笑い - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 好色五人女
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1. グラフィック版 好色五人女

いんとん 暉峻そう、決して隠遁しない 吉行ばくはその辺から考えて、裏側から書い たのかな、とちょっと思ったんですけれども。 暉峻あれはまともにがんばったんだと思いま す。作品の上で、何よりもテーマはテーマとして おもしろがらせようという了見、やはり談林の俳 諧ですね、あれは。そんな発想法だから、おもし ろいのは『一代男』の初めのほう、女が行水つか いながらマスタベーションをしている、それを世 ! ようず、一 女の行水を望遠鏡でのぞき見る世之介 之介が望遠鏡でのぞき見て、おまえあとでおれの ころにあるんですか。 わかしゅうどう 言うことを聞けと。あれは世之介がまだ九歳か十 暉峻若衆道です。 歳位ですよ ( 笑い ) 。 吉行そうすると、今おっしやったようにモラ 吉行あの描写は原文で何と、 しいましたか : ルがはいってくる、だから世之介が、女が何人、 たらいの「湯玉油ぎりて」あれはうまいですね。 男が何人とおおっぴらに言えるわけですね。世之 暉峻「それよりそこらもぬか袋に乱れて」な 介の場合は、最初は若衆から始まるわけですものね。 んてね。この九歳の坊やが、夜忍んで行くと女が 暉峻ええ、自分が若衆になる。 こまっちゃって、起きあがりこはしとかいろんな 吉行われわれの感覚からいうと、最初に掘ら おもちやを出してやる。そうすると「こういうもれちゃうと、人間の形成にエ合が悪いんしゃない のは、おまえとおれに子供ができたとき、泣きや かとい、つよ、つな感しを受けますけども、そ、つい、つ ますものにしよう。この起きあかりこばしが、そ のはあたりまえのきまり かまわないことだと。 なたに愡れたかして倒けかかる」といいながら、 暉峻男色、衆道が盛んになったのは、江戸、 じよう′」や 膝枕する ( 笑い ) あれがおかしい。 大阪、京都といった歌舞伎の常小屋のあったとこ ろです。町人の男色の相手は、大体歌舞伎若衆で わかおんながたわかしゅうがた 町人の男色の相 若女形と若衆形、これははたち前後まで。 手は歌舞伎若衆 若衆というのもこれが重労働なんですよ。小屋 は昼間ですから。芝居は大体明け六つ ( 午前六時 ) 吉行男色、これはいまの時代のホモセクシュ から始まって、夕方五時ごろまでです。役者買い アルとは、まるで違いますね。 をするやつは昼間芝居で見ておいて、あれがいい 暉峻全然違います。信長、秀吉の戦国時代ま しゅどう だろうというんで、日が暮れてから芝居町のそば ではほんとうの男色だった。だから衆道というこ の茶屋に呼んで、大体夜中過ぎまでつき合うんで とばが無いです。戦国時代の男色は、ほんとうは すから。ほんとうのセックスですよ。だからねえ、 代用品なんです。女房連れて行けないものだから。 役者はたいへんですよ。昼夜兼行。 戦なんか、ばちばちと二、三日で終わるものしゃ なんしよくおおかがみ ないでしよう。半年位がんばっている。その間大 西鶴の『男色大鑑』を見ていると、色若衆とい もりらんまる って、男色の相手として非常にはやるのと、あま 将の身の回りの世話をするのは、森蘭丸だとか、 こしよう りはやらないのかいる。はやるのはだいたいはた 前髪だちの小姓たちだけです。これは強くなけれ いざというときは、主君を守って討 ち前後で出家するか、さっとやめて、お白粉屋と か扇屋とかの風流な商売にうつる。あまり夜のは 死する。だからボディガードを兼ねた男色です。 うは繁盛しなかったけど昼のはうの芸が熱心なや ところが江戸時代になると、平和になってきて、 かかがた さむらいの男色は秩序がなければいけない。それ つは、今度は若女形から、嚊形という年増役に変 で衆道なんて言い出したんです。だから今度はモ 身して、 しく。こういうのは五十、六十位までがん ラル入りになってくる。 ばっています。 吉行衆道ということばの語源は、どういうと 吉行女形としてのルールがあって、男女関係、 なんしよく しろ 155

2. グラフィック版 好色五人女

