202 「わかるわよ、そりゃあ : : : 」 年子は答えた。予想に反した低い沈んだ声だった。 「ねえ、野上さん」 年子はいった。 「どう思う ? 片瀬が『そうか』といっただけだったのは、そういうほか、何もいえなか ったからなのか : : : いろんな思い出、昔の友情、信頼、そしてそれを裏切ったこと、その呵 しやく 責、そんなものが一度にどっとかぶさって来て、だから、『そうか』としかいえなかったの か」 年子はぼくの返事を待たずにいった。 「それともよ、それとも、彼は、何も思わなかったのか。チクリとも感じなかった : しかしたら彼の中では友情なんて何の意味もないものになってしまっている。死さえ何の意 味もない。悲しいことでも不幸なことでもない。彼は真空の中に生きてる : : : すべての現実 は彼にとって『そうか』という一言ですむものでしかなくなっている : : : 」 しばら あおぎり 年子はそこが火葬場の青桐の下であることを忘れたようだった。暫くの間考えにふけるよ うに口を噤んでいたが、 「ねえ、野上さん、どう思う ? 」 こた ほくは年子の期待に応えようとし 考えあぐねたようにぼくを凝視して、答を待っていた。。 たが、うまい答が見つからなかった。
「しかし : : : 先生のために、それだけは : : : 」 「さんはそうお考えになる ? でもは何というかわかりませんよ」 「とにかく、どんなことがあっても、先生に来るようにいいます」 とはいった。 しかしは来なかった。 はカヌウから電話をかけて来ただけだった。 その時、 ()D の心は新しい女に奪われていたのだ。 女は男と箱根で二日を過した。 箱根から帰って来て三、四日経った頃、は女の家へ来た。は机に向っている女の部屋 へ人って来て、机の前に黙ってあぐらをかいた。 「行ったの ? 」 音 いきなり co はそういった。 の 「行ったわ」 の の女はを見て答えた。 たばこ はポケットからマッチを出して、煙草に火をつけた。女は煙草を吸わないので、女の部 屋には灰皿がない。 ()0 がマッチの燃えカスを机の端っこに乗せるのを女は見ていた。 co のた めに灰皿を取りに立っ気はなかった。 ころ
108 「でも。ハトロンの話はあることはあったんですね ? 」 女はを見た。 「私はまた出たらめかと思ってたんだけど」 「うーん、わかりませんねえ」 みな は考えを探る顔になった。その表情は女が見馴れた表情だった。のことを話す時、い つもはこの表情になった。 妻と別れるといえば、あなたが心を動かして金を出すと考えたのよ、と女の親友はいった。 。ハトロンの話なんて、はじめつからなかったのよ。 「そうね。そうかもしれないわね : : : いや、多分、そうだわ」 と女はいった。そう思うことがこの際、一番簡単だから。もしかしたらそうではないかも しれないと思いながら、それをふり払ってそう思い決めた。そう思い決めたとしても、何の 不都合も起きないのである。そう思う習慣をつけた方が平和を守れるのだ。 そう思い決めたとしても、は怒らないだろう。怒る資格のないことを沢山して来たから あきら 怒らないのではない。人の思い袂めに対しては諦めているからだ。 けれども女は、やはり本当のことを知りたいと思った。。ハトロンの話ははじめからまるで ない話だったのかもしれない。けれどもその話を考え出したにとっては、それは嘘ーー嘘 という一一一口葉で決められてしまうものーーーではなかったのかもしれない。もしもを問い詰め て無理やり口を割らせたら、ぼくは生きようとしただけだ、というかもしれない。 うそ
するんですか、って。大奥さんにとっては孫じゃないですか。そうしたらちょっと困ったよ うな顔をしましたがね。養育費として一千万円やるつもりですっていってました。だから私 は奥さんは一千万円貰って離婚したんだとばかり思ってたんです。ところがいろいろ見てい ると、一千万貰うどころか、さんの借金の肩代りをしてられるじゃないですか。驚きまし たねえ、それを知った時は。やつばり企業の世界で出世する人は考えることが違うと思いま したよ」 は話すほどに興奮が高まって、おそろしく早口になった。 「偽装離婚だなんてうまいこといって奥さんを納得させて籍を抜く。そうすれば養育費を 払わなくてすみますからね。よく考えたもんですよ。そのうち、故意か偶然か知らないけれ ども co さんに女が出来て結婚した。そうとは知らず奥さんは co さんの借金をどんどん肩代り して行く。さすがにそこまでは計算してなかったでしようけど、向うにとってはこんなうま い話ってないですよね。もし奥さんが借金を返し切れなくなって、あの人たちに泣きついて 音行ったとしても、もう籍は抜けてるんですから親戚でも何でもない。うちは知らん、ってい 皿 えるわけですよ。全く奥さんって人も、人がいいのを通り越してますよ。私はひとごとでも の 中 ハラワタが煮えくり返ったね」 話 電 「じゃ、は : : : それを知ってたんでしようか」 「私の考えではね、だいたいのことは承知してたと思いますよ。皆でよってたかって。へテ ンにかけたんです。それに対してさんが、いやだ、いくら何でもそんなことは出来ないと
