然的に時間関係中に存立する」と。 われわれの主張の教えるところはしたがって、いやしくも もしわれわれが、われわれ自身を内的に直観するわれわれわれわれの感官に与えられうる一切の対象に関しては、時間 の仕方、及びこの内的直観を媒介として表象力におけるあら が経験的実在性、換言すれば客観的妥当性を有するというこ ゆる外的直観をも把握しようとするわれわれの仕方を捨象とである。そしてわれわれの直観はつねに感性的であるか ら、時間の制約下に属しないような対象は、経験においては し、したがって対象をそれがそれ自身においてあるがままに これに反して 受けとるとすれば、時間というものは無に帰する。時間とは決してわれわれに与えられることはできない。 単に現象に関してのみ客観的に認められるものにすぎない。 われわれは、絶対的実在性、すなわち、時間がわれわれの感 なぜなら現象とはもともと、われわれがわれわれの感官の対性的直観の形式と没交渉に、端的に物に対してその条件或い は性質として付属しているものであるかのような、絶対的実 象として想定する物であるからである。しかしわれわれの直 観が持っ感性が、したがってわれわれに固有なかかる表象の在性に対する一切の要求を、時間に対して拒否する。物自体 に帰属すべきこのような特質は、感官によっては決してわれ 仕方が捨象され、物一般が問題とされる場合には、時間はも はや客観的ではなくなる。時間はしたがって、もつばらわれわれに与えられることはできない。したがってこの点にこ われの ( 人間の ) 直観 ( それはつねに、すなわちわれわれが対象にそ、時間の先験的観念性があるのであり、これによって、わ れわれが感性的直観の主観的条件を捨象する場合、時間はま よって触発されるかぎり、感性的である ) の主観的条件である。 そして主観をはなれて、それ自身としては、無である。それったく無に帰し、対象そのもの ( われわれの直篠に対する対象の にもかかわらず一切の現象、したがってまた経験においてわ関係を持たないような ) には実体としても属性としてもかぞえ られることができないのである。しかしこの観念性は、ちょ れわれにあらわれうる一切の物に関しては、時間は必然的に 客観的である。われわれは「すべての物は時間のうちにあうど空間の観念性がそうされてはならなかったのと同じく、 る」とはいうことはできない。なぜなら、物一般の概念に感覚とすりかえられて両者が同じに見られてはならない。な時 ぜなら、感覚の場合には、やはりこれら感覚的述語の付属し は、物を直観するあらゆる仕方は捨象せられているが、しか 性し直観こそ、そのもとに時間が対象の表象に所属するところている現象そのものについて、その現象が客観的実在性を持 っていることが前提されているからである。しかるに空間や 的の本来の条件であるからである。ところでもし条件が概念に 先付加されて、「すべての物は、現象 ( 感性的直観の対象 ) として時間の場合にはこのような客観的実在性は、それが単に経験・ は、時間のうちにあるーといわれるならば、この原則はその的である場合でなければ、すなわち対象そのものを単に現象 十分な客観的正当性と先天的普遍性とを有することとなる。 として見る場合でなければ、まったく棄て去られるのであ
510 するのであるから、この世界においては、道徳性と結合しそ結合し、この世における一切の幸福の原因をなしているよう な知性の理念を、幸福が道徳性 ( 幸福たるに価することとして れと比例した幸福というような体系もまた必然的なものとし て考えられる。なぜなら道徳法則によって、時には動機づけの ) と厳密な比例関係をなしているかぎりにおいて、わたく しは最高善の理想と名づける。したがって純粋理性は、根源 られ時には制御される自由そのものが、一般的幸福の原囚と なるであろうし、またしたがって理性的存在体自身が、この的最高善の理想のうちにおいてのみ、派生的な最高善、換言 9 ・ー ような原理に導かれて、彼ら自身及び同時に他の存在者の持すれば叡知的すなわち道徳的世界の両要素と〕の実践必然 続的福祉の創造者となるであろうからである。しかしこのよ的結合を見いだすことができるのである。