188 「えっ ? 」 修次は鶏の身から箸を外して、びつくりしたように円を見た。 「ひどいわ、加納さん。ひどいわ、ひどいわ : ・ 「何がですか。いきなり ? 」 呆気にとられたようにいっこ。 「何がですか、っておわかりにならないの ! なにも私の前で、河合さんのこと、好きだな んていわなくても : : : 」 「だって、あなたが : : : 矢部さんが、ぼくに訊いたんじゃありませんか。河合さんを好きか、 って。だからほくは」 「好きですね、っておっしやったじゃないの : ・ : ・」 「好きですよ。だから好きですっていったんです。それがどうして」 「だからひどいのよ。なにも私の前で : : : あんないい方なさらなくても : : : 」 「あんないい方って、何がいけなかったんです ? ・ほくはただ」 「ぼくはエネルギッシな人間じゃないから、ああいう控え目な人が好きだなんて : : : 」 「どうもこれは支離減裂だなあ : : : なぜそういったのがいけないんですー 円は修次を睨みつけたまま、一言葉を押し出した。 「私があなたを愛していること : : : 知ってるくせに : 修次の顔に「あ ! 」というような波紋が広がった。 あっけ
「親しいわけじゃないの、ただ、好きなのよ、河合さんが」 その時、円はそう答えた。 「好き ? 彼女をかい ? 」 「そうよ。だってあの人、何となく、くつろげるって雰囲気、持っているじゃない ? 」 「くつろげるか : : : そういえばそうだな」 坂口は一応肯いてから、「しかし」といい直した。 「しかし、あの穏やかさは・ほくはいやだな。くつろげるのは、彼女が空つぼだからだろ ? 中に何もないからだろ ? 退屈だよ」 「あなたはそうなんでしよう。でも、男の人の中には、何も持ってない女だから、だからほ っとしてくつろげる、って人がいるんじゃないの ? 」 「よっ。ほど強烈なエゴイズムを持っている奴か、そうでなければよくよくエネルギーのない 奴だな」 「でもわかるでしよう ? あの人にくつろぎを感じる男がいるっていうことは : っこ 0 円は念を押すようにいオ 男 「うん、それはわかる。しかも案外少くないかもしれない」 の その同意が円をうちのめすことになるとは知らずに、坂口は大きく肯いた。 ふ 十二月に入ってから、局は俄かに慌ただしさを深めていた。正月番組のビデオ撮りのため ふりそで かつら れに、円も振袖を着たり日本髪の鬘をかぶったりして、新春の特別番組を幾つかこなした。マ
修次はロを噤んだ。 「どういうことなの ? い って下さいよ : : : 」 突然、円は叫んだ。 「郁也のことで、私を憎んでるのね ? 郁也を死なせたのは私だと : : : 」 「そんなことじゃないよ」 修次は悲しそうにいっこ。 「ぼくは君の気持を理解してるつもりだ。ぼくは人のミスを問題になんかしないよ。ただ 「ただ ? ・ : : ・何なの、ただ、何なの : : : 」 「君が : : : 君ほどのひとが、し 、う必要のないことを口外してしまったという事実を知ってね、 ・ほくは思ったんだ。そんなにまで君が気持を乱されてるってことに、責任を感じたんだ」 「あなたに責任はないわ。私が愚かな女なのよ : : : 」 「そうじゃないよ。君を愚かにしたのはぼくなんだ」 ろ「愛してるからよ ! 」 円は夢中でいった。 の 顔「愛が : : : 」 「そうだよ、愛が・ほくらを苦しめ、愚か者にしてしまう・ : 修次はいった。