ばんだい きらさぶろう 「君を思えば雷も恐くない」お七は吉三郎 会いたくてたまらないがその機会がない し人ら、、 春雷の夜お七は吉三郎の寝所に忍んでゆく 香を継ぐ子坊主に見つかったのをうまく買収 わどこ 吉三郎の寝床に入りニ人は契をかわす てんびんばう 0 町角の往来今しも天秤棒から盤台をおろ あみがさ した魚屋が商いをしている編笠や扇で顔を 隠した武士がのぞきこむ遊女屋の脇には天水 おけ やぐら 桶が積んである手前の屋根の上の櫓は の家が公認の遊女屋であることを示している しんじよ てんすい すぐすしているのがお七には待ち遠しい。ようやく小坊 あさはか ずしんじよ 主が寝所に戻ってくるのを待ち兼ね、女の浅墓な思いっ きで、髪をばらばらにし、恐ろしい顔をつくって闇がり おど から脅かすと、さすがは肚ができていてすこしも驚く様 なじ 子がなく、 「汝元来、帯ときひろげて、世にまたとない はら 淫奔女である。すぐさま、消え去れ。また、この寺の大 黒になりたいなら、和尚の帰られるまで待て」 くちょう いんどう と、引導を渡す口調で、目をむいて言った。 お七はてれくさくなって走り寄り、 「おまえを抱いて寝にきたのよ」 こばうず . と言うと、小坊主は笑いなから、 「吉三郎様のことなら、おれと今まで足を差し合わせて 寝ていたんだよ。その証拠はこれさ」 と、沁れの僧の裾をお七の顔の前にかざすと、白 菊などという鑵の香木を焚きこめた移り香が匂ってきた。 カまん 「とても我慢できない」 みもだ と、身悶えしながら、お七がその寝間に入るのを見て、 小坊主が声を上げ、 「やあ、お七さまが、よいことをなさる」 と一言うので、驚いたお七が、 「おまえの欲しいものはどんなものでも手に入れてあげ るわ、だから大きな声を出さないで」 と、一一一一口、疋ば、 あ・さ′、さ 「それならば、鉉八十と、松葉屋のかるたと、浅草の米 いま欲しいものはこれだけ」 まんじゅう五つと、 と、言、フので、 「それこそたやすいこと、明日さっそく用意してあげる から」 と、約束した。小坊主はすぐに寝てしまい 「夜が明けたならば、三つのものを貰うはす、きっと貰 、つは亠 9 」 と、うつらうつらして言いながら寝入って静かになっ すそ

3. グラフィック版 好色五人女

たので、裏切り者として万句興行への参 だったのだから、それはそれでよかった けでもなく、 突然書きたくなって、やみかはない。だが彼はすくなくともその精 のだが、 加を拒否したのがその一つ、もう一つは 三十年あまりもその状態が続い くもに書きはしめ、ともかくそれまでに神において、素人どころか、それまで小 誰も書こうとしなかった目の前の市民生説を書くために生きて来たようなものでたのでは、うんざりする連中が出てくる宗因を「紅毛流の張本人」と罵り、西鶴 はい力いー ) 市とのはやむをえない。その一人であった西を「おらんだ流」または「おらんだ西鶴」 活を片つばしから取り上げて、十二年のあった。それまでの二十年間、俳諧自 いっても、彼はただの俳諧師ではなかっ鶴が突然変異を起こしたのは、三十歳のとそしったことであった。 間に二十数部の作品を書きとばし、ふと 紅毛流といし おらんだ流といし ころ、大阪を中心として日本の経済界が 気が付いた時には五十二歳で臨終を迎えた。 ていた。そこで、 その二十年の前半、二十歳代の彼は、早期資本主義時代を迎えた寛文末年、一世以来の〈やさしきを体とする〉という 当わま 詩歌伝統に反逆し、貞門派に言わしめる 六七〇年ごろの事であった。 人間五十年の究り、それさへ我に何人かの手代をかかえて商売がてらの俳 うきょ と、「新俗下劣の言葉を好み、道戯を第一 、当時唯一の そのころ、中世的な憂世を浮世と言い 諧師で、俳号を鶴永といし はあまりたるに、ましてや ていもんそう・う はじめた上方町人は、すでに独自な風俗として人をおかしがらするのみ」という 俳諧であった貞門の宗匠であった。貞門 浮世の月見過しにけり末二年 どうもすこし浮世の月を見過ぎたよう俳諧といえば、滑を主とする観念的なや生哲学を形成していたので、それと無俳風に対する罵声なのである。ことに師 ゅうぎ まつなカていとく ゅうぎ だという、さばさばとした辞世吟を残し言語遊戯で、最高指導者の松永貞徳の発関係に言葉を操る言語遊戯に飽きはてて宗因を超えて、自然よりも人間に、社会 おおさかてんまてんじんぐうれんが いた。そこへ大阪天満天神宮の連歌所の に興味を抱く西鶴は、まもなく開き直っ て、この世におさらばした西鶴であった。