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検索対象: マドリッドの春の雨
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1. マドリッドの春の雨

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2. マドリッドの春の雨

「口実だなんて、そんなんじゃないよ」 年子は片頽の言葉を無視した。 おに 「憶えてるでしようけどあなたがこの家を出て行く時、何もかもすっかり金に替えてしま ったのよ。今、この家にあるものはその後、私が働いて買ったものばかりだと思ってたけど、 たった一枚だけ、あのピカソが残ってたのね。あれはあなたが沼田さんから貰ったものだか ら、あなたのものだったのね。どうぞ。持ってけばいいわ。この家にあるもので、あなたが 自分のものだと思うものがあったら、何でも持ってけばいいわ ! 」 かす ふる 低い年子の声は徴かに慄えた。 「私の寝室に懸ってるから、外して来たら ? : : : 」 「そうか」 と片瀬はいった。いつもと変らない明るい声だった。 「じゃあ、見に行くかい ? 」 と片瀬はぼくを見る。 「外して来ればいいじゃない ? どうせ持って帰るんだから」 年子の言葉に、「うん、そうだな」といって片瀬は部屋を出て行った。 靴ぼくと年子はテープルを挟んで向き合ったままだ。、、 ほくは何の言葉もなかった。年子もま た同じ気持のようだった。 「三十年の間に私たちは変ったのに、あの人はキリストみたいに変らないわ」

3. マドリッドの春の雨

71 ひちふく ばあさんは待っていたように弾んで答えた。 きぐち 「建物は古うございますけれど、それは立派な木ロの邸で」 「あら、ママ、知ってるの ? 」 「はい、この前、編集の方、大勢お連れになって、ひょっこりおいでになりましてねえ。 ふろおけ ママ、風呂桶いらないか、っておっしやって」 たた 顔いつばいに笑みを湛えてばあさんはいった。 「お風呂場を改造なさるとかで、檜の風呂桶なんだけどいらないかっておっしやるもので すから : : : 」 「で行ったの ? 」 「はい」 ばあさんはオリープの方を見た。 「行ったのよね ? 二人でリャカーを引っぱって : : : 」 オリープがほうれん草を切っていた顔を上げて笑った。 「通りすがりの人、みんな見てましたわ。ねえ、母さん」 「そりゃあそうよ、今どき、リャカーに風呂桶乗せて引っぱってる人なんかいないもの」 よっや 「四谷から」 「ひどい風の日だったわねえ」 二人のように私は笑うわけにはいかなかった。 ひのき

4. マドリッドの春の雨

といい合った。 久しぶりで七福へ行ったのは、翌年の秋である。私用で新宿まで出た帰りに、私はふと思 い出して七福へ寄ってみる気になったのだった。 かえ さび ちょうちん 七福の提灯は新しくなっていたが、その新しい白さが却ってどこか寂しいのだった。くろ ぐろと「七福」と書いた字の反対側にやはり「ひちふく」と書かれていた。 ばあさんとオリープはカウンターの中にいた。客は眼鏡をかけた小男が一人いるだけだっ 「おやまあ、お久しぶりでございます」 はず 人って行った私に、、、 はあさんは弾んだ声を出した。 「この間テレビでお目にかかりましたわ」 とオリープがいった。 うれ 「皆さん、ご活躍でご立派におなりになって、わたくしたちも、ほんとによかった、嬉し いわねえといつも申しておりますんでございますよ」 ばあさんはいった。 うわさ 私たちは横地や山脇や南田の思い出話をした。私は工藤が最近、豪邸を買ったという噂を 思い出していった。 「工藤さんも偉くなったものねえ」 「そうなんでございますよ」

