152 「じゃあ、おコーヒーを」 と手伝いがいった。 「ありがとう。じゃあコーヒーをもらうかな」 男はガラス戸の前から戻って来て、女と向き合ってテープルについた。 「今朝、早かったもんでね。札幌発七時五分の汽車だったんだ」 「札幌 ? 札幌に用があったの ? 」 「いや、そうじゃないんだけどね。札幌から乗ったのよ」 女は不思議に思った。 「千歳まで飛行機で来たんでしよう ? 」 「うん」 男はゆっくりコーヒーカップに口をつけた。 「千歳から札幌へ行ったの ? 車で ? 」 「うん」 「見物 ? 用事 ? 」 うらかわちょう 「それがね、交通公社で訊いたんだよ。浦河町へ行くにはどうすればいいかって。そうし たら札幌発七時五分の急行に乗るようにいわれたんだ」 女は食事の手を止めて男を見つめた。 「それじゃあ、わざわざ、千歳から札幌まで行ったの ? 七時五分の汽車に乗るため ちとせ
「うん」 「汽車に乗るためにわざわざ札幌くんだりまで行ったんですか ! 千歳から : : : 用もない のに ! 」 女はくり返した。 「うん」 女は大声になった。 「あなた、札幌は千歳から北の方よ。こっちは南ですよ。札幌発の汽車は千歳を通ってこ こへ来るのよ : : : 」 男は「うん」といった。 「うん」だって、あなた、わかってるのー かなきりごえ という金切声がロもとにこみ上げて来るのを女は抑えた。平らな湖面に小石が投げられた ように、平静だった胸の中に波紋が広がって行くのを女は感じた。それは十数年前には毎日 男 たのように渦巻いて、寸時も鎮まることのなかった切ない憤りだ。女はその波紋を鎮めるため てに口を噤んで、ゆっくり。ハンに。ハターを塗りつけた。男は黙ってコーヒーを飲み、手伝いに こら 訪向ってお代りを頼んだ。女は堪えきれなくなってまたいった。 「すると、あなたは何時の飛行機でこっちへ来たの ? 」 男はいった。 に ? 」
154 「昨日の四時頃のに乗ったんだ」 「昨日ーーこ 女はいった。 「じゃあ、昨夜は札幌に泊ったのね」 「うん」 「地図をちょっと見たらすぐわかることじゃないの ! 」 女はもう自分を抑えられなくなった。 「ここへ来るのに、わざわざ千歳から札幌へ行って一泊して、そこから汽車に乗って千歳 を通って五時間かけてここまで・ 女がいつもしつこく同じことをくり返すのは、二度と似たような過ちを犯させたくないか らだった。「うん」、「うん」というおざなりの返事ではなく、男に、「そうか ! そうだった のか ! オレってどうしてこうだろう ! 」という一一一口葉をいわせたいからだ。 つぐ 女は一一口葉を切った。口を噤んで食事をつづけた。男はコーヒーを一口飲み、言葉を切った 女の胸の中にトグロを巻いているものを察したように、 「いや、ホテルといったってね、君が泊るような高いところじゃないからね。一泊三千二 百円だよ、安いだろ ? ワはは : : : 」 大声に笑った。笑っているそのロを女は見まいとした。十年前からそのロには前歯がなく なっている。それを見るのが女はいやだった。
192 ンの焦跡のついているズボンを穿き、腐りかけた魚を平気で食べるような男だったからだ。 その頃、我々の仲間は皆、貧しかった。若者が金を持っているのは不思議、という時代で もあった。我々はあてもなく街をぶらっき、道端で売っているリンゴを一つだけ買って、歩 まわ きながら食べ廻しをしたものだ。金持の息子なのに、いつも彼が一番金に困っていた。大学 の経済学部を出た後、就職するのがいやで、同じ大学のフランス文学科へ籍を置いた彼に、 苦学力行の士である彼の父は小遣いを与えなかったのだ。 うれ 彼は時々、母親のハンド。ハッグからチョロまかして来たという千円札を、嬉しそうにぼく らに見せた。また彼はよく、初版本の全集の末巻を古本屋に売っていた。それは彼の父の蔵 書だが、全集の末巻なんか、あってもなくても気がっかないものなんだ、といっていた。彼 そうこう の父は病床に臥せるようになり、つれづれに谷崎源氏を読み始めた。彼は蒼惶として年子の ところへ走って行った。亡父の遺した家に、母親と二人で暮していた年子の部屋には、やは り亡父の蔵書であった初版本の谷崎源氏があることを知っていたのだ。彼は年子からそれを 借りて、父の書棚に並んでいる源氏物語の末尾に並べた。そういえばあの谷崎源氏もあのま ま返って来てないわ、と彼と別れた後の年子は何度かいっていた。 しかしそんな彼は、何をしてもなぜか皆から許され、愛されていた。彼の母は、「しよう がない子だねえ」といって結局は許した。彼の母や兄妹は、彼の不始末が父の耳に人らない かば ように旺っていた。そしてぼくらの仲間はみな、彼に一目置いていた。文学論争をやって彼 せい に勝てた者は一人もいない。同人誌の批評会は彼の独壇場だった。切長の眼は澄みきって清