句でさえ、 ろうにん おらんだ ていもんはいカ、 ーん 0 い ま、その姿す 宗匠で、貞門俳諧の圏外にあった浪人上て、「阿蘭陀流といへる俳諧 , 霞さへまだらに立つやとらの年 それまで散文らしい散文といえば、作 にしやまそういん がりの西山宗因が、しつにのびのびと町 くれてけだかく心ふかく言葉新しく」と、 書の序文ぐらいしか書いたことのない西 花よりも団子やありて帰る雁 は・れ・物ー、 しろうとあらとや 人の享楽生活や風俗を歌う俳諧をはしめ自負するに至っている。さらにまた進ん しをるるは何かあんすの花の色 鶴が、板元もまったく素人の荒砥屋から、 こうーナ、いちだいとこ 五十四章に及ぶ『好色一代男』を、自費といったていたらくである。今の小学卒たので、西鶴をはしめとして大阪の若手では、 そういん 惣して此道さかんになり、東西南北 出版みたいな形で出版したのだから、物程度の国民大衆に、五・七・五で考えをの俳人たちが、堰を切ったように宗因の に弘まる事・、自由にもとっく俳諧の おじしない素人作家の冒険というよりはまとめる技術を体得させるのが至上目的門下に馳せ参した。 ぜんえい おおやかず その新人群の中でもっとも前衛的であ 姿を我しはしめし已来なり。 ( 大矢数 えん 屋ったのが鶴永改め西鶴で、入門直後の延 跋文 ) 区宝元年 ( 一六七三 ) に、彼は早くも先生のと、自由にもとっく俳諧を主張するに至 同囚△△〔東 宗因をさしおき、仲間を動員して、新風っている。 しよじよせんちょ いくたままん 大宣言の処女撰著「生玉万句」を出版してい 自然よりも人間に興味を寄せるとなれ る。大阪の生玉神社の神前で、 いく組かのば、短詩型で、しかも制約の多い俳諧形式 4 グループにわかれて、十二日間にわたっ ( 百韻 ) にとどまっているわけには、 て百韻 ( 百句 ) 百巻の連句を興行した成果す、やがて西鶴は一昼夜独吟千六百句 ・凶なお んであるが、西鶴をしてこの盛大な花火大 ( 一六七七年春興行 ) 、同しく独吟四千句 会の開催を決意せしめた理由が、すくな ( 一六八〇年五月興行 ) とその叙事詩的傾 くとも二つあった。 向はエスカレートし、ついには俳諧形式 それまでも大阪の貞門系俳人は、春に の壁を突き破って、一六八二年の初冬、散 くこう、豸・もよお ・ - ういちだいとこ 央なると万句興行を催していたのであった文の第一作『好色一代男』を発表するに いたったのであった。 - は、 " 祠「図が、西鶴らが一夜にして宗因風に寝返「 松平修ぬ 上月 1 ん姦・ じせい はい ~ : フ てだい くえ ロ もんか まん カくえ、 せき ていもん かんぶん ひろ ののし 161

4. グラフィック版 好色五人女

るやつもいる。それでもつなぎとめられないとき に、指を切るわけです。でも指を切るときに、遊 女が勝手に切るということははとんどない。遣り じよろうや かか 手や女郎屋の自分の抱えの人と相談の上で切る。 切って間違いなく自分のものになる客か、身請け をしてくれるかくれないか。そういうどたんばで す。 吉行やつばりそこで金も十分からんでいるわ けですね。 暉峻ええもう、ただで切りやしませんよ。指 を切るといったって、小指の先。やくざと同しで 指を詰める。 2 てるおかやすたか 暉峻康隆氏 ( 早大教授・解説執筆 ) よしゆきいのすけ 吉行淳之介氏 ( 作家・本文執筆 ) う文献がありますね。 吉行しかし男の側としては指を切られたり爪 をはがされるとい、つのは、 しい気持はしないでし 暉峻ええ、ポルノ作家。西鶴以前に、セック ようね、逆に。髪のほうはちょっとロマンチック スの場面とか、セックスそのものをおおっぴらに な感じがあるけど、爪というと自分がはがしたこ書いた作家はいないですからね。やはりあれは西 とを考えただけでも気持が悪い。男の側としては鶴が住んだ大阪という土地柄のせいですよ。大阪 には封建領主がいなかったでしよう。だから、よ 何かロマンがないですね。爪はまた生えてきます 「天下の町人なればこそ」こんなわがままがで が、指は生えませんから、客としてはあまり切っ ちょっかつら てもらいたくないでしようね。 きるといったのは、大阪が幕府の直轄地だったか まちぶイよう じようだい 暉峻ええ、はんとに一緒になろうと思ったら。 らですよ。二年交代位で町奉行や大阪城代が来る 享保ごろの連句を見てたら「指ひとっ無いで昔を んだから、自治みたいなものでしよ。