糸巻 おおみそか 「この家のように、大晦日に碁など打っているようなと ころでは売ってやらないよ」 と言い返して帰った。その後、誰が言うともなく世門 すみ に知れて、そのうち狭い土地なので隅から嵎まで、「足切 はちすけ り八助」と名がひろまり、生計が立てられなくなったが、 これも自分の心がけのせいである。 おおみそか ところで、大晦日の夜の有様は、奈良では京大阪より はすいぶんと静かで、すべての掛買いの代金も、有金で おおみそか できるだけ済ませ、「この大晦日の払いは、これ以上はで 抖取 ~ も聞いてくれて、二 きない」と断わりを言えば、圭 ) 度はこないなにやかにやで四つ ( 午後十時 ) のころには、 奈良中その年のかたがついて、もう正月の気分、家ごと 釜をかけて火をもやし、台所の土間 にかまどをつく ーし、、・わの に敷物をして、その家中のものが旦那も召使いも一緒に いつも使っている居間はあけておいて、土 気楽に坐り、 もち 地のならわしで、竹の輪に入れた丸い餅をかまどの火で さてまた、 焼いて食べるのも、おっとりとして福々しい 奈良の都のはすれにいる宿の者という男たちは、大乗院 けらいさっさ 御門跡の家来佐々時という人の家に、毎年の例として とみ おレャ 祝いはしめに訪れてから、「富々、富々」といって町中 もちせに をかけまわると、家ごとに餅に銭をそえて渡した。これ やくばら おおみそか はつまり、大阪などで大晦日の夜に、厄払いの芸人に米 や鎤を渡したのと同しである。ようやく夜も明けて元日 はんぎ たわらむか の朝に、「俵迎え / \ 」と売っているのは、板木で刷った えびす えびす たいこくさま あけはの 大黒様である。二日の曙に、「恵美酒むかえ」と恵比須 びしやもん さまの絵を売りにくる。三日の明方には、「毘沙門むかえ」 さん と売りにくる。三が日の間、毎朝福の神を売るのである。 ごもんせき だんな あしき がんじっ さて元日の家々のしきたりといえば、年始まわりはやめ さんけ かすがたいみさフじん ておいて、ます春日大明神へ参詣するのだが、一家一 から遠くの親類までも引き連れて、さざめいている。こ そとめ のとき、一門の多いはど、外目をそば立たせる。どこの 土地でも、金持はうらやましいことだ。 ごふくや さて奈良特産のさらし布は、一年の間京都の呉服屋に 掛売りして、代金は毎年大晦日に取り集め、大晦日の夜 中から、仕事の終り次第にわれさきにと京都を立ち、松 まっ 明をともし連らね、このとき奈良に入ってくるさらしの 代金は何千貫目か計り知れない。奈良に帰り着くと、み な夜明けになっているので、金銀をそのまま蔵に入れ、 正月五日からそれぞれ収支決算をするのが、毎年のきま やまと りであるこの銀荷に目をつけて、大和の片田舎に隠れ住ん すろうにん でいた素浪人たちが、年を越せないことのなさけなさに、 死罪覚悟で四人が打ち合わせて追剥ぎに出た。その荷が みな三十貫目とか、五十貫目とかの嵩ばるものばかりで、 手頃の端た金かないので、あれにするかこれにするかと 「酒を飲む金だけ出せ」とも言いかね 見比べていたか、 くらカりとうげ た。道をかえて暗峠に出て、大阪からの帰りを待ち伏せ、 月男かかついでいる菰包みをみると、 「うまい具合にかついでいるな、重いものを軽く見せか けているのは、金が隠してあるのに間違いない」 と、押えつけて、取って逃げ去ると、その男が声を立 「明日のお役には、とても立つまい立つまい」 と言う。そこで、四人であけてみると、数の子だった。 これはこれは、いやはや。 かね おおみそか かず 121
