吉原 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 好色五人女
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1. グラフィック版 好色五人女

のですね。 お時間というわけ。もっとひどいのは五分とり 暉峻大スターですよ。それも半世紀の。 一匁目の半分四百円ですよ。その下に一番低い三 分とりというのがある。それは八百円の十分の三 「世之介」は だから三百円足らすで一発。ひどいもんだな。 西鶴の代名詞 吉行戦後、昭和二十年代の玉の井という感し を 銀 ですね。 吉行西鶴については二十いくつまで、はとん 暉峻西鶴の時代だって遊女にはピンからキリ どわかっていませんね。一応の金持の町人らしい まであるんですが、西鶴は一番上のクラスだけし とい、フこと位で。 か書きませんからね。『一代男』では。最近私が、 暉峻手代を何人か使っていた中流どころの町 分 節 念のため調べてみますとね、吉原には二千人の女 人。 吉行これもさっきの例でいえば、天神も買え っと発散して行くわけです。色の面に閉し込める 良がいて、そのうち太夫はせいぜい五、六人なん ない位ですね。 といったって、遊びの金が高いから。 です。島原もそう、やはり十人位で、一番多いと 暉峻このあいだ学会で、西鶴の最近出てきた 吉行ばくも今回驚きましたが、二代女』に、た きでも太夫は十四、五人。 手紙が紹介された。晩年の手紙ですけど、京都の とえば太夫を買うのは、財産が常に五百貫 ( 四億 吉行それは思ったより少ないですね。 だれかに宛てたもので「島原の太夫十五人の色紙 円 ) 位あるやっしゃないといけないと書いてあり 暉峻少ないのなんの、私もびつくり仰天した。 を全部彼女たちの署名入りで書いてもらってくれ」 ますね。 だから吉原でも、そのせいぜい四、五人のところ 暉峻それもその利子で食ってるんしやダメ。 と書いてある。西鶴は、地方から出てきた金持か へ先を争って、六十万石伊達綱宗や紀国屋文左衛 だれかに頼まれたらしい 四億を回転させていなければ。 「天神のなかで、五、 門がせり合うってことが起きるわけ。太夫がすら てんじん 吉行その下の天神は二百貫目位。もひとっ下 六人すぐれたのと合わせて二十枚はど書いてもら っといたら、こっちがだめならあっちがあるさと の鹿恋が二千万円位をフルにいつも いうようなものだけど。 いこい。頼み手は例の世之介と仰せくださればわ 暉峻一貫目はいまの八十万円位ですからね。 かります」と。だから「世之介一代男」というの 吉行もう少し、何十人という単位でいると思 吉行戦後は太夫がはっきりした形ではいない は、西鶴の代名詞になる位だったんです。そうい いましたが。 わけだけれどーーー違った形で柳橋あたりにいるこ うこともしていたんだから、手前では遊ばない 暉峻ええ、ええ。それをせるんだから金がい よたか しよくさんじん とはいましたがーーー、われわれでは夜鷹の一歩手前 吉行その辺は、大田南畝、蜀山人と号したの りますよ、そりやもうたいへんだ。西鶴はこの選 は五十二歳でしたか、百年はどあとの人ですけれ ぐらいのしか買えないですね ( 笑い ) 。江戸では夜ばれた五、六人の遊女の話しか書かない。 そうか ども、あの人に似たところがありますね。彼は御 鷹といったけれども大阪では惣嫁というんですね。 すよ。あとの千九百九十五人は全部切り捨てて、 暉峻大学で講義するときいろいろ説明する。 