町人 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 好色五人女
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1. グラフィック版 好色五人女

町人文化の華 ぶりぶり 元禄時代の主役は、都市とそこに住む町人達である。 い「に勺」ま 彼らは豊かな経済力の背景と元禄の平和的ムー きんらんどれす れて、明快で現実的、享楽的な生活を好んだ。金襴緞子 や元禄袖と言われる一尺五、六寸にも及、ぶような長袖の 豪勢な着物も珍らしいものではなく、幕府のたびたびの 禁令でも取締り切れなかった。また豪商の女房達の金に 糸目をつけぬ伊達競べも行なわれ、人目を驚かせた。こ ぶりぶり本体の車輪をとって紐でひつばり車輪を後尾に当てる遊び のような風俗における、町人階級から生 れた、新しい趣 向は、文芸の分野にも直接反映し、従来の日本文化には 見られなかった。新鮮な文化、町人文化を創り出した。 町人文化を支えた江戸や上方の裕福な町人は、婦女子 ものみゆさん をまじえ、着飾って芝居見物に、あるいは物見遊山に出 かけることか少なくなかった。そして、その折々には、 されしん 意匠をらした着物を誇らしげに着た 、また斬新で人 ぜい 目をひくデサインの贅をつくした重箱に、山海の珍味を 入れてたすさえて行った。こうした町人たちの行楽のあ ) さまは、当時の風俗を描いた浮世絵にしばしば描き出 されている。そこに遊、ぶ人々は、 いかにも平和を楽しむ 人たちであるが、士農工商の身分制度の最下位におかれ た町人のせめてものうさ青らしが、遊里をはしめとする 享楽の世界であリ、贅沢な着物や生活具に満足すること でもあったのである。そして、このような生活環境の中 から、町人独自の美と文化が生まれるのであった。泰平 を謳歌する町人たちは、また、さまざまなゲームを考案 ごしようぎ し、それに打ち興した。碁将棋はいうまでもなく、かる すころく た遊びや雙六も町人の楽しいゲームである。かるたでは、 巨人一首のはかに、うんすんかるた、職人尽絵合かるた など、現代では遊ばれていないいろいろなかるたが工夫 され新しく作られるなどして、その種類は非常に多かっ た。町人には衣裳や生活用具にかぎらす、遊びや趣味の 世界で常に新しいものへの関心の高まりがあった。これ が原動力となって、封建制度のいろいろな制約をものと もせす、町人文化を華さかせたのである。 ( 松木寛・東京都美術館学芸員 ) 140

