しらくもだゆう 大阪新町の白雲太夫が客の足が遠のいたのを恨 んでロ舌の手紙を送るあなたは私が田舎の衆 ひざー ( ら に膝枕させたのを憎くお思いか馴染みのお客 が他の女郎衆にみかえることは廓では許されな これでは私の面目がたちません いことなのに ( るわ じよろうい って贈った物ではありません。気を悪くなさるでしよう が、ここは一つ我慢なさって、おゆるしがなければわた あげや しの立場がございません。先日越後町の揚屋の扇子屋で、 世間の目もかまわす、筑後の客をひざ枕させて、鼻の上 にできたにきびを掘りましたことは、お咎めはもっとも でございます。店に出て派手なふるまいをしたというよ うな目で見て、あなた様に告げロした太夫様が誰かよく 知っております。お互いに勤めの身なのですから、そう う告げロはさもしくおもいます。わたしのことは、あ んなことをして、とおっしゃいますか、その太夫さまは ちょうちん さんざんロ争いのあげく、提灯を持たれて先に立ち、 てんじく 「天竺までもと夢中になっている男なので、月夜なのに 太夫のわたしが提灯をもって東の大門まで送っているの です」 しし加減にとりつくろっているのを、その客はⅡ ロ屋の格子の前で、 じよろうつぐな 「たちのよくない女郎に償いをさせるために、このよう 1 うちん に提灯を持たしているのです」 なりゆき と、ことの成行を一一一口いちらし、 「知らなかった昔か、ましでした。おのおのがた、酔い おおざけの おおさかずき にまかせての趣向とおばし召すな。私は大酒呑みの大盃 こさかずき というあだ名がありますが、今日は小盃で酔ってはいな い徳右衛門という男てす」 やえぎり こだゅう と大声を上げたのを、小太夫様、八重桐様、井筒様と 名うての太夫たちが聞かれて、誰知らぬことになりまし た。人には申しませんか、勤めの身にはうれしいことは 少なく、かなしいことばかりてございます・ ぐちゃ えちご せんす かわ 106
ういう本屋の棚に積み上げられたことだろう 本屋教育の普及を背景にして本屋は発展した当時の流行作家西鶴の作品もこ 々や盃い見 で 門毳い めの を ム に そす 抜智ときうし 使 にのえ る畳 ま て れか を ・手・てし ) つ 鬢金抱ば そ つ 月リも 描 を た 付蔵ー . そ・ し、お、 の和い れ 大を代をど 切 油が の の にん 尺未みう っ 小こ泉み 中た オこ カゞ でノし、 世 で 聞に 主も屋や も 髪細 本 橋に事 て のも 間 をく そ で のも の 冫水 聞 ぐ 酒 に四しを の ひな 間 叔おな とき 子 深郎 3 よ の よ 印 ーこ 十まばし、 かっ らて くの ろ 子 っ は それ っ は せき 馴な ら 七 よ っ のて を も た 染じ階 は せ 贈 歳 の、 も 猩親く ん 座ざ く の 十 女鬟 の つ 商 て で EJi/1k 々ー父じれ 八 郎 3 も て 時 ら て、 な あ さ 遊う が 貰 に に い ま 掛酒 ん っ 初 な びハ 事 の し い 揚物毳の と る め た グ ) と 屋やで 川 は ⅱ、ら け を 年 も で 死過 い、 グ ) 伊、、当一所鬟 ば のぎ 余 謡 山び 勢せを狂 し の 曲 リ 本 ど 度 覚て 風 ん 長第は 町 しい や の の 使 の たを あ は、 を 揚でる し 大鶚と意 締し屋や金の 衛え と を い さいかく ノし 吉原での遊びが過ぎた親父がとうとう息子に勘当される かんと・う 137