江戸だとと 隠されす」というのがある。つまり、遊女が身請 けされてしろうとになってからが困るんです。し 3 ろうとは心中することはあっても、指を切るなん と 0 てことはないですからね。 吉行爪を自分のためにはがしてくれたとか指 て を切ってくれたということで、 いい気持になる客 し 出 もいるんですか。 暉峻いますね。なかには請求するやつもいる。 吉行変態的ですね。 お 棺 暉峻変態というよりも、やつばり金を使って の 女 モテないと、ちくしようと田 5 って。 吉行独占欲ですか。遊女のはうもあの人は金てもあんな作品は出ませんね。江戸の町人は幕府 を持っていそうだから自分のものにしちゃおうと の御用商人だから。 士ロ行しかし、こ、つい、フことはありませんか うことで、はいだり切ったりするわけですね。 なるほどそうすると心中だてという言葉はいいけ つまり施政者のほうからみれば、むしろ町人は〃色〃 れども、もともとがそうロマンチックなものでは の範囲に閉し込めて、そこにふくらませておけば ないわけですね。 無難だと。 暉峻ええ、はんとうは。だから西鶴なんかは 暉峻そういう愚民政策はありました。ただあ その裏話を書くから、ロマンチックしゃなくなる。 の時代は、三井、鴻池、住友なんていう大町人が、 ワーツと出てきたときですからね。色で押さえ込 そうたっ 太夫は芸能界 めるようなエネルギーしゃない。だから宗達も出 こうりんもろのぶ の大スター てくれば光琳、師宣も出てくる。歌舞伎の市川団 十郎も出てくる。政治以外のあらゆる文化面にど 吉行西鶴も当時ェロ作家といわれていたとい しせいしゃ 149

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のですね。 お時間というわけ。もっとひどいのは五分とり 暉峻大スターですよ。それも半世紀の。 一匁目の半分四百円ですよ。その下に一番低い三 分とりというのがある。それは八百円の十分の三 「世之介」は だから三百円足らすで一発。ひどいもんだな。 西鶴の代名詞 吉行戦後、昭和二十年代の玉の井という感し を 銀 ですね。 吉行西鶴については二十いくつまで、はとん 暉峻西鶴の時代だって遊女にはピンからキリ どわかっていませんね。一応の金持の町人らしい まであるんですが、西鶴は一番上のクラスだけし とい、フこと位で。 か書きませんからね。『一代男』では。最近私が、 暉峻手代を何人か使っていた中流どころの町 分 節 念のため調べてみますとね、吉原には二千人の女 人。 吉行これもさっきの例でいえば、天神も買え っと発散して行くわけです。色の面に閉し込める 良がいて、そのうち太夫はせいぜい五、六人なん ない位ですね。 といったって、遊びの金が高いから。 です。島原もそう、やはり十人位で、一番多いと 暉峻このあいだ学会で、西鶴の最近出てきた 吉行ばくも今回驚きましたが、二代女』に、た きでも太夫は十四、五人。 手紙が紹介された。晩年の手紙ですけど、京都の とえば太夫を買うのは、財産が常に五百貫 ( 四億 吉行それは思ったより少ないですね。 だれかに宛てたもので「島原の太夫十五人の色紙 円 ) 位あるやっしゃないといけないと書いてあり 暉峻少ないのなんの、私もびつくり仰天した。 を全部彼女たちの署名入りで書いてもらってくれ」 ますね。 だから吉原でも、そのせいぜい四、五人のところ 暉峻それもその利子で食ってるんしやダメ。 と書いてある。西鶴は、地方から出てきた金持か へ先を争って、六十万石伊達綱宗や紀国屋文左衛 だれかに頼まれたらしい 四億を回転させていなければ。 「天神のなかで、五、 門がせり合うってことが起きるわけ。太夫がすら てんじん 吉行その下の天神は二百貫目位。もひとっ下 六人すぐれたのと合わせて二十枚はど書いてもら っといたら、こっちがだめならあっちがあるさと の鹿恋が二千万円位をフルにいつも いうようなものだけど。 いこい。頼み手は例の世之介と仰せくださればわ 暉峻一貫目はいまの八十万円位ですからね。 かります」と。だから「世之介一代男」というの 吉行もう少し、何十人という単位でいると思 吉行戦後は太夫がはっきりした形ではいない は、西鶴の代名詞になる位だったんです。そうい いましたが。 わけだけれどーーー違った形で柳橋あたりにいるこ うこともしていたんだから、手前では遊ばない 暉峻ええ、ええ。