2. グラフィック版 好色五人女

西鶴の生涯と作風康隆 穴師吹うミの鳴門哉西鶴自筆短冊 我ながら身も心も我がままにならて 憂世から浮世へ いなものなり。まして世の中の事、 とくわばくふ た境 ) こを町 1 阜 徳川幕府の出現によって中世が終り、 ひとつも我が気にかなふことなし。 近世がはしまった要因の中で、もっとも さればこそ憂世なれといへば、いや ~ もわがよ 重要な政策は、金銀銅貨による貨幣経済 その義理ではない、世に住めばなに 廓通いを浮世狂いといし 、伊な男を浮代市雌邯十郎、おがの初代藤十郎ら よ げんろく の確立と、現実的な儒教の採用とその普 はにつけて善し悪しを見聞く事みな世男といし 、女を浮世女といし 、その他、によって、元禄歌舞伎の一時期を画した。 こんや くひっ 及であった。 面白く、 ( 中略 ) 歌をうたひ酒のみ、浮世笠、浮世紺屋、浮世小拠、浮世 絵画に目を移すと、浮世絵は初期筆 ひしかわもろのぶ 貨幣経済が出発して半世紀、資本蓄積 浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり などと、享楽的ないし現代的という意味画時代を脱し、江戸の菱川師宣 ( 一六九 はんい の時代が終り、まもなく商業資本主義時 切りも苦にならす、沈みいらぬ心だ の言葉がはんらんしたことが、それを証四没 ) が板画芸術時代を招来し、同しく ひさご カ・カた 代をむかえるという一六六〇年代 ( 寛文 ての水に流るる瓢簟のごとくなる、 明している。 上方では、洛北鷹が峰の本阿弥光悦の流 おがたこうりん ふうび たわらやそうたっ 年中 ) 、庶民としては史上空前の繁栄期を これを浮世と名づくるなり。 だが一世を風靡した浮世という生哲学れを汲む俵屋宗達・尾形光琳が、新古典 しんこう むかえつつあった上方の町人階級 ( 工商 ) 動乱の現実が仏教のいう無常観とマッ が、新興町人の経済力とそれに伴う教養派の華麗新鮮な画風を創造し、陶芸におけ はいめ、 けざん は、新しい人生観を持つにいたった。そチした中世以降、この世を憂世と いいな ( 和歌・俳諧・茶の湯・謡曲等々 ) と結びる仁滿・乾山の活躍も見るべきものがあ びか れを敏感に反映して、文字に定着したのらわしてきた。だが今や肯定すべき現実つくと、それは「粋」という王朝の「雅び」る。 うきよものがたり かみいたち・うにん かれい が「浮世物語」である。 を持った上方町人は、どうもがいても繰に相当する階級の美意識となり、さらに この華麗な文芸復興期において小説と 頃り返しのきかないこの現実を積極的にその美的エネルギーは、芸術の各ジャン いうジャンルを担当し、真に近世的な作 げんろくぶんげいふつこう し師楽すべきであるという享楽主義を擁する ルにおいて結品し、元禄文芸復興ともい風を確立したのが弗県西鶴 ( 一六九三没 ) か - 三ロ うべき時代を招来した。 にいたったのである。 であった。 だ しかもそれは階級の繁栄が生み出した 近世前期の市民の文学的な素養をつち まつなめていとく にしやまそういんまっ おらんだ西鶴 かった俳諧 ( よ、松永貞徳・西山宗因・松 時人生観であるから、現代のそれのように ハトンタッチによ他人の作品をあげつらう批評家がいた ニ個人的ないし家族的なエピキュリズムに尾芭蕉 ( 一六九四没 ) の・ にん第第・じよっるりしば ちかまつもんざ = 一とどまらす、一つの風俗となり、町人文化って大成し、人形浄瑠璃芝棹は近松門左わけでもなく、純文学とか大衆文学とか えもん 0 いわん こけもとぎだゅう 衛門と作本義太夫の提携による、大阪作の概念や意識があったわけでもない。自 像を生むエネルギーとなったのであった。 げんろく もとざ 自それから元禄初年までの二十年の間に、本座の開場 ( 一六八五 ) によって、大衆劇分の人生ももうあと十年余りという四十 うきょえ かぶさ として結実した。また歌舞伎は江戸の初一歳になってから、出版社に頼まれたわ 西庶民の風俗を描いた絵画を浮世絵といい、 5 0 解説 0 かみいた じゅよう はんえい ちくせき かんぶん ぐる : んせ かれいしせん みわはんなみこうえっ 160