おおみそか 京大阪のせわしなさに比べ奈良の大晦日はゆ ったりとしている ういう土地柄では追い はぎまでも問が抜けているらしい素浪人四 人が大晦日の夜旅人から菰包みをとって逃 げたが開けてみるとなんと数の子であった むかしから今まで、すっと同し顔がやってくるのも趣 のある世の中である。この二十四、五年も、奈良に行商 にくるさかな屋があったが、いつも一品だけにきめてい て、蛸のほかの品は売らなかった。そのうち人も蛸売り はちすけ の八助と呼ぶようになって、顔が売れ、いろいろと得 さき 先もでき、一家三人の暮しはゆっくりと立った。といっ おおみそか ても、大晦日に五百文持って年を越したことは、一度も お : フに ない。食べるだけで精いつばい、元日の雑煮がロに入る 程度である。この男、平素世渡りにぬかりかなく、ひと ひばち りだけ存命の母親にたのまれて奈良の火鉢を買ってくる こうせん まして他 ときにも、ロ銭を取ってただでは済ませない。 さんば 人のこととなると、産婆を呼んできてやるという一刻を 世間胸算用 にわかまい」 奈良の庭竈 0 おもむき 争うときにでも、茶漬をご馳走にならなければ動かない わんぶっしんじゃよりあ いくら欲の世の中といっても、念仏信者の寄合いのため ならぎらし に奈良晒の布をついでに買ってくるときにも手数料を取 るなどは、まったく「死んでしまえ、目をくり抜いてや モざ ふるま る」の諺どおりのひどい男である。こんなに振舞っても 食うに精いつばいというのだから、天の咎めがあるとい うのは本当のことだ。そもそも奈良に行商に行ってから すっと、日本国ではの足は八本ときまっているのに、 一本すっ切り取って足を七本で売ったが、言 隹もこれに気 かっかないのでそのまま売っていた。 切り取った足は、 まつばらむら 松原村にある売り屋でその都度まとめて買うものがあ る。さりとは恐ろしい人の心である。 一「おざ 物には七十五度という諺があるように、かならす露見 するときがくる。去年の年の暮に、足を一一本すっ切って まぎ 六本足にして、あわただしさに紛れて売ったところ、こ のときも気ついて調べる人がなく、売って済ませていた。 ハレー」カ 4 て力い っ 手貝町の中はどで、菱形の竹垣をした家から声がかか たので、鰤を二つ売って帰ろうどしたとき、頭を剃った いんきょ 隠居姿の親仁がしろりと見て、碁を打ちかけにして出て くると 「なんとなく裾のあたりが淋しい蛸だな」 と、足の数を調べはしめ、 六本足とは神代の昔 「これはどこの海で捕れた蛸だい。 いままて から、どんな書物にも出てこない。気の毒に、 には奈良の者全部が、一ばい食っただろう。魚屋、その 顔は見覚えたぞ」 と一一戸っと、 おやじ すそ ちそ・フ かみよ 118
しじようがわらふうぞく 0 四条川原風俗京都四条川原は都随一の繁 みずぢやや 華街である芝居の劇場水茶屋見世物小屋 などが軒を並べ見物人はひきもきらなかった 屋おさん物語 の 好色五人女巻三 美女の品定め 和一一年の暦に、「正月一日、書きぞめ、万によし。 二日、姫はじめ」と書いてある。いざなぎ ・いざなみの 尊の頃から、男女の交りを鶺の交合で教わり、今に至 、、 - うじゃ るまでやむことがない さてここに、経師屋の長の美人 女房といって評判高い女があった。都のたくさんの男の ぎおん 心を動かし、祗園祭の月鉾の三日月にも劣らぬ三日月の まゆ きよみず 形の美しい眉をもち、姿は清水の初桜がこれから咲き初 くちびる たかお もみじ めるようなういういしさ、唇のうるわしさは高雄の紅葉 むろまち の盛りの色と眺められた。室町通に住み、新趣向の衣裳 よそお で身を装い、当世風の美人の随一、広い京都にもこれに 匹敵する女はいない。 しやま 人の心の浮立っ春が深くなって、東山の安井の藤が今 を盛りに紫の雲のようで、松の緑でさえ色褪せて見え、 夕方になると藤見帰りの連中が群をなし、東山の上に美 女の山をつくっている。 