ほんのひとにぎりの、大名や一流町人が通う彼女徒士といわれる身分の低い武士出身ですが、狂歌 の先生といわれながら、幕府の大蔵省とでもいう 「そうだなあ、おまえたちは太夫も無理、天神も たちだけを書くんだからな。それにだまされて、 はしじようろう 立場の役人にくつついて、吉原あたりで遊んでい 無理、鹿恋も端女郎も : ・ : ・」 ( 笑い ) おれも一発なんて行ったらひどいことになる ( 笑 だんりん たと ) いし 、ますね。西鶴も談林派の俳諧師出身です 端女郎というのは、これだけがショートタイム い ) 。寛永の吉野から延宝の有名なタ霧まで、半世 ね。共通する性格はあったでしようか。 の客をとるんです。ショートタイムでは銀三匁目 紀間の江戸吉原と京都島原、大阪新町、全部かき 暉峻もちろん。これは私が調べてわかったこ が一番上。一匁目は今の標準米の米価からいうと集めてやっとあれだけになった。 とですけど、鴻池一族というのはあの時代の大町 八百円位。三匁目というと二千四百円でちょうど 吉行っまり芸能界の大スターというようなも たゆう 弖 150

2. グラフィック版 好色五人女

、い 0 00 0 けん よしわら せんりう 吉原座敷拳すもうの図「吉原と芝居は賽の裏表」と川柳にもあるように遊里と歌舞伎は当時のニ大娯楽場だった うらおもて によばう 店に色好みの亭主があって、しかもその女房が美人であ るのに、外にまた妾をこしらえたのを、女房が物分りよ かよ く亭主が通って行くのも気の毒だと我家へ呼び入れたと しっと ころ、後には、本妻を嫉妬して、いろいろいやがらせを して、間もなく離縁させてしまったことがある。なんと も珍らしい、あべこべの世の中です」 だいじんゆくすえ 「その大盃という大尽の行末はどうなりました」と、た すねてみると、「千五百両を手に入れて、角町のまんし 屋こさつまを買ったのですが、あとさきの考えもなしで、 きんす どうしてどうして金子一両も残さす、これはど見事に使 い果したことは類がありません。今では、麹町の六丁目 さしみ かりだな の横町に、みすばらしい借店を出し、鯉の刺身をつくっ もりう て一皿いくらの盛売りをしていますが、『因果はめぐる ふみ いろざと 刺身の皿』と、人の笑うのもかまわす、色里からの文な んぞ料理のつつみ紙にしてみせている。こんな身になっ おやじ ても見栄を張っている親父です。『いまだ心残りなのは、 三浦屋の花むらさきに逢わないで死んでしまう事が口惜 ぜひ しい。是非この思い入れを一生のうちに果したい。わた むびようそくさい しはこのとおり無病息災だから、まだ三十年はたとえ不 せがれ ようじよう な力いき 養生をしても長生の自信がある。倅はおつつけ女房を持 つから、三年か五年のうちに命を縮めて先に死ぬにきま っている。子の物は親の物であるから、そのあとをそっ くり取って、ふたたび花をさかせて、花むらさきに逢い せがれ いっそのこと一日もはやく、倅のやっ たい願いなのだ。 さず にたくましき嫁を授けていただきたい』と、無理に縁結 せいがんじようじゅ びの神に祈るのもおかしいことですよ。この請願成就の ときもあるものだろうか」 よこちょう いろごの おおさかずき りえん めかけ いんカ 139

3. グラフィック版 好色五人女

好色五会 好色五人女 巻一お夏清十郎物語 巻一一樽屋おせん物語 巻三暦屋おさん物語 巻四八百屋お七物語 巻五おまん源五兵衛物語 万の文反古 ~ 示にも田フよ , フなることなし : 御限みを伝えまいらせ候 世間胸算用 よろす せけんむねさんよう ふみは 目 〈ロ絵〉西鶴自筆島原大門ロの図若侍と禿七人遊女七態図・菱川師宣筆蚊帳中読書図・伝菱川師房歌舞伎図 屏風・菱川師宣筆吉原若年遊女の図・鳥居清春筆男舞図 吉行淳之介。

