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検索対象: マドリッドの春の雨
199件見つかりました。

1. マドリッドの春の雨

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2. マドリッドの春の雨

「口実だなんて、そんなんじゃないよ」 年子は片頽の言葉を無視した。 おに 「憶えてるでしようけどあなたがこの家を出て行く時、何もかもすっかり金に替えてしま ったのよ。今、この家にあるものはその後、私が働いて買ったものばかりだと思ってたけど、 たった一枚だけ、あのピカソが残ってたのね。あれはあなたが沼田さんから貰ったものだか ら、あなたのものだったのね。どうぞ。持ってけばいいわ。この家にあるもので、あなたが 自分のものだと思うものがあったら、何でも持ってけばいいわ ! 」 かす ふる 低い年子の声は徴かに慄えた。 「私の寝室に懸ってるから、外して来たら ? : : : 」 「そうか」 と片瀬はいった。いつもと変らない明るい声だった。 「じゃあ、見に行くかい ? 」 と片瀬はぼくを見る。 「外して来ればいいじゃない ? どうせ持って帰るんだから」 年子の言葉に、「うん、そうだな」といって片瀬は部屋を出て行った。 靴ぼくと年子はテープルを挟んで向き合ったままだ。、、 ほくは何の言葉もなかった。年子もま た同じ気持のようだった。 「三十年の間に私たちは変ったのに、あの人はキリストみたいに変らないわ」

3. マドリッドの春の雨

そろ 揃って女を訪ねて来て事情を述べて懇願した。が新しい女と暮していることが女にわかっ た後も、同じようにとはやって来た。は女に無断でしい女を人籍していた。それが 女にわかった後も同じだった。 いやみ ののし 女はに厭味をいい、を罵った。そして罵らせてもらったことの代償のように金を出し まれ あいさっ た。金は期日に返ってくることは稀だった。返済の期日が来て、挨拶のないままに一日二日 と過ぎて行くと女の胸は轟いた。その轟きの中には、に向って憤怒することへの楽しみが あった。たまに期日通りに金が返ってくると、ほっとするのと同時に気が抜けて失望した。 ある日、は突然女の家へやって来た。そしてこういった。 「ぼくが今日来たのは、君は、ぼくが君を甘く見て、ぼくが頼みに行きさえすれば金を出 すと思っている。うぬぼれている。あるいは甘ったれているーーーそう思っていると聞いたも んだから、それが心外なので来たんだ。ぼくは決してそんなことを思ってやしないよ。ぼく はね、君は大人物だと思ってるんだ。正当な理由を認めれば、必ず金を出す人だと思ってい : だから る。惚れたはれたの問題じゃない。損得じゃない。君のような女はいないんだよ・ 来るんだ」 何のためにがそんなことをいいにわざわざ来たのか、女にはわからなかった。の声の 調子は重々しく感動的だった。の顔は沈痛で誠実そのものだった。は芝居をしているの か ? 本音を語っているのか ? 女は黙っての一「ロ葉を聞いていた。女をナメているから金 を借りに来るのではなくて、大人物だから来るのだといわれても、金を出させられることに とどろ

4. マドリッドの春の雨

「私は大阪生れですツ」 「大阪 ? 大阪でしか、そうでしか : : : 」 彼は少し失望した声でそういうが、すぐにもとの調子に戻って、 「それで私のお母さんではありませんか ? 」 「ちがうったらちがいますよ、この前の電話でも同じことをいいました。私とあなたとは 何のカンケイもありません ! 」 「では私と佐藤愛子さんはどういうカンケイでしか ? 」 「だから何のカンケイもないといってるでしよう ! あなたが勝手に電話をかけて来てい るだけですッ ! 」 ガチャン ! たた と、ここで受話器を叩きつけるように切る。このあたりまで来ないと切る気にならないの が自分でも不思議だった。 あの頃、私は疲れるということを知らなかった。いや実際に肉体は疲労していたのであろ うが、それを感じなかった。感じる力が麻痺していたというべきかもしれない。 私は日に五時間しか眠らなかった。毎月、百万円程度はどうしても稼がなければならない 事情にとり囲まれていた。その上、人目を忍ぶ恋愛もしていた。私と彼とはそう始終会える という状態ではなかったので、会うと何をおいてもまずセックスからはじめるのだった。 まひ