丁度そのころ、京都で評判の極道仲間の四人組で、風 〔木も人にすぐれて目立っ連中がいて、親ゆすりの金のあ おおみそか るにまかせ、元日から大晦日まで一日も色の遊びをしな はなさき い日かなかった。昨日は島に、もろこし・花崎・かお ひってき みこと る・高橋の太夫たちと夜を明すかとおもえば、今日は四 じようがわら たけなカきちさぶろう からまっかせんふじたきちさぶろうみっせさこん 条川原の竹中吉三郎・唐松哥仙・藤田吉三郎・光瀬左近 かぶき あんばい なんしよくによしよく など歌舞伎の役者買いをするという按配に、男色女色夜 は - フし」 - フふけ ひるの見さかいもなしの放蕩に耽っている。芝居のはね みずぢやや たタ方から、松屋という水茶屋にすらりと並んで腰をか 「ムフ日 / \ らい きれいな素人女が出ていることはない。 ひょっとすると、自分たちの目にも美しいと見える女が いるかもしれない」 と、役者の気のきくやつを目ききの頭にして、藤見の 帰りの女たちを待っ夕暮、これは変った趣向であった。 しかし、大半は女駕籠に乗っているので、姿が見えない のが残念である。三々五々群がって歩いてくる女たちに は、厭なのもなかったが、これぞと思うものもない しい女とおもったものだけ書きとめておこ と、飃とりよせて書き写していると、年の頃 = 一十四、 頸すしがほっそりと長く、目がば 五の女が目につい ぎわ っちりして、額の生え際は化粧しないでも美しく、欲を いえば鼻がすこし高いけれど、それも我慢できる程度で しらぎぬすそ あさぎ ある。下の小袖は白絹の裾まわし、中に浅黄色の裾まわ つきばこ せきれ、 おさ ふう たゆう
といえば、 「これをみると、鼠も包み金を引かないものでもない こうなれば疑いは青れました。しかし、こういう盗みご ころのある鼠に住み付かれたのは不始末で、まる一年こ の金を遊ばせておくことになった利息分を、きっと母屋 おもや から返してください」 みそ と言いがかりをつけ、年一割五分の計算で十二月の晦 日の夜に受取り、 「これで本当の正月ができる」 と、このさっさと寝てしまわれました。 経師屋紙を揃えて耳を落とす男のむこうでは重石を使ってとんとんと紙の厚さを整えている おもし 115
もうら ちのれ塚十染墓 と出のばいが上かにお郎めで清 まよにら、夏塚たも十 家が えす、髪死う坐日清はと血立郎 3 ばる清をんやつが十毎名をてと 、つ十おでくて経郎夜づ洗てふ おも郎ろし押懐 3 ちの けいやだ 夏りさしまし剣、姿こた清ろん めうか もでまてっとを百をの 心すが尼てど抜かま場哀 を成とはめい日ざ所し屍拶と懇え 仏な無ててにまへいを。い意。、 すなり駄、死あざ来話埋うに 死のたとてでめ めさ うる見冥あてとて るあで とすととて福る目でい 上匕 印 しきいを とあ た祈 に処人 でとそ 松刑々 中すまの おにつ 柏場は で気側蠡夏違て をの 察わ亡持仕はいい 植草 え塚なた たきが えやせ し人真ののい たを実女露 土め をて ち弔な た草をその しようかくじ さしず そむ もかく皆の指図には背くまい」と、姫路の正覚寺に入っ すみぞめ て上人に頼み、十六歳の夏、お夏は衣を墨染に替え、以 みね 来朝には谷に降りて清水をくみ上げ、夕方には峯の花を とうみよう 手折り、夏のあいだの修行には毎夜手に燈明をかかげて び′、に おこた だいき」ち 大経のっとめも怠らす、尊い比丘尼になったのである。 しゅしよう 「伝、え この様子を見る人は、ますます殊勝におもい ちゅうじようひめ 聞いている中将姫の生れかわり」などと言った。この比 たじまや 丘尼の有様に、さすがの但馬屋も信、いごころを起して、 めいふく くよう 例の七百両を仏事の供養にして、清十郎の冥福を祈った えんごく かみがた という。当時、これを上方では狂言にしくみ、遠国の村 里までお夏清十郎の名は伝わったのである。これこそ、 しんがわ 新川に恋物語の新しい舟をつくって浮べ、熱いおもいを 乗せて漕ぎ出したものの、行く末は泡沫のようにはかな 、あわれな世の姿である。 たお しようにん 室津の浄運寺に祀られるお夏の木像 ひめじ じよううんじ