、つところかある。こ、つい、つやりカオ 、こは、明治以後 の近代文学にもあるかもしれません。 吉行でも明治以後は、もっと露骨に作者イコ ール私でいきます。だからかなりバレ・ノ ノサ、ク風で すね、その感しは。 暉峻小説の基本は中世的な説話だけど、そこ にとどまらないのは、自分がそこに割込んでい ということ。割込んではいくけど、あまり感情的 にはならないんだなあ、これが 吉行視線を伝って自分が少し乗り移ってい 暉峻ええ、だから非常に世間普通の常識的な ことをいっていて、突然それをひっくり返すんだ。 「五人女』の「八百屋お七」でも、火つけはよく んでしようね。 ないことだ「天これを許したまわぬなり」といっ 暉峻元禄のころまでは、文学者というものは、 ておいて、「しかれどもこの女、思い込みしこと ひとつの職業として社会的に認められていなかっ なれば身のやつるることなくて」牢の中で毎日髪 たんです。そうすると士農工商どこかに属してい を結わせていた、と書くんです。あれはひっくり るから、冠婚葬祭すべて義理を果さなければなら 返しですよ。世間の常識からいえば悪いけど、こ の女自身は悪いとは隸ってないと。こういうこと ない。そこから逃れるためには、西鶴のように三 を言うわけです。 十五歳になって女房が死んだとたんに頭をそっち 吉行西鶴は女房を非常に愛していましたね。 やって、草庵にはいって世捨人。あれは出家しゃ その女房に死なれてからは、性的には世捨人みた よい、隠居。あの時代は町人でも息子に家を譲っ いな気持でーーー・さっきおっしやったように若衆を て五十歳前後で隠居する。そうするともう冠婚葬 かわいがったということもあるでしようがーーー過祭関係ない ごした。それだからあれだけ生き長らえて書けた 吉行いまおっしやった文学者が社会的に認め られていないというところに、西鶴工房説が出て 刊 年 くるわけですね。西鶴プロダクション。どれがは 五 うも人イエみ 禄 んとに西鶴自身の作品かという、その辺はどうな んでしよう。 本 暉峻西鶴のものは、初めの『一代男』は別に 新用 して、はとんどが短編集でしよう。貞享三年から 以後はもう、一定のテーマのもとに書きおろした せ世 短編集ばかり。『胸算用』しかり『置土産』しか り。ちょうどあのころは、出版ジャーナリズムの デ 体制が整っちゃって、草子類は五巻五冊か、六巻 身 六冊か、八巻八冊と決められていた。 一巻に四章 鶴 か五章いれなければならないから、五巻五冊だと 西 短編を二十章つくらなければならない。十五位ま 目 人 では何とか書いたけど、あとの五つがどうしても ら 書けない。そういうときに仲間がいるんですよ。 左 北条団水とかね。そういう作品がちょっちょっと ぶどうでんらいき え ありますね。『武道伝来記』とか。内容的にはど し さ うってことないけど、文章にリズムがないんです の よ。西鶴の文章は、文法が合おうが合うまいがリ 大 ズムがある。それが違うんですね。 亠色 男 吉行しかしなかなかむすかしいですね、二十 編そろえるのは。 暉峻「男色大鑑』「武道伝来記』は八巻八冊 で、四十の短編を書かなきゃならない。無理だよ、 気にいったものばかりそろえるわナこ、、 ( ( し力なして すよ。なかには投げやりで、数さえあればいい いうものが五つや六つはありますね。他人が書い たものもあるだろうし、西鶴自身がしようがなく て書いたものもある。やはり書きおろし短編とい 、つのはむすかしい 吉行そりやむすかしい。西鶴にも人の助けが 158
京都の遊廓島原 島原という名は、当初その周囲に堀をめぐら 第てせた構えが、島原の乱の島原城に似ていたから すざくのにししんやしき といわれる朱雀野西新屋敷の現在地にできた かんえい のが寛永十七年 ( 一六四〇 ) であるから、西鶴 5 一六九九 ) の時代は、この地が隆 すみや 亠定 盛を誇った頃である。現存の角屋は古い揚屋の ぞうさく おも - かな〕 ′」うしゃ 、面影を残す唯一の建物で、内部の造作にも当時 上昇期にあった町人の豪奢がしのはれる いろざと しかしきらびやかな色里の繁栄も、遊女たち つみ どれい 「罪なくて の奴隷的生活の上に築かれていた これは一代の名妓と うき島原やけふの月」 よしのだゅう うたわれた吉野太夫の句である 倉角屋の一室御簾の問 ( 一六四ニ 扇の問のふすまの引手 110
