と私はいっただけだった。前の私なら、「そう」とだけいってすませはしなかっただろう。 一瞬男を突き刺しえぐる言葉を空中から掴み取り、間髪人れず投げつけただろう。 「そう」 とだけいったのは、我慢したからではない。男を突き刺さずにはいられない情熱は私の中 から消えていた。私はそのことを意識した。 「そう」 といったときの私の声が、作った冷やかさをもっていたか、気落ちした静けさであったか、 私にはわからない。 「二月の声を聞いてかえって寒さが骨身にこたえるようでございます。 去年の春、東京大学法学部に合格し、津川武一と津川文義が邪魔して人学できませんでし た。その前の年に東京大学文学部に合格し、マルクスをやるといったら津川武一と津川文義 が邪魔します。佐藤紅緑と川口松太郎がプロレタリアですか、私は共産党を賛美する文学が プロレタリアだとききましたが、現代国語水準表にはプロレタリアを民衆文学と大衆文学と をプロレタリアだと書いてあります。 小田切孫一先生にマルクスをやればよいといわれましたが、やはり東京大学に『復学』し てプロレタリアをやりますから、東京大学に『復学』させて下さい。 敬具」
175 訪ねてきた男 「なんぽか貰うわけでもないのにな」 漁師はテ一フスに坐っている男の後姿に目をやっていった。 「東京のお客さん、もう来たのかい」 「ううん、ちがうの。あの人は別よ。昨日来たの」 「そうかい。そんなら、昨日、魚持って来てやればよかったな。食わせるもんあったのか 「あったわ。この前もらったカニとか、ナナッポシとか」 「あんなナナッポシ食わせたのかい」 「あら、でもおいしかったわよ。東京の鯛、食べるくらいなら、ここのナナッポシの方が おいしいもの」 「気の毒にな。いえばイカの刺身くらい持って来てやったのに」 漁師の車が坂を下りて行くのを見送って女はテラスに戻った。 「聞いた ? 」 女は男に笑いかけた。 「三日前にくれたイワシをお客さんに食べさせたって驚いてるのよ」 男は訊いた。 「今日、誰か来るの ? 」 「そうなの、二時に着く飛行機で。ここへ着くのは五時頃になるわ」 たい
はるあめ マドリッドの春の雨 さとうあいこ 佐藤愛子 一平成元年一月二十日初版発行 平成一一年六月三十日再版発行 発行者ー角川春樹 一発行所ーー株式会社角川書店 東京都千代田区富士見一一ー十三ー三 8 編集部 ( 〇一一 l) 八一七ー八四五一 営業部 ( 〇一一 l) 八一七ー八五二一 庫 〒一〇一一振替東京③一九五二〇八 文 印刷所ーー大日本印刷製本所ーー文宝堂製本 角一装幀者ーー杉浦康平 ~ 落丁・乱丁本はお取替えいたします。 一定価はカ・ ( ーに明記してあります。 P ュョ & in Japan さ 5 ー 15 ISBN4—04— 135927 ー 9 CO 193
に、女はテープルの上の権利書にも地図にも目を向けようとしなかった。男は女の顔色を窺 いながらいった。 「オレももう五十の声を聞いたからね。もうここいらで生活を一新しなければと思うんだ よ。生きて来た証というようなものをね、残して死にたいんだよ」 女は黙ってポールに盛り上ったとうもろこしの実を手でまぜた。 「ぼくにとって生きて来た証といえば、やつばりものを書くということなんだな。ひとっ でいいんだ。ひとつでいいから書き残したいんだ。書きたいものがあるんだよ。ずーっとあ っためて来たテーマがある。それを書き上げて、そして死にたいんだ。このままでは死にき れないんだよ : : : 」 「それはわかるわ」 女はいった。 「死にきれないという気持はわかります」 「だろう ? わかるだろう ? だからね」 男 男の声は少し大きくなった。 て 「ぼくはこの土地を売った金を持って田舎へ引き籠ろうと思うんだ。東京の生活を一切、 ね 訪断ち切りたい。そうしなければものなんかとても書けない生活だからね。今までだって何度 5 も書く生活に戻ろうとしたんだよ。だがダメなんだよ : : : 思いきって東京からいなくならな ければ不可能なんだよ」 あかし いなか うめか
キの薄い、カの抜けた字である。 「梅天陰鬱の候、 毎日うっとうしいお天気が続きます。 私は先月そちらに伺いましたが、お母さんは不在でしたので帰りました。 そちらで一か月十万円、し送りするというので安心しました。 黒のジャン。ハーは暴力団が着用するので、今度から気をつけます。上海風呂にはいってい ないので安心して下さい。 『どこの女かわからない女と肌をあわせるのは最低の事です』を念頭に人れているので安 心して下さい。 『三島由紀夫の遺言』 ( 新潮社 ) に三島由紀夫が『氷点』を書いて、僕が主人公だと書い ひろさき てあります。東奥日報とサンケイ新聞に『弘前の少年放棄』とのっています。『杜美子おか あさん』が松山容子にだまされて放棄しています。それで百億円送ってきて『春風園ハイ ッ』を東京の目黒に建立しました。それを酒井和歌子が横領していますが、そこに私をおい て、東京の大学にかよわせて下さい。『氷点』の印税は『八十億円』だそうです。 このごろ勉強が進むようになりました。今年の勉強は『問題解決の技術』と『ねずみ色』 と『スンジ』と『最新版』と三種類やると『青山学院大学』と『国学院大学』とに九分九厘 合格すると思います。『中央図書』の本を全部やると『立教大学』に首席で上がるそうです。 しかし『東奥日報模疑試験』がなくなるので東奥日報模疑試験に名前を載せて大学受験する いんうつ シャンハイぶろ