それをせるんだから金がい よたか しよくさんじん とはいましたがーーー、われわれでは夜鷹の一歩手前 吉行その辺は、大田南畝、蜀山人と号したの りますよ、そりやもうたいへんだ。西鶴はこの選 は五十二歳でしたか、百年はどあとの人ですけれ ぐらいのしか買えないですね ( 笑い ) 。江戸では夜ばれた五、六人の遊女の話しか書かない。 そうか ども、あの人に似たところがありますね。彼は御 鷹といったけれども大阪では惣嫁というんですね。 すよ。あとの千九百九十五人は全部切り捨てて、 暉峻大学で講義するときいろいろ説明する。 ほんのひとにぎりの、大名や一流町人が通う彼女徒士といわれる身分の低い武士出身ですが、狂歌 の先生といわれながら、幕府の大蔵省とでもいう 「そうだなあ、おまえたちは太夫も無理、天神も たちだけを書くんだからな。それにだまされて、 はしじようろう 立場の役人にくつついて、吉原あたりで遊んでい 無理、鹿恋も端女郎も : ・ : ・」 ( 笑い ) おれも一発なんて行ったらひどいことになる ( 笑 だんりん たと ) いし 、ますね。西鶴も談林派の俳諧師出身です 端女郎というのは、これだけがショートタイム い ) 。寛永の吉野から延宝の有名なタ霧まで、半世 ね。共通する性格はあったでしようか。 の客をとるんです。ショートタイムでは銀三匁目 紀間の江戸吉原と京都島原、大阪新町、全部かき 暉峻もちろん。これは私が調べてわかったこ が一番上。一匁目は今の標準米の米価からいうと集めてやっとあれだけになった。 とですけど、鴻池一族というのはあの時代の大町 八百円位。三匁目というと二千四百円でちょうど 吉行っまり芸能界の大スターというようなも たゆう 弖 150

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人の代表でしよう。彼は西鶴の俳諧の弟子ですよ。 以後、金ができて、吉野太夫に会い始めて以後と 地方からいろんな問屋、町人が集まりますね。 吉行一応弟子という形になっていて、つまり いうのは、何か透明人間みたい。ただの舞台回し 俳諧なんか多少やっている奴が、遊びたい、 役者 はうかん です。 実質は、ひょっとしたら西鶴も幇間的な : 買いをしたいと思うときには、西鶴に頼むようで なんしよくおおかがみ 暉峻もちろんそうです。『男色大鑑』を見て 吉行途中で、もう使いきっちゃって金がない すな。そういう金持の町人どもにとっては、西鶴 んしゃないかと思うようなところがありますね。 も役者がほとんど俳諧の弟子で、西鶴は男色が好先生に来てもらったということが、国に帰って話 きなようですね。三十四歳でかみさんに死に別れ 暉峻西鶴は、この章の話には世之介は金持し の種になる。だから幇間的ではあるけれども、そ やりやらよう てから、鎗屋町の草庵で、死ぬまでひとりだった。 や困るとなると、すぐ貧乏にしてしまうんだから。 こがちょっと。やはり〃先生。なんですよ。西鶴 やつばりこれは道頓堀の若衆と : : : ( 笑い ) 。 先生に同座してもらったということで同し遊びで全く無責任ですよ。ちゃらんばらんでね。その章 うえむらたつや 道頓堀に上村辰弥という若衆形がいたんです。 その章がおもしろければいい。 も箔がつくというわけです。だから自腹で遊んだ これは当時の役者評判記で見ると酒癖が悪い。芝 ことはほとんどないと隸、つ。 吉行西鶴の短いものはおもしろい。たとえば わんきゅういっせい 居がはねてタ方から茶屋に呼ばれて、少し酒を飲 吉行世之介にしても、最初勘当されて、いろ 「椀久一世の物語』というのは、西鶴自身がそば さんたん むと、脇差すらりと抜いてお客を追いかける。当 いろ苦心惨憺して遊んでいますね。で、三十五歳 で見ていたひとりの人物をすっと追っていますで 時大阪の男色好きの大尽で、上村辰弥に脇差で追位から大金がころがり込んでくる。そこからあと しよ。ですから話にうねりがありますわ。「一代 い回されなかったのはひとりもいない ( 笑い ) 。や が、せつかくそれだけ入ったんだから、おもしろ 男』は、前半はうねりがあると思う。で、後半から つばり男の子なんですね。酔っぱらうとちくしょ く書いてあるかと思って読むと、さしたることが ぶつぶっ切れていって。ぶつぶっ切れるという点 うツ。西鶴はそれを手紙に「世間が何といおうと では『好色一代女』はもっとひどいですね。