232 その坂口に抗うように円はいっこ。 「外国ならどこが好き ? 」 その時、坂口の手が伸びて、黙って円の手から受話器を取ると静かに下ろした。 「話をしに来たんだ」 円の抗議を封じるように坂口はいっこ。 「あれからすーっと俺は考えた。そして結論を出した。俺は君を離さない : 坂口はつづけた。 「それは俺のためばっかりじゃないよ。君のこともよくよく考えた上でのことだ」 坂口は手を上げて、何かいおうとする円を制した。 「俺にはあらゆる意味で君が必要だ。そして君にとっても、俺はまだ必要なんだよ。君はも う俺なんか必要ないと思っているだろうが、それは間違ってる。矢部円が生きるためには坂 ・テレビという、、ハックがあってこ ロ庸介が要るんだ。まだ君はひとり立ちは出来ない。 その矢部円なんだ。それが君にはよくわかってないみたいなんだよな。大組織の力というも のを見くびっちゃいけないよ」 「わかってるわ。それくらい ! 」 円は挑むように叫んだ。 「そしてこの世界で生きて行くってことは、鈍感になるってこと。本音を押しつぶしてまわ あらが
212 「いずれ他局でもやるよ。うちがやらなくても」 と亠硼す - ようにいっこ。 「だからやる ? どうせイタチが来て取るんだからといって、鵞鳥の巣から玉子を取って食 べてしまうように ? 」 「どうしたんた、円。何をトガってる ? おいで、ここへ」 坂口は中年男のゆとりを唇の微笑に漂わせながらいった。円はその微笑を見た。かっては 頼もしく眺めたその徴笑は、今は円を苛ら立たせるものでしかなくなったことを思った。だ が坂口はそれを知らない 「ごめんなさい」 突然、円はいった。そういうと泣き出す前の子供のように顔が歪んだ。 「どうした ? 」 優しい坂口の抑揚が身に染みた。 「ごめんなさい : もう一度、円はいった。ためらう気持を、強いカで押し切った。 「私ーーーあのね、私、加納さんを : : : 好きになっちゃったの」 円を見返していた坂口の頬が、漸くその言葉を理解して、生き物のようにキュッと縮んだ。 「加納さんを好きなの。愛してるの : : : だから、私 : : : それで : : : 」 坂口は円の顔から目を逸らし、 ようや がちょう
146 坂口はいっこ。 「それを取って来たのは樺山なんたけどね。しかしさっき、樺山のところへ杉田から電話が かかって来て、あの話は自分の思い違いかもしれないから、忘れてくれといって来たんだ 坂口は大きな目で円を見た。 「加納に話してみてくれないかな。どう ? 円は坂口を見返したまま、何もいわない。 かま 「知らない仲じゃなし、彼ももとは同じ釜の飯を食った人間だ」 「でも、話さないというんですよ。ね ? 円さん」 藤木がいった。 「あの男は頑固ですからね。前も頑固たったけど、やめてからもっと頑固になりましたね。 何たかしらん、えらそうなこといってましたよ。あんたたちとぼくとは考え方が違うんだな んてね : : : ひとが隠してることをほじくって、何のイミがあるとかね 「そんなこといったのか」 坂口は円を見ていったが、円は何もいわすに両手の中の番茶を見つめていた。 坂口と食事をして、円が家へ向ったのは夜の九時を過ぎていた。いつもなら、その足で坂 ロも一緒に来るところなのだが、雪の積り具合が心配で彼は自宅へ帰るといった。円もそれ
128 と台本をさし出す。 「ここへ書くの ? 」 「すみません。ほかに紙、ないんです : : : 」 まだ化粧も落さない顔で寄って来た女の子がいった。 「で、誰なんですか ? こ へんに真剣に訊いた。 「何が ? 」 「円さんの片想いの人 : : : 有名人 ? 」 円は黙ってサインペンを走らせる。 「まさか、あれはシャレじゃないんでしよう ? はしつこそうなのがいう方へ円は顔を向けた。 「冗談じゃないわ」 「本当のことなんですね ? 」 「そうよ。本当よ」 「じゃあ、相手の人は円さんを愛していないってことも ? それはウソでしよう ? 」 「本当よーーー」 女の子たちが悲鳴のような歓声を上げる。円は笑ってサインペンを返した。 「カッコイイ ! 」
たこともあった。そのうちに円はディスクジョッキーの花形になっていった。「いい間違え の達人ーといわれながら、なぜか人気が出たのだ。生れ故郷の北海道弁を半ば意識的に使っ まじめ たのも、若者に親しまれた原因のひとっかもしれない。若者の投書に対してクソ真面目に答 えているうちに、突然ストンと冗談になっている。面白半分ふざけているのが、いつの間に かムキになっていて、説教をしている。熱烈な若者のファンが出来た。 坂口はそんな円に強い関心を抱くようになった。はじめて女に惚れてしまった、と酔うと いうようになった。坂口は円のすべてを自分のものにしたい 、といった。円が坂口を許した のは、彼が円を欲しがって子供のように懇願したからだ。 もしかしたら、彼が大男だったからかもしれないわ、と円はこっそり思うことがある。 大男が懇願する姿には、 いうにいえない哀感があるものだ、と。 君をオレの手でスターにしてみせる、いや、させてくれ、と彼はいった。オレのいう通り にしたら、間違いなく、必ず君はスターになれるのだ、といった。若者向けの週刊誌や芸能 新聞などから、写真やインタビ = ーの依頼がたえず来るようになったが、坂口は円にそれを 断らせた。 「あんまり安売りするな」 というのがその頃の彼の口癖だった。テレビ界にデビーする時に新鮮さがないと困る、 と彼はいうのだった。矢部円とはどんな女か、どんな顔をしているのか、声と才気のファン が、それを知りたくて我慢出来なくなるまで、そいつはしまっておかなくちゃ、と彼はいっ