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4 す , 、す 「たば」を長くし、前髪をつけた端々 西鶴は四十三歳。『好色一代男』で一用絵師と町絵師とがはっきり分化し、 彖■函表ー 金松竹梅湯嶋掛額「八百屋お七」月岡躍、作家的成功を得て急上昇中であっ町絵師たちが、美人画をかいて特色を しいあで姿は、元禄以前の絵画にこと に目立つ。 円熟した師宣がこの『好色一代男』 しめすのはほば寛文年間である。これ 目芳年筆東京消防庁蔵 ■函裏■ の江戸版の挿絵をかいているのも、なを寛文美人図とよぶ。 これは若衆歌舞伎が熱狂的に迎えら 版 にやらめでたい時代の重なりである。 元禄期の貨幣三和銀行蔵 ひるがえってこれを武家社会と比較れた事情と同しで、舞台上の若衆姿、 ■表紙裏見返し■ その描く女性はゆたかな頬とあご、 すればその特色はいっそう明暸になる。 また女装した美少年が大衆をひきつけ 図 下里寂照宛西鶴自筆書翰貞享元年 堅肥りを思わせる小柄な、健康な姿態武家には女性美をそのまま受け入れてた。これらの美少年の役者たちは芸を ちょうしんやせいた 天理図書館蔵 鑑賞する基盤がなかった。市民社会で見せるよりもむしろ衆道の対象になり である。その後の浮世絵が長身瘠形、 ・片かんのんロ絵■ あるいは猫背の女性と変転してゆくのは逸楽の対象としてであっても、女性やがて幕府によって禁止された。 島原大門ロの図井原西鶴筆独吟百を思うと、官能の表現もまた健康、素美を認め、のちにはその人間性を男性 この若衆歌舞伎の舞台は初期肉筆歌 韵自註絵巻より天理図書館蔵 朴であった江戸初期の風を写し伝えてと対等にみようとする姿勢をしめす。 舞伎絵に描かれているが、舞台と関係 さて寛文美人図にかぎらす、浮世絵 なく独立して描かれるようになった。 ■菱川師宣■ 師宣は安房の保田村の縫箔師、菱川版画の世界がひらけるまでは、すべて奥村政信あるいは宮川長春などにすぐ 6 . 7- ・七人太夫七態図・ : 吉右衛門の子として生まれる。俗称吉肉筆で一図一図ていねいに描きこまれ、 れた作品がある。大柄で華美な着物の ・四季風俗図巻出光美術館蔵・ 兵衛。元禄七年、芭蕉の死に四か月先その精緻さと色彩美は初期の素朴な版柄は、この時代の特色であって、大き ・男女相戯図 : 立って亡くなった。 画では及びもっかぬものであった。ゃな紋や、書絵の小袖が流行、色彩も中 ・町人の女房・洗濯・伸子針 り和国■美人図■ 間色の桃色、藤色、水色、紺色、鶯茶 がてその版画も多色摺りの錦絵の世界 百女より東洋文庫蔵 : 4- ・ L.n などかはやった。 ・美人三幅対のうち京広瀬重信筆 いわゆる浮世絵の巨匠たちが ・見返り美人東京国立博物館蔵 : 東京国立博物館蔵・ : 3 つづく。しかしそれらの間にも一貫し ・職人尽図・ ・若衆川遊び・揚屋の遊興浮世続絵 ・江戸吉原若年遊女鳥居清春筆吉て肉筆美人画は描かれた。師宣のよう ・呉服屋・本屋都鄙図巻より住吉 CO 1 / 4 . 