おお 具足師兜を作る人面頬 ( 顔を被う鉄の面 ) を作る人小手を作る人などそれぞれ分業である どうにも、人さまには聞かせられないことです。手紙で かさ も、重ねては申し上げません。私を死んだ者同様に扱わ れ、おたすねご無用であります。もし命ながらえました ら、坊主になりまして、修行のためそちらへ下ることも ございましよ、つ。以上。 福島屋 九平次 京より 二月二十五日 仙台本町一丁目 もがみやいちえもん 最上屋市右衛門様 この手紙で事情を考えてみると、仙台生れの男が、女 たびたび女房を替え、 房を置き去りにして京へのはり 身代を失くしたものと考えられる。 万の文反古 お , フらみ 御恨を伝えまいらせ候 いまさら嘆き申すことではありませんが、あんまりな お仕打ち、むごいとも、つらいとも、恨めしいとも、ご 無体とも、一つだけ取り出して言うことかできないほど です。ともかくも涙ながらに筆を動かしていますが、手 ゅ・フじよ もふるえ、手紙も書けないはどです。もっとも、遊女の 身はみな嘘で固めたものですか、それも事によりましょ う。てっとり早く命を捨てるよりはかにはございません。 104
てんな おおみそか 「大晦日は心の闇」天和ニ年の大火の折 ( の ちに八百屋お七の火事といわれる ) お七は母 きらさぶろう 親と寺に避難するいあわせた寺小姓吉三郎 の手のトゲを母に替って抜いてやり手を握 りあったことからお七の恋情は燃え上った 0 江戸では毎日のように火事があった火消 てんすいおけ つじ 制度ができ辻ごとに天水桶が積み上げられ ひとたび たが一度出火すれば木造の家並にはあっと いう問に火が廻った人々にとっては火事は 人災というより天災運不運のものであった ちょうど とな ロのなかで一心にお題目を唱えていた。 丁度そういうと わかーう き、上品な若衆が銀の毛抜きを片手に、左の人差指にさ しさフじ さった小さなトゲを気にして、障子を開いてタ方の光の 中でそのトゲを抜こうと苦心していた。 母親はその様子 を見かねて、 ク / ク 0 / だいもく 4 「抜いてあげましよ、つ」 と、その毛抜きを持って、しばらく試みてみたけれど も、老眼の頼りなさ、トゲを見付けることができなくて、 困り切った様子である。お七はそれを見て、自分なら良 く見える眼ですぐに抜いてあげられるのに、とおもいな から、馴々しく近寄ることもできすにんでいると、母 親から「これを抜いてあげなさい」と声かかかって、心 かリんだ さっそくその手をとってトゲを抜き出すと、若衆はお もわずお七の手を強く握った。その手を離したくなかっ たが、母親が見ているとは情ない。仕方なく、離れたが、 そのときわざと毛抜きをそのまま持ってきてしまい、そ れを返さなくてはと後を追って若衆の手を握り返し、こ れでお互いの気持が通し合った。 お七は恋のおもいがつのり、 「あの若いかたは、どういうおかたなのですか」 なっしよばうず と、納所坊主に訊ねると、 「野雌三郎とお 0 しやる素姓正しいご浪人衆ですが、 それはもうやさしく情のふかいおかたです」 と教えてくれたので、一層恋心がつのり、恋文を書い てこっそり届けると、それと入れ違いに吉三郎のほうか らも胸のおもいを書きつらねた恋文を送ってきた。この : フ一し - う・あ・、 文の入れ違いで互いの心が分り、これを相思相愛の仲と いうのであろう。二人とも返事を書くまでもなく、浅か らぬ恋仲になり、よい機の来るのを待っているもどかし さは、ままならぬうき世である このようにして、大晦日は恋のおもいの闇に暮れてゆ なれなれ おおみそか