感官はわれわれに 現象の世界以外を示しはしないけれども、われわれはいまや うな自己報償的道徳性の体系は、単に一つの理念にすぎず、 これが実行されるためには、各人がその為すべきことを為す理性によって、必然的に自己をこのような道徳的世界に属す こと、換言すれば、理性的存在者の一切の行為が、あたかもそるものとして表象せざるをえないから、われわれは感性界に れがあらゆる私的決意をそのうちに、或いはその下に包括すおけるわれわれの行動の結果として、この道徳的世界を、わ れわれに対する未来の世界として想定せざるをえないであろ る最高意志から発したかのように為されることを条件とし、 その上に基づかねばならないのである。しかし各人が自由をう。感性界はわれわれにこのような結合を示しはしないので 特殊的に意志の自由として用いるにあたっては、たとい他人あるから。したがって神と来世とは、同じ純粋理性の原理に が道徳法則に従 0 て行動しなか「たとしても、自分が道徳法よ 0 て、その純粋理性がわれわれに課する責務と、不可分離 則によって拘東されることにかわりはないのであるから、道に結合している二つの前提なのである。 道徳性はそれ自身として一つの体系を構成する。しかし幸 徳性の結果と幸福との関係がどのようであろうかは、世界に おける事物の性質からも、行為そのものの原因性や行為と道福は体系を構成しはしない。もっとも幸福が道徳性に厳密に 徳性との関係からも規定されない。そして幸福たろうとする合致して配分されているかぎりにおいては別であるが。しか 願望と幸福に価するようになろうとする不断の努力との、上しこのような合致は、一人の全知なる創造者にして支配者の に述べた必然的結合は、単に自然を根柢におくのでは理性に下にある叡知的世界においてのみ可能である。理性はこのよ よって認識されることはできず、道徳法則に従って命令する うな支配者を、われわれが来世として見なさざるをえないよ ところの最高理性が、同時に自然の原因としても根柢におか うな世界における生とともに、想定せざるをえず、もしそう れるときのみ、望むことが許されるのである。 でなければ、道徳法則を空なる幻想と見なさざるをえないこ 道徳的に最も完成した意志が、そこにおいて最高の浄福と とを知る。なぜなら、同じ理性が道徳法則と結合せしめたと B838 A810
る。実に純粋理性は、自分自身以外の何ものをも間題とする身において何らか現実的なものとして想定されるものではな 蝨ものではなく、またそれ以外の仕事をなしえないものであ 。それは単に感性界の事物のあらゆる結合を、あたかもそ れらがこの理性体のうちに根拠を有するかのように見なすた る。なぜなら純粋理性に与えられるものは、経験概念の統一 めに、蓋然的に根柢におかれているものにすぎない。 ( なぜな をうけるための対象ではなく、理性概念の統一をうけるため らわれわれはこのような理性体に、いかなる悟性概念をもってするも の、すなわち原理における連関の統一をうけるための悟性認 識であるからである。理性統一は体系の統一であり、この体到達できないから ) 。しかもその意図するところは、もつばら 系的統一は理性に対して、対象の上に理性を及ぼすための原体系的統一を基礎づけることにあり、そしてこの体系的統一 ことっ こそ理性にとっては不可欠であるが、経験的悟性認識冫 則として客観的に役立つのではなく、対象に関するあらゆる 可能な経験的認識の上に理性を及、ほすための格率として、主てはあらゆる面でそれを促進せしめ、しかも決してそれの障 観的に役立つのである。にもかかわらす、理性が経験的な悟碍となるはすのないものなのである。 もしこの理念が、体系的な世界構造の根柢をなすと考えら 性の使用に対して与えることのできる体系的連関は、この使 用を拡張するばかりでなく、また同時に正当性をも確証する。 れでもする現実の事物を主張するものとされ、或いはまた単 そしてこのような体系的統一の原理は客観的でもある。しか にそれだけを前提するもののように見なされるとすれば、こ の理念の意味はただちに誤解される。むしろそのような世界 しそれは未限定的な仕方においてであり ( pr 一 nc um vagum) 、 或るものをその直接の対象に関して限定するための構成的原構造に関してのわれわれの概念の及ばない根柢が、それ自身 理としてではなく、単なる統整的原理及び格率として、理性としてどのような性質のものであるかなどはまったく決定の ほかにおき、ただ理念をもって、理性にとってはかくも本質 の経験的使用を、悟性の知らない新しい道をひらくことによ って、経験的使用の法則に少しも背反せすに無限に ( 未限定的的であり、悟性にとってはかくも益すること多きかの統一 が、そこからのみ展開される観点たらしめるのである。