3. グラフィック版 好色五人女

・楸屋おせん物語 かんえい 0 呉服屋の店先西鶴の生きていた寛永 ~ 元 禄にかけては泰平の世が続き町人も比較的 のびのびとふるまえた財力を貯えた町人は ゆうり 遊里と衣装に存分に金をつかった華やかな 衣装競べが行なわれ呉服屋は大繁盛だった たくわ だいはんじよ、 ド ( か・ん 井戸替の男が恋に泣く 人の命にはかぎりかあるが、恋の種はっきることがな かんおけ 人の世のはかなさは自分が作っている棺桶で吾り、 錐やのこぎりを忙しく動かして世を渡る職業にし、波 てんま なくず の天満という場末に粗末な家を借りて、鉋屑がたちまち 燃えっきてしまう煙のように、ほそばそと暮しを立てて いる男があった。女も同じ場末の者で、片田舎には珍し 、耳の付根まで色白で、墟けした美人であったが、 としおおみそか わんぐ ゅうふく 十四の齢の大晦日に親が年貢の金に困って、裕福な町家 に腰元奉公に出した。以来月日が経ったのであるが、そ いんきょ の女は生れつき利ロでよく気がっき、ご隠居へこまかく 気を配り、奧さまの気に入るように振舞うことはもちろ ん、下働きの連中にまで評判がよく、そのうちに金の出 し入れまで委されるようになった。この家におせんとい う女がいなくては、と人々に田 5 われるようになったのも、 その女が賢いためである。 しかし、色恋の道をわきまえす、すっと枕ひとつの独 じようだん つま り寝で、あたら夜を過してきた。冗談半分に袖や褄を引 ・んんりよ つばるにも、遠慮なく大声を上げるので、男たちはきま りの悪いおもいをし、やがてこの女に話しかける男もな 3 たるや くなった。人々はこれを悪く言ったが、ちゃんとした娘 はこういう具合でなくてはいけよい。 ちょうど せつ 力しこそて 丁度七夕の節句のときである。織女に借小袖といって、 織女さまにあやかるように、仕立おろしの小袖を笹の枝 めんどり に掛けて、七夕を祭る。雌鳥に、右の袖が上になるよ はやり うに畳んだ小袖を七枚そなえ、梶の葉に流行の歌を書き しもじも ↓ - ′、わ - フり 記して、七夕に手向ける。下々もそれぞれ真桑瓜や枝っ おもむき きの柿を飾るのも趣がある。また、横丁の裏長屋のもの たちが掃除当番で家主の弗戸をするのも、七夕のめす らしい景枷である。 井戸の水がほとんど汲み出されて、底の砂をかすり上 げるようになると、いっか失くなったといって人を疑っ なきりばうちょう た菜切包丁が現れた。昆布に針を刺したのも現れたが、 これは誰を呪ったのだろうか。さらに探してみると、駒 を曳く絵のついた銭や、目鼻の溶けてしまった裸の人形 めぬき や、安物の目貫の片方や、小布を縫い合わせてつくった をれかけ 涎掛など、さまざまな物が上ってくる。蓋のない共同井 戸は、薄気味わるいことである。 わきみず ようやく涌水の近くまでかい上げたとき、井戸側の底 あいくぎ のところの桶輪が古い合釘が離れて潰れていたので、あ わこけ の樽屋を呼び寄せて、輪作を新しくかけ替えさせた。そ たるや ひ のろ こんぶ こぬの

4. グラフィック版 好色五人女

るやつもいる。それでもつなぎとめられないとき に、指を切るわけです。でも指を切るときに、遊 女が勝手に切るということははとんどない。遣り じよろうや かか 手や女郎屋の自分の抱えの人と相談の上で切る。 切って間違いなく自分のものになる客か、身請け をしてくれるかくれないか。そういうどたんばで す。 吉行やつばりそこで金も十分からんでいるわ けですね。 暉峻ええもう、ただで切りやしませんよ。指 を切るといったって、小指の先。やくざと同しで 指を詰める。 2 てるおかやすたか 暉峻康隆氏 ( 早大教授・解説執筆 ) よしゆきいのすけ 吉行淳之介氏 ( 作家・本文執筆 ) う文献がありますね。 吉行しかし男の側としては指を切られたり爪 をはがされるとい、つのは、 しい気持はしないでし 暉峻ええ、ポルノ作家。西鶴以前に、セック ようね、逆に。髪のほうはちょっとロマンチック スの場面とか、セックスそのものをおおっぴらに な感じがあるけど、爪というと自分がはがしたこ書いた作家はいないですからね。やはりあれは西 とを考えただけでも気持が悪い。男の側としては鶴が住んだ大阪という土地柄のせいですよ。大阪 には封建領主がいなかったでしよう。だから、よ 何かロマンがないですね。爪はまた生えてきます 「天下の町人なればこそ」こんなわがままがで が、指は生えませんから、客としてはあまり切っ ちょっかつら てもらいたくないでしようね。 きるといったのは、大阪が幕府の直轄地だったか まちぶイよう じようだい 暉峻ええ、はんとに一緒になろうと思ったら。 らですよ。二年交代位で町奉行や大阪城代が来る 享保ごろの連句を見てたら「指ひとっ無いで昔を んだから、自治みたいなものでしよ。江戸だとと 隠されす」というのがある。つまり、遊女が身請 けされてしろうとになってからが困るんです。し 3 ろうとは心中することはあっても、指を切るなん と 0 てことはないですからね。 吉行爪を自分のためにはがしてくれたとか指 て を切ってくれたということで、 いい気持になる客 し 出 もいるんですか。 暉峻いますね。なかには請求するやつもいる。 吉行変態的ですね。 お 棺 暉峻変態というよりも、やつばり金を使って の 女 モテないと、ちくしようと田 5 って。 吉行独占欲ですか。遊女のはうもあの人は金てもあんな作品は出ませんね。江戸の町人は幕府 を持っていそうだから自分のものにしちゃおうと の御用商人だから。 士ロ行しかし、こ、つい、フことはありませんか うことで、はいだり切ったりするわけですね。 なるほどそうすると心中だてという言葉はいいけ つまり施政者のほうからみれば、むしろ町人は〃色〃 れども、もともとがそうロマンチックなものでは の範囲に閉し込めて、そこにふくらませておけば ないわけですね。 無難だと。 暉峻ええ、はんとうは。だから西鶴なんかは 暉峻そういう愚民政策はありました。ただあ その裏話を書くから、ロマンチックしゃなくなる。 の時代は、三井、鴻池、住友なんていう大町人が、 ワーツと出てきたときですからね。色で押さえ込 そうたっ 太夫は芸能界 めるようなエネルギーしゃない。だから宗達も出 こうりんもろのぶ の大スター てくれば光琳、師宣も出てくる。歌舞伎の市川団 十郎も出てくる。政治以外のあらゆる文化面にど 吉行西鶴も当時ェロ作家といわれていたとい しせいしゃ 149