もう きわ も、辰弥よき子に極まり候」 ( 笑い ) これは芸人 少し話をうまくつなげばい、 暉峻ええ、私もね、改めて考えたんだけど、 しと思うんですが。た としてひいきにしているんしゃない。やはり男色 おやじが死んで遺産がころがりこんでくる前に、 だしその途中の段階には非常に光るものがある。 の相手なんですな。 暉峻ええ、一章一章はなかなかおもしろいん あちこち放浪している間の世之介には、なんとい 吉行はあ、その気ですか。彼は。 うか非常な重量感があるんです。命がけで女の子 だけども。『一代男』『一代女』を書いた当時は、ま 暉峻あの時分は両刀使いですから。 に惣れて自殺しようとしたり。ところが後半五巻 だ長編なんか書ける段階じゃなかったんですね。 0 00 ( 遊女の最高位太夫 たルう てんじん ニ流遊女天神 三流遊女鹿恋 下級遊女端女郎 はしじよろう 151

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・楸屋おせん物語 かんえい 0 呉服屋の店先西鶴の生きていた寛永 ~ 元 禄にかけては泰平の世が続き町人も比較的 のびのびとふるまえた財力を貯えた町人は ゆうり 遊里と衣装に存分に金をつかった華やかな 衣装競べが行なわれ呉服屋は大繁盛だった たくわ だいはんじよ、 ド ( か・ん 井戸替の男が恋に泣く 人の命にはかぎりかあるが、恋の種はっきることがな かんおけ 人の世のはかなさは自分が作っている棺桶で吾り、 錐やのこぎりを忙しく動かして世を渡る職業にし、波 てんま なくず の天満という場末に粗末な家を借りて、鉋屑がたちまち 燃えっきてしまう煙のように、ほそばそと暮しを立てて いる男があった。女も同じ場末の者で、片田舎には珍し 、耳の付根まで色白で、墟けした美人であったが、 としおおみそか わんぐ ゅうふく 十四の齢の大晦日に親が年貢の金に困って、裕福な町家 に腰元奉公に出した。以来月日が経ったのであるが、そ いんきょ の女は生れつき利ロでよく気がっき、ご隠居へこまかく 気を配り、奧さまの気に入るように振舞うことはもちろ ん、下働きの連中にまで評判がよく、そのうちに金の出 し入れまで委されるようになった。この家におせんとい う女がいなくては、と人々に田 5 われるようになったのも、 その女が賢いためである。 しかし、色恋の道をわきまえす、すっと枕ひとつの独 じようだん つま り寝で、あたら夜を過してきた。冗談半分に袖や褄を引 ・んんりよ つばるにも、遠慮なく大声を上げるので、男たちはきま りの悪いおもいをし、やがてこの女に話しかける男もな 3 たるや くなった。人々はこれを悪く言ったが、ちゃんとした娘 はこういう具合でなくてはいけよい。 ちょうど せつ 力しこそて 丁度七夕の節句のときである。織女に借小袖といって、 織女さまにあやかるように、仕立おろしの小袖を笹の枝 めんどり に掛けて、七夕を祭る。雌鳥に、右の袖が上になるよ はやり うに畳んだ小袖を七枚そなえ、梶の葉に流行の歌を書き しもじも ↓ - ′、わ - フり 記して、七夕に手向ける。下々もそれぞれ真桑瓜や枝っ おもむき きの柿を飾るのも趣がある。また、横丁の裏長屋のもの たちが掃除当番で家主の弗戸をするのも、七夕のめす らしい景枷である。 井戸の水がほとんど汲み出されて、底の砂をかすり上 げるようになると、いっか失くなったといって人を疑っ なきりばうちょう た菜切包丁が現れた。昆布に針を刺したのも現れたが、 これは誰を呪ったのだろうか。さらに探してみると、駒 を曳く絵のついた銭や、目鼻の溶けてしまった裸の人形 めぬき や、安物の目貫の片方や、小布を縫い合わせてつくった をれかけ 涎掛など、さまざまな物が上ってくる。蓋のない共同井 戸は、薄気味わるいことである。 わきみず ようやく涌水の近くまでかい上げたとき、井戸側の底 あいくぎ のところの桶輪が古い合釘が離れて潰れていたので、あ わこけ の樽屋を呼び寄せて、輪作を新しくかけ替えさせた。そ たるや ひ のろ こんぶ こぬの

