126 そういうと花子はふと目を上げて、円を見つめた。 「自分が愛しているからといって、それを押しつけたくないんです。そんな : : : 相手を困ら せるようなことはしてはいけないと思ってます。私は」 突然、円はかっとした。なぜかっとなったかわからないで、がむしやらに花子を追い詰め たい衝動に駆られた。 「愛している人から愛されたくないなんて、嘘だわ。本心じゃないわ ! 」 「本心よ : : : 嘘なんかいいません ! 」 にぎ 化粧室の外の廊下を賑やかな若い声が近づいて来て、本番を終った女の子たちがどやどや と入って来た。歌謡番組のステージのバックで踊るダンサーたちである。それにはかまわず 円はいっこ。 「立派だわ、立派過ぎますよ、河合さん。自分で自分を欺してるのよ、あなたは : : : 」 花子はロを噤んだ。あなたがそう思う以上、もう何もいいたくない、 とい、つように。っ て化粧ケースに化粧品を入れると立ち上った。そうして立ったまま、ためらうように円を見 ていたが、思い切ったように口を開いた。 「やつばり : : : あの人だったんですね ? そうなのね ? 矢部さんがこの間、おっしやって た方は : : : 」 突然の反撃だった。円が何もいわない先に、花子はいった。 「前からわかってましたわ。そうでなければ、矢部さんのような方が、私なんかに声をかけ だま
113 ライノくル 「愛しているよ」 あお あふ そういうと一気に酒を呷った。粗野だが自信に満ちて男らしく、性的魅力の溢れた飲み方 。こっこ 0 「うまい : うまいなア・ 日本酒は久しぶりだ : 心から満足そうにいった。それは丁度、べッドで円を抱いて、 「ああ、 いいなあ、柔らかいなあ、スベスべしてる : : : 」 と自分勝手に嗟嘆する時を思い出させる飲み方だった。そんな坂口を見ていると、円の 身体は奥の方から少しずつ、ゆっくりと雪解けのようにゆるんで来るのだった。 「そうそう、帰りの飛行機の中で佐久間さんに会ったよ、君によろしくっていってた : ・ : ・知 ってるだろ。サクマ企画の佐久間重吉 : : : 」 べッドから坂口がいった。円はドレッサーの前で髪をほどきながら、 「ええ、名前だけは : じようぜっ と答えた。空腹に酒を入れたせいか、坂口がいつもより饒舌になっているのを煩わしいと 思いながら。 「一度、君に会いたいっていってたよ。一緒に飯を食いたいってさ」 「何かしら : : : 仕事の話 ? こ 「だろうね。矢部円はもっと欲を出しませんかねえ、っていってたよ。そしてね、オレは円 からだ さたん わすら
今朝の「円の朝」は漸く満開になった「桜」がメインテーマである。歴史、故事にちなん だ桜を円が各地にレポートして歩く。最後に「事件のその後を追う」というコーナーでは、 児玉家の邸の桜が写し出された。 「こうして春が来て、この家にも桜が咲きました : : : 」 右手にマイクを持った円が児玉邸の高い石の門柱の前に立っていう。 「けれども今年のこの桜は、何という悲しい花でしよう : : : 今はこの桜を愛でる人はこの家 冫をいません : : : 」 一 = ロ葉は感傷的だが、円の表情は能面のようだ。気乗りのしない抑揚で、一本調子にいう。 そうすることで、精一杯の抵抗を示しているつもりなのだった。 カメラは円から、塀の上に盛り上っている桜の枝に移り、たわわに咲いた吉野桜の、哀し いほどに華やかなビンクの花々をアツ。フにしてから、手入れの行き届かぬままに若芽を吹き そび 出して来た樹々の向うに、古色蒼然として聳えている洋風の瓦屋根を写す。 やくさっ 児玉家の次は、扼殺されてコンクリート詰にされていたソープランド嬢の住んでいたマン ションの前に、半ば枯れかけて、それでも侘びしい花をつけている桜。次は収賄罪で起訴さ 乱れた高級官吏の高台の邸宅を見上げる子供公園の桜である。 フィルムが終ると、カメラはスタジオになる。坂口気に入りの大矢七郎が、いつものよう 混 ふうばう に寝起きそのままといった風貌で、わざと髪をボサポサにして席に就く。隣に女性ルボライ ターの安藤美加が並び、円は二人から少し離れて椅子にかけた。 やしき かわら かな