火焔太鼓をたたくお七を演する中村松江 0 0 てんじよう に食べ、天井のある小部屋を探して身をひそめた。 お七の母親は子供の身をおもっておろおろし、お七を いたわり、夜着の下に引よせて、烈しく鳴るときには、 「耳をふさいで」などと注意したりした。かよわい女の 身なので、この上なく恐ろしかったが、吉三郎様に逢う 機会は今夜しかないとおもう下心があるので、 「世間の人は、なんで雷をこわがるのでしよう。命を一 っ捨てればよいこと、わたしはすこしも恐ろしくはない わ」 と、女の身で強がる必要もないのに、余計な言葉を口 にした、と下女にいたるまでお七の悪口を言った。 しだいに夜も更けて、人々はみな眠りに入り、その鼾 へあ イろか したごころ いびき あまど すきま が軒から落ちる雨だれの音に劣らすひびき、雨戸の隙間 から月の光がかすかに差込んでいるとき、お七は客間を しのび出た。驅がふるえて足もとがしつかりせす、のん びり寝込んでいる人の腰骨を踏んでしまった。魂の消え るおもいで、どきどき上気してロもきけす、手を合わせ て拝んだが、咎める言葉が聞えてこない。ふしぎにおも めした って、気をつけて眺めてみると、飯炊きの梅という下女 である。 その驅を跨いで行こうとすると、この女が裾を握って 引っ張るので、引き止めるのかと不安に胸をさわがせた が、そうではなくて、小型の鼻紙を一束手渡してくれた とっさ 色ごとに馴れていて、こういう咄嗟の場合にもほんとう のき うめ すそ
おおみそか 大晦日に年に一回の風呂をたきながら 家のお祖母はらはらと落涙し去年貰った年 だまがわ 玉銀を盗られはや一周年ああ惜しやと大声 をあげられる家中の大掃除の結果鼠の仕 業とわかり無事とり返してお祖母ひと安心 財布 白くありません」 力いふん と、世間の外聞もかまわす、大声をあげてお泣きにな 耋◆っざ るので、家中の者は興醒めして、 「わたしたちが疑われるのは迷惑だ」 けつば′、 と、それぞれ身の潔白を諸神に誓った。 すす 煤はらいもおおよそ終って、屋根裏まできれいにして むなぎ すぎはら いるとき、棟木の間から杉原産の奉書紙の一包が見付か 、んきょ った。よくよく見ると、隠居のお探しになっていた年玉 銀に間違いない 「人が盗んでいないものは、出てきますよ。それにして も、贈いめ」 というと、お祖母はなかなか納得なさらす、 とおある 「こんなに遠歩きする鼠など、見たことかなし 、。誰か亠め しわざ たまの黒いねすみの仕業とはっきりした、これからは油 断できませんよ」 と、畳を叩いてわめかれるので、医者は風呂から出て きて、 がね にんのう 「こういうことは、古代にも例かある。人皇三十七代孝 おんとき みそか やまと 徳天皇の御時、大化元年十二月晦日に、大和の国岡本の なにわなカら とよさき 都を難波長柄の豊崎にお移しになったので、大和の鼠も 一緒に引越しをしましたが、それぞれの世帯道具を運ん しょざい でいったのがおかしかった。穴の所在を分らなくしてお かみぶとん いた綿、鳶の目から隠れる紙蒲団、猫に見つからないた めの守り袋、鼬の通り路を遮る尖 0 た樶、取りの桝か 落ちてこないようにする支え、誘いの油の火を消す板ぎ てこまくら かつおぶし れ、鰹節を引いてくるための梃子枕、その他鼠の嫁入り しゅうぎ のし - び のときの熨斗鮑、ご祝儀のごまめの頭、『鼠の宮参り』と くまの いうか熊野参りに行くときの小米を入れた藁包みまで、 二日かかりの道のりをくわえて運んだことがある。