小説らしい小説は、それまで何も書いてないんだ 人の俳諧でもやれる。西鶴なんかが行くと一緒に 「一代男』についてもうひとつうかかいます。 世之介は最後に一文なしになったかと思ったら、 俳句をつくったり。 から。それをぶつつけ本番であんな長編を書くか よしいろまる はたん いろざとみと - 再せたい いくら何千両か捨てるように埋めて、その後好色丸とい 『色里三所世帯』にこんな話があります。 ら、破綻が出てくる。長編のテクニックというの う船に、同好の士と乗っかって、いろんな床の道 女郎がりつばだからといって、それを高い金出し を、まだ知らんのですね。 具を積んで船出しますね。あれはこれからさらに て身請けして女房にするなんてとんでもない話だ 吉行俳諧から始めていますから、そうなんで しよ、つね、疋。 そんな遊びのためにだけ洗練されてきた女を女房やろうということなのか、それとも、もういしカ ら女のいない国に行こうという反語なんでしよう にすれば、改めて金の勘定を聞かせたり、 「一代男」の好色は しいかたはしています いったい何がおも か。女護が島へ渡るという、 りさんだんの話を聞かせたり、 遊びの美学である けれど。 しろいんだ。せいぜいどこか別宅に置いて、とき 暉峻やつばりあれは素直に読めば、やる気な 吉行「一代男』の好色は、いまでいうエロと どき通って行く。それならいいだろうけど、女房 だたいやく んだと思うな。堕胎薬から、ひょっとして子供が いっても、 しいような。でもあまり即物的な描写は にするなんてとんでもない。ただ普通の娘をもら うぶぎ できては困るからといって産着まで持って行くん ないですね。 ですもの。 暉峻いわば〃遊びの美学みですから。遊びの 吉行西鶴は反語的な書き方をすることもある 美学となると、セックスのはうは脇に片寄せなき てーレよ、つ。 ゃならんのですよ。セックスに行き着くまでのプ 暉峻ありますよ。でもなるべく肯定的に書こ ロセスに、遊びがあるわけでしよう。だから恋愛 うという姿勢を、無理してやってます。 でもなし、いわゆるセックスそのものでもなし、 帆 吉行首尾一貫させようと。なるはど。 セックスを根底に置いた遊びじゃないかな。 の 丸 暉峻だから「一代男』では、西鶴の生まれる 吉行その遊びですけれどもね。結局はさっき 以前の、寛永時代の吉野太夫のことも現在形で書 おっしやったように、町人の力が強くなってきて て くわけですよ。五巻以後歴代の名妓たちを書くの いるけれども、一般の連中は遊里というワクの中 へ で、あれは粋だとか野暮だとかいうことにしか生 介もみんな現在形。世之介が三十五歳からあと二十 きかいを持てなかったという、そういう形の遊び 世年間位つき合った女性として書いている。過去と ですね。 して書いているんしゃないんです。 ったよりも、ちょっと礼儀作法がいしたけた 暉峻そういう意味では、あの時代の一流町人 吉行やはり世之介は、子供のころから色のこ う言っていますよ。だから粋な連中は身請けはあ としか考えない男として、最後まで首尾一貫させ は教養がありましたね。その相手をする太夫の教まりせんのです。 しようふ ようということですね。いやになって逃げて行こ 養も、調べてみるとかなり高い 娼婦ですよね 吉行永井荷風は、遊女は 吉行昔のフランスに、よくサロンの女王、た うとしたと読むのは、ちょっと深読みですね。 絶対家に入れちゃいかん。いったん家に入れると、 しょえんおおかがみ とえばマダム・ポンパト 、・ウールのような女性かい 暉峻だから次の「好色二代男 ( 諸艶大鑑 ) 』 手のつけられないなまけものになるか、それとも になると、太夫買いは早くやめたはうがいしと ましたね。正しい意味でのホステス、つまり上流気が強くて手のつけられない女になるかどちらか 階級のマダムみたいで同時に高級娼婦、それに似 んに言うわけです。 である。だからぜったいだめだと言っていますね。 ていますね。 まるで裏がえしです。荷風の場合は、端女郎位の 吉行その作品においては首尾一貫させておい 暉峻貴族が来れば一緒に和歌を詠んだり、 町女のことを言っているわけですが。 て、次のところで本音が出ると。 よし、一ろまる よのすけ とこ 152