214 ブランデーグラスを見つめたままいった。素直な声だった。円は何もいえなかった。 「君は加納に洗脳されたんだな。それでわかったよ、何もかも」 坂口は立ち上って無意味にそのへんを歩いた。 「で ? どうなる ? どうしたいんだ、君は ? 」 「わからないの : : : 」 円はいっこ。 「わからないじやすまされないだろ ? 」 「でも、わからないの : : : わかってることは、彼を愛してるってことだけ」 「俺とは切れたいんだね ? 当然のことだろうけど」 「ごめんなさい」 と円はうなだれた。坂口は立ち止ってそんな円を見下ろし、 「ダメだ。。 タメになって行くそ。円ーーー」 といった。 。 : ロ内まダメな男だ。ああいう理想主義者は、 「君が加納に惚れる気持はわかるよ。わかるカカ糸を 現代では生きられないよ」 「でも立派に生きてるわ」 「生きてる ? あれを生きてるっていうのかい ? 」 その時、電話が鳴った。旭が受話器を取って、円をふり返った。
272 「一応、藤木がついて行ったけどね」 坂口は円に目を当ててゆっくり近づいて来た。 「俺はテレビ人間なんだよ。テレビ人間であることに徹しようと思ってる。世間の興味を惹 くことなら何だってやろうと思ってる。下手な大義名分なんかもうつけないよ。気取ったっ てはじまらない。何だってやるんだ : 円は坂口を凝視したまま、無意識に後ずさりしていた。こんなに坂口を大男だと感じたこ とはなかった。 修次がこのことを知ったら : : : 円は思った。それから円は突然気がついた。 坂口に郁也の 居場所を告げたのは、円自身だったことに。
310 「逃げてる ? 」 坂口は立ち止った。 「うまく行ってないの ? 」 「連絡がないの : : : 」 耐えようとしたが顔が歪んだ。その顔を坂口が見ている。それを見られまいとして、円は 坂口の胸に顔を埋めに行った。 「あなたのせいだわ。あなたが。フチ壊したのよ」 円は泣いた。 「オレは何もしゃべってないよ。君とのことなんか」 円は坂口の腕をふりほどいて、叫んだ。 「郁也を殺したのはあなたよ ! あなたによけいなことをしゃべった私もよ : : : 二人で郁也 を死なせたのよ。加納さんが郁也を救うことに賭けてることを知っていながら : : : 」 円は走り出した。坂口が追いかけて来た。 「私、やめるわ ! 急に立ち止ると、円は坂口を睨んでいった。 「「円の朝』、降ります : : : 夏いつばいで契約が切れるから : : : もうこんな世界はつくづくい やになったわ」 むな 「何をいってるんだ、子供みたいに。どんな仕事にだって、空しさはっきまとうよ」 ゆが
127 ライル てきたりなさる筈がないんですもの : : : 」 てきがいしん そうう花子は挑戦的でもなければ、敵心に駆られている様子でもなかった。しかし円 の目には、その花子はかって見たことがないくらいに大きく、「年上の女」としての底力に 満ちていた。円は化粧水の瓶を持ったまま、花子を見返した目を逸らすことが出来なかった。 そんな円に、花子は低い声ではっきり、 「でも、私も、あの方を愛しつづけますわ・ : 、「じゃあ」と会釈をして化粧室を出て行った。 。まっとしな 打ちのめされた人のような自分を、円は鏡の中に見ていた。とるに足りない、を い存在だと思っていたものが、急にむくむくと大きくなって目の前に立ちはだかった、とい う感じだった。それは確かに敗北感だった。しかし、花子の持っている何に対する敗北感な のかはよくわからなかった。 円に気がついたダンサーの一人がサインペンと手帳を持って近づいて来た。 「すみません。サインして下さいます ? とさし出す。 「うちの兄が円さんの大ファンなんです。この前のテレビ見て、ショックを受けてました」 「あれ、ホントなんですか ? 」 後から来たダンサーが口を出した。 「でも、さすが円さんだわア : : : お願いします : : : 」
「だって、君ほどの女が、全く自信を持っていないんだもの。それが本気の証拠だ」 「そうかしら : : : 」 そういわれれば、こと彼に関する限り、円にはどんな自信も成算もない。彼は円に対して、 全く、カケラほどの関心もないのだと円は思い決めている。彼が優しくしてくれたことがあ っても、それは円に対しての特別の優しさではなく、優しいのは彼の性分なのだろうと思っ てしまう。彼以外の男から優しさを示された時は、すぐにそこに男の野心を見てしまうのに。 , 加納修次は一か月前に・テレビ局のプロデ = ーサーを退職した。退職の理由につ いては、彼が何もいわないので、誰もがよくわからなかった。漠然とわかっていることは、 プロデ、ーサーとしての彼の働き場所が・テレビにはなくなって来ていたということだ った。彼の作る番組は、いつも視聴率が低迷していた。にもかかわらず、彼はそのことを気 に病むふうがなく、い つも泰然としていたので、そのために会社上層部は刺激を受けるのだ っこ 0 加納修次がいてくれる限り、自分の番組の視聴率が最下位になる心配はまずなかったのに、 これからはたいへんだとみんな困っているよ、と坂口が笑いながらいったので、円は彼がや めることを知ったのだった。 その翌日、偶然円は加納修次とエレベーターで一緒になった。エレベーターの中には円と 彼の二人しかいなかった。二人きりだと思った時、円の身体の奥の方から強い衝動が湧き上 ってきた。その衝動の中には思い切った言葉、今でなければいえない言葉が爆薬のようにこ