まし いんきょ おもや て、隠居所と母屋とはわすかの距離、鼠が引けないこと ではありません」 と、年代記を引用して言ったけれど、とても納得なさ れない たっしゃ 「達者な言い方はなされますが、この目で見ないことに は本当にできません」 と言うので、どうにも仕方なく、ようやく一計を案じ、 なかさきみずえもん 長崎水右衛門の弟子の鼠づかいの藤兵衛を雇いにやって、 「それいまあのが、人間の言うことが分「てさまざま の芸をします。ます、若い衆にたのまれて恋の文つかい」 といえば、封をした手紙をくわえて、前うしろ見まわ 要、てに、ち ぜにいちもん し、人の袖口から手紙を入れた。また銭一文投げて、 「これで餅を買ってこい」 もち といえば、鉱を置いて餅をくわえて戻ってくる。 「どうですか、これでもう我を張るのはおやめなさい」 ふう ナ、カ とうべえ やと わら ふみ おか - ・わし、 114
会ー八百屋お七物語 ひしかわもろのぶ ぐ見返り美人菱川師宣筆元禄期の町娘の衣 裳風俗がうかがわれる模様はこの頃から肩・ 袂 ( 腰 ) ・裾の三段模様が盛んとなり帯の幅 もしだいに広がって美観のポイントとなった たもと 大晦日は心の闇 木枯しがはげしく吹き、師走の空は雲の動きもいそが 餅つきを しげである。世間は正月の支度にいそがしく、 すすは している家の隣には、小笹をそれぞれ手に持って煤掃き をしている家もある。暮に決算をつけるのが世の習わし なので、金を量る天秤の針口を叩く小槌の音が冴えて聞 のき える。商店の軒下に、目盲の乞食が並んで立って、「こ んこん小めくらに、お壱文くだされませい」と呼ぶ声が ふるふだおさ こじきざっさ しきりに聞え、古札納めの乞食・雑器売り・榧・かち栗・ せえび かんだすだ しんばしかなすぎばし 伊勢海老売りのふれ声、神田須田町から新橋金杉橋に はまゆみ せった いたる通りには、破魔弓売り・新年の着物・たび・雪駄 を売る露店が立並び、人々が、忙しげに歩きまわる様子 けん・ : フよ・つし をみると、「足を空にして」と兼好決師が書いたのを思 い出され、今も昔も世帯持つ人々の年の瀬は忙しいもの である。 年もおしつまった十二月二十八日の夜中に、火事が起 くるまたかも・ った。燃えている家の門前には、車長持を曳く音がひび つづら き、葛籠や書類箱を肩にかけて逃げてゆく人もある。穴 ぐらふた 倉の蓋をとって素早く絹物を投げ込んだりもしたが、あ っという間に煙となってしまった。焼野の雉子が子をお おおみそか ろてん てんびん めくら しわす やおや こづち きぎす かや もうように、妻や老母をいたわりながら、それぞれ縁故 を頼って逃げのびてゆくのは、まったく気の毒なことで あった。 ほんごうかいわ、 やおや さてここに、本郷界隈に八百屋八兵衛という商人があ うじすじ - 唸フ りつば って、立派な氏素姓の出である。この八兵衛に娘がひと りあって、お七といった。年は十六、花にたとえるなら すみだがわ 上野の桜の満開、隅田川に見る月が冴え冴えしている清 楚さで、こんな美女がいるものだろうかとおもわす目を みやこどり こするはどの美しさである。いざこと問わん都鳥と歌っ なりひら たあの業平に、時代のちがいで見せることができないの が、残念である。思いを寄せない男はいないほどの美女 であった。 お七は火の手が近付いたので、母親につき添って、平 こまごめ きちじよ・フじ だんな 素頼りにしている檀那寺で、駒込の吉祥寺という寺に行 き、難を避けた。お七たちだけでなく、沢山の人々がお ちょうろう 寺に逃げ込み、長老様の寝間で赤子の泣声が聞え、仏前 に腰巻が散らかっている始末。主人の驅を跨いだり、親 ざこれ を枕にしたり、入り乱れての雑魚寝になり、朝になれば い」・ら そな 仏に供える茶 仏さまの銅鑼を金だらいのかわりに使 ) 碗は飯茶碗のかわりになってしまったが、こうした騒ぎ しやか のときのことだから、お釈迦さまも大目に見てくださる ・んんこ