那須野 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 奥の細道
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1. グラフィック版 奥の細道

を蓄す頁 しさフせき 生石に立ち寄ることにした。殺生石は、玉藻の前に化け ていた九尾のキツネが、石に化したとったえられるとこ ろで、そのあたりは有毒ガスが発生して、踏みこんだ鳥 かんだい 獣が死ぬことがある。館代は、馬とロ取りの男とをつけ てくれた。『紀一打』には馬子のように聿日いてあるか、たた しよも・フ の馬子ではあるま ) し所望したので書いて与えたのがこ の句だというか、このとき与えたのは実は製紙切れで、 保存されている。 なすの 那須野の広さのさまが「野を横に」の句にはっきり示 されている。おりから、ホトトギスがけたたましくなき ・岩郵い ながら野を横切ったから、その声のほうへ馬のロを引き 向けよ、といったのだ。即興的に、一気によみ下したよ うな勢いがある。横手にホトトギスの消えてゆく姿を描 いて、四方に果てもない曠野の感しをだしている。 古 / \ から「 ) しくさ仕立て」の句だという評があるが、 なすの この句の響きをよくくみ取っている。那須野でむかしの 武士たちのイメージをかき立てられたことが、この句の なすの 勢いにのり移ったかのようだ。色蕉はこのとき、那須野 あべじろう の矢たけびの声を、心の耳できいているのだ。阿部次郎 あつもワ はなみち 、しちえもん′、 - ま力い は、敦盛を追って花道へ差しかかった吉右衛門の熊谷を、 たわむ この句から連想するといっている。戯れに大将を気取っ とんさい たような身ぶりがこの句にあり、それがこの句の頓オと して生きている。 しのはら しの 那須の篠原は下野国 ( 栃木 ) 那須郡那須野。ここに篠 原神社、通称藻稲荷があって、後の北側に狐塚があり、 まえ このえ これが玉藻の前の古墳といっている。藻の前は近衛帝 ちょうき きつね あら の寵姫であったが、 実は金毛九尾の狐の化身で見顕わさ みうらのすけよしあき ちばのすけつね既 3 かず れて東国へ逃げた。勅で三浦介義明、千葉介経、上 なすの さ 9 すけひろつね よしあき 総介広経が狐を那須野に追い、 義明がこれを射殺した。 っしさっせき よう物エ・、せつ その狐の霊が石と化したのが殺生石だという。謡曲『殺 しさフせき まちまんぐう よちまん 生石』に作られている。また飛幡宮は金丸穴幡ともいし なすのよいち やしま 金田村金丸にある。だが那須与一が八島で祈念した氏神 なすゅもと ゅせん 小八幡はここではなく、那須湯本の式内社温泉大明神で なすの あろう。那須野の歌としては、 もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる庫の鶸 が有名である。 なす しもつけ ・一・フや なすの しん 実朝 ( 金槐集 ) さねとも 、、・れめい ・フじがみ

2. グラフィック版 奥の細道

せっしようせきあしの 殺生石芦野 かんだい くろばね せっしさっせき 黒羽から殺生石に行った。館代は馬をつけて送ってく たんざく れた。この馬のロを取る男が、自分に短冊を書いてくれと やさ 言う。優しいことを望むものだと、その場で圭日いた 野を横に馬牽きむけよほとゝぎす な - すの ( 広いこの那須野を馬に乗って横切っていると、時鳥が鳴 き過ぎた。馬子よ、手を横に引き向けてくれよ。 ) 殺生石は温泉の出る山陰にある。石の毒気がまだ亡び はちちょう ず、蜂・蝶のたぐいが、砂の表面の色が見えなくなるほ ど、重なって死んでいる。 せメ本 。 , 見 0 野 ほろ しみず なぎ あしの また「清水流るる」の柳は、芦野の里の田の畦に残っ みんぶ ている。この地の領守民部なにがしが、この柳を見せた いものだと、折々たよりにあったのを、何処の辺りにあ るのだろうと田 5 っていたのに、 この日ついにこの柳の陰 に立ち寄ったのである。 うゑ 田一枚植て立去る柳かな ( 西行法師が「道のべに清水流るる柳かげ。しばしとてこ そ、立ちどまりつれ」と詠んだこの柳のかげで、私もしば さおとめ し立ちどまった。それは眼前の田で、早乙女たちが田を一 枚植え終えるほどの時間で、私もまた放心から立ち戻って、 その古蹟を立ち去ったのであった。 ) くろばね ■四月一二日から十五日まで、色蕉は那須の黒羽に泊ま かんだい じようばうじずしょたカかっ った。ここの館代、浄法寺図書高勝は、俳号を秋鴉とい って、作諧をたしなんだが、色蕉の来訪を喜んで、たい おかただはるとよあきら よせ へん歓待してくれた。弟の岡忠治豊明も、西郊の余瀬村 す、いし」・つ・ に住んで、翠桃と号してやはり俳諧をたしなんだ。色蕉 すいとう は歓待されるままに、あるいは秋鴉亭、あるいは翠桃亭 で、十三日も滞在してしまった。 いぬおうもの 芭蕉はこのあいだに、郊外にむかしの大追物のあとを なす さねとも しのび、実朝の歌で名高い那須の篠原を分け入って、 はちまんぐう なすのよいち 藻の前の古墳をたずねたり、八幡宮にもうでて那須与一 おうぎまと くろばね の扇の的の昔語りを田 5 いだしたりした。黒羽に滞在中、 どうやら蕉の頭は、武士たちの武張「た行為の数 なすの 数と那須野の広さのイメージでいつばいになったようだ。 くろばね なすの せつ 十六日の朝、黒羽を出立し、途中那須野を横切って殺 なす

