224 「ええ、そうしましよう : : : 」 そういい合ってから十数日経っている。毎日、局で顔を合せるが、事務的なこと以外はお 互いに何もいわない。坂口は円を抱きたいという欲望と、拒絶に遭うのを怖れる気持との狭 あんたん 間で暗澹としていた。 児玉数子の死んだ日から遅い桜が咲く頃まで、どこのテレビ局も児玉家の問題で明け暮れ た。坂口が指摘した通り、児玉家には現代社会が抱えている多くの問題が集約されているの である。 教育問題、夫婦問題、既婚者の恋愛問題、女の性と母性ーー。それこそ重箱の隅をほじく るといった格好で、児玉家は徹底的に解剖され、批評された。 妻や子供に対して冷淡だった父児玉博道が非難され、上級生に放火の罪を被せられたまま 沈黙して耐えていた少年郁也は、今は犯罪者から一躍健気な少年になった。彼がなぜ沈黙し ていたかについて、心理学者や教育評論家が論評をくり返した。 「現代の子供は戦前の子供とは違った形で、おとなの犠牲者であると思います」 と評論家がいえば、評論家は、 「人間として未成熟なままに親になった親が多い。未成熟なままに教育熱心になるから子供 は迷惑する」 などという。そういう論評のすべてが、郁也に同情していながら郁也を傷つけていること に誰も気づかないのだった。 はざ
と答えていた。もしも運転手が渋谷でいいですか、といえば、ええと答えて家へ帰ったか もしれない。 東京駅の赤電話で簡単に旭に連絡した。 「そんなところへ何しに行くのよ ? いきなり 怒ったようにいう旭に、あとでもう一度電話をするといい捨てて、発車間際の急行に飛び 乗った。 日暮前、銚子に着いた。外川は銚子駅から出ている単線の、オモチャのような電車の終占 だ。二十分ほどで外川に着いた。改札口に駅員もいない小駅である。切符は電車の車掌に渡 して改札口を出た。人を迎えに来ているのか、所在なげに傘を持って立っている老人に、船 たど 宿はどのあたりにあるかと訊いた。教えられた通りに道を辿って行く。石畳の狭い下り坂を 挟んで家と家が向き合っている。家と家との間にどんより沈んでいる幅の狭い海が見えた。 坂を降りきると俄かに眼前は開けて遮るものの何もない、閑散と広い漁港が現れた。岸に 引き上げられた漁船が霧雨に煙っている。海に向いて並んでいる民家の中に、ところどころ ろ船宿の石板が出ている家がある。 とりあえず一番近い船宿に入って声をかけた。数日前から泊り込んでいる加納という男客 の おやじ 顔はいないかと訊いた。船宿の親爺はこの頃は天気が定まらないので釣客はどこの船宿でも殆 ÄJ い、ない 、とにべもなくいう。その時、奥から女の声が聞えて来た。 「とうちゃん、もしかしたら、その人、金蔵さんのところのお客さんじゃないの」
296 者の好奇心が要求する力だった。 テレビカメラは窓から黒煙を吹き出している桜明中学校校舎を写している。 「この放火事件で、児玉郁也君は放火の濡れ衣を着せられたのでしたねー 台本はこの写真と同時に円がそういうことを指示している。 「しかしその後、真犯人は一年上の三年生の仕業だったことが判明しました。その時、郁也 君はなぜか、その上級生の名前を明かさなかった。濡れ衣を着せられながら、何もいわなか ったんですね : : : 」 円の言葉につづいて、大矢がいう。 「なぜ、郁也君は沈黙を守ったのでしよう ? 「さあ、そこです、問題は」 大矢がいうのと同時に、児玉邸の写真が出た。手入れされぬままに鬱蒼と繁った樹々の陰 気な緑が、石の塀の上に盛り上っている。 「郁也君の生れた家。児玉博道邸です。この家で悲劇が起きたのは、前の放火事件があった およそ一か月後のことです。放火事件で濡れ衣を着せられた郁也君は、火事の翌日から姿を 消して所在不明になり、それがいっそう彼への疑惑を深める原因となっていたのですが、こ ほとん の家には数子夫人が一人で暮していた。その時点で児玉教授は殆ど家には帰っていなかった といいますね。そうして三月二日の昼過ぎのこと、数子夫人は二階の寝室のガス管を開いて 自殺を遂げていたのです : : : 」 ぎぬ うっそう