8 尽より東洋文庫蔵・ 川観方氏蔵・ に両方に作品を残す絵師と全く肉筆し具慶筆興福院蔵・ ・太夫文書図 : ・唐土太夫絵姿角屋蔵 : か描かない絵師とかいた ・酒屋・酢屋・粉屋・料理師・八百屋・ ・吉原の体東京国立博物館蔵 ■若衆図・ 質屋・餅屋人倫訓蒙図彙より : 8 っ【 ・つ 0 ・男舞図中村溪男氏蔵 : ・脱穀・侍農絵づくしより東洋文庫蔵 ・若衆訪女図伝田村水鴎・ : ・具足師・両替屋・竹細工師職人尽 ・形見の水櫛・人には見せぬ所大和 ・柳下三人若衆図 ( 部分 ) 田村水鴎 図屏風より柳孝氏蔵・ 絵のこんげんより東洋文庫蔵 ・経師屋 : 「大和、つきょ絵とて世のよしなしこと 美・若衆盆踊図 : ・職人尽図かるた滴翠美術館蔵・ ・白衣美人中村溪男氏蔵 : をその品にまかせて筆を走らしむ」 ・水仙を持っ若衆山崎女竜筆出光 にこ、つ聿日きつけた 「絵本浮世続絵尽」 ・鳥持美人に籠持娘鳥居清倍筆東美術館蔵 : 職それぞれの働く姿を冊田、 才したものは 師宣は当代の代表的な絵師であった。 京国立博物館蔵・ : 引・脇息にもたれる若衆・ 歴史的にかなリさかのばる。その初め まっリ一一し一 うきょ絵に「大和」と冠したのも、唐 ・蚊帳美人宮川長春筆中村溪男氏 美人図とともに、初期から元禄にか は庶民の姿を知る政のはからいから、 様の絵ではなく大和絵の流れを汲む新蔵・ けて私たちの眼をひくのは若衆図であ雲上人の座右にそなえられたものであ しいスタイルの絵という自負がのぞい ・遊女弾琴図角屋蔵 : る。女性風俗でいえば、髪形が根をきろう。したがってこれに和歌を添え、 ている。六十四歳で没した師宣はこの 繊細優美な一人立ちの美人図が確立 ) っと詰めた「根結いの垂髪」か、「玉歌合わせとしたものが、平安期から作 時五十四歳。円熟した時期であった。 られていた。時代が下るにしたかい したのは江戸期に入ってからだが、御結び」までの時代、女羅と同しように ゞ 0 50 に 166

5. グラフィック版 好色五人女

ういう本屋の棚に積み上げられたことだろう 本屋教育の普及を背景にして本屋は発展した当時の流行作家西鶴の作品もこ 々や盃い見 で 門毳い めの を ム に そす 抜智ときうし 使 にのえ る畳 ま て れか を ・手・てし ) つ 鬢金抱ば そ つ 月リも 描 を た 付蔵ー . そ・ し、お、 の和い れ 大を代をど 切 油が の の にん 尺未みう っ 小こ泉み 中た オこ カゞ でノし、 世 で 聞に 主も屋や も 髪細 本 橋に事 て のも 間 をく そ で のも の 冫水 聞 ぐ 酒 に四しを の ひな 間 叔おな とき 子 深郎 3 よ の よ 印 ーこ 十まばし、 かっ らて くの ろ 子 っ は それ っ は せき 馴な ら 七 よ っ のて を も た 染じ階 は せ 贈 歳 の、 も 猩親く ん 座ざ く の 十 女鬟 の つ 商 て で EJi/1k 々ー父じれ 八 郎 3 も て 時 ら て、 な あ さ 遊う が 貰 に に い ま 掛酒 ん っ 初 な びハ 事 の し い 揚物毳の と る め た グ ) と 屋やで 川 は ⅱ、ら け を 年 も で 死過 い、 グ ) 伊、、当一所鬟 ば のぎ 余 謡 山び 勢せを狂 し の 曲 リ 本 ど 度 覚て 風 ん 長第は 町 しい や の の 使 の たを あ は、 を 揚でる し 大鶚と意 締し屋や金の 衛え と を い さいかく ノし 吉原での遊びが過ぎた親父がとうとう息子に勘当される かんと・う 137