5. グラフィック版 好色五人女

あわひえ だっこく 脱穀農民の食事はあいかわらす粟・稗・麦な どの雑穀が主だったがくす米を粉にひいた 団子を主食としているところもなお多かった 筆屋の看板 確かで、同道してきた人々を見たとき、 すやきちろべえ 「お三人の中で、伊豆屋吉郎兵衛様はここへおいで下さ ってはいけません。他のお二人は差つかえございません」 と言う。主人はじめ、みな不思議に思い レ一を、 味噌屋の看板 とか どういうわけで、あの人だけをお咎めに」 と、たすねると、 ただ 「田 5 うままにならぬ勤めの身で、あの方には只一度だけ わものがたリ かりそめの寝物語をした事か、いまでも心に掛っており ます。主人に隠すのも不本意なこと」 と、ばろばろと涙をこばした。 ふびん 聞けば、もっともなので不憫であり、主人にしてもそ の心持に満足して、 じよろう 「女郎の身では、それが当り前なのに、これはやさしい 、心つかいた」 と、胸の中が晴れやかになり、 「これは、わたしの客なのだから」 と、三人ともに家の中に招き入れ、 「ますお茶を」 た当ぎ つりぶつだん と一一一口、つか、 ~ 新かなく、 釣仏壇の戸が外れていたのを幸 おそ いに、畏れ多くも菜切り庖丁で打割り 間に合せた。 「ところで、大事な息子さんは」 つぎはぎ と言うと、十四、五枚もの接継の蒲団にくるまり裸の あわ 肩をすくめて、寒さをしのいでいる様子で、なんとも哀 れである。 「寒いのにこれはどうして」 ないぎ と言うと、内儀は大声で笑い 「着物は放り捨てて、あのように拗ねています。わたし に無理なねだりごとをして : : : 」 と一一一一口い終らぬ、っちに、 おおみぞ かわ 「大溝へはまったので、裸にされて寒いよう、着物が乾 いたら着たいんだ」 ばうらよう まね ふとん はず 134

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京都の遊廓島原 島原という名は、当初その周囲に堀をめぐら 第てせた構えが、島原の乱の島原城に似ていたから すざくのにししんやしき といわれる朱雀野西新屋敷の現在地にできた かんえい のが寛永十七年 ( 一六四〇 ) であるから、西鶴 5 一六九九 ) の時代は、この地が隆 すみや 亠定 盛を誇った頃である。現存の角屋は古い揚屋の ぞうさく おも - かな〕 ′」うしゃ 、面影を残す唯一の建物で、内部の造作にも当時 上昇期にあった町人の豪奢がしのはれる いろざと しかしきらびやかな色里の繁栄も、遊女たち つみ どれい 「罪なくて の奴隷的生活の上に築かれていた これは一代の名妓と うき島原やけふの月」 よしのだゅう うたわれた吉野太夫の句である 倉角屋の一室御簾の問 ( 一六四ニ 扇の問のふすまの引手 110

