と手伝いはいった。 「明日のお客さまのために、洗い直してアイロンをかけたばっかりでした」 明日来ることになっている客を、女が大事に思っていることを手伝いは知っている。 「私のタオルの寝巻でいいわ」 「女物でもよろしいんですか」 「いいわ。どうせ : : : 」 と女はいった。 そうざい 男は昔から少食だった。何日もつづけて同じ惣菜を温め直して出しても、何もいわずに食 べた。魚が少し匂いはじめていても気がっかなかった。その頃、女はそんな男が気に人って いたものだ。女が男のズボンにアイロンをかけたことは一度もない。男は平気で筋の消えた ズボンを穿いていた。 みぎれい 女と別れて若い妻を持ってから、男は身綺麗になった。女はそれに気がっき、心から「よ おを かった」と思ったことを憶えている。しかし、祝日の小学生のように小ざっぱりした男には、 ひげづら 男 いうにいえぬ悲哀のようなものが漂っているのを女は感じた。油気のないぼうぼう頭に髭面、 き てタ・ハコの焼けコゲのついたズボンを穿いて、どんな時でも平然と高笑いをしている彼を女は みな 訪見馴れているのだった。 女物のタオルの寝巻を着て、男は風呂場から出て来た。洗髪した髪がオールバックにされ て頭にはりついていた。男の一「ロ葉に女は負けたことはない。女が負けるのはこういう男の姿 にお
しようすい しかし間もなく会社は倒産した。小畑は毎日、憔悴してどこかへ出かけ、夜遅く帰って来 る日もあり、帰らない日もあった。私は小畑がどこにいるのか知らなかった。もう金繰りを まわ する必要はなくなったのだから、ただ逃げ廻っていただけだったのかもしれない。どこで何 をしているのか、とも私は訊かなかった。訊いても簡単には答えられないような生活をして いるのだと傷ましく思っていたからだ。今から思うと彼は、後に彼を養うことになった酒場 の女の部屋で、ただ寝転んでいただけだったのかもしれないのだが。 宮地が父親から絞り取った金は数百万に上っていた。その金はすべてかき消えた。宮地は 父から責められ、勘当になった。宮地は結婚したばかりだった。十九歳で人社した宮地は一一 十三歳になっていた。深夜、私は電話をかけて来た宮地の若い妻と、電話ロで怒鳴り合った ことがある。 「小畑さんにいって下さいよ、男なら、社長なら : : : 社長らしくしたらどうですか。いっ たいどうしてくれるんです。宮地がどんな思いをしているか、考えたことがあるんですか、 あなたたちは : : : 」 のわけがわからぬままに、いきがかり上、私も負けずに怒鳴り返した。 残「藪から棒に怒鳴りまくられても何のことやらわかりませんよツー・ 宮地さんにいって下 生 さい ! 男なら女房なんかにいわせないで、文句があったら自分でいいに来なさいって : 宮地が小畑のためにした金策の数々を、その時の私は何も知らなかった。会社の重伎も社 ゃぶ
といった。どんな一「ロ葉も彼には染み込まなくなったのか、それとも払い退けているのか、 意識的なのか無意識なのか女にはわからなかった。 玄関の棚に活けた野花の水を取り換えに行って、女はふと玄関に脱いである男の靴を見た。 それはまるで、敗残の兵士がぬかるみや砂漠を何千キロも歩いて来たような、疲労と汗が おな 染み込んで原形を失ってしまった編上げ靴だった。だが女はその靴を憶えていた。それは女 あつら カカと が男と暮していた頃に誂えた靴だった。左足の踵が地につかない男の足に合うように、左の 踵を高く作ってある。先は武骨に丸くて見るからにぶ厚く頑丈に作られているのは、常人よ りも靴の傷みが早いためだった。 作ったときの靴の色はチョコレート色だったが、今は何色ともいいようのないドプの水で かかと 染め上げたようになって、長い深いヒビワレが何本も横に人っている。左の踵は内側に向っ つまさき てはすかいに減っている。靴の後ろの縫目は両方とも破れて、丸い爪先のところだけなぜか 丸くふくれ上って木靴のようにこわばり固まっていた。 男 一瞬、女はその靴から目を逸らしたが、既にそれは女の網膜にきついてしま 0 た。 つな て女は野花の壺を持ったまま、洗面所へ行った。洗面所の鏡に写った自分の顔が怒り顔にな 訪っているのを女は見た。胸の奥底で徴かに動き始めたものがある。心臓が強く鼓動している。 女は花の壺を置いたまま洗面所を出た。 いつもの。ハターンだ。そのはじまりだ。ふとしたことに触発されて鉄壁が崩れる。それは