177 雪の夜 「この問題は本腰を入れようと思うんだ。郁也が今どこにいるか、警察は捜しているらしい かくま がね。しかし相手は中学生たろ、誰か匿う人間がいるとオレは睨んでる。そうでなければも う家へ帰って来る頃だよ。あるいは親がどこかに隠してるか : : : 」 「そういえば親はわりに落ちついてるみたいだなあ、大矢もそういってたけど」 「今、ふと思ったんだけどね、矢部くんと藤木くんが児玉家へ行った時、加納に会ったって 藤木くんがいってたね ? 」 坂口は円の方を向いた。 「ええ、会ったわ」 「何しに行ってたんだろ ? 」 と坂口は円を見つめた。 「家の中から加納が出て来たんだろ ? 君は話したんだろ ? 」 「ええ」 それ以上に円がなにもいわないので、坂口はつづけた。 「仕事じゃない。個人的な知り合いのようだったと藤木がいってたな、あの時・ : 「話しかけたんだけど、何もいってくれなかったの」 仕方なく円はいっこ。 「あの人、頑固だから : : : 」 にら
「これは偶然のことなんですが、最初は去年の冬のはしめです。散歩していた時に、公園に いるのを見ましてね、ふと話しかけて、それ以来、時見かけるので気にかかっていたんで す。登校拒否の中学生でしたから。今回の事件を知って、もしや、と思いながら公園へ行く と、 いたんですよ。朝の六時頃でした。それで家へ連れて来て : : : 今は・ほくの所にいます」 「まあ・ : ・ : 」 「本人はどうしても家へ帰らないというものですからね、そのことを話しに母親に会いに行 ったんですよ」 「で、学校の火事は、やつばり郁也なんですか ? 「そのことになると、ロをつぐんで何もいわないんです。ただ期末テストが始まるので、家 を出たとたけいって : : : はじめのうちは否定していましたが、だんだん答えなくなっていま 「じゃあ、やったんでしようか」 「わかりません。しかしその可能性はあると・ほくは感じています。母親と担任を憎んでいま すから」 年「担任の先生とお母さんは、やつばり : ・ 修次は肯いた 少 「郁也がそういったんですか ? 」 「いや、郁也は半信半疑なんです。半信半疑に苦しんで、母親を憎むようになった。・ほくは
226 「こうしてフィルムを見て来ますと、季節の移り変りの中で花だけは誠実に無心に生きてい る。この花たちに較べて、人間は何てがさつに生きているのだろう、どうして我々はこの花 たちのように、ありのままに素直に生きられないんだろう、そんなことを思ってしまいま すー 円がいうと、即座に安藤が受けて、 「そうですわねえ。つくづくそう思いますわねえ。静かに咲いて、静かに散って行く花を見 ていますとねん もっともらしく亠月く。 「ところで大矢さん、今日はどんなニュースを聞かせていただけますか ? 大矢は肯いて、 「まず児玉家のその後なんですが、この家は今、売りに出されています」 、画面は再び桜が咲き誇る児玉邸になった。 「児玉邸が ? 売りに出されているんですかー この立派なお家が : : : 」 モニターテレビに目をやりながら、円はわざと驚いたように声を上げる。 「で、買手はついたんですか ? 」 「引き合いは来ているそうですが、まだ売れていないようですね。ま、いろいろ問題のあっ た家ですから、右から左という具合には行かないでしようが 「で、このお家には今は児玉博道氏は住んでいらっしゃいませんの ? 」
今朝の「円の朝」は漸く満開になった「桜」がメインテーマである。歴史、故事にちなん だ桜を円が各地にレポートして歩く。最後に「事件のその後を追う」というコーナーでは、 児玉家の邸の桜が写し出された。 「こうして春が来て、この家にも桜が咲きました : : : 」 右手にマイクを持った円が児玉邸の高い石の門柱の前に立っていう。 「けれども今年のこの桜は、何という悲しい花でしよう : : : 今はこの桜を愛でる人はこの家 冫をいません : : : 」 一 = ロ葉は感傷的だが、円の表情は能面のようだ。気乗りのしない抑揚で、一本調子にいう。 そうすることで、精一杯の抵抗を示しているつもりなのだった。 