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のプロレタリア文学時代を迎えて、集団 唯一の流行作家であるから、おしつけらした問題作を執筆しつつあったという事 いう早期資本主義に対する彼の認識は、 たけだりんたろう れたテーマを拒絶する自由はあったであ実である。 無資本なるが故にみしめで滑橇な生濺を描写の原点として武田麟太郎らによって 当やっ・」う あ ろうが、それでも量をこなすには、主体「武家義理物語』よりも一月早く、元禄余儀なくされている無産町人大衆の存在脚光を浴びたのである。 はんざっ 「胸算用』を発表した翌年、一六九三年 的なテーマを形象化するという煩雑さを元年 ( 一六八八 ) 正月に発表した『印本という、新しい発見をもたらした。 避けて、多分に題材それ自身の物語性に永代蔵』がそれである。処女作の『一代その新しい題材を主として、一人称の八月十日に、西鶴は数え年五十二歳で死 ぞん 存する説話作家たらざるをえなかった。男』で町人の可能性を享楽と消費の世界書簡体で描き、しかも物語性の稀灘な題んだ。 その死の直前に、執筆した、この世へ 『本朝二十不孝』 ( 一六八六 ) に続く、全に設定した西鶴は、早くも第二作『二代材を強化すべく、各主人公を経済的極限 界、きうち ぶどうて人らいき もんじんはうじ↓つだんす、 ざせつ おきみやげ かっさ 国の敵討三十二話を収めた『武道伝来記』 男』でそれをみすから否定し挫折してい 状況下に置いて語らしめるという、画期の置土産は、門人の北条団水命名の『西鶴 ( 一六八七 ) 、士道に殉した侍の物語集でる。その西鶴が今ここに、生産的な面に的な方法を駆使したのが、元禄三年頃に置土産』である。十一年前の処女作『好 けぎりものめたり 」 , 子ふみはうぐ ある『武家義理物語』 ( 一六八八 ) 、好色コ第二の可能性を設定したのが『永代蔵』執筆した『万の文反古』であった。だが色一代男』で肯定的に描いた、限りない こうーエ・、せいすいき ろうひ ント集の『好色盛衰記』 ( 同 ) 、武家説話集である。「惣じて親のゆっりをうけす、そ娯楽性に乏しいこの作品は版元に遠さ浪費の上に成り立っ享楽生活を、現実に はもようおういん しんかー・つき の『新可笑記』 ( 同 ) 、裁判物の『本朝桜陰の身才覚にしてかせぎ出し、銀五百貫目れ、没後 ( 一六九六 ) に違様として出版持った結果として、今やはい上がるすべ うきめ 比事』 ( 一六八九 ) など、この二年間の乱 ( 四億円 ) よりしてこれを分限といえり のないどん底に落ちこんでいる連中を、 されるとい、つ憂目に逢った。 作ぶりは、名声と収入を引きかえに、質千貫目の上を長者といふなり」と巻頭の しかし西鶴はそれにもめげす、同様なこの最後の作品は取り上げている。不可 によじっ もくゼ人 的低下を如実に示した結果にはかならな第一章で宣言したのは、名もなく貧しい テーマをより普遍性のある方法で演出し避な減びを目前にした者が、滅びつつあ 同族の若者たちを激励せんがためである。て、見事に成功している。元禄五年 ( 一る他の生を見つめる時、彼はもはや不必 せけんむねさんよう それでもさすがに西鶴らしい目の配り 具体的にそれは全国に功成り名とげたモ六九二 ) 正月刊の『世間胸算用』がそれ要な期待を抱くことなく、美意識やモラ りつしん・っせだん ひっち おおみそか ルにこだわることもなく、静かにそのあ や筆致は争えないものがあるが、以前のデルを求めて、立身出世談を描くことでである。時は大晦日という年間の収支決 ような問題意識の喪失、つまり新しい読あった。 算日、町人である限り誰も避けて通るこるがままの生をいとおしむよりほかはな 物の提供という線にとどまっているのが だが現実のモデルたちは、きわめて特とができない、一年に一度定期的に訪れ この時期の西鶴である。 殊な才能やチャンスに恵まれた者であるる経済的極限状況である。登場人物は中「置土産』における西鶴は、「貧にては か、あるいは悪徳によって栄えた者たち下層の町人大衆、場所は主として上方の死なれぬものぞかし」という『胸算用』 晩年の作風 であった。しかも時代は彼の予期に反し商業都市で、時と所と人を緊密に統一しで示した貧富へのこだわりを捨てて、滅 、・つあく 西鶴の西鶴たるゆえんは、そういう流て、「ただ銀が銀をためる世の中」 ( 巻二 ) て、二十の短編を掌握している。しかもびの中にある生を淡々と描いている。ど 行作家としての量産にはげみながらも、 にな 0 ていることに気付き、それらを既各短編はエゴイズムや夫婦愛を描くとい ん底でもみんなは生きているという安ら てんき 一方において彼に決定的な転機をもたら直に語り描いたあげく、「これらは格別のう特殊例をのぞき、主人公のない集団描ぎの心がそこにある。最後を飾るにふさ しゃ 一代分限、親よりゆづりなくてはすぐれ写であるのみならす、登場人物はすべてわしい人生への置土産である。 寺 てだい 願て富貴になりがたし」 ( 巻六 ) と、巻頭に掲姓名を有せす、亭主、女房、手代、借金西鶴の文学はある時代、ある階級の文 区げた自分の理想を真向から否定するとい 取り、貧乏人などと普通名詞で処理する学である。けれども彼は生きる喜びや悲 どう ) 、 どくそう う、勇気ある撞着をあえてするにいた という、きわめて独創的な方法を試みてしみや怒りに徹し、しかもイデオロギー いる。資本主義体制下の彼等の運命を、 飫ている。 よりも現実を尊重し、自己をあざむくこ 「永代蔵』は思想的に混乱した失敗作で個の連命と考えす、集団の運命と考えた となく創作したがゆえに普遍性をかちえ の たのである。 ( 早稲田大学教授 ) 西あった。だが「銀が銀をためる世の中」と結果である。だから「胸算用』は、昭和 要、・フー」っ せいがんじ かね かね げきれ、 0 しよかんたい きんみつ こ・再 おきみやげ おきみやげ てつ おきみやげ 163