3. グラフィック版 奥の細道

那須野を行く芭蕉と曾良 25 馬のあとを走って来るふたりの子供 芭蕉翁絵詞伝 狩野正栄筆

4. グラフィック版 奥の細道

0 かさね撫子の花を思わせる少女四月三 くろばね なすの 日那須野を越えて黒羽に向かう途中草を 刈る男に頼んで馬を借りた子供がふたり馬 について走って来た小さな娘の名前をかさ かれん ねという田舎には珍しく可憐な名であった なす くろばね 那須の黒羽というところに知人があるので、ここから 野越にかかって、一直線に近道を取った。はるかに村を 見かけて行くうちに、雨が降り出し日が暮れた。農家に すると 一夜の宿を借り、翌朝はまた野中の道を歩いた くさカ 野飼の馬が目につし ) た。近くの草刈る男に頼みこむと、 てんぶやじん 田夫野人といえどもさすがにを知らないわけではない。 「はてどうしたらよいかな。だけどこの野は道がやたら に分れていて、馴れない骼の方は道を間違えてしまうだ ろう。心配だから、この馬が歩みを止めたところで馬を と言って貸してくれた。小 返して下さい」 さい子供が二 人、馬のあとについて走って来た。ひとりは小娘で、名 のごえ 那須なす を聞くとかさねと言う。こんな田舎に聞き馴れない名前 で、優しく聞えたので、 かさねとは重の名なるべし ひな かれん ( かさねとは、鄙には珍しい優雅なまた可隣な名だが、こ やえなてしこ れは八重撫子の名なのであろう。襲の色目に撫子があり、 その連想が働いている。 ) だちん ・、らっー やがて人里に着いたので、駄賃を鞍壺に結びつけて馬 を返した。 たまにっ ■四月二日は下野国塩谷郡玉生村 ( いま塩谷村 ) に泊り、 たつのじようこく 三日、央晴、辰上刻 ( 午前八時 ) に立って、内・矢板・ くろばねなす 沢村・太田原を経て、黒羽 ( 那須郡 ) へ向かう。ひろびろと した卅を横切るわけで、「かさねとは」の句の出来 た次第は『紀行』の本文に詳しい。芭蕉の紀行文に記す そ - フわ “うしゅ 挿話は、興趣を盛り上げるための作為が往々にしてある から、これもそのまま ~ 巴蕉の経験とするには当らない かんびし 韓非子の老馬の智、「管仲日、老馬之智可」用也。乃放 よう篁・くゆ“うぬなぎ 老馬而随之遂得道 ' 」に基づいて、謡曲『遊行柳』 ( 後 「こなた の「田一枚植て立去る柳かな」もこの曲による ) に、 へ入らせ給へと、老いたる馬にあらねども、道しるべ申 すなり、急がせ給へ旅人」による作為という先人の説が ある。馬がおのすから旅人を正しく導いてくれるという その自然の理に、芭蕉は感し入ったのである。 それだけではない。 芭蕉は老馬の智に加えて、小児の かれん 可隣を書き添える。馬を貸してくれた「草刈るおのこ」 の子供二人が、馬のあとをどこまでも奔りながらついて やさ しもつけ 曾良