新しいとうもろこしを手にして女はいった。 「奥さんはどうするの ? 」 男の妻は東京でメン。ハー制のクラブの雇われマダムをしている。男はいった。 「ぼく、ひとりで行く」 「それは奥さんも承知してることなの ? 」 「承知するだろうと思うよ」 「まだ話してないの ? 」 「うん」 女は静かにいった。 しんせき 「でも、そのためのお金を、なぜ私が出さなくちゃならないの ? あなたの親戚はみんな 大金持なのに」 「おふくろや兄貴が理解するわけがないだろう ? 君にこんなことを頼める義理じゃない ことはよくわかってる。けれどね : : : 殺し文句だととられるかもしれないけれど、君なら、 わかってくれる人だと思ったんだ。こういうことがわかる人間は、君しかいないんだよ。ほ んとうだよ」 「どうして ? 」 女はとうもろこしに目を落したままいった。 「私だってわからないわ。私だってあなたのお母さんやお兄さんと同じよ : : : 誤解しない
「多分 : : : その両方が人り混ってるんだろうな」 仕方なくぼくはいった。今更、そんなことを追及してもしようがないじゃないか、という 気持だった。 「君の小説、読んだよ。北海道へ彼が行った話」 たばこ ぼくは煙草に火をつけ、話題を変えた。年子は、 「ああ、あれ ? 」 といってから、苦笑するような笑いを見せ、 「ダメなのよ」 と吐き出すようにいった。 「彼のことを書くと、簡単に纏まっちゃうのよ。話のオチがちゃんとついてしまうの、そ れが困るのよ」 「あの小説の最後の方で、東京の街中で男を見かける場面があるだろう ? すると男は新 しくはないけれど、ポロじゃない靴を履いている : : : 」 ぼくはいった。 「あすこを読んだ後で考えたんだ。これは事実かフィクションか」 靴「事実よ」 年子はいった。 「事実だけど、なぜ彼は北海道へ来るのにポロの方を履いて来たのか、そのわけはわから まと
と男はいった。 おやじ 「あの靴屋の親爺がね、死んじゃったんだよ。あいつはうまかったんだけどねえ : : : 」 と男はいった。 秋の終り、女は東京へ帰って来た。 ある日、女は女友達の車に乗って街へ出た。信号待ちの横断歩道を男が歩いていた。 「あら、彼ーー・」 と女友達が見つけた。 男は小ざっぱりした茶色のズボンに黒いセーターを着ていた。理髪店から出て来たばかり のような、光る頭をしていた。女は男の靴を見た。女が一度も見たことのない黒い靴だった ( つや カかと しかしそれはどう見ても新品の艶ではなかった。少くとも二、三年は履いている。左の踵の 後ろが少し内側に減っていた。 男 「福井の山寺へ行くんじゃなかったの」 てと女友達が冷やかにいった。男の姿が歩道の人混みの中に消えてしまうまで、女は男を見 訪送っていた。女の夏の家 ( 行こうと考えて、十年前の古靴を下駄箱の奥から取り出している 男の姿を女は想像した。 女は笑い出した。
198 くたり 読み終えて、ぼくは思った。東京の街頭で、男がポロではない靴を履いていたという件は フィクションだろうか、事実だろうか、と考えた。フィクションだとしたら、うまくめ過 ぎていると思った。しかし事実だとしたら、と考え、やはり簡単に纏め過ぎたと思った。 こたっ その小説を読んだのは初冬の炬燵でだった。その翌年の初夏、ぼくは急死した沼田の葬儀 で年子と会った。沼田は首を縊って死んだのだった。ぼくはその報らせを年子から電話で受 けた。 「沼田さんが自殺したのよ : : : 」 と年子がいった時、なぜか反射的に片瀬のことが頭に浮かんだ。これまでにぼくは、片瀬 が自殺したという報らせの電話が、年子からかかって来る想像を何度かしていた。その想像 の中の年子は、今と同じように強い響の、怒ったような声でいうのだった。 「陽介が死んだわ ! 自殺よ ! 」と。 数億の債務を背負って破産したという片瀬が、ヴァイオリンを抱えて神田の歩道を歩いて いるのとばったり出会ったことがある。 「誰か、ヴァイオリン買う奴、いないかね」 そういった片瀬の顔に、いつもと少しも変らない人懐こい笑いがひろがっているのを見た していた。その痙攣につれて小さな水泡が次々に湧き出て来て、。ハチン。ハチンと割れていた。 やっ
とも破れて、丸い爪先のところだけなぜか丸くふくれ上がって木靴のようにこわばり固まっ ていた・ : : ・」 その靴を見てしまったために、女は急に心弱くなってハンド。ハッグの中からあり合わせの 金を掴み出して男に渡してしまう。このお金で靴を買って頂戴、という。男はその金を数え もしないでポケットへ人れ、 「すまん」 という。 小説はここで終りではない。秋の終りに東京へ帰って来た女主人公は、繁華街の横断歩道 を渡って行く男を、友達の車の助手席から見る。そして女は彼があの靴ではない黒い靴を履 いているのに気がつく。しかしその黒い靴は新品ではなく、履き馴らされていくらか傷んで いる。女の目には少くとも二、三年は履いているように見える。 「『福井の山寺へ行くんじゃなかったの』 と女友達が冷やかにいった。 男の姿が歩道の人混みの中に消えてしまうまで、女は男を見送っていた。女の夏の家へ行 こうと考えて、十年前の古靴を下駄箱の奥から取り出している男の姿を女は想像した。 靴女は笑い出した。 『何がおかしいのよ』 みぞおち けいれん と女友達がいった。いっかもこんなふうに笑ったことがある。鳩尾のところが徴妙に痙攣