カメラは円から、塀の上に盛り上っている桜の枝に移り、たわわに咲いた吉野桜の、哀し いほどに華やかなビンクの花々をアツ。フにしてから、手入れの行き届かぬままに若芽を吹き そび 出して来た樹々の向うに、古色蒼然として聳えている洋風の瓦屋根を写す。 やくさっ 児玉家の次は、扼殺されてコンクリート詰にされていたソープランド嬢の住んでいたマン ションの前に、半ば枯れかけて、それでも侘びしい花をつけている桜。次は収賄罪で起訴さ 乱れた高級官吏の高台の邸宅を見上げる子供公園の桜である。 フィルムが終ると、カメラはスタジオになる。坂口気に入りの大矢七郎が、いつものよう 混 ふうばう に寝起きそのままといった風貌で、わざと髪をボサポサにして席に就く。隣に女性ルボライ ターの安藤美加が並び、円は二人から少し離れて椅子にかけた。 やしき かわら かな
258 「家へ電話をしたら、奥さんがそういったのよ。有田牧場へ行ったって」 「家へ電話したの ? ー 円は坂口を見上げて悲鳴を上げるように叫んだ。 「したのよ ! 」 円はいっこ。 「信じられないでしよう ? 私、かけたのよ。ご主人さま、いらっしゃいますか、どちらへ : かけすにいられなかったの。不安で : : : 心配で : : : プ お出かけですか、って訊いたのよ : ライドなんかもう、どっかへ行っちゃった : 坂口は無言で機械的に円の背中を撫でていた。暗い失意の中に、一筋の光が射し込んで来 たのを感じた。 よし有田牧場だな。 と胸に刻んだ。 「加納のワイフは彼が河合さんと一緒に行ったことを知ってたんだろ ? こ 「それはわからない。何もいわなかったからー 「じゃあ君はどうしてそれを知ってるの ? 「電話をかけたの : 「どこへ ? 「有田牧場へ : : : そうしたら、河合さんが電話口に出て来たの」
坂口は両手を力いつばい打ち合せてこすりながらいった。 「こいつは面白くなってきたそ : : : 」 その日の午後、円はカメラマンの藤木と二人で、児玉郁也の家へ向った。前日は晩春のよ うに生ぬるい風が吹いていたのに、明け方から急に冷え込んで来たと思ったら、昼前には粉 雪が舞い始めた。 やしき 郁也の父、東洋経済大学教授児玉博道の邸は、小田急線下北沢駅に近い古くからの住宅地 にある。そこは、六、七十年前には山か丘陵地帯だったのが、いっか拓かれて住宅地になっ た古い住宅地らしく、生垣や積石の塀、古びた大きな門扉の家が目につく閑静な一画だが、 閑静なままに古い住宅地の趣は少しずつ壊されて、近代風の洋菓子のような家が所々に建ち はじめている。児玉博道の邸宅はその高台を南へ降りて行く坂の途中にある。両隣が鉄筋の かいまみ 洋風新築に変っているその間に、見るからに古そうな二階の大屋根が植込みの向うに垣間見 えて陰気くさい。 円の車が高い石塀に沿って下って行くのとすれちがいに、他局のワゴンが走り去って行っ 「こりや、むすかしそうだな : : : 」 けやき 少 車から降りたカメラの藤木が、門の前に立って呟きながら、粉雪の降りかかっている欅の 門扉にもうカメラを向けている。円がチャイムを押そうとした時、大門の右手のくぐり戸が つぶや ひら
169 雪の夜 郁也が修次の家へ来てから一週間経った。郁也は二階の、民枝が寝室にしている座敷にい ほとん ーパズルをしている。修 て、三度の食事の他は殆ど一日中炬燵に入って、気が向くとジグソ つまで 次が買って来てやった漫画雑誌や本を郁也は読まない。テレビも見ようとしない。い こうして修次の家に厄介になっているつもりなのか、今、何を考えているのか、さつばりわ からない。 それがわからないというのも修次が訊こうとしないからで、修次が何かいい出さない限り、 ー。ハズルを作っては壊し、壊しては作る作業をつづけるよう 郁也は永久にこの炬燵でジグソ に見える。 いったい」 「どうする気なんでしよう、 と民枝は時々いった。郁也が来たので、今は民枝は修次の部屋で一緒に寝るようになって 「狭いわねえ、寝返りもろくにうてやしない」 といいながら、民枝はそれほど悪い気はしていないようで、 雪の夜 こたっ