5. グラフィック版 奥の細道

うんがん ぶつらよう 0 雲巌寺四月五日雲巌寺の奥深く仏頂 和尚が山ごもりしたという草庵を訪ねた鬱 蒼とした夏木立に囲まれてあたりはひえび えと寒く岩窟にもたせかけた小さ・な庵があ った仏頂和尚は芭蕉参禅の師といわれる人 ぶっち↓っ 仏頂和尚山居跡 くる。二人は小姫 ( 小娘 ) で、名を聞けば「かさね」という かお したか巻お へいあん 襲とは平安時代に、袍の下に着た衣服で、下襲ともいっ た。重ねて着るので、表と裏の色の配色に妙をつくすこ とになる。撫子という襲の色目もある。表紅梅、裏青、 あるいは表裏ともに紅ともいう。 かれん 撫子 ( 常夏 ) は可隣な花で、小児によそえて歌に詠むこ とが多か「た。その少女の名が「かさね」というのなら、 さしずめ色目は八重撫子だろう、と言「たのである。か 、う . もく なすの ならすしも那須野で作者が八重撫子を寓目したというの ではない。 この句だけでは、作られた事情が少しも分らず、独立 この句の作られた 生に乏しいという批評がある。だが、 情况は、前文を補って分ればそれでよいのだ。ただし一 2 ・うちょ 句の情緒的完結性は、失われてはならないし、この句は ほっく これで、かつがっそれを保持しているし、発句としての 最低限の条件を充しているのである。 くろばねうんがんじ 黒羽雲巌寺 ド .»・うばうじ くろばねかんだい 黒羽の館代、浄坊寺なにがしの家を訪ねた。思いがけ ない訪問をあるじは見んで、日夜語りつづけ、その弟の 桃翠などという人が朝夕接待におとすれ、また自分の家 にも伴い、親属の人たちにも招かれたりして日を経たの しさフよう いおうもの であったが、 ある日郊外に逍遙して昔の大追物の跡を一 こふん なす しのはら 見し、那須の篠原をおし分けて玉藻の前の古墳を訪ねた。 なすのよいちうぎまと さん ' よちまんぐう それから幡宮に参謐した。那須与一が扇の的を射たと き、弓矢八幡を心に祈念し、「わけても我が御国の氏神 なてしこ こひめ よろこ 正八幡」・と誓いを捧げたのも、この神社だと聞いたので、 とうす、 有難さがことにしきりに感ぜられた。暮れて桃翠の家に ョ市っこ。 しゅデんこうみさっ・ 修光明寺という寺がある。そこに招かれて行者堂を あしだ かどて 夏山に足駄を拝む首途かな えん ( 行者堂に高足駄を履いている役の行者を拝んだ。夏山へ かどて の首途に、かって峰々を踏み破った行者にあやかりたいと、 その高足駄を拝むことである。 ) ぶっちさつしさっ うんん 当国雲巌寺の奥に仏頂和尚山居の跡がある。 たてよこ 竪横の五尺に足らぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば ( 一所不住の悟から言えば、このわすかに五尺四方の草 あん 庵を結んでいるのも、ロ階しいことだ。もし雨が降ること がなかったら、こんな庵もさっさと棄ててしまうのに。 ) と、松の炭で岩に書きつけたと、何時ぞや和尚から便り を頂いていた。その跡を見ようと雲巌寺に杖を曳くと、 人々もみすから進んで誘い合い、その中には若い人が多 ふもと く道中もにぎやかで、おばえす麓まで来てしまった。山 は奥深いけしきで、谷道がはるかに続き、松杉が黒々と して苔がうるおい、四月というのになお寒いばかりであ 十景が尽きるところ、橋を渡って山門に入った。 さて、山居の跡はどこだろうかと、後の山に攀し登る と、岩の上に小さい庵が、岩窟に寄せかけて作ってある。 しかんま - フう . んま・フし いしむろ みさっゼんじ あの妙褝師の死関や決雲決師の石室を見る心地がする。 ささ いり さんもん っえ