「気がっかなかったかな、あのおばさんーー顔、見られた ? 」 しすく 「見られてないみたい。だって雪の雫ばっかり気にしてたから」 「よかった 心そこ安心したようにいうと、立ち上って上着を脱いだ。 うわさ 「清潔な矢部円に悪い噂が立ったらいけないからね。女優と違ってテレビタレントはお茶の 間を相手にしているから気をつけないと」 よぎ 清潔な、という一一一一口葉が円の胸に染みた。坂口の顔が頭を過った。反射的に円はいっていた。 「いいの、悪い噂が立っても」 「いけない。タレントは立場を大事にしなくちゃ」 「立場のために自分を殺すの ? あなたがそんなことをいうなんて : : : 立場のために自分を 殺すのがいやだから、おやめになったんじゃなかったの ? 」 「・ほくと君とは違う 「同じですー 「いや違う」 夜 どうしてこんなところへ来てまで議論をしなくちゃならないんだ、といって修次は円を抱 の き寄せた。長い口づけを受ける円の瞼の裏に、坂口の大きな目が見開かれていた。その目に かしやく 雪 対して円は、何の呵責も感じない自分の心を思った。むしろ呵責は修次に対してのものだっ た。修次は何も知らない。坂口という男がいながら、修次に愛を求めたことを知ったら、修 まぶた
134 「上っ面を撫でるだけじやダメだ。真実に肉薄するんだよ、真実に : こうよう それが坂口が昂揚した時の口癖だ。円を駆り立てる進軍ラツ。ハだった。だが今日はなぜか、 そんな彼に円はシラけた。自分勝手にカんで、見当違いのところで、ひとりよがりの踊りを 踊っているように思えた。 この人は本当は、何ひとっ真剣に考えてるわけじゃないんだわ、と円は思った。この人の 考えてることはいつだって、「番組の効果」だけなのだ。けれども、この人はあまりにも一 所懸命にそれを考えるために、この「時代」や「社会」や「人間」について深く考えている ような錯覚に陥っているだけじゃないのかしら。 その時、坂口に電話がかかって来た。電話に出た坂口は大声で返事をしていたが、 「よし、わかった、がんばってくれ」 といって受話器を置くと、皆の方をふり向いて大声にいった。 「母親にオトコがいるらしい 坂口は席にもどってくると立ったまま、冷えた湯呑のお茶を一息に飲んでからいった。 「それがどうも、郁也の担任らしいんたな」 須藤がいった。 「ーーそれで郁也は、部屋に閉じ籠って出て来なかったんですね」 「郁也は知っていたのね」 「知ってたんだろうねーー」
うから間ちごうてくるんや。文化なんてカンケイない。君はまさか、なん・ほなんでもテレビ ーしもう で大衆を啓蒙出来るなんてアホなこと信じてるわけやないやろ ? 」 せりふ 佐久間の台詞はもう聞き飽きている。佐久間の方もいい飽きているにちがいない。それで も二人はお互いに飽きた筈の初歩的な議論をくり返す。それは佐久間の、修次への愛情だと はんばく 修次は思っている。この頃は佐久間以外に誰も修次に反駁してくれなくなった。 「加納、もうええ加減に降参せえ。意地張るな。買手がハナも引っかけんようなものを、作 ろうなんて思うなよ。さっさと絶望せえ。絶望して変身せえ : : : オレみたいに : ・ 修次がテレビメディアの現実と妥協しないのは、民枝という「稼ぎ手」がいるからだ、と 佐久間はいう。 「なん。ほ君でも、民枝さんが普通のヨメハンやったら : : : オレんとこの女房みたいな女やっ たら、そうはしてられんやろ」 中学生らしい少年がいましてね、と修次は熱つ。ほく佐久間に話しかけた。 「その子は環状七号線に跨がってる歩道橋の上から、下を走ってる車の流れに向って、次か ら次から、十個も二十個も玉子を投げていたんです。ぼくは公衆電話のポックスの中で電話 をかけながらそれを見てその姿に興味を持ったんです。なぜ : ほくが興味を持ったか ? な イぜだと思います ? 」 「知るかいな、そんなこと」 佐久間はにべもなくいい また
切口上にそういって円は修次の返事を待つように言葉を切った。仕方なく修次は、 「矢部さん、・ほくは : : : 」 ロ籠った。 「さあ、おっしやって : : : どうそ」 円は殆ど喧嘩腰で促す。 「矢部さん、いきなりの電話で、そんなことをいえなんて無理です。怖いとか嫌いとか、 くはそれがはっきりいえるほど、あなたを知らないし : : : 」 一時のいい逃れでなく、出来るだけ正確に誠実に、と思いながら修次は言葉を選んだ。 「あなただって、・ほくがどんな人間か、まだよく知らないでしよう。お互いに深くつき合っ たわけじゃないから、だから : : : 」 そこまでいうと、もう何もいえなくなった。正直に誠実に、しかも円を傷つけないように 答えるとすると、それだけになってしまう。 「加納さんーー」 激して円は叫んだ。 「あなたが逃げようとしていらっしやることはわかりました。なぜ逃げようとしているのか、 イそれを知りたいんです。私が嫌いだから ? 奥さまを裏切れないから ? 河合花子さんを愛 しているから ? : : ・ : 」 修次は答えられない。逃げようとしている、といわれると違うとはいえない。しかしそれ 1 ま
