230 マンションの五百メートルも手前で降りて、さりげなくあたりに目を配りながら歩く。この あたりはテレビに関係のある人間がよく歩いているからだ。いっか習慣となってしまったそ はばか の歩き方が、今の坂口には妙に寂しく懐かしい。ついこの間まではそうした人目を憚る歩き 方に、人知れぬ楽しみ、といったものがあった。 君たちは知らないだろうが、オレはこれから矢部円を抱きに行くんだ : 行きずりの男にそういってみたいような、他愛のない楽しさだった。だがそのうちにそん よぎ な歩き方の習慣も消えて行くのだろうか。ふとそんな思いが過ると、矢もたてもたまらなく なって、どんなことがあっても円は手放さないそ、と思い決める。「円の朝ーを失った矢部 円はどうなると思うんだ。円にそのことを認識させたい。「円の朝」を失ってもタレントと しての人気と地位を保つことが出来るとでも円は考えているのか ? ということは、坂 「円の朝」あっての矢部円なのだ。矢部円あっての「円の朝」じゃない。 ロ庸介あっての矢部円だということだ。それを円に呑み込ませなければ : フランス料理店の角を曲り、駐車場に沿って廻って行く。マンションの階段を上り、管理 人室の前で会釈をしてエレベーターのボタンを押す。五階で降りて廊下を歩く。女のすべて を把握している男のゆるやかな足どり この間まではそうだった、と坂口は思う。この間までは、廊下の外れのドアーの向うで円 と旭が、彼の来るのをいそいそと待っているという確信があった。だが今は、坂口の胸底を ごうがんしわ 不安が煙のように這っている。それを押し退けようとして、坂口のロ許には傲岸な皺が寄る。
222 、ことがありそうな 「おはようございます。『円の朝』です。今朝はとても明るい、何かいし 気のする朝です。漸く上野の桜が満開になりました : : : 」 円は一カメに向って笑いかける。その笑い顔はわざとらしく華やかである。それは自分の 笑顔の効果をよく知っている、そしてその自信の上に咲き誇る笑顔だ。 だが、以前の円の笑顔は、こんなふうに作られてはいなかった。円の持っている濁りのな いエネルギーが自然に溢れている笑顔だった。「今朝はとても明るい、何かいいことがあり ことがあるような気が そうな気のする朝ですーと円がいうと、見ている方は本当に何かいい せりふ したものた。しかし今、その一 = ロ葉はただの台詞でしかない。 ミキサー室で、モニターテレビの円を追いながら、坂口は暗い気持でそう思った。 どうした、元気がないそ : 坂口は円にそう、 しいたかった。事実、何度かいいかけた。 ; 、 カその都度、気がついて口を 噤んだ。円に輝きがなくなっているのは、今の自分の仕事に対して懐疑的になっているため であることが坂口にはわかっている。いや、製疑的というよりは、イヤケがさしているとい った方が近いかもしれない。なぜイヤケがさしているのか、そのわけも坂口にはわかってい やろうかって : : : 」 あふ テレビを見つめたままその目からどっと涙が溢れ出て来た。 ようや
244 「そう、すっかり忘れてたわ。また後でかけますっていってたから、かけて来るだろうと思 ってたのよ」 「昨日の朝って : : : 何時頃 ? 」 きつもん 思わす詰問調になっていた。 「七時すぎだったかしら。昨日はお姉ちゃん、朝寝坊したから大騒ぎしてコーヒーも飲まず いいです、またかけます、 に走って行ったでしよ。あの時よ。呼び止めようと思ったけど、 っていうもんだから : : : 公衆電話だったし : : : 何だかガャガャしてたところ」 「それからかかって来ないの ? 「局の方へかからなかった ? 円はそれには返事をせす、 「どうしたのかしら : : : そんなに早く : : : 」 と呟いた。火急の用でなければ朝の仕事を持っている円に、七時から電話をかけてくるわ けがない。 「昨日はずーっと家にいた ? 」 「いたわ。電話メモ、見たでしょ 「どうしたのかしら」 同しことをまた呟いた。 「何かあったのかしらー