「ひち」 あいきよう オリープは答えた。オリープはあまり愛嬌のある方とはいえなかった。オリープという渾 名は、ポ。ハイ漫画のオリープから来ている。 七福のカウンターは字型に正面の壁にくつついていて、その中にオリープと母親が人っ ている。店の土間は意外に広くて自転車の二、三台も置けるほどの余地があった。左手向う がまち 角の上り框に階段が見えていて、二階に部屋が三つあった。あまりないことだが、忘年会の まっすぐ ふさ 季節などには数日、二階が塞がる。そんな時、オリープは薄くて真直な長い胴をぎごちなく 折り曲げて、カウンターの下を何度もくぐるのだった。カウンターの下をくぐって来る時、 くび オリープの頸がプロントサウルスという恐竜の一種のように、くねくねと長いのが目立っ / その頃オリープは幾つだったのだろう。二十七、八か、あるいは三十を遥かに越えていた のかもしれない。 「どうもオリープにだけは手を出す気がしないな」 はず 何かの弾みでオリープの話が出ると、決って横地はそういった。 かわい 「オレはあの女を見ていると、何だか可哀そうな気持がしてくるんだ。じゃあなにが可京 ふそうかといわれるといえないんだけどね」 やまわき ひ と山脇がいった。 「あれは処女かね」 「うーん、もしかしたら、そうかもしれないな」 よこち はる あが
で来た。一緒に見送りに来ていた島が、おい本庄、本当に行く気か、といっているうちに汽 車は発車した。 「女房に電話しといてくれよ 、小畑たちと一緒に行ったってな」 と本庄は汽車の窓から島に向って叫んでいた。 あいづち 本庄は本当に小畑が好きだった。私が小畑の悪口をいう時、本庄ほど熱心に相槌をうち、 一緒になって小畑の悪口をいった人はいない。だがそれは本庄の小畑への愛情だった。そし て又、私への。 あたみ 熱海駅の、春の日射しが隈なく当っていた昼前のプラットフォームを私は目に浮かべる。 その光の中に本庄の薄笑いを浮かべた細長い白い顔がこっちを見ていた。薄笑いは笑いでは なく、泣き顔に近かった。先生に叱られている時の中学生のようなその薄笑いが自分の顔に こびりついていることに、本庄は無意識だった。 びわこ それは熱海のホテルに一泊した翌朝のことだ。熱海から琵琶湖へ向う私たちは、西行きの 汽車のデッキに立っていた。 の 「行きたいな。またついて行こうかな」 本庄はいったが、私も小畑も黙っていた。そして汽車は出た。本庄の顔にあの薄笑いがこ とおざか 生びりついたまま、春の光の中にポツンと立った本庄は遠去って行った。 その時私は残酷な衝動に駆り立てられた。 「来いといったら、来たわよ、本庄さんは」 しか
る日気がつくと、靴修理の台のあったところはタバコ屋の窓口になっていて、その窓の向う にばあさんが坐っていた。だが次に気がついた時は、ばあさんの姿はなくなり、そこは讃岐 うどん屋になっていた。 おやじ 讃岐うどん屋の親爺は赤ン坊をねんねこで背負い、自転車を漕いでうどんの出前をしてい た。働き者で、どんなに夜遅くても出前に出ていた。その頃、私の家の前に夜になると駐車 しに来る自家用車があって、宮地はそれに腹を立ててタイヤの空気を抜いた。それは夜半近 くに小畑を送って来た時だったが、働き者の讃岐うどんの親爺は、その時間にも出前に出て いて、それを見つけた。讃岐うどんの親爺が警察に通報したので、宮地は警察に呼ばれたが、 そのことについて宮地は特に私たちに報告をしなかった。宮地にとってはそんなことはたい したことではなかったのだ。 その後、讃岐うどんはとんかっ屋になった。讃岐うどんの親爺は、商売が思わしくないの でやめたのか、それとも当ったので更にいい場所へ移ったのか、私にはわからない。讃岐う どんがとんかっ屋になっていることに気づいた頃、私は宮地の死を知った。その時、小畑の やすな 行方はもう定かでなくなっていた。私に宮地の死を報らせに来たのは、彼の同僚の保名であ 生 「宮地が死んだんです」 びつくり と保名は野太いいつもの声で無気力にいった。宮地の突然の死を聞いた相手が驚愕するこ となど、予想もしていない口ぶりだった。 ころ
