円 - みる会図書館


検索対象: バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)
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1. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

聞ようとするように。その時、円の視線を感じたか、花子はふと顔を上げて円を見た。「あら」 という表情が花子の目を明るませる。円は反射的に微笑していた。花子に向って儀礼的に徴 笑することはあっても、こんなふうに笑いかけたことはなかった : : : 一瞬そう思いながら、 円の足は花子の方へ動いて行った。 「おはようございます 円は花子のテーブルに近づきながら、気さくな調子を心がけていった。 「おはようございます : : : 」 花子は答え、いきなり円が挨拶をしてきた理由をわかろうとするように円を見つめている。 円は混乱した。自分の身体が意志とは別個に動き出している。 「河合さんを六本木の通りで見かけましたわ : : : 土曜日の夜 : : : 」 円のロはそういっていた。 「なんだか、とっても楽しそうでしたわ、河合さん : : : 」 笑いを含んでそういう自分の声を聞いた。円は花子のいる小さな二人用のテーブルの前に 立ち、花子は驚いたように椅子から円を見上げている。 「あら」 と花子はいった。 「矢部さん、いらしたの ? 六本木に」 その表情を探るように眺めながらいった。

2. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

230 マンションの五百メートルも手前で降りて、さりげなくあたりに目を配りながら歩く。この あたりはテレビに関係のある人間がよく歩いているからだ。いっか習慣となってしまったそ はばか の歩き方が、今の坂口には妙に寂しく懐かしい。ついこの間まではそうした人目を憚る歩き 方に、人知れぬ楽しみ、といったものがあった。 君たちは知らないだろうが、オレはこれから矢部円を抱きに行くんだ : 行きずりの男にそういってみたいような、他愛のない楽しさだった。だがそのうちにそん よぎ な歩き方の習慣も消えて行くのだろうか。ふとそんな思いが過ると、矢もたてもたまらなく なって、どんなことがあっても円は手放さないそ、と思い決める。「円の朝ーを失った矢部 円はどうなると思うんだ。円にそのことを認識させたい。「円の朝」を失ってもタレントと しての人気と地位を保つことが出来るとでも円は考えているのか ? ということは、坂 「円の朝」あっての矢部円なのだ。矢部円あっての「円の朝」じゃない。 ロ庸介あっての矢部円だということだ。それを円に呑み込ませなければ : フランス料理店の角を曲り、駐車場に沿って廻って行く。マンションの階段を上り、管理 人室の前で会釈をしてエレベーターのボタンを押す。五階で降りて廊下を歩く。女のすべて を把握している男のゆるやかな足どり この間まではそうだった、と坂口は思う。この間までは、廊下の外れのドアーの向うで円 と旭が、彼の来るのをいそいそと待っているという確信があった。だが今は、坂口の胸底を ごうがんしわ 不安が煙のように這っている。それを押し退けようとして、坂口のロ許には傲岸な皺が寄る。

3. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

「ダメってことはないだろう : : : 」 坂口の大きなゴルフ焼けした赤い顔が迫って来て、有無をいわさず円の唇を捉えた。かっ し弓しまかがっしりと円の顔を挟んでいた。坂口は円 ては頼もしく思った労働者のように太、虫、旨、、 に乗りかかり、まるで渇えた動物が水を飲もうとするように円の唇をむさ・ほった。その大き な重い身体は身動きも出来ないくらいに円を押えつけている。それが円を怒りでいつばいに ピクともしない。嫌悪感がこみ上げて来た。これ した。力をこめて撥ね退けようとしたが、、 が坂口だと思うとたまらなかった。こんな形で女を征服して満足するのか ! 野蛮人。そう 罵ってやりたかった。 「最低だわ、最低だわ ! 恥知らず ! ケダモノ ! 」 漸く唇が自由になったのでたてつづけに叫んだ。坂口は左手で円の片腕をさし上げた形に 押えつけ、右手で円の着ていた部屋着とその下のネグリジェを押しはだけた。彼は無言のま ま、全身で円の抵抗を押えつけ、ネグリジェの裾から手をさし入れて来たが、突然手を止め ると円のむき出しの胸の上に頭を落して来た。そのままじっと動かない。やがて円の乳房の 上に熱く濡れるものが流れて来た。それは坂口の自嘲の涙だったのか、怒りの涙だったのか、 乱円にはわからない。その涙の中に籠っている坂口との歳月が、やさしく円の嫌悪感を消して 行った。 ののし じちょう

4. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

る。円は加納修次に洗脳されたのだ。坂口はそう思う。それまでの円は自分の才能に誇を持 っていた。この仕事が気に入っていた。この仕事を天職だと思っていたから、彼女にとって 恋愛は二次的なものだった。円が坂口にヤキモチをやかないのは、恋よりも仕事の方に気持 を奪われているからだーー坂口はそんなふうに理解して彼女と自分の間柄をそれなりに満足 していたのだ。 今の円は少しも倖せでない : 坂口は円にそういってやりたかった。君は気がついていないけれど、倖せじゃないんだよ。 自分では倖せだと思っているかもしれないが、しかし倖せじゃない。俺にはそれがわかる 円が輝いていないのは、自信を失ったからだ、と坂口は思う。円は自分の才能などたいし た価値のないものだと思うようになり、この仕事を無意味たと思うようになっている。 坂口はそう指摘したかった。しかし円がそうなったのは、加納修次への恋のためであるこ とを思うと、坂口は言葉を失った。もう坂口の神通力は通用しなくなったのだ。円は坂口を 愛さなくなっただけでなく、批判的になっている。彼が児玉博道のコメントを取りたいとい 乱った時の、円の目の色がそうだった。 「それにどういう意味があるんでしよう ? 」 他人行儀に、呟くようにいった。そんないい方もかっての円にはなかったものだ。 「一度、ゆっくり話そう」

5. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

138 円がいいかけた時、修次はそれを遮るように、 「じゃあ」 ねずみ といった。それだけいって背中を向けた。見憶えのある鼠色の、野暮ったいオー その後姿には、孤独に馴れたというよりは、孤独に固執している頑さがあると円は感じる。 「加納さん : : : 待ってちょうだい : おおまた 円は叫んでいた。聞えているのか、いないのか、そのまま大股に歩いて行く修次を追った。 夢中だった。今ここで、どうしてもいわなければならないことがあるような気がした。修次 は仕方なさそうに ( と円には思える ) 立ち止ってふり返った。 「加納さんは : : : 」 円はいし それから自分が何をいおうとしていたのかわからなくなって口ごもった。咎め るように ( と円は感じた ) 円を見返している修次の目を見ると混乱した。 「何ですか ? 」 事務的な声だった。それは円にも事務的であることを要求している。そしてその顔は円が 感情に流されることを堰き止めようとするかのように、端正に緊張して円を見返している。 「加納さんは : : : お会いになったんですね ? 児玉さんの奥さんと : : : 」 よろ 本当はそれを訊こうとして修次を呼び止めたのではなかった。だが修次の鎧ったような固 い表情が、咄嗟にその質問をさせたのだ。 「そうでしよう ? お会いになったのね ? こ かたくな

6. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

思いながら、引きずられてる : 円は唐突に坂口の顔を引き寄せて、その顔にキスの雨を降らせた。 「可愛い人だわ、あなたって : ・ なんて、可愛い : : : 」 円はいった。そうして声を立てて笑った。 私はこの人とのセックスが好きなわけじゃない : : でも、私はこの胸が好きになった ・ : 骨太で筋肉の厚い男は好きでなかったのに。 坂口の胸板の下で、円はそう思っていた。その胸は学生時代から山登りやテニスに鍛えら れて、驚くほどぶ厚く堅く、太陽にぬくもった岩肌のようだった。その胸の中に抱き込まれ て、今しがた円を攫って海原へ押し出した波のうねりの優しい名残りの中に漂っていると、 からだ 身体の力が抜けて生れた時の姿に立ち帰ったように円はくつろぐ。 けれどもそのくつろぎは「愛」ではない、 と円は思う。もしかしたら、やがては「愛」に なって行くものかもしれないけれど、でも、今のところは愛ではないわ、と円は思う。そう 思うのは修次の存在のためなのか、坂口への、それが何とははっきりいえないもの足りなさ のためなのか、円にもよくわからない。 「どうした ? 」 坂口が身体を離して円の顔を覗き込んだ。

7. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

に、近くの公園まで行く。公園の入口に公衆電話があって、人通りも多くない。 「俺が出ようか ? 坂口はいった。冷たいが余裕のある声だった。 「出てもいいよ。出て、彼にし 、、こ、。俺は坂口だ。ずっと円を愛して来た。今も、これ、 らも愛して行きたい、って : 円は坂口を睨んでいった。 「それなに ? 脅迫なの ? 」 「いわれては困るかい」 知らなかった坂口の一面を教えるように、坂口のロもとに薄笑いが広がった。 くち′」も 円はロ籠った。 困らないわ、少しも。 といいたかった。しかし何も知らない修次は、それを知ったら円から離れて行くだろう、 と円は思った。修次がその程度しか円を愛していないということではなく、修次はそうい 男なのだと円は思う。 電話は鳴っている。坂口が見つめている前で円の手は受話器を取った。 「もしもし」 公衆電話の信号音が終るのを待ちかねたように、せつかちな、心配そうな修次の声がい にら

8. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

円は思わず呼んでいた。呼び止めようと思って呼んたわけではない。円の意志とは関りの い別の声が、勝手にその名を呼んだのだった。 修次はふり返った。円の好きな暗い大きな、時としては藪にらみのように見える眼が一瞬、 じっと円を見つめた。とっさにそれが誰だったかを思い出せない様子だった。というよりは、 たたず そこにまるで街の女のように佇んでいた女が、あの ( スターの ) 矢部円であることが信じら れないといった表情だった。 「ごめんなさい、突然、お呼び止めして : : : 」 円は自分のその声を、別人の声のように聞いた。 修次は短く 、それが癖の、神経質そうに目を瞬かせながら、やっと彼女が矢部円であ ることを認めた笑顔になった。 「誰かと思いましたよ。こんなところで : : : ひとり ? 何してるんです ? こ 円はいっこ。 「ずーっと見てましたの : : : 」 「見てた ? 何をです ? 」 「加納さんが河合さんにお花を買ってあげたところ : : : 紅バラ五本にかすみ草。河合さんの うれ 嬉しそうな様子ったら : : : まるで女子高生みたいで : : : 」 修次は円のおしゃべりを遮って、 さえぎ ゃぶ

9. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

37 「円の朝」 もっていた。それを口にしようと思っただけで円の心臓は破れそうになった。呼吸が詰って 今にも倒れそうたった。「加納さん」と円は呼びかけた。しかし次に円がいったのは「おや めになるって本当 ? 」という言葉だった。衝動は消えた。 ・ほんやり横顔を見せて立っていた彼は、驚いたように円を見て、 「え ? ーと反問してから、 「ええ」 と肯いて微笑した。 「どうして ? 」 思わず立ち入って訊こうとしたが、加納修次は円を見下ろして、 と笑っただけだった。 「残念ですわ、私 : : : 」 円はムキになっていった。 「加納さんこま、 、お士事していただきたかったのに : んとうに・ : ・ : 」 彼はてれくさそうにもう一度、同しことをいし ・ : 私、期待していましたのよ、ほ

10. バラの木にバラの花咲く (集英社文庫)

「お疲れさま」 いろんな声があちこちから円にかけられる。それに答える円の声は、こんなに重い絶望に 拉がれているにもかかわらす、いつものように明るいのだった。 円が局を出た時は午後八時を過ぎていた。人気のなくなったロビーを出ると、円は駐車場 の方へは行かずにそのまま通りへ出た。このまま真直に家へ帰る気がしなかった。といって 坂口を誘う気もなかった。一人でいたいのか、いたくないのか、自分でもよくわからなかっ た。胃のあたりが詰っているのは、コーヒーを飲み過ぎたためではない。自分が、今、何を したいのか、何に近づきたくてこうして夜の繁華街へ向っているのか、円にはぼんやりわか っている。わかってはいるが、実現はしないだろうとぼんやり思っている。 、と思いながら、それを夢みて円は歩いている。通行人が立ち止って 実現することはない 円の名を呼ぶ。 「円さん、いつも見てますよオ」 「ありがとう」 の歩きながら笑顔で答える。手をさし出され握手をする。相手は酔っていて、手の甲に唇を た当てたりする。円は笑う。「。ハイバイ」といって手をふる。 ふと足を止める。テレビ局の連中がよく行く中華料理屋だ。入ってテーブルを見廻す。 「お一人ですか ? 」 ひとけ