てんな おおみそか 「大晦日は心の闇」天和ニ年の大火の折 ( の ちに八百屋お七の火事といわれる ) お七は母 きらさぶろう 親と寺に避難するいあわせた寺小姓吉三郎 の手のトゲを母に替って抜いてやり手を握 りあったことからお七の恋情は燃え上った 0 江戸では毎日のように火事があった火消 てんすいおけ つじ 制度ができ辻ごとに天水桶が積み上げられ ひとたび たが一度出火すれば木造の家並にはあっと いう問に火が廻った人々にとっては火事は 人災というより天災運不運のものであった ちょうど とな ロのなかで一心にお題目を唱えていた。 丁度そういうと わかーう き、上品な若衆が銀の毛抜きを片手に、左の人差指にさ しさフじ さった小さなトゲを気にして、障子を開いてタ方の光の 中でそのトゲを抜こうと苦心していた。 母親はその様子 を見かねて、 ク / ク 0 / だいもく 4 「抜いてあげましよ、つ」 と、その毛抜きを持って、しばらく試みてみたけれど も、老眼の頼りなさ、トゲを見付けることができなくて、 困り切った様子である。お七はそれを見て、自分なら良 く見える眼ですぐに抜いてあげられるのに、とおもいな から、馴々しく近寄ることもできすにんでいると、母 親から「これを抜いてあげなさい」と声かかかって、心 かリんだ さっそくその手をとってトゲを抜き出すと、若衆はお もわずお七の手を強く握った。その手を離したくなかっ たが、母親が見ているとは情ない。仕方なく、離れたが、 そのときわざと毛抜きをそのまま持ってきてしまい、そ れを返さなくてはと後を追って若衆の手を握り返し、こ れでお互いの気持が通し合った。 お七は恋のおもいがつのり、 「あの若いかたは、どういうおかたなのですか」 なっしよばうず と、納所坊主に訊ねると、 「野雌三郎とお 0 しやる素姓正しいご浪人衆ですが、 それはもうやさしく情のふかいおかたです」 と教えてくれたので、一層恋心がつのり、恋文を書い てこっそり届けると、それと入れ違いに吉三郎のほうか らも胸のおもいを書きつらねた恋文を送ってきた。この : フ一し - う・あ・、 文の入れ違いで互いの心が分り、これを相思相愛の仲と いうのであろう。二人とも返事を書くまでもなく、浅か らぬ恋仲になり、よい機の来るのを待っているもどかし さは、ままならぬうき世である このようにして、大晦日は恋のおもいの闇に暮れてゆ なれなれ おおみそか
好色五人女 、お夏清十郎物語 お せいじルうろう 0 お夏狂乱「むかい通るは清十郎でないか すげがさ 笠がよく似た菅笠がやはんはは」清十郎と しやくまよっ の灼熱の恋をさかれたお夏は う歌いなが ら山里を狂い歩くお夏狂乱の場は今日に きわ 至るまで芝居や踊りの極めつけの外題である 遊里にひらく盲目の恋 てんかたいへい 天下泰平の春の海に、財宝を積んだ船が碇をおろし、 はりま むろっ 播磨の国室津は活気のある豊かな港町である。 いずみ この町の造り酒屋で、和泉清左衛門という人物がいた はんじよう 家業繁昌で、なんの不足もない身の上である。その上、 清十郎というその息子は、生れついての美男で、写し絵 の業平を上まわるくらい、女好きのする姿かたちである。 せいじゅうろう ゅ・ - フり・ なりひら なっせいじゅうろう こ , フしよくごにんおんな ゅ、つと、つ ゅうり 十四のときから、遊蕩にうちこみ、室津の遊里にいる八 十七人の遊女たちと、ことごとく深い仲になった。心中 立ての誓紙は厚い束となり 遊女の寄越した小指の爪は なわ 手箱からあふれるくらい、遊女が切った黒髪は、太い縄 をなえるくらいの量である。この縄を見れば、どんなに しっと 嫉妬深い女でも、かえって心をひかれるだろう。遊女か じようもん らの手紙が毎日届いて山となり、 贈りものの定紋つきの さんず ト袖は、積み上げたまま手も触れない 三途の川のほと