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かきわ 0 いとしい女を訪ね垣根の外にたたすむ若衆 りよう 夏のタベ縁側で涼をとる女のややしどけな く膝をくすした姿はいかにもなまめかしい 獅子舞が太鼓に寄ってくる ばんしゅうおのえ 播州尾上の桜が咲くと、器量自慢の人妻や美しい娘を もった母親は、見せびらかしに出かけてゆく。花を見る とうせつ のではなく、人に見られにゆくわけで、それが当節の女 けしよう いしよう かたぎ 気質である。とかく女は化け物で、化粧や衣裳で見違え す おさかべぎつね るよ、つになり 姫路の城に棲む長壁狐でも、かえって化 かされかねない たじまや 但馬屋の一家でも、春の野あそびをしようと、女駕籠 せいじゅうろう をかかせて繰り出し、そのあとから清十郎がすべての宰 たかさごあいおい りよう オ高砂の相生の松や曾根 領ル又となって行くことになっこ。 てんじん の天神の松も新芽がのび、砂浜の景色はまたとない眺め くまで である。村の子供たちはそれぞれ熊手を持って落葉をか と しようろ すみれ つばな の き除け、春の松露を採り、菫や茅花を抜いたりしていて、 その情景がことあたらしく、自分たちもそれぞれ若草を はなむしろ うなばら 摘み、草の薄いところに花莚や毛氈を敷かせた。海原は たじまや 静かで、夕日は赤く、但馬屋の女たちの小袖の幕を照ら やまぶき した。ほかの花見客たちも、藤や山吹に目をくれす、 っ ひめじ もうせん 粋なこしらえの若衆 いき はなみまく 袖をかけてつくったこの花見幕に心をひかれ、覗き込ん さかだる で帰ることを忘れ、酒樽のロを開いて飲みつつけ、酔は 人間のたのしみ、なにもかも忘れて、この美しい女たち を酒の肴にしようと大喜びである。幕の中は、女ばかり せいじゅうろう の酒盛で、男というのは清十郎だけである。駕籠かきた ちは茶碗酒のがぶ飲みで、夢のなかで胡蝶になった気分、 ぜん 広い野原をわがもの顔に、 いつまでも愉しみつづけ、前 ) 」ふかく 後不覚である。 きよく、つ ししまい そういうとき、太鼓の曲打ちにつれて獅「舞がきて、 人だかりがした。それぞれの宴席に近寄り 「十かーし、ら の身ぶり さてさて上手に芸をつくすので、皆総立ちに なった。女たちは物見だかいので、はかのことは忘れて しよもう しまい もう一舞いと所望をつづけ、終りになるのを厭 カオ " 相 子舞のほうでもひとっ所を去らす、巧妙な曲 芸をつぎつぎと演しつづけた。 お夏はひとり幕の中に残って、獅子舞を見ようとしな むしば 虫歯が痛いと、すこし苦しがっている風情で横にな てまくら 手枕もしどけなく、ひとりでにはどけた帯もそのま まにして、沢山の着替えの小袖かつみ重わてある陰で深 いびき い眠りに入っているふりをしている。鼾などかいてみせ るところなど、芸がこまかい こういうとき、手早く交 りを結べればいいのにと考えているとは、素人娘にして めった は滅多にないさばけかたである。 このとき、清十郎はお夏だけ残っていることに気付き 松が茂っているうしろの道からまわってゆく。お夏から さそ 誘い、髪の崩れるのもかまわす、物も言わす、二人とも 鼻自はげしく、 誰かに見られまいかと胸をどきどきさせ なっ さかな ものみ こちょう たの のぞ

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食 ても一日の長いこと、もう生きているのが厭になった と、舌に歯を当てて、食い切ろうと目をつむったこと が数かぎりなかったが、まだお夏に未練があって、 「もう一度だけ、死んでからの思い出に、あの美しい姿 を見ることかできないものか」 がいぶん と、恥も外聞もわきまえすかきくどき、男泣きに泣い た。見張り番の者たちは、その様子を見るのが気の毒で、 いろいろ元気づけて、日が経ってゆく。お夏も同じ歎き だんじき きがんぶん むろっ だいみようじんせい で、七日の絶食をし、祈願文を書き、室津の大明神へ清 いのら ) 一 まんがん やはんろう 十郎の命乞いをした。不思議なことに、満願の夜半、老 おう 翁が枕もとに立って、あらたかなるお告げがあった。 「詼、わしの一一戸っことをよく聞きなさ ) しナ / し / し なんだい のものどもは、自分の困ったときにだけ難題を持ちかけ みようじん てくるので、この明神も手の施しようかないものた。 けそう わかに福徳を祈り、人妻に懸想して叶えてくれといし 憎んでいる者を取殺してくれだの、降る雨を上天気にし たいだの、生れつき醜い面の鼻を高くしてくれだのと、 さまざまの願を掛け、とてもできる相談でないのに神仏 に祈り、やいのやいのと言う。