二一口 に ) 促進し、確立するためにである。 けれども理性がこの体系的統一を考えるには、同時に一つ にしていえば、この先験的事物は、理性がそれによって自己 の能うかぎり、あらゆる経験の上に体系的統一をおし及ぼそ の対象を自己の理念に与えざるをえない。しかしこの対象は うとする、かの統整的原理の単なる図式にすぎないのであ いかなる経験によっても与えられることはできない。けだし る。 経験は決して完全な体系的統一の例証を与えるものではない このような理念の第一の客体は、単に思惟する自然 ( 魂 ) と からである。ところでこの理性体 (ens rationis ratiocinatae) して見られた「わたくしー自身である。もし思惟する存在体 はもちろん単なる理念であり、したがって端的にかっそれ自 B710 A682
な規則の真理性が、それによって帰結されるような性質のも 気とに ( いわばそれを媒介として土、塩及び可燃体が作用する機関 ) のではない。けだし同じ想定された原則から帰結されながら、 に帰せしめるのである。けだし実際にはそういう言葉は用い られていないにしても、やはり自然研究者の分類に対して理その原則の普遍性を証明するような帰結が、そもそも可能な 性がこのように影響していることは、きわめて容易に見いだ帰結としてこれを知ることができるはずはないからである。 理性の仮説的使用はむしろ統整的たるにすぎず、それによっ されることである。 て、できるかぎり特殊的認識冫 こ統一をもたらし、それによっ 理性が特殊を普遍から導き出す能力であるとすれば、一つ て規則を普遍性に近づけようとするものである。 の場合においては、普遍はすでにそれ自身確実なものとして 仮説的な理性使用はしたがって、悟性認識の体系的統一を 与えられたものをなし、その場合には必要なのは包摂のため 目ざすものであるが、この統一は規則の真理性の試金石であ の判断力だけであり、特殊は判断力によって必然的に規定さ る。また逆に、体系的統一 ( 単なる理念としての ) はまったく単 れる。これをわたくしは理性の必当然的使用繹〕と呼ぼう と思う。他の場合では、普遍は単に蓋然的に想定せられ、単に目論まれた 2 さ〕統一にすぎず、われわれはそれをそれ 自身与えられたものとして見てはならず、単に蓋然的なもの なる理念にすぎす、特殊は確実ではあるが、しかしこの帰結 として見なければならない。しかしそれは多様にして特殊的 として生じた特殊に適用される規則の普遍性はなお蓋然的な な悟性使用のために原理を見いだし、この原理によって悟性 ものである。そうなると多くの特殊な場合は、総じて確実で 使用を、まだ与えられていない場合にまでも導いて総括的た はあるが、それらが規則に基づいて生ずるものかどうかを、 らしめる役をなすのである。 規則に即して吟味されることになる。そしてこの場合、もし 《 08 すべての提示される特殊な場合がこの規則から由来するよう けれどもこのことから単に知られることは、多様な悟性認 識の体系的統一或いは理性統一が、悟性だけでは規則に到 に見えるならば、規則の普遍性が推定され、しかも後には、 この規則に基づいて、それ自身与えられてもいないあらゆる達しない場合に、理念によって悟性の進みゆきを援助し、同 論場合が推論されるにいたるのである。わたくしはこのような時に悟性規則の相違に対して一つの原理に従う一致 ( 体系的 な ) とそれによって連関とを、できるかぎり与えるための論 理性使用を、理性の仮説的使用納〕と名づけようと思う。 その根柢におかれた理念が蓋然的概念としての理念であ理的原理である、ということである。しかし対象の性質が、 先 或いは対象を対象として認識する悟性の本性が、それ自身体 り、そういう理念に基づいてなされる理性の仮説的使用は、 本来構成的ではない。すなわちわれわれがあらゆる厳密性に系的統一を持つように性質づけられているかどうか、またこ 従って判断しようとする場合、仮説として想定される普遍的の体系的統一が先天的に、理性の体系的関心と無関係にも或 B 675 A647