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人の代表でしよう。彼は西鶴の俳諧の弟子ですよ。 以後、金ができて、吉野太夫に会い始めて以後と 地方からいろんな問屋、町人が集まりますね。 吉行一応弟子という形になっていて、つまり いうのは、何か透明人間みたい。ただの舞台回し 俳諧なんか多少やっている奴が、遊びたい、 役者 はうかん です。 実質は、ひょっとしたら西鶴も幇間的な : 買いをしたいと思うときには、西鶴に頼むようで なんしよくおおかがみ 暉峻もちろんそうです。『男色大鑑』を見て 吉行途中で、もう使いきっちゃって金がない すな。そういう金持の町人どもにとっては、西鶴 んしゃないかと思うようなところがありますね。 も役者がほとんど俳諧の弟子で、西鶴は男色が好先生に来てもらったということが、国に帰って話 きなようですね。三十四歳でかみさんに死に別れ 暉峻西鶴は、この章の話には世之介は金持し の種になる。だから幇間的ではあるけれども、そ やりやらよう てから、鎗屋町の草庵で、死ぬまでひとりだった。 や困るとなると、すぐ貧乏にしてしまうんだから。 こがちょっと。やはり〃先生。なんですよ。西鶴 やつばりこれは道頓堀の若衆と : : : ( 笑い ) 。 先生に同座してもらったということで同し遊びで全く無責任ですよ。ちゃらんばらんでね。その章 うえむらたつや 道頓堀に上村辰弥という若衆形がいたんです。 その章がおもしろければいい。 も箔がつくというわけです。だから自腹で遊んだ これは当時の役者評判記で見ると酒癖が悪い。芝 ことはほとんどないと隸、つ。 吉行西鶴の短いものはおもしろい。たとえば わんきゅういっせい 居がはねてタ方から茶屋に呼ばれて、少し酒を飲 吉行世之介にしても、最初勘当されて、いろ 「椀久一世の物語』というのは、西鶴自身がそば さんたん むと、脇差すらりと抜いてお客を追いかける。当 いろ苦心惨憺して遊んでいますね。で、三十五歳 で見ていたひとりの人物をすっと追っていますで 時大阪の男色好きの大尽で、上村辰弥に脇差で追位から大金がころがり込んでくる。そこからあと しよ。ですから話にうねりがありますわ。「一代 い回されなかったのはひとりもいない ( 笑い ) 。や が、せつかくそれだけ入ったんだから、おもしろ 男』は、前半はうねりがあると思う。で、後半から つばり男の子なんですね。酔っぱらうとちくしょ く書いてあるかと思って読むと、さしたることが ぶつぶっ切れていって。ぶつぶっ切れるという点 うツ。西鶴はそれを手紙に「世間が何といおうと では『好色一代女』はもっとひどいですね。もう きわ も、辰弥よき子に極まり候」 ( 笑い ) これは芸人 少し話をうまくつなげばい、 暉峻ええ、私もね、改めて考えたんだけど、 しと思うんですが。た としてひいきにしているんしゃない。やはり男色 おやじが死んで遺産がころがりこんでくる前に、 だしその途中の段階には非常に光るものがある。 の相手なんですな。 暉峻ええ、一章一章はなかなかおもしろいん あちこち放浪している間の世之介には、なんとい 吉行はあ、その気ですか。彼は。 うか非常な重量感があるんです。命がけで女の子 だけども。『一代男』『一代女』を書いた当時は、ま 暉峻あの時分は両刀使いですから。 に惣れて自殺しようとしたり。ところが後半五巻 だ長編なんか書ける段階じゃなかったんですね。 0 00 ( 遊女の最高位太夫 たルう てんじん ニ流遊女天神 三流遊女鹿恋 下級遊女端女郎 はしじよろう 151