「ええ」 「それはどういう ? ・ 「これは初めは偽装離婚でした。倒産対策のための。それがホンモノになってしまったん 「偽装離婚といいますと : : とりあえず戸籍を抜いたことですか。いっかまたもとへ戻る ってことで ? 」 「そうです。そうしなければ、そのうちに私が債権者に追いまくられて、仕事も何も出来 なくなってしまうと夫がいったんです。私を虐めれば、稼いでるから出すだろうってこと たて 「でも、夫の負債に対して妻は責任をとる義務はないってことを盾にすればいいんじゃあ りませんか ? 」 「ええ」 音女は笑った。 ( ここで女はいつも笑う。 ) 皿 「考えっかなかったんです」 の おもしろ 中 の どう ? 面白いでしよう、というふうに女はインタービュアを見、 話 電 「それであっさり籍を抜いて、夫はア。ハートへ行きました。そのうちに女が出来て、偽装 離婚がホンモノになってしまったんです」 だま 「まあ ! それじや先生は欺されていたことになるんじゃありませんか ? 」
207 靴 ぼくがそのことを妻に話すと、妻は怒り出した。 「だからダメなのよ、あの人は。そんなことをしてる場合じゃないでしように。どうして いつまでも昔のままなの , へんだわ ! 普通じゃないわ ! なぜ変れないの ! ねえ、な ぜなのか、知りたいわ ! 」 その妻と同じように、今、年子はいっていた。 「なぜ、陽介は、いつも明るいのか : : : なぜいつも笑っているのか : いのよ・ : : ・」 ぼくは答に困って、 「相変らず笑ってるの ? 」 ごま化した。 「そうなの。たいしておかしくもない話なのに大声で笑うところ、昔と同じ。この間もね、 ごろ 沼田さんが死んだといったら、『そうか』といっただけだから、『この頃、どうしてるの ? 』 っていったら、『相変らずだ』っていって、ウワははははよ。豪快に : : : 豪快ふうっていう のかな。ともかく、笑ったのよ。なぜ笑うんだろう ? ねえ ? 」 「習性になったんだね。人と対すると笑わずにはいられない・ 「煙幕 ? 」 「そんな意識はなく笑ってるんだろう。君はどうしてそんなに笑うのかと訊いたら、びつ くりするかもしれないね」 : 私、それを知りた
娘は窓を背にして向き直り、化粧台の母親の頭越しに遠くの方を見る目になっていた。 「わたし、どうしたらいいかわからなくて困ったの、じーっとしてたら、いきなり顔を寄 せて来てキスするんだもの : : : びつくりして、段から転げ落ちるかと思ったわ。なのにママ ったら : : : 」 「どうして黙ってたのよ。ママ、助けてっていえばいいのに」 「だって、声が出ないんだもの : : : 」 独り言のように娘はいった。 「でもあの人、なぜあんなことしたのかなあ」 母親は答えずに着替えをはじめる。娘は呟いた。 「わたしのこと、好きになったのかなあ : : : 」 娘はつづけた。 「ねえ、あの人、どんな顔してた ? 」 「どんな顔してたって、あんたの方がよく知ってるでしよ」 「だってよく見なかったんだもの。ねえ、ハンサムだった ? 」 「そう、ちょっとハンサム」 「やつばり ! そう ? 私、ちょっとハンサムだったような気がしたんだけど、そう ? やつばりママもそう思った ? 」 わず 僅かの間に夜は明け放たれて、向うの大きなホテルの上に濃い朝焼がひろがっている。行 つぶや
102 ないんですよ。途中で合わなくなると先生は弓をこう、肩のところに立てましてね、宙を見 ころあい つめて悠然としているんです。頃合を見はからって弾き出すんですが、また合わなくなって くる。すると悠々とまた弓をこう立てましてね」 まね はその真似をしてみせた。 「見ていると、間違っているのはピアノの方みたいに見えるんですよ。あんまり悠々とし てるもんだから : 。ぼくの隣のテープルにいた客なんか、『あの人はなんていう人 ? 』な んてホステスに訊いてました。あのアゴヒゲでしよう。それももう半分白くなりましたから ね。クラシックの偉い音楽家が座興に弾いている、という格好なんですね」 「じゃあ、楽しくやってるんですね」 「ええ、まあ : : : 」 は椅子から立ち上り、帰り支度をしながらいった。 「しかし先生はどんな時でも楽しくやってる人ですよ」 女はにいった。 「あの人はまだ先生と呼ばれているんですか ? 」 「ええ、先生です」 はいった。 「この頃は先生といえばさんのことになっています。どこへ行っても先生です。とい たくさん みようじ う苗字を知らない人は沢山いますよ。でも先生といえばみんな知ってます」
162 「目を醒ましたとき、少しの間、どこにいるのかわからなかった : 眠れなかったものだからね」 「そう、よかったわ」 女はとうもろこしを剥がしつづけた。 「何してるの」 すわ 男はテープルのところへ来て、向い側に坐った。 「とうもろこし、沢山貰ったからこうして剥がして冷凍しておくのよ」 「手伝おうか ? 」 女は笑った。 「出来る ? 」 男はザルの中から一本、手に取って眺めた。 「実はね」 男はとうもろこしを眺めながらいった。 「ええ」 と女はいった。男が何を切り出すか、女にはもうわかっている。何年か前までは、 「またお金 ? 」 と先手をうったものだった。 「ないわよ、お金は」 もら : ここんとこ十・ - ーっと
「はあ、何でしよう ? 」 「私、さんから誘われてるのよ。上曜日に箱根へ行こうって」 「はあ」 とはわけがわからぬままに女の顔に視線を当てていた。 「そのことでと話をしたいんです。来たら話そうと思って待ってるんだけど、なかなか 現れないんだもの : : : 」 女はいった。 「が行くなといえば断るし、そうでなかったら行こうと考えてるんです」 その言葉が何を意味するかをは突然理解した。 「さんって : : : あのさんですか ? 」 はを知っていた。 「驚いたな、これは」 きまじめ は生真面目に考え込んだ。 「で、いらっしやりたいんですか ? 奥さんは ? 」 は今でもまだ女のことを「奥さん」と呼んだ。 「ええ、行きたいの」 ろうばい が狼狽していることが快かった。もしかしたら女は、を驚かしたくて唐突にそんなこ とをいい出したのだったかもしれない。