である。 ものは御免をこうむりたい。けだし結局はやはり、単に思弁 かくて上に述べたことから十分に知られることは、先験的的な証明の帰するところはすべて、唯一の証明、すなわち実 問題の承認するところが、先験的な解答、すなわち少しも経体論的証明であるから、そこには大して選択の余地はないの 験的なものの混入しない純粋な先天的概念に基づく解答のみである。したがってわたくしは必すしも怖れる要はない。特 であることである。問題はここではしかし明らかに総合的にかの、感性から遊離した理性を独断的に擁護する人たちの で、われわれの認識を、経験のあらゆる限界を越えて拡張すなす様々な成果によって、煩わされることを柿れる要はない。 のみならずまたわたくしは、それだからといって自分をはな ることを要求する。換言すれば、とうてい何らかの経験と同 等ではありえない単なる理念に対応すべき存在体の現実的存はだしく好戦的だとは思わないが、この種のあらゆる試みの 在へと、拡張することを要求するのである。ところで、われわ 68 うちに推理の誤謬を摘発して、それによって独断的擁護者の れの上に述べた証明によれば、あらゆる先天的総合認識は、思い上りを空無たらしめよという、挑戦をも拒むものではな い。とはいっても決してそのために、ひと度独断的主張に馴 それが可能な経験の形式的条件を表現することによってのみ 可能なのであり、したがってあらゆる原則は内在的妥当性をらされた人々の抱いているよりよき幸運の希望がまったくな 有するにすぎない。すなわちあらゆる原則はもつばら経験的くなるのではない。したがってわたくしの主張するのは、ど 認識の対象、或いは現象にのみ関係する。したがって先験的のようにして人は、自分の認識を、まったく先天的に拡張し 手続をもってしても、単なる思弁的理性の神学に関しては何て、いかなる可能な経験も及ばず、したがっていかなる方法 らの成果もえられないのである。 もわれわれ自身の考え出した何らかの概念にその客観的実在 しかしもし人あって、このように永く用いられてきた論拠性を保証しえないような所にまで、拡大しはじめるのである をすててその持っ主張の重要性を否定し去るよりも、むしろか、それを普遍的にかつ人間悟性並びにその他のあらゆる認 分析論の上述の証明をすべて疑う方をとりたいということで識源泉の本性から弁明せよ、という唯一の公正な要求のみで あれば、、 しったい彼は単なる理念の力によってあえて一切のある。悟性がどのようにしてこの概念に達しうるにしても、 可能な経験を飛び越すことを、いかにして、またいかなる覚 この概念の対象が現実に存在することはやはりこの概念をい オい。なぜなら客体が実際に 悟をもってなそうとするのであるか、それについて、少なく かに分析しても見いだされはしょ ともこれを正当化すべきことをわたくしが要求するとき、こ存在していることが認識されるのは、まさにこの客体が思想 の要求に満足を与えることを拒みえないはずである。新しい の外にそれ自身として定立されていることによるからであ 証明や、或いは古い証明に手を入れて改良したというような る。しかるに概念に基づいて概念自身を超越したり、経験的 B667 A639
の忠告をもきき入れさせない重要な迷妄であることに気づか 命題であるとすれば、物が現実に存在するということによっ て諸君は物についての諸君の思考に何ものをも加えない。し なかったら、おそらくわたくしは、このいたずらに煩瑣な議 かしそうなると、諸君の考えている物は物自身でなければな 論を、単刀直入に、実際的存在という概念を十分に限定する らないか、さもなくば諸君は現実に存在するということを可だけで無用たらしめようと考えたであろう。論理的述語には 能性に属するものとして前提し、しかる後に現実的存在を内何でも欲するものをすべて用いることができる。のみならす 的可能性に基づいて推論したと僭称するかであるが、この後主語は自分自身をすら述語とすることができる。けだし論理 の場合は無意味な同語反復にほかならない。物の概念に含ま は一切の内容を捨象するものであるからである。しかし限定 れている実在性という言葉は、述語の概念における実際的存とは、主語概念を越えてこれに付け加わり主語概念を増大せ 在とは異なった意味を持っているのだといっても、この場合 しめる述語である。したがってこのような述語は、主語の中 の助けにはならない。けだし仮りに諸君があらゆる定立をにもともと含まれているわけにはゆかないのである。 ( 諸君の定立するものが何であろうと ) 実在性と称するとしても、 あるということは明らかに何ら実在的述語ではない。