6. グラフィック版 奥の細道

堂・経堂の内部の光景を語っているのみ で、昭和十八年に『奥の細道随行日記』 ってくれたさまを、「蘇生の者に会ふが にすぎない。しかも、実際の地形に反して、 と題して世に紹介され、以後の『細道』 ごとく、かっ喜び、かついたはる」と書 そせき ころもがわ いているが、芭蕉の虚構の旅は、まさに 研究の重要な礎石となった。『奥の細道』衣川が高館の直下で北上川に合流してい ) イ ? 々奇スカへ : 、、 /. べっとう という紀行文が、実際の旅で経験した事るかのように述べ、別当が留守のために 「蘇」のことばのとおり、歴史 ~ の旅、 9 り・んネ 実とはかなりかけ離れた、それ自体一個開帳してもらえなかった経堂の内部に、 ある〔は詩 ~ の旅の中で、さまざまな古・、 0 て、々 , : イ ' ナスカ 独立した文学作品として草されたもので実際には存しない藤原三代の像を拝した人との詩による対話をかさわた果てに、 ふたたび現実の世界によみがえり、現在 かのごとく書いている。芭蕉は、そのよう あることが明らかになったのは、この『随 よしつね に書くことによって、義経への思墓や藤の自分、現在の人々との交わりを、「月 イ日言』の発見以来のことである 出 ひらいャみ 日は百代の過客」という永遠の相の中で たとえば、前引「平泉」の章のもとに原三代への追製の思いを託したのである。 紀行文の中の色蕉は、高の古戦場に再確認しようとしたものだった。それは、 なった旅の事実は、『随行日記』には次 = = ロ 日 0 ' かるみ″の精神を示すために説かれた 立って、そのかみの悲劇の歴史をしのぶ のようにしるされている 一求リ示ノミぐッ ″ ~ 咼語帰俗 , のことばに置き代えること 一十三日、天気明。巳ノ尅ョリ平とともに、さらに「国破れて山河あり、 ら良 おも、 もできる 泉へ趣。山ノ目、平泉へ以上弐里半城春にして草青みたり」と、争乱のただ とろ ゅうもん 何よりも、六百里の路を踏破した果て そうした " 高悟。の高みに立って " 俗 , 中にあっての憂悶を吐露した杜前の詩句 ト云ドモ弐リニ近シ。高館・衣川 に、「旅のものうさもいまだやまざるに」 なる現実を見直すとき、この人生の愚か や、古戦場を望んで争乱の歴史を回顧し 衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さく ひてひら た胡伯雨の詩句を反芻しつつ、「時の移に愛すべき、笑えぬ笑いに満たされたす「世の遷宮拝まんと、また舟に乗」「 ・さくら山・秀平やしき等ヲ見 がこがはっきりと見えてくる。冒頭からて旅立ってゆく、その「わりなき」生き るまで涙を落としはべりぬ」という長い ル。霧山見ゆるト云ドモ見へズ。タ ゆかず 回想の時間の中から、眼前の夏草をとら数えあげてゆけば、船頭・馬方の「日々旅かたこそ、最も大きな笑いでなければな ッコクガ岩ャへ不行。三十町有由。 につこうはとけのござえもんせん つはもの にして、旅を栖とす」る生活、漂泊を定住るまい。あるいは日光の仏五左衛 え直し、「夏草や兵どもが夢の跡」の一 月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主 とうさ、 だい あかず とするありかたからして、すでに矛盾を台の画工加右衛門、福井の等栽ら、もし ニテ不開。金難山見ル。シミン堂尢句を成就する。曾良の『随行日記』が、 なすの いちぶりゅうじよ りゃうごうゐん くは那須野の小姫、市振の遊女ら、さま 空間的な旅の事実の記録であるのに対し含んでおかしい。しかもそれは、ひとり船 量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。 詩人として純ざまな人々とのふれあいの中で発見され 曾良とともに見聞したこれだけの事実て、芭蕉の『奥の細道』は、歴史への旅頭・馬方のものではなく、 ひかり ばしさったかだち の中から、芭蕉は高館よりの眺望と、光の幻想の中で、古人の、いごころを反芻す粋に人生を生きようとする者に課せられた、とりどりの人間模様。 それらを、古人との対話を交えながら、 た宿命的な生きかたでもあるのだ。 ることを通して現在をとらえ直そ、つとし れんく さながら連旬における付合の呼吸にも似 の巷に離別の涙をそそぐ」 この世を たもの、も一ついいかえれば、現在の一 紙 た自在の連想の動きに託してくりひろげ 瞬を生きる自己の生を、永劫の時の流れ幻の巷と諦観すれば、そのはかない人生 色 蹟 いく、そこにこそ、王朝の紀行とも、 におけるかりそめの別れに涙する要はて の中に位置づけよ、つとしたものにはかな 真 みちゅき らなかったといっていし ないはすと知っていても、涙がこばれて中世の語り物文芸の道行とも違った、ま ぞ ひらいャみ 秋 さに笑いの文学としての俳文紀行独自の しようがない、それも人生の笑えぬ笑い それは単に「平泉」の章のみにかぎら めんばく 「さりがたき面目があったといえる。「奥の細道』を 一別す、実はこの紀行文における色蕉の虚構のすがたであれば、また、 はなむけ み 、イプルを読むよ、つなしかつめらしい顔 「各大の煩ひ」 の旅の基本的な姿勢を物語っている。色餞」を「うち捨てがたく」足、一 おおドき ふ と困惑するのも、愚かにも愛すべき人生で読むのはまちがいだろう。 蕉は『奥の細道』の最終章「大垣」のく の ( 東京教育大学助教授 ) だりで、多くの門人たちが自分を迎えとの真実であろう。 .3 さる あるよし 0 し人せき わら ふじわら きたかみ はんすう 0 ていかん すみか こひめ 161

