞いた芭蕉の教え : ヒ支殳麦百五十年 をまとめたものカ冫彳 ぶんきゅう たった文久二年 ( 一八六一 l) に「山中 問答』として刊行された。金沢蕉門の 中心人物として活躍したが、晩年は消 極的だった。享保三年 ( 一七一八 ) 没。 「焼けにけりされども花はちりすまし」 「川音や木槿咲く戸はまだ起さす」。 ャ斗で三年 ( 一六六 = l) 生、 げんぶん 元文五年 ( 一七四〇 ) 没、七十八歳。 あさじうあん えちぜんふく 別号野馬・浅茅生庵など。越前福井の 商家に生まれ、幼時に江戸に移り、越 後屋に奉公した。俳諧ははしめ蕉門の 高弟其角に師事したらしいが、のち芭 蕉に教えを乞うようになった。元禄七 年芭蕉の指導を得て、越後屋の同僚の りーうこおく すみだ 6 ら 利牛や孤屋と『炭俵』を撰した。これ は、「梅が香にのっと日の出る山路か な芭蕉」を発句とする野坡との両吟 歌仙や、「長松が親の名で来る御慶か ′ 2 な野坡」など 0 句を収め、色晩年 ~ ′ー の「軽み」の俳風を代表するものとさ れる。温厚な人柄で作風も平明。西国 『放生 へ旅行を重ね、蕉風を弘めた。 会』『六行会』などの編著がある。「ほ をるて のばのと鴉黒むや窓の春」。 おちえつじん きんかおう ふざんし 越智越人別号負山子・槿花翁。明暦 二年 ( 一六五六 ) 北越に生まれ、後名 古屋に出て、蕉門の一人で富商であっ た水の世話で紺屋を業とした。芭蕉 は貞享元年 ( 一六八四 ) 冬「野ざらし 紀行」の旅の途次名古屋に立ち寄り、 野水、杜国らと『冬の日』五歌仙を巻 えつじん いたが、越人もこのころに入門したら しい。三年後の冬には芭蕉を案内して らこ・さき みかわのくに 三河国 ( 愛知県 ) 伊良湖崎の近くへ罪 わびずま、 を得て侘住居していた杜国を尋ねた。 また翌年秋には江戸に下り、江戸蕉門 と俳交を重ねるなどその活躍は大きか った。しかし「軽み」に多 - った師風にな はくえっ しめす、師の没後は次第に俳壇から遠 ざか「た。編著に『咆』『を』 など。「雁がわもしづかに聞けばから びすや」「うらやましおもひ切る時猫 の恋」。 かカみし・ ) う 各務支考寛文五年 ( 一六六五 ) 生、 きようはう 享保十六年二七三一 ) 没、六十七歳。 みののく 美濃国 ( 岐阜県 ) の人。幼い時に、両 親に別れたため九歳のころ僧籍にはい げんぞく ったが、十九歳の時還俗 ( 俗人にもど かカみ ること ) して各務氏を称した。元禄三 年 ( 一六九〇 ) 芭蕉に入門、翌年師に おうーゅう 随って江戸に下り、同五年奥州に旅し て記念集『葛の松原』を著わす。以後 あんぎや 全国にたびたび行脚して道を弘め、多 くの書物を出板。芭蕉没後の俳壇に美 濃派を興して蕉風を普及した功績は大 嵐きいが、俳風は卑俗低調にはしり、真 、ん彡 の蕉風には遠かった。蕉門随一の理論 ぎノノ す 家で、『葛の松原』「続五論』「俳皆 十論』などに体系的な俳論を残したは か漢詩にならって仮名詩を創始したり、 俳文に新しい文体を工夫するなど、新 しい試みを行っている。編著は「笈日 かんぶん み 「牛呵る 言』「本朝文鑑』など多い 声に鴫たっゅふべかな」「船頭の耳の 遠さよ桃のはな」。 ー 0 りか・わ、、ト・り・、 きくあぶつ 森川許六別号五老井・菊阿仏など。 しトフと ( 暉一一年 ( 一六五六 ) 生、正徳五年 ( 一 おうみのく 七一五 ) 没、六十歳。近江国 ( 滋賀県 ) 彦根の藩士。其・嵐・飜らの指 げんろく 導を受けて蕉風に近づき、元禄五年 ( 一 六九二 ) 江戸に出た時芭蕉に入門した。 晩年の弟子であるが、積極的に ~ 巴蕉の 教えを受け、一方画道の師として推重 され、帰国する折には芭蕉の俳諧観が さいもんのじ 端的に述べられている「柴門之辞」 ( 「許 りくりべっ 六離別の詞」ともいう ) を師から贈ら ごうがんふそん れている。傲岸不遜な面もあったが、 ふうぞく 俳文集「風俗文選』や、俳諧史論第一 号である『歴澈物』の編著のはか、 去来と手紙をやりとりして蕉風俳諧の 重要問題を論しる ( 「青根が峯』 ) など、 その業績は多方面にわたって異彩を放 っている。句集はのちに「五老井発句 とおだご 「十団子も小粒にな 集』が編まれた。 りぬ秋の風」「卯の花に蘆毛の馬の夜 あけ哉」。 せん ごろうせい も 0 0 ・わきよ 0 ( 森川許カ 163