すな 諸君はその物を、もともと主語の概念中に含まれたそれのあわち何か物の概念に付け加わりうる或るものの概念ではな らゆる述語とともに定立して、これを現実的なものとして想 。それは単に或る物の定立、或いは一定の限定そのものの 定し、述語においてそれを繰り返しているにすぎないのであ 2 定立である。論理的使用においてはそれはもつばら判断の繋 るからである。またこれに反して、もし諸君が、理性的な人ー 1 辞である。「神は全能である」という命題は、神と全能という ならば誰しも当然承認せざるをえないように、「すべて実際それそれの客体を有する二つの概念を含んでいる。あるとい 7 ー 9 的存在に関する命題は総合的である」ということを承認する う小詞はそれにさらに加えられた述語ではなく、単に述語を まもしわたくしが主 とすれば、その場合諸君は、存在するという述語を除去する主語に関係せしめるものにすぎない。い ことは矛盾を犯すことになる、ということをどうして主張し 語 ( 神 ) をそれのあらゆる述語 ( その中には全能も含まれている ) 論ようとするのか ? 主語に含まれている述語を除去したら矛と一緒に総括的に意味して「神はある」或いは「神というも 飛盾を犯すことになるという長所は、ただ分析的命題だけの特のはある」というとすれば、わたくしは神の概念に何ら新し い述語を付加せす、ただ主語自身をそれのあらゆる述語とと 験徴として分析的命題にこそ基づき、分析的命題にのみ属する もに定立するにすぎず、しかもわたくしの概念に関係した対 独自のものであるからである。 もしわたくしが論理的述語と実在的述語 ( すなわち物を限定象を定立するだけである。この概念と対象との含むところは する述語 ) とを混淆することから生する迷妄が、ほとんど一切まったく同一でなければならす、したがってわたくしがその
然的であるが、同様に人々は、まったくわれわれの悟性の領られるからというのである。 域外にある対哽についても、この対象の概念によって人々の 同一判断において、もしわたくしが述語を除去して主語を いおうとしているものを、まったく完全に理解しているかの保持すれば、矛盾が生する。であるからわたくしは「述語は ように語るにいたったのである。 必然的に主語に属する」というのである。しかしもしわたく すべて上に述べた例証は例外なく単に判断からのみとられしが主語を述語とともに除去するなら、何ら矛盾は生じない。 たもので、物とその現実的存在とからとられたものではなけだしその場合にはもはや、それに対して矛盾しうるような い。判断の無条件的必然性はしかし、事がらの絶対的必然性 24 ものは何ものも存在しないからである。三角形を定立しなが っ 4 0 》 ら三角形の三つの角を除去するならば矛盾するが、しかし三 ではない。けだし判断の絶対的必然性は、単に事がらの、或 しは判断における述語の、」 約された必然性にすぎないからー ( 角形をその三つの角とともに除去するなら、何らの矛盾もな 。絶対的必然的存在体という概念についても、事情はちょ である。上の命題のいおうとしたところは、「三つの角が端 的に必然的である」ということではなくて、「三角形が存在うど同じである。もし諸君が絶対的必然的存在体の現実的存 する ( 与えられている ) という条件のもとでは三つの角 ( 三角形在を除去すれば、諸君は物自身をあらゆるそれの述語ととも における ) もまた必然的に存在する」ということであったの に除去するわけであり、そうとすればどこに矛盾の由来する であゑにもかかわらずこの論理的必然性は、あまりにも強はすがあろう ? 外面的にはそれに矛盾するような何ものも 力な幻惑力を発揮したために、人々が一つの物について先天ない。けだし物はその場合外面的に必然的に存在するはずは 的概念を構成すると、この概念を通して、自己の臆見のまま ないからである。また内面的にもそれに矛盾するような何も に現実的存在をもこの概念の外延の内に同時に含ませ、この のもない。けだし諸君は物自身を除去することによって、同 ことから、この概念の客体には現実的存在が必然的に属する時にすべて内面的なものを除去してしまっているからであ として、換言すれば、わたくしがこのような物を与えられた る。「神は全能である」というのは必然的判断である。