7. グラフィック版 奥の細道

耶聶鬲 : 尸象ミ冩 6 月沼日 ~ ー 4 日、 洒田 ( 6 月絽日 ~ 24 日 ベ・ : 鼠 ~ ド す、飛セき ( 6 月 6 日 ) 展山レカ鴫ネ / 尾花沢 岩手山 5 月 26 日 リ ? うしやくじ \ .- 立石卍 ( 5 月 9 日 ) -. 店 ( 5 月 2 日 ) 二本・・・文字摺石 日和田みノ % : おリやま 顰ノ、・・積山 野、。那須本 なすゆき . ( 4 月日 ) 4 月日 す・かが・わ 川白真賀川 4 用 9 日 4 月 28 日 ) 4 月一 6 日一 4 月ウ日い ( 4 月 20 日 ) らんカヾんじ 黒し卍雲巌寺 む 5 やしま 中 , ・・室の八島 ー 0 田田 ( 3 月 28 日 ) ノかすべ 日 キ、な 6 月一 0 日 6 月日 / ′弥彦 第出雲畸 第 ( 7 月 4 日 ) 5 一 3 ( 7 月 2 日 ) ( 5 用 4 日 ) いしの、まキ、 ( 5 月 3 日 ) ・今日 かま 奥の細道の旅 カ ( め 164

8. グラフィック版 奥の細道

なす あしの 四月二十日に、芭蕉は那須温泉の湯本を発ち、芦野を しらさカ へて白坂へでた。芦野町のはずれ、八幡宮大門通りの左 あぜ ゅぎ工うアよぎ さい・う 手の田の畔に、遊行柳が残っていた。 西行が、 道のべに清水ながるる柳蔭 しばしとてこそ立ちどまりつれ よ・フ、ユく ゅぎ工うやア の歌を詠んだところ。後には謡曲『遊行柳』にあるように、 ゅぎ工うしさフにん 遊行上人の伝説もつけ加わって、遊行柳ともいわれた。 オカ奥の細道の旅 もちろんこれは伝説にすぎなし さい・つのういん を田 5 い立ったことには、西行、能因の跡をした、フとい、つ いんわん 気持があった。たとえあやしい名所でも、その因縁を重 んして、芭蕉はわざわざ立ち寄って見るのである。 云 を生石 っル又 せメ本 「田一枚」の句は読者を戸まどいさせる。「田一枚植て」 と「立ち去る柳かな」と、二つの詩句のあいだに断層が さおとめ あるからである。田を植えるのは早乙女であり、柳から 立ち去るのは作者である。これは表現上の欠陥だといえ ないこともなし 、。だが、句を読みなれた者なら、二、 回くちすさんでいるうちに、自然に詩としての統一した 世界を取りもどすことができるだろう。 さいぎさっ さいぎさっ これは西行の歌を下敷きにした句で、西行が「しばしと てこそ」といった、ある短い時間の具象化が「田一枚植 て」なのだ。しばらく柳の陰に立ち止まったあいだに、 さおとめ 田一枚が植えられる。そのしばしの時間が、早乙女たち に田一枚を植えさせるのであり、裏がえせば、しばしの 時間の主体である作者が、田一枚を植えることになる。 だから文法的には二つの主語があるが、作者の心の内部 の時間においては一つながりのものである。 柳のもとにたたすみながら、なかば放心の状態で、早 乙女たちの手振りに見とれ、田一枚植え終わったことが、 同時に、芭蕉の放心からの解放となり、柳のもとを立ち 去らしめるのである。だから、この句のなかに断層があ ることが、かえって、この句の立体味を増しているとい える。「立ち去る」は、もちろん画行の「立ちどまりつ れ」に照応する。 これは画行の古歌を下敷きにしたことからくる表現の さいぎよう 奧行である。一句全体が西行の歌に和した形で、しかも じよ・ー・う 眼前の田植え風景を点じたことが、和歌的抒情を俳句的 具象に転化する力になっている。こういう句にも芭蕉の はっき 詩人としての本領はよく発揮されている。 おとめ