「あら、そうでした ? 」 けんか 「そうですよ。坂口氏と喧嘩でもしたんですか ? 」 「喧嘩まで行かないんですよ。何しろおえらい方だから。だからヒステリイになるの」 あいさっ 酒と焼鳥が運ばれて来た。女主人の清子が挨拶に出て来て、それとなく修次を観察して退 って行く。 「うちみたいな店を使うなんて、さてはお忍びね ? 」 さっき清子はそういって、円の背中を叩いたところだったのだ。 「ところで、電話でおっしやったことですが」 修次は円の酌を受けながらいった。 「坂口氏はどの程度、知ってるんですか ? 」 「まだそれほどは知らないようなんですけどね、大矢七郎っていうルボライター、ご存知で しょ ? あの人がいろいろ知っていて売り込んで来てるみたいなんです」 「知ってるって何をですか」 「児玉夫人の恋愛問題ですよ。郁也くんのことに結びつけて、それをやろうとしてるのね。 夜 教育とは、どういうことか。それを根本から考え直し、建て直すための捨石にするつもりだ の なんていってます」 うんぬん 雪 「教育を云々する前に親の生活の乱れを正せ、っていうんですね。教育を原点に戻して考え ようというんだな」 たた
182 その夜、円は上野の山の陰の、小さな鳥料理屋で修次と会った。わざわざ上野あたりを選 んだのは、局の人間の目につくことを警戒したからである。・ほくの方からお宅へ伺いましょ うかと修次はいったが、自宅ではいきなり坂口が現れる心配がある。上野の「鳥清」という その店は、円の学校友達が開いていて、自由が利く。 約束の時よりも二十分も早く着いて二階の小部屋で待っていると、時間きっかりに修次が 入って来た。 「また降ってきましたよ」 という頭に白いものが、ひとひらふたひら、まだ消えすに残っている。 「ごめんなさい、お天気が悪いのにこんな遠方へお呼びして。でも銀座や六本木は坂口さん が出没してるし、新宿も・の連中がよく飲んでるし、渋谷も危いし : : : とうとうこんな 所になってしまいましたの」 「いや、ぼくはどこでも結構です」 修次は穏やかにいって、円の向い側にあぐらをかく。改めて円を眺めて、 「どうしました ? 少しは気は鎮まりましたか ? 」 いくらか揶揄気味にいった。 「あら」 「さっきは大分、興奮してましたね」 とりせい
もちろん 「勿論だよ」 「だから、考えなくちゃ : 「考えることなんか何もないじゃないの。結婚しようというわけじゃなし、・ほくの二号にな れっていってるわけじゃなし、ただひと晩、お互いに楽しむだけだよ。君はディズニーラン トへ行こうといわれてもやつばり考えるのかい ? 」 「ディズニーランド ? ・」 円はふき出した。 ひゅ 「先生たら、ほんとに面白い比喩をお使いになるのね」 、ってことだ」 「要するに、その程度のことに思えばいし まわ 淳平は席を立って勘定をし、カウンターの電話を引き寄せてダイアルを廻した。 「もしもし、ああ、川崎くん ? ・ほくだ、加賀谷。今夜の原稿なんだけどね。明日にしてく れないか。今夜はよんどころない用事が出来ちまってね : : : うん、明日は大丈夫 : : : すまん : よろしくね」 その声を聞きながら円は先に階段を降りて行った。淳平はもうすっかりそのつもりでいる。 のそれがおかしかった。なんて、うぬ。ほれが強いんだろう。ことがはっきりしてから電話をか ければいいのに。 ふ 「淳平先生、先生は今までに女のひとに申し込みをして、断られたことって、一度もなかっ れたみたいですわねえ」