5. マドリッドの春の雨

「ダメ。無人島に漂流したのよ。他に女はいないのよ」 「いいよ。オレはマスをかくーー」 私は笑いこけた。 五年経ったが私たちは相変らず七福で酒を飲んでいた。三年のうちに私たちの仲間の何人 もら かが、七福へ来なくなっていた。小説が認められて賞を貰ったり雑誌社から注文が来るよう かわもう になると、七福へは来なくなる。小説が認められないので、金儲けをするために来なくなっ た者もいる。 「南田先生はようございましたねえ。このたびはまた立派な賞をお貰いになって」 ばあさんは文学賞を取った南田のために祝福したが、私たちは賞を取った南田の作品をけ なした。 ある日、工藤が短篇小説を書いたといって私に見せに来た。「オリープ」という題名だっ 「オリープ : : : まさか、あのオリープじゃないでしようね」 私がいうと、 「あのオリープだよ」 と無造作に工藤はいった。 小説の中のオリープは、「質屋」を「ひちゃ」という女だった。「ひちゃ」じゃない「しち や」だろうといくら客がいっても折れて来ない。母親の飲み屋を手伝っているが、愛想がな た

6. マドリッドの春の雨

192 ンの焦跡のついているズボンを穿き、腐りかけた魚を平気で食べるような男だったからだ。 その頃、我々の仲間は皆、貧しかった。若者が金を持っているのは不思議、という時代で もあった。我々はあてもなく街をぶらっき、道端で売っているリンゴを一つだけ買って、歩 まわ きながら食べ廻しをしたものだ。金持の息子なのに、いつも彼が一番金に困っていた。大学 の経済学部を出た後、就職するのがいやで、同じ大学のフランス文学科へ籍を置いた彼に、 苦学力行の士である彼の父は小遣いを与えなかったのだ。 うれ 彼は時々、母親のハンド。ハッグからチョロまかして来たという千円札を、嬉しそうにぼく らに見せた。また彼はよく、初版本の全集の末巻を古本屋に売っていた。それは彼の父の蔵 書だが、全集の末巻なんか、あってもなくても気がっかないものなんだ、といっていた。彼 そうこう の父は病床に臥せるようになり、つれづれに谷崎源氏を読み始めた。彼は蒼惶として年子の ところへ走って行った。亡父の遺した家に、母親と二人で暮していた年子の部屋には、やは り亡父の蔵書であった初版本の谷崎源氏があることを知っていたのだ。彼は年子からそれを 借りて、父の書棚に並んでいる源氏物語の末尾に並べた。そういえばあの谷崎源氏もあのま ま返って来てないわ、と彼と別れた後の年子は何度かいっていた。 しかしそんな彼は、何をしてもなぜか皆から許され、愛されていた。彼の母は、「しよう がない子だねえ」といって結局は許した。彼の母や兄妹は、彼の不始末が父の耳に人らない かば ように旺っていた。そしてぼくらの仲間はみな、彼に一目置いていた。文学論争をやって彼 せい に勝てた者は一人もいない。同人誌の批評会は彼の独壇場だった。切長の眼は澄みきって清

7. マドリッドの春の雨

しわす けんとう 師走の夜、男は旅館の軒灯を見つめて何時間も立っている。いったい何のために立っている のか、その意味を考えたり、またそれを考えることの無意味さに気がついたりしながら立っ ている。やがて妻は男と出て来る。老人だったり、中年男だったり、見るからに金のなさそ うな学生ふうの男だったりする。立っている夫の前をすれすれに妻が男と歩いて行くことが かす にお ある。シャンプーの徴かな匂いが鼻先をかすめる。その時彼は妻がそこに夫が立っているこ とを知っているような気がする。すると突然、彼は欲情して勃起する。 彼は家の近くの屋台で酒を飲み、酔っ払って帰づて来る。妻はもう寝床の中に人っていて 「また飲んでたのオ」と甘えた声を出す。妻は夫に甘える仕種をするのが好きなのである。 「抱いてよオ、抱いて、抱いて」 ふとん と布団から足を出して畳を蹴ったりする。 男と寝て来たばかりなのに、妻は傍に寝ている子供が目を醒ますような乱れかたをする。 もも やすせつけん 妻の腿の付根に客がつけたキスマークがある。その上を夫は力いつばい吸う。安石驗の匂い 立っ妻の陰毛に鼻先を埋めて、彼は奥の方に精液の匂いを嗅ぎ取る たず 私は工藤に七福のばあさんの年を訊ねたことがある。 ふ 「知らないなあ、幾つなのか」 ち ひ工藤はひとごとのように答えた。 「訊いたことないの ? 」 「ああ」 につき