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はそはそ はったて さて一服掘立式の家で細々と竹の細工物を イ乍って売っているのだろうかわらぶきの屋 本艮にはヘちまカく這いふらり ) 虱に揺れている 吉原の太夫と結婚し今は落ちぶれて金魚の 餌のばうふらを売っている男の家に 昔の友 人たちが訪れるが茶をわかすにも薪がない それでも男は昔の気概を忘れす友人たちの こは ごくひん 援助を拒んで愛妻と極貧の生活に甘んじる は きか、一 諸新 : 気社第朝新物 に行って、そこでいろいろ語りながら酒を飲めば、一段 かみ と慰みにもなるであろう。今のお内儀はきっと吉州だろ 巾・子くやっているか」 と一一一口、つと、 じよろ・つ 「この女郎ゆえにこそ、このようになってしまったのだ。 傾城にもまことのある時があらわれて、四年経ってから 男の子かできて『ととさま、かかさま』と言うのを心の 頼りに、今日まで暮してきた」 まぼろし ゃなか 夢のような語り口を、友達は幻のように聞いて、谷中 、りあい しをことまる雀の の入相の鐘のなる頃、風にざわっくくオ彳 ( 明日の命もわからぬえさし町 ( 富坂町 ) の東のはすれに着 「この裏でほそはそ暮していますが、三人ともお入リに まあ なると、とても腰を掛けるところもありますまい それもよい、何を隠しましよ、つ」 くき あし かき と、案内して行くと、葦の茎の垣に秋を過ぎた朝顔の すえば つる 末葉もすっかり枯れた蔓を探して、七十余りの老婆が、 たの その種を一つ一つ取っては、来年の眺めをまた愉しもう としている。されば、人間は露の命だと言うのに、 この 老人は来年のことをと、その顔をつくつくと眺める気持 である。 「ばばさま、ここを通りますよ」 と、気軽に声をかけて、荒れ果てた井戸の端を危なか たはこ かげば しく越え、蔭干しの煙草をつるすために張ってある細縄 って行くうちに、窓から親の姿をみつけて、 「ととさまが、銭もってもどりなされた」 ふびん ないき と言う声も、不である。内儀は、むかし鍛えた目は きた あさがお なわ 133

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、をノり、桜営 西鶴ゆかりの大阪 淀川全国から様々な物資 ー中之島 ( 北区 ) 諸藩の蔵 こニ : : が淀の水運を利用して運び ひせ人 屋敷や鴻池屋・肥前屋な てんまてんじん′ こまれまた運び去られた 幵天満天神 どの豪商の店があった ) 暠天満天神 ( 北区大工町 ) 、三人と矢数俳諧を興行した / テ 天 - 神橋 堂島 北浜 ( 東区 ) 西鶴の時代ゞ、 には米市場があり数千軒の、も・ 凸、 問屋が軒を並べていた , : ツい、心 ・鷁庵 東 西鶴庵 ( 東区鑢屋町 ) 西“ 鶴が延宝五年い 677 ) から・・ 堀 以後の半生を過ごした 誓願寺 ( 南区上本町 ) 門 人と本屋が建てた西鶴の墓 貝庵 ( 南区高津町 ) 西 のはか妻と娘の墓もある に , ん 山宗因の一周忌で西鶴 せいカぐんじ 卍願寺 ついせんはいかい ′をが追善俳諧を興行した ど・うん一リ ・南見庵 生玉社 ( 天王寺区生玉町 ) 道頓堀 ( 南区 ) 歌舞伎や 幵笙主神社 寛文十三年い 673 ) と延宝 、、、、浄瑠璃などの小屋が並ぶ芝 卍南等 八年い 68 のに西鶴が矢 、居町として盛えていた かすはいかい 数俳諧を興行した 浄国寺 ( 天王寺区下寺町 ) 西鶴の作品にも登場する名 0 妓タ霧太夫の墓がある 四天王寺 ( 天王寺区元町 ) 青木友雪主催による矢数俳 ー諧に西鶴も出座した上方 〃ー歌舞伎。名役者玻田卍四天王 の墓もある ' ( 新町 ( 西区 ) 寛永年間に 開かれた江戸吉原・京都 気島原と並ぶ三大遊廓の下っ 西具掘川 1 1 ー 末吉橋通 やまそういん 歌舞使座 今宮 してん・うじ 165

