「ひち」 あいきよう オリープは答えた。オリープはあまり愛嬌のある方とはいえなかった。オリープという渾 名は、ポ。ハイ漫画のオリープから来ている。 七福のカウンターは字型に正面の壁にくつついていて、その中にオリープと母親が人っ ている。店の土間は意外に広くて自転車の二、三台も置けるほどの余地があった。左手向う がまち 角の上り框に階段が見えていて、二階に部屋が三つあった。あまりないことだが、忘年会の まっすぐ ふさ 季節などには数日、二階が塞がる。そんな時、オリープは薄くて真直な長い胴をぎごちなく 折り曲げて、カウンターの下を何度もくぐるのだった。カウンターの下をくぐって来る時、 くび オリープの頸がプロントサウルスという恐竜の一種のように、くねくねと長いのが目立っ / その頃オリープは幾つだったのだろう。二十七、八か、あるいは三十を遥かに越えていた のかもしれない。 「どうもオリープにだけは手を出す気がしないな」 はず 何かの弾みでオリープの話が出ると、決って横地はそういった。 かわい 「オレはあの女を見ていると、何だか可哀そうな気持がしてくるんだ。じゃあなにが可京 ふそうかといわれるといえないんだけどね」 やまわき ひ と山脇がいった。 「あれは処女かね」 「うーん、もしかしたら、そうかもしれないな」 よこち はる あが
それゆえに氏素性のよさを感じさせるもの腰は、どこで身についたものなのか、それは自 に滲み出てくるものか、意識して固持しているものなのかよくわからない。 ばあさんは私たちのような無頼の小説家の卵を「先生」と呼んだ。横地も山脇も工藤もっ も、「先生」だった。横地は定時制高校の教師をしていたから「先生」と呼ばれることにⅧ しり れていたが、私や山脇や工藤は尻こそばゆい思いをしながら、それをやめてくれとはいいユ ねていた。 私たちが七福へ行くのは、七福の酒が安いからだった。安いのにいつも空いているのは、 もしかしたらばあさんの鄭重なもの腰が酔客に向かなかったのかもしれない。 「娘がよくないからなあ」 ししゅう と横地は始終いっていた。 「あれじゃあ、楽しくないもんな」 山脇も同意した。 「酒場は何といっても女だよ。酒よりも」 と工藤がいった。 ふにもかかわらず、私たちは何かというと七福へ行った。忘年会や新年会も七福でした。 ひ福では支払いを溜めても催促をしない。 「それがトリエだよ」 と皆、いっていた。 にじ うじすじよう ていちょう
57 ひちふく 「はい」 「巻き上ってるのか ? 」 横地は乗り出した。 「へソまで ? 」 「まさか、そこまでは」 「タッマキ型かな ? それとも噴火型かなあ」 「さあ、どういうんでございましよう」 まじめ オリープの真面目な応答にはむしろューモアがあったので、彼女がそういって階段を降 て行くと、皆は何となく笑い出した。オリープと人れ違いにばあさんが酒を持って上って立 ると、待ち受けていたように横地がいった。 「ママ、ママのはどうだい ? 」 「はい ? これはいきなり、何のお話でございますか ? 」 「アソコの毛だよ」 「あらまあ、何のお話かと思いましたら」 まっすぐ 「ママのは縮れてる ? 真直 ? 」 「さあ ? どうでございましよう : : : 」 こんがすり ばあさんはロに手を当てた。、、 はあさんは紺絣を着て、真黒な前髪を大きく脹らませる髪刑 をしている。その時、それまで黙っていた工藤が口を出した。 ふく