諸君 が神性を、すなわち無限な存在体を定立するとすれば、その 論もの ( 実際に存在するもの ) として定立さえすれば、この概念の 現実的存在もまた必然的に ( 同一律によって ) 定立され、した 概念は全能という概念と同一なのだから、全能ということは がってこの存在体はそれ自身端的必然的であると、確実に推排除されることはでぎない。しかしもし諸君が「神は存在し 先論できると信じられたのである。つまり、この存在体の現実ない」というとすれば、全能ということも、神についてのそ 的存在は、任意に想定された一つの概念のうちに、そしてわの他の何らかの述語も存在しない。けだしそれらの述語はす たくしがそうした概念の対象を定立さえすれば、同時に考え べて主語とともに排除されるからであり、この考えには少し A595
かったら、自分自身どんなに寛大な裁判官であったとして 思弁的理性に基づく神の現実的存在の証明法は三 も、自分自身に対して弁明の余地がないであろう。 種類だけが可能である この論証は偶然的なものが持っ内的不完全性を論拠とする もので、実際に先験的であるとはいえ、やはりきわめて素朴 神の現実的存在を証明しようとする場合、われわれのとり 自然な論証であるから、ひと度人間の心がこの論証に導かれうるあらゆる道は次の三つである。明確な経験と、経験によ れば、最も普通の人間の心にもただちにうけ容れられる論証って認識されたわれわれの感性界の特殊な性質とから出発し である。われわれは物が変化し、生起し、消減するのを見て、そこから原因性の法則に従い、世界の外なる最高原因へ る。したがって物は、或いは少なくとも物の状態は、原因をと遡るか、単に漠然たる経験、すなわち何らかの現実的存在 持たなければならない。しかもいやしくも経験において与え 8 。を経験的に根拠とするか、或いは最後に、あらゆる経験を捨 象してまったく先天的に単なる概念から最高原因という現実 られうるどの原因についても、それそれさらに同じく原因が 2 問われる。ところでわれわれが最上位の原因性をどこにおくー 1 的存在へと推論するかである。第一の証明は物理神学的証明 (der physikotheologische Beweis) であり、第一一の証明は宇宙 のを適当とすべきかであるが、最高の原因性のあるところ、 すなわちあらゆる可能な結果に対して完全性を自己自身に根論的証明 (der kosmologische Beweis) 第三の証明は実体論的 証明 (der ontologische Beweis) である。これ以外の証明は存 源的に包蔵し、その概念がまた一切を包括する完全性という、 唯一の長所によって容易に成り立つような存在体におくより 在せす、また存在することもできない。 以上に適当な箇所がどこにあるはすがあろう。この最高の原 わたくしは理性が一つの方法 ( 経験的方法新一一と〕 ) によ 0 て 因を、われわれはこのとき端的に必然的なものと考える。な も他の方法 ( 先験的方法 ) によ「ても、ともになすところ ぜならわれわれはこの最高の原因まで遡ることを端的に必然のない点において同様であること、また理性がその翼を張っ 的であると見、それを越えてさらに遡る何らの理由を見いだて単なる思弁の力によって感性界を越え出ようとしても無駄 であることを示すであろう。しかしこの証明法が吟味されね 論さないからである。そのためにわれわれは、あらゆる民族に 飛おいて、その最も盲目的な多神教を通じてすら、やはり一神ばならない順序に関しては、それはちょうど、徐々に自分を 教の若干の火花のひらめくのを見るのである。人々を一神教拡張してゆく理性のとる順序、そしてわれわれも最初証明法 先 へ導いたものは反省や深い思弁ではなく、ただ徐々に理解力をそのように並べたのであるが、そのような順序とは逆の順 をえてゆく普通の悟性のおのすからなる歩みなのである。 序となるであろう。けだし、この証明に最初の機縁を与える ものは経験であるとはいえ、やはり単に先験的概念のみがこ B 619 A591 1