5. マドリッドの春の雨

8 せた。欲も得もないという、眠りの深さを思わせるイビキだった。男は何に奔走しているの か、いつも疲れきって帰って来た。いっか女はその奔走の理由を訊こうとしなくなっていた。 男の疲労に同情を抱いたことは一度もなかったといっていい。その頃の女には男の「疲労の 深さ」さえ許せなかったのだ。 男が何回も感動を口にした映画がある。はじめてその話を男から聞いたのは、渋谷の坂の 上のクラシックのレコードを聞かせるコーヒー店だった。汚れたガラス窓を太い雨が流れて おな いたうす暗い光景を女は憶えている。その映画の筋はこうだ。 いなか かけおち 一人の男が妻から逃げ出して田舎娘と駆落した。しかしやがて二人は別れ、田舎娘は女優 になって成功する。男は落ちぶれて食うや食わずの生活になっている。ある日、乞食になっ ている男をスターになった女が見つけた。彼女は男を自分の楽屋へ連れて来る。女は男を助 けたいと思いハンドバッグを開けて紙幣を出して渡す。だがそれだけでは足りないと気がっ いて、事務所へ金を借りに行く。女がいなくなると彼はハンド。ハッグを開けて、貰った紙幣 を戻し、五十セントを一個持って出て行く その話をする男の、いかにも生れのよさを語っているような、くつきりと深い切長の目の、 澄んだ輝きをそのとき女は美しいと思った。 「五十セントだけつまんでね、そして出て行ってしまうんだよ。いいだろ ? すばらしい だろ ? 見ていて涙が出たよ、ぼくは : : : これが男なんだよ、男というものなんだよ : : : 」 しぶや もら

6. マドリッドの春の雨

ジェットコースターや観覧車に乗っていた。 そんな生活の中で保名は婿養子に行った。相手は土地プームで大金持になった兼業農家の りちぎ 妹娘だった。。 へつだん出世しなくてもいい、律義に働き、財産を減らすようなことさえしな ければいいと養家先は考えている、と私は聞いたことがある。 結婚しても保名は以前と少しも変らず、七時に現れ、夜中の十一一時過ぎに小畑を送って来 て、それから千葉県の新居へ帰って行った。そのために保名は毎朝五時に起き、眠るのは二 時過ぎだった。新妻は朝も夜も寝ていた。保名はひとりで朝飯を作って食べ、夜は小畑の用 がない時間を見て、ラーメンやそばを食べているということだった。 げんか 私は保名の前で、平気で夫婦喧嘩をした。 「あなたをエライと思っているのは保名さんぐらいのものよ」 と喚いた。 ひざ 私が喚いている間、保名は、膝に両腕を突っぱって黙然と床を見つめていた。 倒産前夜ともいうべき頃、私は保名の車で、借金の申し込みやいいわけに走った。私も保 名もいつも無一言だった。今から思うと、その車のガソリン代は保名が負担していたのにちが いない。 うらないしみ 「占師に観てもらったら、社長の運勢は来年からよくなるっていったんです。社長は本来 なら天下を取る人だっていってました」 保名は一度だけ、保名の方からそう話しかけた。 わめ

7. マドリッドの春の雨

あかちょうちん 七福の娘のことを、私たちはオリープと呼んでいた。七福は酒場である。いわゆる赤提灯 といわれる店だ。 表に「七福」と書いた大きな長提灯が下っているのが妙に陰気くさかったのは、提灯の大 こうし」 くろず きさに比べて中の電球が小さかったためか、それとも板壁や格子戸が黝んで、あまり商売繁 じよう おもむき 昌とはいえない趣を見せていたためかもしれない。 提灯の表側の方には漢字で「七福」、裏側にひら仮名で「ひちふく」と書いてあった。 「ひちふくじゃない、しちふくだろう」 まじめ という客がいると、オリープは真面目に、 「ちがいます、ひちふくです」 といい張った。オリープの母親も、 「ひちふくでございますよ、お客さま」 と傍から娘の肩を持った。 「そんなら質屋はひちやかい」 「そうですわ。ひちゃ」 : 次は幾つだ ? 」

