野上 - みる会図書館


検索対象: マドリッドの春の雨
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1. マドリッドの春の雨

上体を乗り出すようにして年子を見つめ、例のせつかちな口調でしゃべる片瀬を、年子は わき ゾフアの背もたれに身体を預けた格好で黙って聞いている。私の脇の下を冷汗が流れた。 「で ? いくらなの ? 野上さん : : : 」 やがて涼しい年子の声が耳に人って来た。その涼しい声は年子が気どった時に必ず出す声 さわ きも で、爽やかではあるが何の感情も混っていない。それにぼくは胆を冷やした。 「それが、三百万、なんだけど : : : 」 ぼくがいい終らぬうちに片瀬は、 「買手は決ってるんだから心配はないんだよ。完成と同時に金は人るんだ、な ? 」 からっ とぼくをふり返った。。 ほくはテープルの上の、どんぶり鉢のような唐津焼の灰皿に目を注 うなず かす いだままカ弱く肯き、年子の鋭い視線がそんなぼくの上を掠るのに耐えていた。やがて、 「いいわ」 という投げやりな年子の声が、うなだれたままのぼくの耳に聞えた。 「しようがないわ、野上さんじゃあ : : : 」 投げ出すように年子はいった。 「お貸しするわ。小切手でいい ? 」 靴「すみませんーー」 そういうのが精一杯だった。年子はいった。 「野上さんなら私、信頼するわ。片瀬は信用しないけど」

2. マドリッドの春の雨

216 「書いたものかもしれないよ」 「そんなわけないでしよう。ピカソが一枚一枚、書いたものを共産党にカン。ハするわけが ないわ」 「しかしね、印刷ではないと思うんだよ」 「だったらどうなの ? 」 年子はずっと無表情だった。昔はもうこのあたりで顔色が変ったものだった。その頃はぼ おそ くはただひたすらそんな年子が怖ろしかっただけだが、今は痛ましい思いが先に立った。 「どうもしやしないよ。ただ印刷かリトグラフか木炭か、はっきりさせることに興味があ るじゃないか」 「私はべつにないわ」 ものう 懶げに年子はいった。 「野上さんは興味があるの ? 」 「いや、ぼくは」 くちごも 不甲斐なくもぼくはロ籠った。 「印刷でなかったら売りたいのね ? 」 年子はいった。 「そうなんでしよう ? それならそうと最初からいえばいいのよ。野上さんが見たいだな んて口実つけなくても」 ふがい

3. マドリッドの春の雨

まるで久しぶりに祖母の家へ来た子供のようだった。応接間の壁に懸っている油絵を眺めて、 「買ったの ? 」などと年子に話しかけていた。年子は年子で「そうなの、いいでしよう ? 」 と自然な受け答をしている。それは確か、片瀬の秘密の結婚が年子に暴露した後のことだっ たと思う。煮え湯を呑ませた男と呑まされた女が久しぶりで会った場面とは思えない、ひど おな かえ く日常的な雰囲気であることが、却ってぼくを居心地悪くさせていたことを憶えている。そ ういう点で、二人は確かに、ぼくの妻が始終いうように、二人とも「変わってる」、ある意 おい 味に於ては似ている夫婦だったかもしれない。 「野上が金に困っててね」 片瀬はいきなりぼくの名前を出して話し始めた。それは片瀬と打ち合せずみのことではあ ったが、いざとなるとぼくは顔が上げられなかった。長い間、ばっとしないシナリオライタ ーでいるぼくに、プルゴーニュの葡萄畑を舞台にした映画を作る話が来ている。それはプル ゴーニュワインの宣伝をも兼ねているので、現地の協力も得られるし、完成後の買手も決っ ている。だが困ったことには、買手は決っているが製作費が足りない。とりあえずはロケハ ンに行く費用が必要なのだ、と片瀬はしゃべった。 その話は必ずしも嘘ではなかった。だがぼくが製作費の捻出に頭を悩ませているうちに、 話は立ち消えになってしまっていたのだ。 「野上はシナリオを書くだけじゃなくて、監督もしたいといってるんだ。これがうまく行 けば、この後の野上の仕事の幅も広がって行くしね」 うそ ぶどう ねんしゆっ