西鶴置土産 子が親の勘当逆川をおよぐ 売 「珍らしい事をききましたよ。家に引き込んでいると、 ろく ゅ湯 ここに出掛けてきたからこそ、 とかく碌なことはない ききよう あげやまち こんな面白い話がきけました。揚屋町の入口にある桔梗 たゆうやっ ちやや 屋という茶屋の女房は、分別のまんといって、太夫の八 はしゅうぎり やりて じせつ 橋、タ霧に付いた遣手のつわ者でしたが、よい時節が歳 とともにめぐってきて、『おかみ様』と言われる楽しい ゅうレし、 身分になった。ここに腰掛けて、遊女達の道中姿をみて いますと、厭とおもうものは一人もいないけれど、これ こそもうどうにもと執心するはどのもいませんな。今の じよろう しゃれ 世の女郎は、、いは洒落ているか、あたりを払う輝きかあ からさき くっ かつやりて りません。昔のちとせ、唐崎は、禿、遣手の他に、沓と びんき ぞうり いって当世風に鬢切りをした男の草履取リを連れて歩い ゅうじよ たものだ。これを思うと、その頃が遊女の全盛であった こうしくさ ゅうべ のですなあ。孔子臭い堅物までも、朝に道をきいてタに くるわかよ は廓へ通い馴れたもの。堅くるしく身構えていても、つ まらない。それに、人間には死という苦手な相手があリ どんな男伊達もこれに勝つ者はいません。少しの間でも ひま らようめいカん 浮世の隙さえあったなら、美人を眺めるのか長命丸とい みようやく う薬です。仙人の不老不死の妙薬を取りにやるまでもな 手近なところに、これはどよい物かあるのを知らな のでしようか」 なりゆき 「ところで、先ほどの珍らしい話の成行はどういうこと ノノノ だて かたぶつ さかさまかわ あした 136
つば 「木端は胸の火のたきつけで新世帯」樽屋 とのかりそめの契りがおせんの胸に火をつけ た奉公先へ戻ったおせんがあの一夜を忘れ ふしん かね次第にやつれてゆくのを不審に思った主 人は樽屋の噂を聞きニ人に世帯をもたせる ど、不吉なことが続いて起った。これは皆、天然自然の ことなのだが、 ~ かかりにおゞマつ、っちに、誰が一一戸っと 9 っ 「おせんに恋こがれている男の執念が、今にいた るまで続いていて、そのせいだろう。その男というのは、 ・つわさ たるや 樽屋ではないか」と噂が立ち、おせんの主人がそれを伝 え聞いて、「何とかしてその男におせんを呉れてやろう」 と、横丁の老女を呼び寄せてひそかに相談すると、 おっと 「平素からおせんは、良人を持つのに職人はいやだと言 っているから、心もとないことです・」 と、婆はとばけて言い、主人は、 か - う とんな稼業でも、 「そんな選り好みをしてはいけない。。 っ一一 - フ 世渡りさえできれば結構なことだよ」 といろいろ意見して、樽屋に縁談を申し入れ、結納を そてわきふさ 取りかわして話をきめ、ほどなくおせんの袖脇を塞いで つめそて 吉袖にし、おはぐろを付けさせて、嫁に行く用亠思をとと ゆいのう きじ きも・じっ のえ、吉日をしらべ、中位の木地のままの長持ひとっ・ はみばこ ふしみ 伏見三寸の小葛籠一対・紙張りの挾箱一つ・奥様おさが あかねぞめ りの小袖二つ・夜着ふとん・茜染の縁の蚊帳・昔風の染 かずき めの被衣など、仕した品数二十三に、銀二百匁を添え て樽屋に輿入れさせた。二人は相性がよく、仕合せに暮 し↓・ - も し、夫は正直に秘に精を出し、妻はふしかね染の縞木 綿を織ることを覚え、せっせと稼いだので、盆の前の日 おおみそか と大晦日にも借金取りを避けて家を留守にするほどのこ 一応の暮しは立っていた。