「円の朝」・ ふたりの男・ ライ。ハル 雪の夜・ 混乱・ 笑顔のうしろ・ 目次 解説・中平まみ
「私は明日、帰りますわ」 「そうですか。ぼくはやはりもう一日いることにします」 「私がいてもお役に立っこと、何もなさそうですしね ? こ 修次は曖昧に「そうですねん 」といっただけだった。その時になって修次は、花子が 風呂上りの顔に薄化粧をほどこしていることに気がついた。 みやこじま 修次が帰って来るのと入れ違いに、円は化粧品のコマーシャルの撮影で沖縄宮古島へ出発 した。金曜の朝の放送を終えてすぐに出発し、土、日と撮影をして日曜日の最終便で帰京す る予定である。 沖縄は到着した日は曇りで、翌日になって雨になった。颱風が近づいて来ているのだとテ うつうつ レビの天気予報が告げている。その二日目の雨の朝、修次から電話がかかって来た。鬱々と して起きる気もせず、雨の気配を感じながらまどろんでいる時だった。 ディレクターからの連絡かと、不精たらしく受話器を耳に当てて、もしもしといった 乱途端に、 「ごめん、起しちゃった ? 」 混 という修次の声が流れ込んで来て、円は思わす毛布を押し退けて起き上った。 「修次さん ! あなた ? 」 あいまい たいふう
になったのはそのためだ。 だってあの人はあなたを愛しているわ、多分、奥さんよりもあなたを愛してる。 だって奥さんはあなたについてはすっかり安心してるでしよ。その安心の分たけ、河合さ んとは違うのよ。河合さんは燃えてるわ。あなたの愛が欲しくて一所懸命になってる。だか ら私、河合さんが気になるの。あなたがいくら河合さんのことは何とも思っていないといっ ても、安心出来ないの。河合さんはあなたへの愛情のために郁也くんを引き受けたのよ。た ってあの人には郁也くんの面倒を見なければならない義理は何もないんだもん : : : 私それが 気にかかるの。 円は民枝よりも、河合花子の存在を気にしている。円にそういわれるまでもなく、修次は ・ほんやりとそのことを意識していた。 有田牧場に一緒に行きたいといった時の花子の口調に、どこか浮き浮きした響があったこ とを修次は思った。花子の好意をいいことに、郁也を押しつけたことが悔やまれた。 修次からの電話があったことを円が知ったのは、その翌日の夜に入ってからだった。 乱「あ、そういえば、加納さんから電話があったわ、昨日の朝 : : : 」 テーブルにタ食を並べながら、ふと思い出したように旭がいった。 混 「昨日の朝 ? 」 とが 咎めるように反問した円に、
円が・放送をやめてフリーになったのは、二十 , ハ歳の春である。フリーになると同時 に彼女は・テレビの朝のワイドショウの司会者として登場した。すべて坂口の企画によ るものである。円には・時代からのファンがついている。坂口は矢部円を握っていると いう力を買われて、ディレクターから。フロデューサーに昇格したのだった。 あり余る才能よりは、適度な才能の方が望ましい、と坂口がいい出すのに時間はかからな かった。視聴者投票で好感度一位になるよりは、好きと嫌いが半々の方がいいといっていた のも変って来た。今、坂口が心配することは、円が穏健な主婦層から生意気な女だという反 発を受けることだった。 だがそれは坂口の考え方というよりは、局の上層部の意見なのであろう。 「あの生意気なやつが、今日は何をいうだろうという楽しみでチャンネルを廻す人だってい ると思うわ・ : : ・」 円は反発した。 「女の心理の中には他人を嫌ったり憎んだりすることで、カタルシスを覚えるってことがあ るのよ。欲求不満を浄化するために、私が出てくるのを待ちうけている人はきっと大勢いる 朝 円 「悪役は主人公にはなれないよ」 「いいのよ、私はちょっと面白いやつだ、っていってくれるひとにぎりの支持者がいれば」