4. マドリッドの春の雨

202 「わかるわよ、そりゃあ : : : 」 年子は答えた。予想に反した低い沈んだ声だった。 「ねえ、野上さん」 年子はいった。 「どう思う ? 片瀬が『そうか』といっただけだったのは、そういうほか、何もいえなか ったからなのか : : : いろんな思い出、昔の友情、信頼、そしてそれを裏切ったこと、その呵 しやく 責、そんなものが一度にどっとかぶさって来て、だから、『そうか』としかいえなかったの か」 年子はぼくの返事を待たずにいった。 「それともよ、それとも、彼は、何も思わなかったのか。チクリとも感じなかった : しかしたら彼の中では友情なんて何の意味もないものになってしまっている。死さえ何の意 味もない。悲しいことでも不幸なことでもない。彼は真空の中に生きてる : : : すべての現実 は彼にとって『そうか』という一言ですむものでしかなくなっている : : : 」 しばら あおぎり 年子はそこが火葬場の青桐の下であることを忘れたようだった。暫くの間考えにふけるよ うに口を噤んでいたが、 「ねえ、野上さん、どう思う ? 」 こた ほくは年子の期待に応えようとし 考えあぐねたようにぼくを凝視して、答を待っていた。。 たが、うまい答が見つからなかった。

5. マドリッドの春の雨

215 靴 毯ん 膳の前に坐る。「全くお前という奴はなア」というと、本当に困った顔になって恐縮する。 「『考えてもらわなくちゃなア』というと、申しわけなさそうな顔をするんだよ」 「ウワははは : : : 」と片瀬は笑った。年子は「そう」といった。それから、 「あなたは昔、大が嫌いだったのに」 といった。 「あなたは昔と少しも変らない人だと思ったけど、大好きになったところだけ変ったの こどく その言葉によって不意討ちに孤独の深みに矢を突き立てられたように、片瀬は鼻白んで 「うん」といったが、すぐに気をとり直したように、 「ピカソの絵、あったろう ? ほら、女の顔の」 と切り出した。 「あるわよ。沼田さんから貰ったアレでしよ、卩リ 届・よ」 年子は答えてぼくの顔に視線を走らせた。 「寝室に懸けてるわ」 「あれをね、野上が見たいというもんだからね」 ニコニコしながら片瀬はいった。 「あれは印刷だとぼくら思ってたけど、どうも違うような気がするんだよ」 「何なの ? 版画 ? 」 やっ

6. マドリッドの春の雨

204 ないわ」 「女は、彼女の気持を惹くために、わざとポロ靴を履いて来た、と思うんだね」 「そうなのよ」 年子は気落ちしたような声でいった。 「あの時はそう思ってたのよ。でも、あれ書いた後で本当はどうだかわからないと思いは じめたの。陽介を知ってる人なら、皆即座にそれはわざと履いて来たんだと断定するでしょ う ? でも、こういう場合もあるのよ。何かの理由でその時はポロ靴しかなかったから仕方 なく履いて来たのかもしれない : 「修理に出していたかもしれないし : : : 雨の中を歩いて濡れていたのかもしれないし : 「そうなの、そうなのよ : : : 」 年子は低いが熱心な声でいった。 「野上さん、どう思う ? 」 「改まってそう訊かれると、わからないなあ : : : だがやつばり彼を知ってる人間は、みな たくら 企んで履いて来た方を取るだろうな」 「私、知りたいのよ」 年子はいった。 「例えば片瀬陽介は、ある日、金に困って私のところへ来ようと思う。その時、私の名前

7. マドリッドの春の雨

210 わかる ? 野上さん : : : 」 ころ いちず 若い頃のような、一途な声だった。 だま 「彼は人からお金を欺し取るようにして持っていくでしよう。そのお金を何に使ってるの かしら」 「それがわからないんだな」 「そうなのよ。それがわからないのよ。彼がちゃんとした服を着たことは一度もないのよ。 いたく 贅沢なものを食べたがるのを見たこともない。お酒も飲まない。女にも関心がない。いった い何のために年中、金に困ってるの ? かみさんが浪費家というわけでもなさそうなのよ かわい ね ? 可哀そうに、彼女は彼女で苦労してるのよ。切り詰めて質素な生活をしているってい うもの」 「やつばり : : : 借金のためなんだろうな」 とぼくはいった。片瀬が破産してから十五年経つ。その時の借金が尾を引いているのでは ないか ? 「でも、確か、債権は四年で時効になると聞いたわ」 「だからあの時、思いきって四年間、山谷の百円ベッドに雲隠れすればよかったんだよ。 彼はそれをしなかった。出来るだけ返そうとして、次の借金をした。 < に返すためにから 借り、に催促されて o に借り、、、と増えていったんじゃないのかなあ : : : 」 しかし、それだって一つの想像にしかすぎない、とぼくはつけ加えた。片瀬が思い切って