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はいっているかもしれない に対する恨みがある。 をかけない、そんな遊びかたをする。 暉峻心意気があるというのはたったひとつで 暉峻部分的に、数を合わせるために。『文反 吉行なるはどしゃれているとは思うけれども、 ばうふりむしどうぜん 古』のなかにも二つか三つは、これはとても西鶴ね。「人には棒振虫同前に思われ」あれだけですそれは仲間うちの遊びでしよ。世間一般の金持に しゃないと思うのがありますよ。だから全部が全よ。 対しては、西鶴はこのやろうというところがある。 吉行あれにしても、西鶴の意地悪さみたいな 部傑作であるはすがない。それはそうです。現代 やつばり金持のことを書くと十分ではないですよ。 の作家だって、短編を十五か二十書いても、自分ものが、どこかにちょっと、ばくは感しられます西鶴は。 ね。そこら辺がまた複雑になっていておもしろい。 暉峻『永代蔵』のあと、だんだん「胸算用』 で全部これは傑作だとは田 5 ってないでしよう。 暉峻西鶴自身がそういう金持の遊びはできな や『置土産』のような庶民的なものを書くと、こ 吉行もちろんそうですし、短い間に書くのは かったということでしようね。人のはつぶさに見れがいきいきしてくるんだね。 とてもムリですね。 『置土産』の序文に、「世界の嘘かたまって、 やつばり西鶴がちょっと助けてもらいたい気持ているけども。 びゅう はわかるね。 、金持の遊び方を見ていますと、紀 ひとつの美遊となれり」とある。世界の嘘がひと 吉行ただ 国屋文左衛門にしても、吉原を借り切って、初が つにかたまって、粋という美しい遊びとなった、 暉峻わかるわかる、まあひとつやふたつはい しい言葉ですね。音楽だって絵だって、みんなそ つおを全部買い占めて、猫に食わしたあげく、自 いだろう位で。 うですよ。音楽なんて嘘でかためて、あんな音が 分がちょっと食って。ああいう遊びはどうも感心 金持を描くのは西鶴 しない われわれは 世の中にあるわけないんだ。つくらなけりや。 もう少し粋なものがほしい。 の縄張りではない 吉行女郎も嘘でかためて。 粋なことのアイディアはあるんだけれども、金が 暉峻ええ、ええ。 ない。お互いさま ( 笑い ) 。 吉行『日本永代蔵』という作品がありますが、 吉行太夫位になると。 暉峻上方の町人のはうが遊び方はしゃれてい いかに金をもうけて出世するかということ、これ 女郎 音楽をつくったり。 暉峻絵を描いたり、 る。たとえば遊び仲間が島原に集まって、ひとりが はあまり西鶴の縄張りしゃないみたいですね。だ まで含めて「世界の嘘かたまって、ひとつの美遊 から『置土産』も、たとえば昔金を持っていた人あしたおれの家で珍しいものをごちそうするとい ししなあ 、つ。ごちそ、つになるは、つはちくしよ、つってわけ。 となれり」、ああ、 間が零落しても、なお昔の心意気があるというふ うに書いていますけれども、どこかに西鶴の金持おれたちにとって珍しい食いものなんてあるわけ 何だろう、あ、わかった。あしたは北国 たな から初鮭の荷物が京都の錦小路の店に来る。そい ーみ引い つは大津を通ってくるはすだ。それつ / というん で、小判を持たせた使いをやって大津で初鮭を押 年 双恥 , い " 咽の↓ー えちゃう。ごちそ、つするといったほ、つは、錦の初 天 鮭を買い占めて一匹だけを膳にのせるはすだった。 いレ小いト小 さあそこで仲間がその家に遊びに行く。 の 飯になる。ちょうどその時間に買い占めた鮭を魚 男 屋に「鮭はいらんか」と、ふれ売りさせる ( 笑い ) 代 主人は尻尾を巻いて、梅干しとお茶漬を出した。 色 好 そういうのはしゃれていますよ。そのものにお金 物イ ~ ョ 0 ーを 吉野太夫の墓 ( 京都・贋が峰常照寺 ) よしのだゆう みわし一 1 〔よ 1 し 159