この前の祭のときにも、 ともがら さんけい 参詣の輩一万八千十六人、どれもこれも欲張ったことば こつけいせんばん さいせん カ ) 祈っておった。聞いていると滑檮千万だが、賽銭を 投げてくるのがうれしく、これも神様の役目だとおもっ きんけいにん て聞いてやっている。こういう参詣人の中にたった一人、 たかさ′」 信心の者があった。高砂町の炭屋の下女で、なんの欲も むびようそくさい なく、無病息災でまたお参りにこれますように、と拝ん で立去ったが、間もなく戻ってきて、わたしにも良い夫 を持たしてください と言う。そんなことは出雲大社の じゅうろう みにく ほどこ なっ っ いずもたいしゃ なわば 縄張りじゃ、わしは知らんよ、と言ったけれど、耳には 届かすに帰って行った。おまえも親や兄の言うままに夫 やっかい を持てば厄介なことも起らないのに、色を好んだばつ、 ー刀 りにこんな苦しい羽目になるのだ。汝、階しくないとお もっているおまえの命は長く、死なしたくない清十郎の 命は間もなく最期であるぞ」 はっきりと見た夢かかなしく、目を覚まして、心細く なって泣き明かした。 まちぶぎようしょ あんじよう 案の定、清十郎は町奉行所に召し出されて、思いもか たじまやうらぐらかねとだな せんぎ けぬ詮議をうけた。但馬屋の内蔵の金戸棚にあった小判 七百両が紛失しているというのだ。これは、お夏に次皿み 出させ、清十郎が取って逃げたと訴えがあり、場合が場 合なので申し開きが通らす、あわれや四月十八日に二十 五歳で処刑になった。さてもはかない世の中と、処刑を むらさめ 見た人は夕暮の村雨におとらす涙で袖を濡らし、清十郎 を惜しみかなしんだ。 その後、六月の初めに、家中の虫干しをしたところ、 くるまながもら 例の七百両の金が、置き場所が変って車長持の中から出 てきたではないか。まったく物には念を入れなくてはい おやじ ともっともらしい顔をして親仁が申したことで ある。 命あるうちの小判七百両 なっせいじゅうろう 知らぬが仏で、お夏は清十郎が死んでしまったとは知 らす、とやかく物おもいにふけっているとき、村の子供 たちが連れ立って、「清十郎殺さばお夏も殺せ」と歌っ

10. グラフィック版 好色五人女

全盛を張っている名のある太夫に会うには何 しよかい か月も前から予約が必要だったます初会は 顔見せだけニ会目に裏を返し 会目に馴 しゅび 染みとなってようやく首尾をとげるのである 京都島原の吉野太夫 しんまらルうぎり 大阪新町のタ霧太夫 長崎丸山の花鳥太夫 まるやま しまばら って、酒盛の最中であった。「義理ある人に留められて、 めいわく 皆々様には大へんご迷惑をおかけしました」 ひま 「こんなにお隙がかかられたとすると、御飯はもうおす し力にも、すみました」。 みですか」と、言われて、「、、 その返事通りにされてしまって、すき腹に酒のがぶ飲み なま力い となった。肴の中でもいくらか腹の足しになる生貝など すいもの をすっかり食べ、夜食までが待遠しく、吸物が出るたび うどん たんざく に、もしゃ饂飩ではと念しながら見ると、短冊形に切っ ふえ た島賊のしかもわすかばかりでは、腹もふくれない。笛 しんば、つ 吹きの吉太郎は、辛抱しかねて帰ってしまった。 一座は、男色の話に夢中になって酔いしれている。思 わす、うつかりと、「これは、寒い」と言うと、着物の ふろしき 入っている風呂敷を取ってきて、大勢の中で、これを開 こんぞめ のれん けられてしまった。紺染の暖簾に、丸のうちに「仁」の 字がついたのが出てきたので、座が白けてしまい、みん こつけい なこれを見ないような振りをするので、どうも滑檮なこ とになった。 だいじん この大尽は、かなりの神経の太い男ではあったが、酒 の酔もさめてしまった。世の中の外聞を恥して、それか らは、色の道はろくなことはないと思い切り、家財を始 そうあんむす 末して、その身一人の草庵を結んだ。昔の友に逢うこと ほ、つだい もなく、 髭は伸び放題、手足はいつまでも洗わす、世渡 もとゆ、 りの仕事として、文七元結をつくる賃仕事でその日暮し してんのうじ いとイ一 , ら なにわほりづめ をし、難波の堀詰に身を隠した。四天王寺の糸桜はすぐ 近くだが花見にも行かす、五年余り春をうとうとと過し ちょう じようもん あさぎもめん た。蝶の定紋もつけすに、浅黄木綿の野暮な着物をきて、 ていさい 浮世の体裁も気にせすに暮して、この世を終った。 なんしよく さかな がいぶん ちん 127