312 「いやになったのよ、もう : : : 」 「坂口さんはなんて ? 」 「知らないわよ、あの人の意見聞く必要なんかないもの」 円はワン。ヒースを頭から脱いだ。何かいいたげな旭のロを封じるように、 「おなかが空いたわ。タラコのス。ハゲティ作って : : : 」 といってから、。ハスルームの戸を閉めようとする旭を呼び止めた。 「旭、電話はワこ 「特別になかったわ。インタビューの申し込みが三つと、えーと、それからファッションシ ョウの司会を頼んで来てたわ。デザイナーの飛鳥さんから、それからえーと : : : 」 円は待ったが「加納さん」という声は聞えて来なかった。 その午後、円はサクマ企画の佐久間重吉に会いに行った。日曜日だが仕事があって、重吉 は事務所に出ている。電話をかけるとそこへ来てくれということで、円は二日酔のむくんだ 顔で出かけて行った。佐久間重吉に会いに行く気になったのは、彼が修次の面倒をよく見て いることを思い出したからだった。もしかしたら佐久間のところで修次の動静がわかるかも しれない。その期待が七分とあとの三分は、「円の朝」を降りた後の仕事の見通しについて の相談だった。 遅い昼飯とも早いタ飯ともっかぬ天丼を食べていた佐久間は、「円の朝」をやめたいと切
彼はいつも放送開始のギリギリまでしゃべっているのが癖だ。フロアディレクターが指を 出して、本番の合図をはじめているのに、またしゃべっている。 さっと身を引くのと同時に円は笑顔を作る。 「お早うございます。五月最後の『円の朝』です。今日は金曜日。いつものように桂鳥丸さ んのレポートで、芸能界の最新ニースを皆さまにお届けいたしましよう : : : 」 昨日は一日中、もう、二度とここに座りたくはないと思っていた。たとえ座ったとしても、 笑いたくもないのに笑顔を作ることはやめようと思っていた。いや、笑顔を作ろうとしても、 とても作れるものではないという落ち込みようだった。昨日の放送を修次がどんな気持で見 たか、それが怖くて電話が出来なかった。修次の方からかかって来るのを待っていたが、と うとうかかってこないままに朝になってしまった。 修次と電話で話をしたのは三日前だ。その電話の時は郁也が死んだことはまだわかってい なかった。郁也についての報道を止めるよう、坂口に会って頼んでみるといっていた修次は、 ろ郁也の死の報らせを受けた後、坂口とは会ったのか会わなかったのか、そのまま、連絡不能 うになってしまった。 顔修次はなぜ、電話をかけて来ないのだろう ? その疑問はこうしてカメラに向って笑いかけている今も、カサブタのように頭の内側にこ びりついている。
かもしれない。そう思うと円は身体が熱くなった。 「以前、私はすいぶん色々な夢を持っていたものよ、それはそれは貪欲だったの。でも今は たったひとつ、ほんとにささやかな夢しか持っていないわ」 いっか円は修次にいったことがある。それは夜更けの住宅街を、それがどこともわからぬ ままに歩き廻っている時だった。 「ささやかな夢、それはね、朝までずーっとあなたと一緒にいたいってこと。それだけよ 修次はそのことを憶えていて、「鳥清」で食事をした後、あの家で一夜を明かす心づもり をしているのかもしれない。 宮古島での撮影は雨のためにお流れになってしまった。おまけに飛行機の欠航で、円は月 曜日の「円の朝ーにアナを開けてしまった。局に到着したのは、番組の終った頃たったが、 円は上機嫌を隠せずに、浮き浮きと沖縄の土産をスタッフに配った。 「宮古島で何か嬉しいことでもあったのか ? 」 スタッフが散って行った後、スタッフルームに残っていた坂口が声をかけて来た。 「今日はご機嫌じゃないか。今泣いた烏がもう笑ってるってやつだな」 「そう、ご機嫌直ったのよ」 「まさか、向うへ奴さんが飛んでったってわけじゃないだろうな」 「そうじゃないわ。私の思い過しだったの。それがわかっただけよ」 「そうか、それはよかった」 やっこ からす どんよく