おせんは特別に夫 を大切にして、雪の日や風の吹くときは飯能をくるんで 冷えないようにし、夏は寝ている夫の枕もとで扇を離さ すにあおぎ、夫の留守のときには夕方から門口を閉め切 り、外の男にはゆめゅめ目を向けす、二言目には「うち むつま の旦那様が」とのろけになり、年月が経っても睦しい夫 婦の中に、子供が二人産れた。そして、子供ができても、 一層夫のことに気を配った。 うつりぎ ところで、女というものは移気なもので、うまくつく こ・フとんばり ってある色ごとの話にうつつをぬかしたり、道頓堀の作 り狂言を見て実際にあったことのようにおもったりして てんのうじ る、っちに、 いつの間にか心を乱し、天王寺の桜の散る かんのんどう 前や観音堂の藤の梛の盛りに出かけて行って、眉目よい 男に浮気心を起し、家に帰ると一生養ってくれる亭主に りふじん 嫌気を起している。これほど理不尽なことはない。そう なると、倹約の心はすっかり無くなってしまい、下女が 無駄な薪をどんどんくべている竈にも注意せす、塩は湿 ( らび いらぬ所に油火をともすの 気を引いてどろどろになり、 もかまわす、身代がすくなくなって、離縁されるのを待 だんな たるや こきき けんやく しんだい ながもち
ど ! おまん源五兵衛物語 笛吹く息も哀れや絶えぬ さつま はやり歌にうたわれている源五兵衛というのは、薩摩 の国鹿児島の者であったが、そういう卦舎には珍しい美 びん 貌の男であった。髪の型は土地の風習で、鬢をうしろ下 ながわきざし りに月代を剃り髷小さく結うという当世風で、長脇差も 立派で目立つもの・こっこゞ、 オオカ武張った土地柄ゆえ、咎め しゅどう られなかった。日夜、衆道に身を打ちこみ、なよなよし ている髪の長い女とたわむれることは、生れてから今ま でにしたことがなく、はや二十六歳の春となった。 わかーう 長い間可愛がっていた若衆で、中村八十郎という者が 4 ーら あり、はじめから夢中になって深く衆道の交りをかわし ていたが、 この者がまたとあるまいほどの美少年で、た とえていえば、一重の初咲きの桜が半ば開いて、その花 がもの言う風情であった。 雨の淋しく降るある夜、二人だけで源五兵衛が住んで よこぶ・え がっ要 : フ いる小座敷に閉じこもった。横笛を合奏する音がしんみ あわ り流れ、楽の音も折にふれては一しお哀れなものである。 うめ 窓から吹き込んでくる風は、梅の香を運んで八十郎の振 そて くれたけ 袖に匂いをうっし、呉竹のそよぐ音に塒についた鳥が驚 はおと いて、飛びまわる羽音もかなしく聞えた。燈火もしだい さかや、、 ふゼい ふり げんご に光が薄くなり、笛も吹きおわって、いつもよりは情愛 深く、ひたすら源五兵衛に頼り切った様子で、楽しそう に語る言葉はその一つ一つに趣のかわった恋の心を籠め ている。それにつけても、可愛さがまさって、人間世界 よ ~ 、しん では望めない欲心が生れ、「この八十郎がいまの姿のまま まえがみ でいつまでも変らず前髪だちであればよい」とおもった。 同し枕にしどけなく寝て、夜明けになっていつの間に か眠りに入ったとき、八十郎は驅に苦痛を覚えて源五兵 衛をゆり起し、 「せつかくの夜を、眠って過してしまっていいものでし と言った。源五兵衛は夢うつつにその声を聞き、まだ 目が覚めすにいると、 「わたしと語り合うのも今夜かぎりですのに、最後の思 い出になにか話してくださることはありませんか」 と言い、その言葉が寝ばけた耳にもかなしくひびき、 じようだん こころカカ 「冗談にしても心掛りなことを言う。一日逢わなくても、 おもかげ まばろし 面影が幻に見えるのに、自分をじらすためとはいえ、今 夜かぎりとは余りにひどい言い草た」 と、手を取り合うと、八十郎はかすかに笑って、 「どうにもならぬのはこのうき世、定め難いものは人の おもむき