10. グラフィック版 好色五人女

、つところかある。こ、つい、つやりカオ 、こは、明治以後 の近代文学にもあるかもしれません。 吉行でも明治以後は、もっと露骨に作者イコ ール私でいきます。だからかなりバレ・ノ ノサ、ク風で すね、その感しは。 暉峻小説の基本は中世的な説話だけど、そこ にとどまらないのは、自分がそこに割込んでい ということ。割込んではいくけど、あまり感情的 にはならないんだなあ、これが 吉行視線を伝って自分が少し乗り移ってい 暉峻ええ、だから非常に世間普通の常識的な ことをいっていて、突然それをひっくり返すんだ。 「五人女』の「八百屋お七」でも、火つけはよく んでしようね。 ないことだ「天これを許したまわぬなり」といっ 暉峻元禄のころまでは、文学者というものは、 ておいて、「しかれどもこの女、思い込みしこと ひとつの職業として社会的に認められていなかっ なれば身のやつるることなくて」牢の中で毎日髪 たんです。そうすると士農工商どこかに属してい を結わせていた、と書くんです。あれはひっくり るから、冠婚葬祭すべて義理を果さなければなら 返しですよ。世間の常識からいえば悪いけど、こ の女自身は悪いとは隸ってないと。こういうこと ない。そこから逃れるためには、西鶴のように三 を言うわけです。 十五歳になって女房が死んだとたんに頭をそっち 吉行西鶴は女房を非常に愛していましたね。 やって、草庵にはいって世捨人。あれは出家しゃ その女房に死なれてからは、性的には世捨人みた よい、隠居。あの時代は町人でも息子に家を譲っ いな気持でーーー・さっきおっしやったように若衆を て五十歳前後で隠居する。そうするともう冠婚葬 かわいがったということもあるでしようがーーー過祭関係ない ごした。それだからあれだけ生き長らえて書けた 吉行いまおっしやった文学者が社会的に認め られていないというところに、西鶴工房説が出て 刊 年 くるわけですね。西鶴プロダクション。どれがは 五 うも人イエみ 禄 んとに西鶴自身の作品かという、その辺はどうな んでしよう。 本 暉峻西鶴のものは、初めの『一代男』は別に 新用 して、はとんどが短編集でしよう。貞享三年から 以後はもう、一定のテーマのもとに書きおろした せ世 短編集ばかり。『胸算用』しかり『置土産』しか り。ちょうどあのころは、出版ジャーナリズムの デ 体制が整っちゃって、草子類は五巻五冊か、六巻 身 六冊か、八巻八冊と決められていた。 一巻に四章 鶴 か五章いれなければならないから、五巻五冊だと 西 短編を二十章つくらなければならない。十五位ま 目 人 では何とか書いたけど、あとの五つがどうしても ら 書けない。そういうときに仲間がいるんですよ。 左 北条団水とかね。そういう作品がちょっちょっと ぶどうでんらいき え ありますね。『武道伝来記』とか。内容的にはど し さ うってことないけど、文章にリズムがないんです の よ。西鶴の文章は、文法が合おうが合うまいがリ 大 ズムがある。それが違うんですね。 亠色 男 吉行しかしなかなかむすかしいですね、二十 編そろえるのは。 暉峻「男色大鑑』「武道伝来記』は八巻八冊 で、四十の短編を書かなきゃならない。無理だよ、 気にいったものばかりそろえるわナこ、、 ( ( し力なして すよ。なかには投げやりで、数さえあればいい いうものが五つや六つはありますね。他人が書い たものもあるだろうし、西鶴自身がしようがなく て書いたものもある。やはり書きおろし短編とい 、つのはむすかしい 吉行そりやむすかしい。西鶴にも人の助けが 158