「別れた女房が、なんで、今の女房の連れ子のために金を出さなきゃならないの ! え ? その理由を聞かせてよ ! 」 わめ 彼女は喚く。 「あなたという人は、私を怒らせないで金を出させるウソを考えることさえしようとしな いのね ! 失礼じゃないの ! 」 散々罵った末に彼女は男に金を投げつける。 「持って行きなさいよ。返していらないわ ! あげるわよ ! 」 「すまん」 といって、男は散らばった一万円札を集めて帰って行く。 年子はなぜ別れた男に金を出すのか、それは年子の優越感だ、とぼくの妻は分析した。あ の人は自尊心を満足させれば平気で損を引っかぶる人なのよ、と妻はいった。片瀬さんにす つかり呑み込まれているんだわ。同情では出さないけど、怒らせれば金を出すのよ : : : だか ら片瀬は、わざとそんな非常識な理由を作った。年子は怒りながら片瀬の正直さに打たれて しまう。でもね、と妻はしたり顔にいうのだった。そのお金は果して本当に連れ子を引き取 るためのものかどうか、わからないわね ? 靴ぼくの妻もかっては年子や片頽の文学仲間だった。自分の才能を自負していた時代もある のだが、ぼくと結婚したことで生活に追われ、いっかその志はなしくずしに消えてしまった。 だから妻が、職業作家になった年子を痛烈に批評するのを聞くと、ぼくはまるでぼくの無能
男が昔、君が好きだったからといって手土産に持って来た菓子が、今は贅沢に馴れた女のロ には合わなくなっているためだったり、男の歯の抜けた笑い顔を見たためであったり、彼が 十五年前の背広を着ているためだったりした。女の中にうごめき始めたものは次第に膨張し、 女は迷い出す。テレビに出て他愛もないことをしゃべって手にする金の額が頭に浮かんでく る。友達と飲み食いしてあっという間に消費する金額を思い出す。どうして人間というもの は助け合わないんだろう、といっかいった男の言葉が思い出されてくる。 女は居間の人口に立って、テープルの上に鞄を置いて雑誌やシャツを詰めている男を眺め た。手伝いの作ったサンドイッチの包みをどこへ納めようかと考えている。 女は居間を出た。何かに追いかけられているような、せつば詰ったような足どりで、寝室 ノンド・ハッグを開けると紙人がある。紙 に人った。ドレッサーの上にハンド・ハッグがある。 人の中にどれくらい金が人っているか、女は忘れている。女は紙幣を数えた。一万円札が十 八枚あった。女はその十枚を封筒に人れた。女はそれを持って居間に戻り、投げるように男 の前に置いた。 「これあげるわ。あげるから、靴を買ってちょうだい。お願いだから : : : あの靴をもう履 かないで : : : 十万円あったら買えるでしよう ! 」 けんかごし 早口に女はいった。まるで喧嘩腰だった。その顔を男は見、手の紙幣を眺め、泣き笑いの ような顔になった。 「すまん」 ぜいたくな
122 ひとし 小畑の会社が軌道に乗り始めていた頃の「社長付運転手」に宮地等という青年がいた。す らりと背が高く、若々しいハンサムだった。自分がハンサムであることを意識していて、ス すがすが ポーツ刈りの項をいつも清々しく手人れしていた。 「ぼくは社長のためなら命を投げ出せると思いますよ、本当です : : : 」 宮地は運転しながら、私にそういったことがある。彼はその頃「社長夫人」だった私を、 時々車に乗せた。 「ぼく、社長が好きなんです」 あだち むすこ と宮地はいった。宮地は足立区の大きな寺の息子で、グレて高校を中退し、手を焼いた親 から頼み込まれて、小畑が会社の運転手に雇ったのだった。その頃十九歳くらいだった。 小畑の会社が経営困難になって、金繰りに追われるようになると、宮地は寺の住職である だま 父親を欺して金を引き出して来た。しかし、はじめのうちは息子の立ち直りを喜んでいわれ るままに金を出していた父親も、だんだん渋るようになる。その日のうちに決済しなければ ならない手形に小畑が苦しんでいると、宮地は黙って勤務中に姿を晦ました。そして暫くす ると一万円札を十数枚持って帰って来た。 「急いでイツ。ハツやって、貰って来ました」 と宮地はいった。宮地は母親ほどの年の美容師のところへ行ったのだった。彼は十五の年 にその女と関係があった。父親に知れて手を切っていたのが、会社の金繰りのためによりを 戻したのだ。 うなし ころ ころ