108 「女房のやっ、ここんとこヒス気味でね。仕方ないからサービスしてくるよ 局の食堂で慌ただしくそう告げられたのは十二月の何日だったか、円は憶えていない。妻 しっと へのサービス旅行をすると聞いても、嫉妬めいた気持が起るわけではないし、坂口の方も敢 て隠そうとしないであっさり告げる。そういうお互いのありかたに坂口は満足しているし、 円も悪くない関係だと思っている。だが、今のこのテレビをもし坂口が見たら、何というだ ろうか ? あの番組の中でしゃべっていた時、円は坂口の存在をすっかり忘れていたことに 気がついた。 「お姉ちゃん、これ、坂口さんのことをいってるの ? それとも違う人 ? 旭は真剣に追及してくる。 「坂口さんが奥さんとハワイなんかへ行っちゃったからなの ? こんなこといったのは ? 」 「ハ力だね。そんなお姉ちゃんだと思うの ? 旭は : : : 」 「でもこんなこといっていいの ? 芸能レポーターに嗅ぎ廻されるようなこと、自分からし ない方がいいのに・ 「だって、面白いじゃないの、森タメさんの顔見てるうちに、ドギモ抜いてやりたくなった のよ」 「人が悪いなア、お姉ちゃんは。正月そうそう : : : 」 その時、電話が鳴った。円は全身を期待で固くした。もしかしたらこの電話は、今のテレ ビを見た修次からではないかと思ったからだった。あの時、ブラウン管の中で円はまさしく あえ
坂口は円の後ろに立ち、鏡の中の円を見下ろしながらいった。 「君、やりすぎたよ、加賀谷さんのインタビュー」 性急な性質そのままに、円の答を待たずにいった。 「ありや、どう見てもやりすぎだ。失礼だ、インタビュアの分を越えてる。きっと明日は投 圭「がくるよ : 「そうかしら ? どうしてです ? 円は顔に伸ばしたクレンジングクリームを、ティッシで拭きながらいった。 「どうしてです、って、君ネ、ああいう皮肉はいかんよ。いや皮肉を越えてるよ。想像力が 足りないんじゃありません、なんて。なんてイジワルな女なんだろう、と見てる方は思う。 君のソンだよ」 「イジワルじゃないわ。フランクにいっただけですー 「イジワルたよ。時間が来たからよかったようなものの、そうでなかったら、君はいってた ろ ? この次は是非奥さまの正直なお気持をお伺いしたいものですって」 いいたかったの。奥さんが我慢し 「その通りよ。やつばり鋭いわねえ。坂口さん。私、そう てるかもしれないってこと、真剣に考えたこともない人よ、あの人は。自分を中心に世界が 朝まわ の廻ってる。それで小説が書けるものかどうかを私、訊きたかったわ」 坂口は円の頭の上で「ストツ。フ」というように大きな手を広けた。 「加賀谷をやつつけるのはいいよ。しかしやり過ぎるとそれと同時に何人かのファンを失う
298 つづく少年たちの力にならなければなりません。それは私たちの務めだと思います : : : 」 台本を閉じると、円は暫くの間、・ほんやりと椅子に座っていた。九十分の放映時間をこん なに長く感じたことはなかった。 「お疲れさま。じゃ、お先に」 と大矢が声をかけて立って行った。ミキサー室からの階段を坂口が降りて来る。出来映え に満足した時に見せる、ステップを踏むような足どりだ。円はす早く立ち上ってスタジオの 出口に向ったが、廊下へ出たところで大股の坂口に追いっかれてしまった。 「なかなかよかったよ」 坂口はこの前の電話のことなど忘れたように機嫌のいい笑顔を見せる。 「最後のシメがきいてたな。やつばり、君の郁也への真情が出てるんだ。こわいもんだね。 大矢が百万一言費したって、胸にズシーンと来ないもんな。要は真情があるかないかなんだ な」 坂口はずんずん歩いて行く円に歩調を合せながら、笑いを含んだ低声で囁いた。 「怒ってるのかい ? まだ」 黙殺しようと思いながら、つい、円はいってしまった。 「怒ってはいません。ただ自分が情けないだけー 「情けない ? 何が ? こ そむ と顔を覗き込む。機嫌をとろうとする時の坂口の癖だ。円はその顔から露骨に顔を背けた。
ためか。円は思い惑った。取り返しのつかないことをしてしまったと思うと、自分の浅はか さへの悔いと同時に坂口への憎しみがこみ上げて来た。大矢も藤木も、皆、憎かった。河合 花子も憎かった。 私ね、矢部さんを非難しようとしてるんじゃありませんのよ。あなたにはあなたのお 立場があって、その上でなさったことなんでしようから : : : その花子も、今までの花子では なく、上から円を見下ろしているような花子だった。 円は無我夢中でメモ帳を開いて坂口の電話番号を調べた。坂口の家へは今までに一度も電 うちの奴は、、ハ力なくせに、時々、妙なところで勘が冴えることがあ 話をかけたことがない るから気をつけてくれと坂口にいわれていたのだ。円が電話をしたことで、坂口の妻の勘が いや、その方がいいとさえ思われた。時計 働いて夫婦間に波紋が起きるならそれでもいし はもう十二時近くを指している。かまわずダイアルを廻した。信号音が七回鳴って、やっと 受話器が外された。 「坂口でございます」 豊かな暮しを楽しんでいる主婦によ 彼の妻に違いな、。 気取ったなめらかな声がいった。 , くある、ゆっくりした自信ありげな抑揚だった。 「私、矢部円でございますが」 「あらまあ、矢部さんでいらっしゃいますか。主人がいつもお世話になっております」 、え、こちらこそ」