8. マドリッドの春の雨

なわれていなかった。 「工藤さん、ばあさんの気持を考えたことあるの ? 」 私は工藤に訊いた。 「ありますよ、それは。いつも研究してる」 と工藤は答えた。 「なんていい方をするのよ。哀れに思わないの ? 」 「哀れ ? 」 工藤は見下すような目を私に注いだ。 「ばあさんに訊いてごらんよ。哀れかどうか」 「じゃあオリープはどうなるの ? 」 「自分が哀れだったらいやだっていうだろう。子供じゃなし : : : 」 「それはそうだけど : : : 」 いんん 私は一一一口葉に詰った。工藤が愛しているのは淫奔な妻なのだ。私はそういおうとして、やめ た。それをいうと工藤が怒り出しそうな気がしたのだ。 ふ 多分、ばあさんもそれを知っているんだ、と私は思った。そしてそれでよいと思っている。 ち ひばあさんは自分が工藤の役に立たなければならないと思っている。ばあさんには工藤が必要 なのだ。 工藤に去られるのがいやさに娘を犠牲にしたのか。それとも娘の気持を察したのか。私は ぎせい

9. マドリッドの春の雨

192 ンの焦跡のついているズボンを穿き、腐りかけた魚を平気で食べるような男だったからだ。 その頃、我々の仲間は皆、貧しかった。若者が金を持っているのは不思議、という時代で もあった。我々はあてもなく街をぶらっき、道端で売っているリンゴを一つだけ買って、歩 まわ きながら食べ廻しをしたものだ。金持の息子なのに、いつも彼が一番金に困っていた。大学 の経済学部を出た後、就職するのがいやで、同じ大学のフランス文学科へ籍を置いた彼に、 苦学力行の士である彼の父は小遣いを与えなかったのだ。 うれ 彼は時々、母親のハンド。ハッグからチョロまかして来たという千円札を、嬉しそうにぼく らに見せた。また彼はよく、初版本の全集の末巻を古本屋に売っていた。それは彼の父の蔵 書だが、全集の末巻なんか、あってもなくても気がっかないものなんだ、といっていた。彼 そうこう の父は病床に臥せるようになり、つれづれに谷崎源氏を読み始めた。彼は蒼惶として年子の ところへ走って行った。亡父の遺した家に、母親と二人で暮していた年子の部屋には、やは り亡父の蔵書であった初版本の谷崎源氏があることを知っていたのだ。彼は年子からそれを 借りて、父の書棚に並んでいる源氏物語の末尾に並べた。そういえばあの谷崎源氏もあのま ま返って来てないわ、と彼と別れた後の年子は何度かいっていた。 しかしそんな彼は、何をしてもなぜか皆から許され、愛されていた。彼の母は、「しよう がない子だねえ」といって結局は許した。彼の母や兄妹は、彼の不始末が父の耳に人らない かば ように旺っていた。そしてぼくらの仲間はみな、彼に一目置いていた。文学論争をやって彼 せい に勝てた者は一人もいない。同人誌の批評会は彼の独壇場だった。切長の眼は澄みきって清

10. マドリッドの春の雨

「私は大阪生れですツ」 「大阪 ? 大阪でしか、そうでしか : : : 」 彼は少し失望した声でそういうが、すぐにもとの調子に戻って、 「それで私のお母さんではありませんか ? 」 「ちがうったらちがいますよ、この前の電話でも同じことをいいました。私とあなたとは 何のカンケイもありません ! 」 「では私と佐藤愛子さんはどういうカンケイでしか ? 」 「だから何のカンケイもないといってるでしよう ! あなたが勝手に電話をかけて来てい るだけですッ ! 」 ガチャン ! たた と、ここで受話器を叩きつけるように切る。このあたりまで来ないと切る気にならないの が自分でも不思議だった。 あの頃、私は疲れるということを知らなかった。いや実際に肉体は疲労していたのであろ うが、それを感じなかった。感じる力が麻痺していたというべきかもしれない。 私は日に五時間しか眠らなかった。毎月、百万円程度はどうしても稼がなければならない 事情にとり囲まれていた。その上、人目を忍ぶ恋愛もしていた。私と彼とはそう始終会える という状態ではなかったので、会うと何をおいてもまずセックスからはじめるのだった。 まひ