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かんにん いなかもの 離れぬ田舎者でございますれば、どうかご堪忍を」 訳こ、因縁のつけようもなく、 亭主の筋の通った言い一一 = ( さむらいーゅう 「侍衆にかけぬようにするんだね」 と、言い捨てて通ろうとすると、 、。りくださって、お召物をお着替えなされませ。 「お立寄 さあさあ座敷の方へ」 ありがためいわく 「いや、かまわぬ」と、 と言われるのが有難迷惑で、 みつでらはちまん 濡れたままで三津寺八幡の前に行った。 ふえ このあたりに、旅役者の笛吹きで、伊勢の吉太郎と言 こやくしば う者が住んでいるか、この者をときどき子役芝居の一座 に呼んで、二三度、物を与えたことがある。この者の外 の茶屋や役者には、すべて不義理をしているので、立寄 ることなど到底できない。裏長屋住いの吉太郎を訪ねて まるはだか みると、丸裸で出て来て、 ・り。こんなむさ苦しいところへお 「旦那これはお久しふ し」・フ一しい いんねん せ よしだだゆう よしわら 江戸吉原の吉田太夫 立寄り下さるなんて、有難いこって」 こばこばんちり と、にわかに煙草盆の塵を払ったりして、裸で飛びま わっているのを見て、 「これはなんと、元気なことだ」 と一一口、つと、 「いま大酒を飲みましたもので」とは言い ながらも、赤面して、 だんな 「旦那もこのお袖の濡れておりますのは」 なりゆき と、不思議がる。事の成行を語って、「これを日当り だいじん に干してくれ」と、頼んだ。大尽も丸裸になって、 「とにかくムマ日は、暖かな日だ」 と、縁側に二人で並び、寒さに奧歯を噛み合わせなが 「今日に限って、わしは着替えを持たせてこなかった。 ぐんないじま お前にいっかやった郡内縞の着物、あれを暫くのあいだ 代貝してくれない力」 「私が裸なのは、しつはあのたった一枚の郡内の着物を、 裏だけを洗わせまして、隣へ絎けにやりましたからで、 こんな有様なんです」 だいじん よこて と語る。大尽は、横手を打って、 「さても不自由な暮し向きだ。近いうちに、着物、羽織 をわしがはすんであげよう。今日はちと具合が悪いこと があって取りにやるわけにはいかぬか」 二人が裸で着る物を待っている様子が、まことにおか かわ ようやくタ方になって、干した着物が乾いて、大 したて じん 尽が着ていると、吉太郎の仕立着物も出来てきた。二人 ともに、筋の通った姿となって家をとび出し、さてこれ ぜん からと振舞いの席に行くと、食事の膳はもう片付けてあ ふるま - あ・りカ」 ぐんない はおワ 126

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あげや 0 揚屋の風俗 " いろまち " とか " さと " とよば れた遊里では昼も夜もない遊びが続けられた 京都島原・江戸吉原・大阪新町が特に栄えた ゆうり 遊女の櫛 り、もうやめますから」 わ ごと と、さまざまの詫び言をいったが、聞き入れてもらえ たちの 「弁解は無用、すぐにどこへなりとも立退け、みなさま にはご ~ 礼由・しました、ではさらば」 と、親父は帰ってしまった。 皆川をはしめとして女郎たちはみんな泣き出して、収 やみ たいこもち しゅう 拾のつかぬ有様になった。ところが、幇間の中に闇の夜 の治介というものがいて、すこしも驚かす、 ふんどし 「男は裸でも百貫の値打ちがありますよ。たとえ褌一つ せいじゅうろう でも世の中を渡っていける、清十郎様あわてることはあ りませんや」 と言うのが、騒ぎのうちにも面白く、この言葉を肴に してまた酒を飲みはしめ、せめてもの気晴しにした。 