かもしれない。そう思うと円は身体が熱くなった。 「以前、私はすいぶん色々な夢を持っていたものよ、それはそれは貪欲だったの。でも今は たったひとつ、ほんとにささやかな夢しか持っていないわ」 いっか円は修次にいったことがある。それは夜更けの住宅街を、それがどこともわからぬ ままに歩き廻っている時だった。 「ささやかな夢、それはね、朝までずーっとあなたと一緒にいたいってこと。それだけよ 修次はそのことを憶えていて、「鳥清」で食事をした後、あの家で一夜を明かす心づもり をしているのかもしれない。 宮古島での撮影は雨のためにお流れになってしまった。おまけに飛行機の欠航で、円は月 曜日の「円の朝ーにアナを開けてしまった。局に到着したのは、番組の終った頃たったが、 円は上機嫌を隠せずに、浮き浮きと沖縄の土産をスタッフに配った。 「宮古島で何か嬉しいことでもあったのか ? 」 スタッフが散って行った後、スタッフルームに残っていた坂口が声をかけて来た。 「今日はご機嫌じゃないか。今泣いた烏がもう笑ってるってやつだな」 「そう、ご機嫌直ったのよ」 「まさか、向うへ奴さんが飛んでったってわけじゃないだろうな」 「そうじゃないわ。私の思い過しだったの。それがわかっただけよ」 「そうか、それはよかった」 やっこ からす どんよく
り出した円の話を聞きながら、エビ天の尻尾を口から出して、 「矢部くん、キ、、 と、つこ。 「今日は忙しいさかい結論からいわせてもらうけど、はっきりいうて、矢部円は『円の朝』 あっての矢部円や。ぼくはそう思うなあ りはっ 「矢部円というと世間のイメージはまず悧発、やね。頭の回転の早さ。知的。機転も利く。 美人。声も、 しい。センスもええ。はっきりモノをいう。 いうとこないキャスターや。けど足 らんもんが一つある。何かというとヌケたところがないということやね。これからのタレン トは軽さというか、適当にヌケたところ、すっとんでるところが必要なんやね。しかしあん たがトンマやると、わざとらしゅうなるやろ。作為ゃなくて、もともとお軽いところ、いう て悪ければ無邪気なところを持ってるタレントには親しみが出てくるんやね。その点であん たははっきりいうて、インテリ過ぎるんですわ。大衆向き、そこらのおっさんおばはんには ろ気軽に声かけられんようなところがある。キャスターやめてもクイズ番組や歌謡番組の司会 うのロはそりや、今あんたがしたいといえばなんぼでもあるよ。けど成功するかどうか : 顔しかしたら女優に使おうという監督もいるかもしらんよ、しかし、あんたは女優は向かん。 女優になるには理智が勝ち過ぎてる : : : 」 「じゃあ、私は何も出来ない能なしってことになるんですか」 しつば
322 ていた。 よくないというよりも、中途半端に・ほくは耐えられな 「なにごとも中途半端はよくない 。中途半端をやめよう、そう決心したんです : : : 中途半端をやめるということは : : : つま り : : : あなたを断ち切ることなんた」 修次はいった。 いろいろ考えたが、断ち切れない : : : 何も知らずに信じている 「ワイフは断ち切れない : : とても 人間を、踏みにじることは、・ほくには出来ない : : : 欺しつづけることも出来ない : ・ : わかって下さい 出来ない : 円は呆然と座っていた。何の言葉も出て来なかった。ここへ来るまでにこの場面を予期し ていた筈だったが、 ( その不安が円をここへ来させたのだったが ) いざそうなってしまうと 呆然として何もいえない。修次は漸く目を上げて、その円を見た。 「我慢しよう。暫くは苦しいけれど、我慢しよう : : : 」 「なぜ ? なぜなの ? 」 言葉を捜す間もなく、円はそういっていた。 「私はなにもあなたの奥さんになりたいなんていってないじゃないの、離婚してほしいなん て思ったこともないわ、それなのに : 「そういうことじゃないんだよ」 「じゃあどういうことなの」