年の暮、私たちは七福で何度目かの忘年会をした。一緒に同人雑誌を作っている仲間、十 すわ 人ばかりだった。私は工藤と隣り合せに坐っていた。横長の食卓を挟んで、向い側に横地が うんちく いた。横地が女の陰毛の生え具合についての薀蓄を傾けている時、オリープが料理を運んで 来た。すると山脇がいった。 「君のはどう ? 」 「何がでございますか ? 」 ていねい オリープも母親と同じように丁寧な口の利き方をするが、母親の口調にヘり下ったせい一 まじめ 杯のお愛想があるのに比べて、オリープのそれはあくまで真面目なだけだった。 まっすぐ 「アソコの毛だよ。君のは真直かい ? 縮れてる ? 」 「さあ ? どうでございましよう。真直だと思いますけど、少しは縮れ加減かも」 と笑わずにいう。 「長さはどう ? 」 「さあ ? 普通じやございませんでしようか」 「形はどんなだい。きっちり三角になってる ? 」 「いえ、乱れております」 「乱れてるって、どんなの ? 」 「上の方までハミ出して行ってる感じで」 「巻き上ってる ? 」
あお 工藤はそういって、酒を呷ると、威張るようにいった。 「ばあさんはぼくに惚れてるんですよ」 「で、あなたは ? 」 「ぼく ? ぼくも無論・ といって少し考え、 うそ 「惣れてるといったら嘘になる。惚れてないといっても嘘になる。そんなところだな」 つぶや と独り言のように呟いた。 おなどし 工藤は私と同い年だったから、その時は三十を二つ三つ過ぎていた。山脇や神田と同じく 工藤にも定職はなかったが、妻がキャパレー勤めをして、その稼ぎで小学生の子供を養って いるという話だった。しかし工藤は私たちに子供の話をしたことは一度もない。 工藤の妻は小柄だが、なかなかの美人だと横地はいっていた。工藤がそんな美人を女房に しているとは思わなかった、と何度もくり返しいった。美人の上に、あの女はスキモノだよ、 といった。男なしではいられないってやつだ。どうしてそんなことわかるのよ、したことも ないのに。それがわかるんだな ( オレには。そういうことを口にするところが、まだ一人前 うわき でない証拠よ。 ・私と横地はそんなことをいい合った。しかし彼女が客と簡単に浮気をし ていることは事実だった。工藤はそれを知っていた。酔うと口にした。しかし工藤はそれを 知っているということを、妻には隠していた。 工藤は酒場勤めの妻の帰りを、毎晩ひそかにつけて歩く男の話を小説にしたことがある。
そんたく 私は二人の心を忖度しかねた。二人とも口数が多くなり心から工藤の受賞を喜んでいるよ うだった。 間もなく七福での工藤の写真が週刊誌に出た。字型のカウンターの、左の丸い角に工藤 ひたい かたひじ が片肘を突き、盃を手にしている写真だった。工藤は着流しで、乱れた前髪が額に垂れてい まゆ た。かっては売れない三文文士の典型のようだった眉の迫った痩せた顔が、いかにも執筆に 疲れた流行作家という顔になっていた。私たちは七福のカウンターでその写真を見た。 「ママはどうして人らなかったんだ ? 」 と山脇が訊くと、 「わたくしなんぞが人りますと、折角のお写真が台なしになります」 とばあさんは答えた。 しばら それから暫くの間、私は七福へ行かなかった。同人雑誌に出したものが編集者の眼に止っ て、私も少しずつ原稿の依頼が来はじめたのだ。工藤の受賞が呼び水のようになって、横地 ふや山脇にも書くチャンスが開け出した。私たちは七福へ行かなくなった。私たちは七福より ひももう少しうまい料理や酒の味を覚えたのだ。 そんな場所で私は横地や山脇に会った。私たちは時々、思い出して、 「七福のばあさん、どうしてるかな」 さかずき せつかく
私は傍から、 「何のかのいいながら、いつの間にかちゃんと手を出しているんだから」 とからかった。 私はまだ十分若かったから、男たちを軽く見ていた。軽く見られてもしようがないような ことを、男たちは若い女にするのだ。 すえぜん 「手を出す気はしなくても、据膳を据えられたら断わらないでしょ ? 」 「それはどうかなあ」 「オレは断わるよ」 「横地さんは ? 」 「オレも断わるね」 「あんなことをいって、よくもヌケヌケと」 みくだ と私は見下す気分になるのだった。 オリープの母親のことを、私たちは「おかみさん」とか「ママ」とか「おばさん」などと かげ 呼んでいたが、蔭では「ばあさん」といっていた。しかし「ばあさん」はばあさんと呼ばれ るのにふさわしい年であったのかどうかはわからない。ばあさんはたぶたぶと肥って色白だ った。それほど背は高くないのに大柄な印象を人に与えるのは、顔が大きく、目鼻立もまた ていちょう 大まかに出来ているためだった。誰に対してもたいそう鄭重なもののいい方をし、二階の座 あいさっ 敷に挨拶に出る時は、額を畳にこすりつけるようなお辞儀をした。そのヘり下った、しかし ふと