9. グラフィック版 奥の細道

啄木も庵はやぶらず夏木立 ぶっちょう ( 鬱蒼とした夏木立に囲まれた、この閑かな仏頂和尚の旧 庵に、訪れるものは啄木鳥ばかりだが、その啄木鳥もさす がに庵をつついて破ることはしないらしく、そのままの昔 の庵の姿を見せてくれる。 ) と、即興の一句を書いて、柱に残してきた。 なす 0 四月三日から十六日まで、下野国那須郡黒羽の城代 じようばうじずしょたかかっ とうせつ 家老浄法寺図書高勝 ( 号秋鴉また桃雪 ) の館と、そこから おかただはるとよあきら 一一十町ほど離れたその実弟岡忠治豊明 ( 号響に ) 家とで、 なかとうりやっ 手厚いもてなしを受けこ。 オこれはど長逗留したのは、芭 蕉もよはど気分がよかったのである。 じようばうじ 九日は浄法寺へ滞在中で、雨が降っていたが、只仏山 光明寺へ招かれ、昼から夜五ッ ( 午後八時 ) 過ぎまでいて帰 たかあきら ずしょ った。図書の父高明の次女が、津田光明寺源光に嫁して、 えん しゅデんどう この寺にあった。修道の寺で、開祖役の小角の像を安 きつつき うっそう し - もつけ しず ゆ ! ようやな ! 芦野遊行柳に立寄る傍らで田植える人々 たかあしだ 置してあった。彼は常に高足駄を履いて山野を渉した けんきやく と伝えられるので、その健脚にあやかりたい気持をこめ しらかわ て、足駄を拝むと言ったのだ。これからいよいよ白河の 関にかかり、みちのくには・いるのだが、 これから踏み越 かどて えるべき前途幾百里の夏の山々を心に描いて、「首途」 と一一一口ったのである。 曾良の書留には、 かどて 夏山や首途を拝む高あしだ の形で出、初案である。 - も・フ くろばね りんざいーう うんん 四月五日、黒羽滞在中に、臨済宗寺院雲巌寺へ詣で た ( 光明寺参詣と、紀行の本文では順序が逆になっている ) 。 の日、朝は曇ったが、天気がよかった。寺の奧に、旧日 よっちさフ ぶっちょう の仏頂和尚の山居の庵を訪ねたいと思ったのだ。仏頂は 力しま えど じゃっ・しよく 鹿島の人で、鹿島根本寺の二十一世の住職であり、江戸 ふかがわりんせん うんがん 深川臨川寺の開山であった。雲巌寺にも時々往来した。 しさフとく 芭蕉に遅れて、正徳五年 ( 一七一五 ) 十二月二十八日に、 につじゃく 七十三歳で入寂した。 きつつき 啄木は季題としては秋季だが、それは連俳の約束であ しよくもく ぶっちょうす 仏頂が棲み って、山奧で夏嘱目しても不思議ではない。 しさつあん きっ 棄てた石上の小庵が、そのまま残っているのを見て、「啄 つき ぶっちょう 木も庵はやぶらず」と言ったのだが、仏頂に対する親愛 きつつき の念が啄木を得て具象化されたのである。この山深い幽 寂境に、啄木を友として親しみながら、脱俗的な明け暮 れを送ったさまを、生き生きと思い描いたのだ。 喇や夏木立や、山の自然の中に融け合「て生活した ぶっちょうひとがら 仏頂の人柄への慕わしさが、この句にはおのすからにし み出ている。 せき きつつき かしまこんばんじ