しかし、勘当の効果はこの揚屋ではやくもあらわれて、 手を叩いても返事がなく、もう出るころという吸物がこ てん ぜん ないので膳の上が淋しく、「茶が飲みたい」といえば天 もくぢやわん 目茶碗を両手に一つすっ擱んでやってくるし、その戻り あかり とうしん かナに灯、いを減らして燈火を暗くしてゆき、女郎の名を てのひら 呼び立てて引取らせようとする。いやはやまったく掌を ゅうり 返したような扱いだが、これは遊里のならいであり、人 がちやほやするのは小判のあるうちだけである。皆川の 立場としては一層かなしく、ひとり跡に残り、涙にくれて くや いる。清十郎も口惜しいというだけで後はなにも言わぬ ものの、その言葉の中に死を決している気配がはっきり 見えた。しかし、皆川に、い中しよ、つと言いかけるのか悲 しく、とやかく物思ううちに、皆川は気配を察して、 す、 つか さかな しゅう 「あなたは死んでしまおうとなさっているようですが、 それはまったく馬鹿げたことでございます。わたしもご 一緒に、と申し上げたいところですけれど、なんとして もこの世に未練があります。水商売というのは、そのと きどきで気持のかわるものですから、今までのことは昔 の話として、きれいさつばりお別れしましよう」 と言って、去って行った。さりとは当てはすれなこと くじ で、清十郎は気持が挫け、 じよろう 「いかに女郎とはいえ、今までのよしみを忘れ、浅まし こころね い心根だ。まったく、ひどいもんだなあ」 と、涙をこばして立去ろ、つとするところに、皆川が白 しようぞく 装束で駆け込んできて、清十郎にしがみつき、 「死なすにどこへいらっしやるおつもり。さあ今すぐに」 とっさ かみそり と、剃刀を一対出した。清十郎は咄嗟のことにおどろ き、女の真情にこれはと悦んだとき、大勢のものが立ち もと おきや 現れて、二人を引離した。皆川は置屋の主人の許へ連れ 帰られ、清十郎は人々が取巻いて、親元への詫びのしる だんな えいこういん しにも、檀那寺の永興院へ送りとどけた。その年十九歳 で、寺にあすけられるとは哀れなことである。 くけ帯から出てきた手紙 「たった今の出来事だ、医者よ薬よ」と立ちさわいでい るので、「何事か」といえば、「皆川が自害」とみんな か歎く。「今のうちならなんとかならぬか」といってい るうちに脈が絶えたということである。さてもはかない 世である。十日あまりもこの事を隠していたので、清十 よろこ しろ

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図版目録 もあるだろう 。『好色一代男』の江戸 盛行をみるに至ったが、桃山期からは、 ・盆踊りの図英一蝶筆 : : 引・天理図書館蔵吉田・花鳥・タ霧・ 歌を記さす、純粋に各種職人図として、版に、師宣が西鶴の図にしたがって描 ・神宮徴古館農業館蔵旅の道具 : 吉野太夫俳諧女歌仙より : いたが、師宣は西鶴、半兵衛たちより 風俗画の一部となり、やがて単独に職 ・サントリ ー美術館蔵四条河原風俗・東京国立博物館蔵新吉原座敷拳す も、人物が大ぶ 人尽絵が登場してくる。職業の種類も もう古山師政筆・ りになり、群像描写も絵巻・ すっと巧みになる。西鶴の自画と、師 増え、その用具、技法がさまざまで、 ・京名所図屏風 : : ・驕・滴翠美術館蔵ぶりぶり・うんすん 絵画のモチーフとして興味が高まった かるた : ・京より瀬田への道東海道分間図絵 こともしめしている。 ・東京国立博物館蔵白地鷹衝立模様 ・西鶴作品版本の挿絵・ ・東京消防庁蔵火災図 : 友褝染小袖 ( 部分 ) ・白地斜縞歌文字 イろ / 7 ー . 