観察の眼を光らせて三人を眺めたが、何もわからなかった。 たちま 工藤の書いた「オリープ」は文芸誌に掲載され、認められて文学賞を受賞した。忽ち工藤 せき は忙しくなった。堰を切ったように書き出して、その年のうちに流行作家になってしまった。 私たちーー横地と山脇と神田は、相変らず七福で飲んでいた。飲みながら工藤の小説の悪 口をいった。工藤はもう七福へ姿を現さなくなった。 「お忙しいんでございますよ。工藤先生は」 とばあさんは誇らかにいった。 「日に三十回とか四十回とか、電話がかかるんですって、ねえ ? 母さん」 とオリープがいった。 「工藤さん、来たの ? 」 「いいえ、ああお忙しくては」 ばあさんは弁解するようにいった。 「でもこの間、雑誌社の方がお見えになりましてね。ここで工藤先生の写真を撮りたいか らとおっしやって : : : 何でも『思い出酒場』とかいう題の写真なんだそうでございますよ。 来週ーー」 「日曜日ですよ、撮影は」 とオリープが口を出した。 ばあさんとオリープは、「オリープ」を読んでいるのだろうか ? なが
といい合った。 久しぶりで七福へ行ったのは、翌年の秋である。私用で新宿まで出た帰りに、私はふと思 い出して七福へ寄ってみる気になったのだった。 かえ さび ちょうちん 七福の提灯は新しくなっていたが、その新しい白さが却ってどこか寂しいのだった。くろ ぐろと「七福」と書いた字の反対側にやはり「ひちふく」と書かれていた。 ばあさんとオリープはカウンターの中にいた。客は眼鏡をかけた小男が一人いるだけだっ 「おやまあ、お久しぶりでございます」 はず 人って行った私に、、、 はあさんは弾んだ声を出した。 「この間テレビでお目にかかりましたわ」 とオリープがいった。 うれ 「皆さん、ご活躍でご立派におなりになって、わたくしたちも、ほんとによかった、嬉し いわねえといつも申しておりますんでございますよ」 ばあさんはいった。 うわさ 私たちは横地や山脇や南田の思い出話をした。私は工藤が最近、豪邸を買ったという噂を 思い出していった。 「工藤さんも偉くなったものねえ」 「そうなんでございますよ」
そうとして身をのり出し、女の機嫌を気にしながら顔を紅潮させて何とか説得しようとしゃ べり立てるのを見るのは、悪い気持ではないということだった。 かばん 女は男が足もとに引き寄せた鞄の中から周旋屋のように書類を取り出すのを見ていた。昔 の当り狂言を数年ぶりで演じる伐者みたいに、と男を見ながら女は思った。男の仕種も表情 も全く変っていない。 「これなんだけどね。三十二坪あるんだよ」 綴じた書類の表紙には「土地権利書」と書いてある。男は更に折り畳んだ地図のようなも のを取り出して広げた。 「一応ぼくの名義の土地なんだけどね。これ、買ってもらえないかと思ってね」 男は一息にそういってから、 「いやね、草田のところの抵当流れで、タダみたいなものだったから、草田が何かの役に 立っこともあるだろうから買っとけよっていったもんだからね。ローンで買ったんだよ」 とつけ加えた。そうつけ加えたのは、へえ、こんな土地を買える時もあったのね、人から お金を借りるばっかりじゃなくて、という女の攻撃を予想したからだ。草田は町の金融業者 しばしば で男の会話の中に屡々登場する。 女は黙っていた。今は揚足を取って男を攻撃する気はなくなっている。攻撃の代りのよう