ずいめ : んじ 0 松島に舟で渡り雄島の磯についた瑞巌寺 さんけい うんごゼんじ ざゼ に参詣雲居褝師の坐褝堂や道心者の庵を尋 ね八幡社夫堂を見た入江に帰って宿を とり海に面した窓を開くとまさに絶景の眺望 であるもはや句を作るどころではなかった 現することが出来ようか。 おじま 雄島のは陸から地つづきで海に出た島である。雲居 ざぜんいし ぜんじ 褝師の別室の跡や坐褝石などがある。また、松の木陰に おちばまっかさ ーつけとんせい 出家遁世している人もまれに見られて、落穂・松笠などを そうあんしず 焼く煙が立っている草庵に閑かに住まいし、どんな人と も分らないながら、まずかしく思われて立ち寄ると、月 おもむき は海に映って、画の眺めとはまた変った趣であった。入江 のほとりに帰って宿を求めると、窓を開いた二階家で、 自然の風景の中に旅寝することで、言うに言われぬ霊妙 な気持になってくるのだった。 まっしまつる 松島や鶴に身をかれほとゝぎす ( 古人は「千鳥も借るや鶴の毛衣」と言っているが、この はととぎす まっしま 松島の佳景では、時鳥も美しい鶴の身を借りて、島々の上 を鳴き渡れ。 ) 私は句が浮ばす、眠ろうとしたがねられなし 、 : 日庵を 、こ・フ ↓・つし土・ はらあんてき せんべっ 出で発ったとき、餞別に素堂は松島の詩を、原安適は松 ずだぶ , っ が浦島の和歌を贈ってくれた。頭陀袋を解いてそれらを さんぶうだくし ↓・つし↓ 6 取り出し、今宵の友とした。また杉風・濁子の松島の発 句もあった。 4 も・フ ずいがんじ 十一日、端巌寺に詣でた。この寺は三十二世の昔、真 につし」 - フ かべへいしろう 壁平四郎が出家して、入唐帰朝の後開山したものである。 うんごぜんじ その後に雲居褝師の徳化によって、七堂の建物も改築さ じようど こんべき れ、金壁や仏前の装飾が光を輝かし、この世に浄土を出 ナ、カらん けんぶつ 現させたような大伽藍となった。またあの見仏聖人の住 んでいられた寺は一体どこなのだろうと、慕わしく思わ れるのだった。 、そ 曾良 ほっ ↓・つしま ずいがん しおが上 ■五月九日塩竈から舟で松島に着いた。その日は瑞巌 ・わ・フ ↓ 6 っし↓ 6 はち↓・ん 寺に詣で、島々をめぐり、八幡社や五大堂を見、松島に きさかた 上・つし上・ 一泊した。江戸を発っ時から松島と象潟の景色を見るこ ばしよう 上・つし上 6 とが目的として意識されていた。だが松島では芭蕉は不 ただし、 田 5 議に句が出来なかったらしい しようお・フ ( 蕉翁文集 ) 島る \ や千々にくだけて夏の海 という句が出来たが、 さして芭蕉の意に充たない句であ ↓・つーし↓・ った。それで紀行では、松島の描写の方では改まった態 度で文を彫琢した。句の方は曾良の句を借りて済ませ さるみの 」まっし上・ この「松島や」の句は『猿蓑』にも収められ「松島一見 の時千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ」という前書 ↓・つし↓ 6 をつけて収められている。松島で鳴き過ぎるほととぎす ↓・つし上・ の声をきいたのか、松島の佳景にははととぎすの一声は まことにふさわしいが、「身」の方はやや不足に思われ る。姿のいい鶴に身を借れよ、とほととぎすに言いかけ 一 )AJ ばがき かものちょうめ、 たもの。詞書の「千鳥もかるや」というのは鴨長明の むみよっしさっ 『無名抄』に見え、「千鳥もきけり鶴の毛衣」とある。だ がこの歌の上の句はわからない まっ 「余は目をとじて眠らんとしていねられず」とあり、松 しまぜっ 島の絶景が瞼に浮んで眠ろうとしても眠られす一句も出 まっ 来なかった、と言っているので、できなかったことが松 島の佳景の最高の賛辞となっているのだ。 ↓・つし↓ 松島は日本三景の一つ。 をじま ↓・つし↓ 6 松島や雄島が磯をあさりせし そて 海人の袖こそかくはぬれしか - し↓ 6 まぶた かみ カ みなもとのしげゆき 源重之 ( 後拾遺集 ) み