0 4- 7 ー LO っ・つ ( ・・つ 0 ・好色五人女 : ・東京国立博物館蔵菊次郎のお七・ 模様小袖・白地叉手網模様小袖 : C.D . 0 . 4 . 7 ・ - . つ 挿菊五郎の吉三郎 : : 花・昭和女子大蔵道ゆき疋田染小袖裂 つな . 1 ー . 0 . つ - -0 8 . 加賀友染夜着裂・黒茶地宝尽縫腰蓑裂 代・東京国立博物館蔵中村松江の八百 0 ・ 0 ・万の文反古 : 色屋お七 : ・世問胸算用・ ・東京消防庁蔵歌舞伎狂言「八百屋・サントリ ー美術館蔵秋草蒔絵提重 ・西鶴置土産 : 一鶴お七」歌川豊斎筆・ ・好色一代男・ ・興福院蔵街角の往来都鄙図巻よ・久保克敬氏蔵難波西鶴翁芳賀一 っ ) 8 ・男色大鑑 : 宣の「大和絵のこんげん」 ( 『好色一代 品筆・ り住吉具慶筆・ ・好色一代女 : 男』の絵本化 ) などを比較すれば、そ : ・国立国会図書館蔵好色五人女版本 ・三井文庫蔵貞享ニ年江戸図 : 西鶴の著作のうち、「好色一代男』 の相違はあきらかである。 表紙 : ・縁先髪結図 : らっかん と『諸艶大鑑』は落款がないけれども、 後の絵師で自著自画で傑出している ・天理図書館蔵「役者笠秋のタに見・天理図書館蔵西鶴自筆短冊・ 西鶴自画の挿絵とされている。はかの のは、奥村政信、北尾政演 ( 山東京伝 ) ・暉峻康隆氏蔵貞享三年大坂図 : つくして」独吟百韵自註絵巻より 著作には吉田半兵衛その他がかいた 等、まったくないわけではない 。しか井原西鶴筆・ 当時、上方の代表的な絵師であった半し政信、政演等の人々は絵師として自 ・野郎・茶屋・太夫・天神・鹿恋・端・撮影ー c.D . 1 ー 兵衛の生涯ははっきりせす、たぶん西立し得た。かならすしも文筆専業では 女郎好色訓蒙図彙より・ 市瀬進 / 木下猛 / 小宮東男 / 関孝 / 成 0 ・ 0 なかった。そういうあたリから振りか 鶴と同し頃、没したと思われる。が、 ・安達瞳子氏蔵化粧道具・櫛 : 瀬友康 / 松野等 / 世界文化フォト / フ とりわけ西鶴のためには『好色一代女』えるならば、西鶴は自画自作においても ・角屋蔵香枕・鏡台・ 「好色五人女』『武道伝来記』『日本永輝かしい先駆者であったといえよう。 ・三和銀行蔵両替店諸道具 : ■編集協力■ ■その他■ ・師走の図 : イ蔵』『本朝桜陰比事』等の挿絵をか 稲垣史生 / 木村東介 / 郡司正勝 / 小鯖 ・若侍と禿 : 『本朝二十不孝』も半兵衛がか : 5 ・国文学研究資料館常香盤・筆屋の 英一 / 三和銀行 / 昭和女子大 / 角屋 / いたのではないかと一言われている。 看板・味噌屋の看板 : ・蚊帳中読書図伝菱川師房 : ・ 8 ・ 9 早大図書館 / 東大図書館 / 橋本澄子 / 西鶴の絵は半兵衛の影響を受けてい ・東京国立博物館蔵歌舞伎図屏風 : ・日本民芸館蔵たばこ盆・秀衡椀・ 日比谷図書館 / 便利堂 / 吉田漱 るか、かなり巧みで、こまかくみれば、 熨斗文蒔絵重箱・卵殻張重箱 : ・地図作製・ 0 00 0 1 ′ 個性的な表現もみられる。半兵衛にく ・早大演劇博物館蔵大阪絵看板「お 蛭問重夫 らべて、泉に卩ら 払がすくなく、人物の夏狂乱」葦国筆・ ・滋賀大経済学部史料館蔵ちょうち・髪型イラスト■ 石津博典 表情もやや幼いところがある。しかし ・出光美術館蔵春秋遊楽図菱川師ん・きせる入れ : ■図版監修■ 自作自画だけあって嗇 ~ 図するところが平筆・ : ・角屋蔵楊弓・雙六しだれ柳より ・柳孝氏蔵川遊びの図 : また悪達者でない雅趣 よく表現さし 中村溪男 / 宮次男 167