154 「昨日の四時頃のに乗ったんだ」 「昨日ーーこ 女はいった。 「じゃあ、昨夜は札幌に泊ったのね」 「うん」 「地図をちょっと見たらすぐわかることじゃないの ! 」 女はもう自分を抑えられなくなった。 「ここへ来るのに、わざわざ千歳から札幌へ行って一泊して、そこから汽車に乗って千歳 を通って五時間かけてここまで・ 女がいつもしつこく同じことをくり返すのは、二度と似たような過ちを犯させたくないか らだった。「うん」、「うん」というおざなりの返事ではなく、男に、「そうか ! そうだった のか ! オレってどうしてこうだろう ! 」という一一一口葉をいわせたいからだ。 つぐ 女は一一口葉を切った。口を噤んで食事をつづけた。男はコーヒーを一口飲み、言葉を切った 女の胸の中にトグロを巻いているものを察したように、 「いや、ホテルといったってね、君が泊るような高いところじゃないからね。一泊三千二 百円だよ、安いだろ ? ワはは : : : 」 大声に笑った。笑っているそのロを女は見まいとした。十年前からそのロには前歯がなく なっている。それを見るのが女はいやだった。
うがないんだよ。本当だというほか」 それも芝居だ、と思い決めることが一番簡単な筈なのに、それが女には一番難かしいこと あいさっ になっていた。金は焦げついた。からの挨拶が何もないのはおかしいとにいうと、間も なくお詫びのワインが二本届いた。やつばり金は本当にが必要としていたのだわと女はい った。だが大分経ってから、が仲に立ってのために金融業者から借りてやった金をは 使い込んだ。そのためには女のところへ頼みに来た、それが実情だと知らせる人がいた。 うそ 「どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが嘘なのか、その区別がわかっている間 はまだ幸福なんだよ」 よみがえ その一言葉がときどき、どこからともなく女の中に甦って来る。それはの一一一口葉なのか、 を評して誰かがいった一一一口葉なのか、それとも小説の中で、女がにいわせた一一一口葉だったのか、 女にはわからなくなっていた。 どこまでが本当でどこからが嘘なのか、その区別もわからなくなってしまった人間は、絶 ふちは 望の淵を這いずっているのか、あるいは何も感じないで、誰よりも気楽に生きているのか、 女にはそれもわからなかった。 が再建しようと努力していた株式会社エスプリはつぶれた。は事業をやめた。は仕 事がなくなった。 は女のところへ挨拶に来て、しかしの妻は長年の経験を生かして銀座の外れにク一フプ はず
「ええ」 「あのポーイ・ : : ・」 娘は一一一口葉を切ってママレードを乗せた。ハンを一口食べた。もしかしたら娘は、次の言葉を いい出しかねて、。ハンを食べることにしたのかもしれない。 「ポーイがどうしたの ? 」 「ママ、知らないでしよ」 娘はまた言った。母親をからかうロ調になっている。 「だから何のこと ? 」 娘はいった。 「あのポーイ、私にキスしたのよ : : : 」 まっすぐ 真直に母親を見た娘の目は笑っていた。 「ほら、石段を下りて行ったでしよ、あのとき、ママったら、いつものせつかちでどんど のん先へ行ったでしよ、あのとき、ポーイが突然、キスしたのよ」 の 娘はくり返した。 「ママったら何も知らないでさ、首ふりふり、得意そうに歩いてたわね : : : 」 マ 初めての経験をこんな形でーー母親をからかうという形で母親に告げる娘の心を母親は思 う。母親はいった。 「知ってたわよ、ママは」
93 電話の中の皿の音 もら みやげ の退職金を貰って停年退職した。そしてはその金を土産にの会社の重役に就任した。 はから、某大手企業からの数千万の発注書を見せられて、会社を信用したのだった。が 退職金をそっくり人れて重役になった翌々日に会社は不渡を出して倒れた。数千万の発注書 は、が某大手企業に勤めているイトコに無理やりに書かせた架空のものだった。その後、 は「おみくじ灰皿」を売って歩いている。 そのことについて女から詰られると、 co はぼつんと答えた。 「ウソだよ」 「ウソ ? ウソってどういうこと ? 」 はいった。 「ウソだよ : : : 」 「さんがウソをいってるっていうの ? え ? 説明して下さい。ウソならどうウソなの かいってよ」 「説明したって、どうせ信じないだろうからね」 「信じるわ。信じるからいって下さい : : : とにかく、いってみなさいよ」 は重い口を開いた。 : いえないよ」 「いえない ? どうして ? 」 「だってね。一一一口葉を順序立てて並べることが出来ないんだよ」