8. マドリッドの春の雨

63 ひちふく 私がいうと山脇は不服そうに、 「だって面白いじゃないか」 といった。 「工藤とやる時、ばあさんは必ず風呂へ人るんだってさ。風呂から出ると鏡台前で化粧し て、かつらをかぶるんだってさ」 「よしなさいってば、残酷ね」 といいながら、私は好奇心を燃やした。そんな日が自分の上に来るとは思っていなかった から、私は平気で「残酷ね」などといえたのだ。山脇はいった。 「そのうちに夢中になって行くと、かつらがだんだんずれて行くんだね。かつらの下から ぎわ 徐々に白髪のまだらの生え際が出て来るんだってさ」 思わず私は笑った。 「なまじいかつらなんかかぶらない方がいいのに」 「しかし、かぶらなければハゲが出てくるんだよ」 私は調子に乗っていった。 「かつらがずれて行くのと、ハゲが出てくるのと、どっちがいや ? 男としては」 「どっちもいやだよ」 「でも、どっちかを選ばなければならないということになったら : : : ? 」 「選びたくないね、どっちも」 ふろ

9. マドリッドの春の雨

205 靴 が、あるいは顔が、どんなふうに彼の頭の中に浮かぶのか : : : 金を持っていそうないろんな 人の顔がまず浮かんで、順々に消されて行った後、最後に私の顔が残るーー、そんなプロセス なのか、それとも顔を上げればいつもそこにある壁の絵みたいに私の顔が懸っているのか・ : それから彼は家を出て電車に乗る。私の家へ向う。どんな気持で、かっては自分の家だっ わき たその家の、門のチャイムを押すのか。十五年前はチャイムなんか押さないで、門の脇のく かぎ ぐり戸を開けて出人していた。そのくぐりには鍵なんかかかっていないんだけど、今はチャ イムを押して、インターホンに名前を告げてから人って来るーーその時、彼はどんな気持で 人って来るのか。彼の顔は、いつも晴々している。晴々しさを作っているのではなくて、心 そこ晴々してるように見える : : : 」 「うん」 と、ほくはいった。そういうほか、何の一一一「葉も出て来なかった。 「私は『どうぞ、こちらへ』っていう。以前は茶の間で話したものだけど、わざと応接間 へ通す : : : それで私の意志を示してるつもりなの」 「意志を示しているつもりだけど、そのうちに意志は砕けてしまうというわけだね ? 」 年子がムキになって来たので、仕方なくぼくは冗談めかしていった。 「そうなの : : : 」 年子はぼくの冗談には乗ろうとせずに、真顔をぼくに向けた。 「なぜだと思う ? 野上さん : : : 」

10. マドリッドの春の雨

くり消して行った。 この町の人間でトクを知らない者はいない。トクは太鼓の名手である。 「たとえどんな人間でも、なんかひとつはトリエというもんを持ってるもんだな」 と町の人はいった。都会を嫌ってこの町へ来た女は、人から「足りない」といわれている トクが好きだった。 祭の季節が来るとトクは元気づいた。・ へつに頼まれるわけではないのだが、あちこちの祭 たた おを 礼に太鼓を叩きに出かけて行く。トクは各集落の祭礼の日にちだけはよく憶えていた。 女の家は百戸ばかりの漁師の集落の、背後の山の上にある。集落の外れの沢に沿って登っ て行くと、道はくの字に曲って沢は開けて牧草地となり、右手に海がせり上ってくる。牧草 地が終って小高い丘にさしかかるところで、強引につけた急坂を上りきると、女の家の丸太 の半割りをぶつけただけの、大きな門扉が開いている。 その日は下の集落の祭礼でトクが太鼓を叩く。女はそれを聞きに行くとトクと約束してい た。この町では九月はもうすっかり秋である。女は南の窓に向って食卓についていた。南の あきびより はりえ 男 窓からは海が見える。穏やかな秋日和の海は、子供の貼絵のように陰影のない一色の青だ。 き て窓と海との間には、木のないだだっ広い庭がある。 ( それは庭というよりは空地という趣の しら 訪ものだが ) 、海は太い丸太の門柱や、その足もとの雑草や、雑草に埋もれかけている低い白 かば 樺の垣根などの上にせり上っている。 その海と庭の間に突然、力いつばいエンジンをふかす音と一緒に、カープを切って車が人