8. マドリッドの春の雨

きらめ ぼくは遅れて行った火葬場で、久しぶりに年子と会った。火葬場の、初夏の昼前の光が燦 あおぎり しゆず いている前庭の青桐の下に、喪服に数珠を持った年子が立っていた。彼女は年相応に老けて、 や 以前はかけていなかった眼鏡をかけ、痩せて骨ばって来た肩にそれなりの貫禄を漂わせてい 「やあ」 といってぼくが近づくと、彼女は沼田の遺体が焼けるまでまだ一時間近くもかかりそうだ といった。沼田は一番安い窯で焼かれるので、時間がかかるのである。 「控室にいると疲れるの」 と年子はいった。沼田は妻と別れ、二十二になる娘と二人で暮していた。半年前に原因不 明の病気で人院していたが、一週間前に家へ帰って自殺したのだ。控室にはその娘と沼田の 姉夫婦の三人しかいない、と年子はいった。 なりわい 昔の文学仲間がそれぞれの生業を見つけて散って行ってから、この頃では滅多に会うこと もなくなっている。沼田の娘が父親の死を年子に報らせて来たのは、フリーライターとして マスコミの仕事をしていた沼田は、年子と比較的親しく会う機会があったからだった。 皆に報らせたんだけど、と年子は何人かの仲間の名を挙げた。 「誰も来ないわね。野上さんを見てほっとしたわ」 と年子はいった。 「片瀬にも報らせた ? 」 ふ

9. マドリッドの春の雨

206 「それはこっちが聞きたいよ、年ちゃん」 ぼくは若かった時代を思い出した。あの頃も年子は、ぼくらには答えることが出来ないよ うな面倒な質問をよくしたものだ。なぜ、私たちは行く先のことを考えないで、いつまでも 売れない小説を書いているのかしら ? 私たちにとって大学って何なの ? とか、なぜべー トーベンはあんなに絶叫するの ? とか、どうしてあなたたちはこんなに。ハチンコが好きな の ? どうして私は。ハチンコが嫌いなんだと思う ? とか しんう ぼくと片頽が一時間も二時間も。ハチンコをしている後ろで年子はいつも辛抱強く立って待 っていた。時々、「まだア ? 」と促した。玉が溜ると、両手に掬っていそいそと景品と替え に行った。 「何がいいの ? 」 片瀬は決ってピースといい、ぼくは靴下などの生活必需品を取ることにしていた。 ハンツにする ? 」 「野上さん、。ハンツもあるのよ。 かわい みみもと ぼくの耳許で小声でいった。そんな年子を一度だけ可愛いと思ったことがぼくにはある。 いっか、ぼくは。ハチンコをしなくなっている。ぼくはそのことを田 5 った。しかし片瀬は相 わき 変らず。ハチンコ屋に出人しているらしい。病気になる前の沼田が、ピースを二カートンも脇 に抱えて、ニコニコ顔で。ハチンコ屋から出て来る片瀬に会った話をしていたことがある。沼 田はいった。 「彼は驚くべく変っていないね。元気だったよ。取ったピースを半分ぼくにくれたよ」 すく

10. マドリッドの春の雨

205 靴 が、あるいは顔が、どんなふうに彼の頭の中に浮かぶのか : : : 金を持っていそうないろんな 人の顔がまず浮かんで、順々に消されて行った後、最後に私の顔が残るーー、そんなプロセス なのか、それとも顔を上げればいつもそこにある壁の絵みたいに私の顔が懸っているのか・ : それから彼は家を出て電車に乗る。私の家へ向う。どんな気持で、かっては自分の家だっ わき たその家の、門のチャイムを押すのか。十五年前はチャイムなんか押さないで、門の脇のく かぎ ぐり戸を開けて出人していた。そのくぐりには鍵なんかかかっていないんだけど、今はチャ イムを押して、インターホンに名前を告げてから人って来るーーその時、彼はどんな気持で 人って来るのか。彼の顔は、いつも晴々している。晴々しさを作っているのではなくて、心 そこ晴々してるように見える : : : 」 「うん」 と、ほくはいった。そういうほか、何の一一一「葉も出て来なかった。 「私は『どうぞ、こちらへ』っていう。以前は茶の間で話したものだけど、わざと応接間 へ通す : : : それで私の意志を示してるつもりなの」 「意志を示しているつもりだけど、そのうちに意志は砕けてしまうというわけだね ? 」 年子がムキになって来たので、仕方なくぼくは冗談めかしていった。 「そうなの : : : 」 年子はぼくの冗談には乗ろうとせずに、真顔をぼくに向けた。 「なぜだと思う ? 野上さん : : : 」