140 たた 女や男がぞろぞろ歩いて、散りぢりになっているかと思うといっかひとかたまりになり、そ れからまた散って行った。島の柩はすぐに窯に人れられた。小一時間して窯の戸が開けられ た。暗い窯の奥からまだら灰色の骨が崩れて、引き出されて来た。係員はよく光る柄の長い ちりと 掻き出し棒で手早くそれを掻き出し、塵取り様の銀色の受け箱で受けると、私たちを促して 隣の部屋へ行った。 こつつ 隣室には台の上に、既に骨壺や木箱が用意されていた。骨を壺に納めるためのシャベルと こにうき 小箒も並んでいた。 すく 係員はシャベルで骨を掬っては壺の中に人れた。我々の横でも喪服の一団を前にして、同 じことが行なわれていた。係員は骨が壺のロ許に盛り上って来たので、残りを人れるために たた 壺の両横を軽く叩いて骨を沈めることをした。それからその上に箱を傾けて小箒を使って最 後の粉まで綺麗に壺の中に掻き人れた。 いや、どうも : : : 手際がいいもんですな : 島の声が聞えるような気がした。島がいたら、必ずそういうに違いない。島は、穏やかで いて常に隠徴な観察者だったから。 ぼくらの子供の頃、ほら、あったでしよう、菓子屋へ行くとね、大きなガラス瓶が : その中に色んな菓子が人っていたでしよう : したまぶた 島がいたらいうだろう。自分の観察が気に人った時に、必ずする半笑いを下瞼のあたりに 湛えながら、小声で私の耳の方へ口を寄せるようにして。 ひつぎ びん
216 「書いたものかもしれないよ」 「そんなわけないでしよう。ピカソが一枚一枚、書いたものを共産党にカン。ハするわけが ないわ」 「しかしね、印刷ではないと思うんだよ」 「だったらどうなの ? 」 年子はずっと無表情だった。昔はもうこのあたりで顔色が変ったものだった。その頃はぼ おそ くはただひたすらそんな年子が怖ろしかっただけだが、今は痛ましい思いが先に立った。 「どうもしやしないよ。ただ印刷かリトグラフか木炭か、はっきりさせることに興味があ るじゃないか」 「私はべつにないわ」 ものう 懶げに年子はいった。 「野上さんは興味があるの ? 」 「いや、ぼくは」 くちごも 不甲斐なくもぼくはロ籠った。 「印刷でなかったら売りたいのね ? 」 年子はいった。 「そうなんでしよう ? それならそうと最初からいえばいいのよ。野上さんが見たいだな んて口実つけなくても」 ふがい
耳には冷淡に聞えたかもしれない。 「どうしたの ? ・よくわかりましたね。ここが」 と、女は落着き払っていった。 せたがや 「いやね、世田谷の方へ行ったら、こっちだって聞いたものだからね」 みまわ 男はあたりを見廻した。それから食卓の前を通ってテラスに出るガラス戸の前に立って、 目の下の景色を見下ろした。 「なかなかいいところじゃないか」 「いいところでしようーー」 女はテープルのところからいった。 「とても気に人ってるのよ」 男がここまで来た目的は女には想像がついている。男の方も女が想像をつけたことを承知 している。女は男の背中に向けていた視線を戻し、 「失礼するわね」 男 といって食事を始めた。 て 「今日はこの下の集落のお祭なの。私、約束したので行かなくちゃならないのよ」 ね 訪女はいった。 「あなた、食事は ? 」 「ぼくは汽車弁を食って来たから」
206 「それはこっちが聞きたいよ、年ちゃん」 ぼくは若かった時代を思い出した。あの頃も年子は、ぼくらには答えることが出来ないよ うな面倒な質問をよくしたものだ。なぜ、私たちは行く先のことを考えないで、いつまでも 売れない小説を書いているのかしら ? 私たちにとって大学って何なの ? とか、なぜべー トーベンはあんなに絶叫するの ? とか、どうしてあなたたちはこんなに。ハチンコが好きな の ? どうして私は。ハチンコが嫌いなんだと思う ? とか しんう ぼくと片頽が一時間も二時間も。ハチンコをしている後ろで年子はいつも辛抱強く立って待 っていた。時々、「まだア ? 」と促した。玉が溜ると、両手に掬っていそいそと景品と替え に行った。 「何がいいの ? 」 片瀬は決ってピースといい、ぼくは靴下などの生活必需品を取ることにしていた。 ハンツにする ? 」 「野上さん、。ハンツもあるのよ。 かわい みみもと ぼくの耳許で小声でいった。そんな年子を一度だけ可愛いと思ったことがぼくにはある。 いっか、ぼくは。ハチンコをしなくなっている。ぼくはそのことを田 5 った。しかし片瀬は相 わき 変らず。ハチンコ屋に出人しているらしい。病気になる前の沼田が、ピースを二カートンも脇 に抱えて、ニコニコ顔で。ハチンコ屋から出て来る片瀬に会った話をしていたことがある。沼 田はいった。 「彼は驚くべく変っていないね。元気だったよ。取ったピースを半分ぼくにくれたよ」 すく