観察の眼を光らせて三人を眺めたが、何もわからなかった。 たちま 工藤の書いた「オリープ」は文芸誌に掲載され、認められて文学賞を受賞した。忽ち工藤 せき は忙しくなった。堰を切ったように書き出して、その年のうちに流行作家になってしまった。 私たちーー横地と山脇と神田は、相変らず七福で飲んでいた。飲みながら工藤の小説の悪 口をいった。工藤はもう七福へ姿を現さなくなった。 「お忙しいんでございますよ。工藤先生は」 とばあさんは誇らかにいった。 「日に三十回とか四十回とか、電話がかかるんですって、ねえ ? 母さん」 とオリープがいった。 「工藤さん、来たの ? 」 「いいえ、ああお忙しくては」 ばあさんは弁解するようにいった。 「でもこの間、雑誌社の方がお見えになりましてね。ここで工藤先生の写真を撮りたいか らとおっしやって : : : 何でも『思い出酒場』とかいう題の写真なんだそうでございますよ。 来週ーー」 「日曜日ですよ、撮影は」 とオリープが口を出した。 ばあさんとオリープは、「オリープ」を読んでいるのだろうか ? なが
「亭主は飛び去って借金だけが残るという結末になりました : : : 」 こも インタービュアの女を見つめる目に感情が籠るのを、女は笑顔で見返していた。 「それがわかった時、口惜しいとお思いになったでしようねえ : : : 」 「そう、丁度、そのことがわかった時、彼がア。ハ ートから着替えを取りに来たんです。そ の時、本棚の中のもの : : : 夫のノートやら本やら色んなもの、それをカ任せに床に叩きつけ ました」 女は声を上げて笑い、愉快そうに言葉を継いだ。 って怒鳴りました」 「こんなものさっさと持ってってよー 「するとご主人は ? 」 「黙って、拾って、持って行きました」 「黙ってですか ? 」 「そう、黙って : : : 」 インタービュアは一一一口葉を探すように口を噤んでいたが、やがて思い切ったようにいった。 「こんなこと申し上げるのは失社かもしれませんが、ご主人が偽装離婚の話を持ち出され た時、その時、もう、いたんじゃありません ? 女のひと」 うなず 女は肯いた。 「そうかもしれませんねえ。でも、考えてみたら、女が出来るのは当然かもしれませんわ ね。だってそうでしよう。一文なしになって男やもめ、寂しい生活ですよ。女房は借金と仕
あお 工藤はそういって、酒を呷ると、威張るようにいった。 「ばあさんはぼくに惚れてるんですよ」 「で、あなたは ? 」 「ぼく ? ぼくも無論・ といって少し考え、 うそ 「惣れてるといったら嘘になる。惚れてないといっても嘘になる。そんなところだな」 つぶや と独り言のように呟いた。 おなどし 工藤は私と同い年だったから、その時は三十を二つ三つ過ぎていた。山脇や神田と同じく 工藤にも定職はなかったが、妻がキャパレー勤めをして、その稼ぎで小学生の子供を養って いるという話だった。しかし工藤は私たちに子供の話をしたことは一度もない。 工藤の妻は小柄だが、なかなかの美人だと横地はいっていた。工藤がそんな美人を女房に しているとは思わなかった、と何度もくり返しいった。美人の上に、あの女はスキモノだよ、 といった。男なしではいられないってやつだ。どうしてそんなことわかるのよ、したことも ないのに。それがわかるんだな ( オレには。そういうことを口にするところが、まだ一人前 うわき でない証拠よ。 ・私と横地はそんなことをいい合った。しかし彼女が客と簡単に浮気をし ていることは事実だった。工藤はそれを知っていた。酔うと口にした。しかし工藤はそれを 知っているということを、妻には隠していた。 工藤は酒場勤めの妻の帰りを、毎晩ひそかにつけて歩く男の話を小説にしたことがある。
108 「でも。ハトロンの話はあることはあったんですね ? 」 女はを見た。 「私はまた出たらめかと思ってたんだけど」 「うーん、わかりませんねえ」 みな は考えを探る顔になった。その表情は女が見馴れた表情だった。のことを話す時、い つもはこの表情になった。 妻と別れるといえば、あなたが心を動かして金を出すと考えたのよ、と女の親友はいった。 。ハトロンの話なんて、はじめつからなかったのよ。 「そうね。そうかもしれないわね : : : いや、多分、そうだわ」 と女はいった。そう思うことがこの際、一番簡単だから。もしかしたらそうではないかも しれないと思いながら、それをふり払ってそう思い決めた。そう思い決めたとしても、何の 不都合も起きないのである。そう思う習慣をつけた方が平和を守れるのだ。 そう思い決めたとしても、は怒らないだろう。怒る資格のないことを沢山して来たから あきら 怒らないのではない。人の思い袂めに対しては諦めているからだ。 けれども女は、やはり本当のことを知りたいと思った。。ハトロンの話ははじめからまるで ない話だったのかもしれない。けれどもその話を考え出したにとっては、それは嘘ーー嘘 という一一一口葉で決められてしまうものーーーではなかったのかもしれない。もしもを問い詰め て無理やり口を割らせたら、ぼくは生きようとしただけだ、というかもしれない。 うそ
をあてこすられているような気がするのである。 妻の意見に対してぼくはたいてい、いつも何の意見も口にしなかった。ただぼくと妻の意 見が合うのは、片瀬は年子から巻き上げた金を何に使っているのだろう、という疑問だった。 年子と別れてからの片瀬はいつも定職がなく貧乏だった。見かねたぼくらが就職口を探した こともあったが、その都度片瀬は断って来た。身辺がまだ落ちつかないでいるからというの がその理由だった。落ちつかないというのは借金に責められているという意味らしかった。 だからこそ就職をして少しずつでも返して行けばいいんじゃないの、と妻は批判したが、就 職先の仕事をする余裕がないほど、借金に追いかけられているのかもしれない、とぼくは思 った。だがそれにしても、彼のいう「落ちつかない」状態はあまりに長すぎると思った。 むすこ ある年、ぼくらは年子の書いた「ぼんくら息子」という小説を読んだ。そしてそれによっ て片瀬の妻の連れ子が、大学を受験する年になったことを知った。連れ子は七つの大学を受 験して七つとも落第した。そのため予備校に人ることになったのだが、その予備校は有名校 で人学金が高額である。小説は片瀬がその金を年子のところへ借りに来た、という設定にな っていた。 「なんで、この私が、あなたのところの、ぼんくら息子のために : : : 」 小説の中の年子の分身はそういって絶句する。そこのところでぼくの妻は思わず吹き出し たが、すぐ鋭い口調になっていった。 「どうして年子さんは、くり返しくり返しいつまでも同じことを書くんだろう : : : 」
ともいった。女がそういうと男はロ早に、 「いやね、それがね、つまり、こういうことなんだ : : : 」 と一気にしゃべり始める。その急いた口調はそこから始まる女の反撃を押し止めようとす ごうまん るためだった。女はいつも傲慢な顔つきで男の説明を聞いた。男の一一一口葉に耳を傾けているわ けではなく、一「ロ葉の揚足を取って急所を刺す機会を狙っていた。しかし女がどんなに痛烈な 皮肉を放っても、男は蚊に螫されたほどにも感じず、女の皮肉に、「うワははは」と笑うの だった。 「やつばり君は才気があるねえ、こういうことをいわせれば君の右に出るものはないよ」 などといった。 はず そうして結局、女は男に返ってくる筈のない金を貸した。男が返すといった期日が過ぎて みなぎ 行くと、女の胸に上潮のように漲ってくるものがあった。男を罵倒する一一一一口葉が次から次から、 うわまわ 湧き出て来た。男にそれを投げつける快感は、金の損失を上廻るかとさえ思われた。 女のまわりの者は女が怒りながら男に金を貸すのを見て、よくよくあの男に惚れているの 男 ただ、といった。そういわれると女は胸がムカつくような不愉快を覚えた。 てまた別の友達は女のことを、気が強いくせに底ヌケのお人よしなのだと解釈した。 訪 「ああ見えて、心の底は優しいんだ」 と善意の友達はいった。女はどの解釈も気に人らなかった。人はどうして、こういちいち、 行為や心理に解釈をつけたがるのだろう。女にわかっていることは、男が女から金を引き出 ねら ばとう