うな総括の理念を持つが、しかしこの理念は、この総括を構あるが、これは、その概念がそれ自身ですでに一つの存在を 成しうる述語に関してはそれ自身なお曖昧であり、われわれ表現し、したがって現実性 ( 事実性 ) と呼ばれる或るものであ がこのような理念によって考えるのは、あらゆる可能な述語 る。というのはこの先験的肯定によってのみ、またこの先験 一般の総括以外の何ものでもない。とはいえやはりわれわれ的肯定の及ぶかぎり、対象は或るもの ( 物 ) であるが、これに はさらに詳細な研究によって、根源的概念としてのこの理念対立する否定はまったく欠如を意味し、この否定のみが考え : 、派生的述語として他の述語によってすでに与えられてい られるところでは一切の物の排除が表象されるからである。 つ -4 る述語や、相互に両立することのできない述語の多数を排除 —ä< がんらい誰でも否定を考えるにあたって、それに対立する するものであること、そしてこの理念が自己を純化して徹底 ~ 冂定をその根柢におかなくては、これを明確に考えることは 的先天的に規定された概念にまでいたり、かくて一つの個別できない。生来の盲者はどうしても闇という表象をつくるこ 的対象の概念となることを知るのであるが、この対象は単な とはできない。光というものを持たないからである。未開人 る理念によって徹底的に規定されており、したがって純粋理は貧乏というものを知らない。富裕ということを知らないか 性の理想と呼ばれねばならないのである。 らである。無学者は自分の無学を知らない。 学というものを われわれがあらゆる可能な述語を、単に論理的にのみなら知らないからである、等々。したがってすべて否定性の概念 といっても派生的であり、実在性こそあらゆる物の可能なた ず、先験的に、すなわちそれらの述語について先天的に考えら れうる内容に従って考察するならば、或る述語によっては存めの、また徹底的限定のための資料を、いわば質料或いは先 在が、他の述語によっては単なる非存在が表象されることを験的内容を含むものなのである。 * 天文学者の観察と計算とはわれわれに多くの驚嘆す・ヘきことを教えた ョはという小司によっ 知る。論理的否定はも 0 ばら「ド」〔或 が、その最も重要なことは実に、それがわれわれに無知の深淵を知らしめた て示されるにすぎず、本来決して概念に関するものではなく、 ことである。天文学の知識を与えられなかったら、人間の理性はとうてい かえって単に判断における概念と概念との関係に関するもの この無知の深淵をこれほど大きく思い浮かべることはできなかったであろ う。そしてこの無知の深淵への深い考察が、われわれの理性使用の究極意図 論であり、したがって一つの概念をその内容に関して示すには を規定する上に、大きな変革をもたらすに相違ないのである。 弁きわめて不十分たらざるをえない。「不死ーという言葉は決 かくてもしわれわれの理性における徹底的限定の根柢に一 験して、それによって対象における単なる非存在が表象される 先 ことを認識せしめるものではありえす、むしろ一切の内容に つの先験的基体がおかれていて、これがいわば、そこから物 はふれていない 。これに反して先験的否定は非存在それ自身のあらゆる可能な述語がとられうる、素材の全貯蔵庫を蔵す を意味し、この非存在に対立せしめられるのが先験的肯定で るものであるとすれば、この基体は全実在性 (omnitudo real- B604 A576
概念はすべて、自分自身のうちに含まれていないものにつとして存在しうるための資料を先天的に含んでいるはずであ いては規定されておらず、被限定性の原則に従う。すなわる、という前提を含むものである。 * したがってこの原則により、物はいずれも、共通した相関者、すなわち ち、それそれ矛盾対当の関係に立っ二つの述語のうち、いす 総括された可能性に関係せしめられる。そしてこの総括された可能性は、もー ( れか一つのみがその概念に属することができる、という原則 しそれが ( すなわちあらゆる可能な述語のための素材が ) 一つの個物の理念 のうちに見いだされるとすれば、あらゆる可能なものの徹底的限定の根拠が であって、これは矛盾律に基づくものであり、したがって認 同一であることによって、あらゆる可能なものの親和性を証明することとな 識のあらゆる内容を捨象し、認識の論理的形式以外の何もの ろう。すべて概念の被限定性は排中律の普遍性 (Universalitas) に従属せし をも眼中におかない単に論理的な原理である。 められるが、しかし一つの物の限定はあらゆる可能な述語の全体性 ( Un 、 しかし物となると、物はすべて、その可能性の面から、 sitas) すなわち総括に従属せしめられるのである。 . なお徹底的限定の原則に従う。この原則に従うと、物のあら 「すべて現実に存在するものは徹底的に限定されている」と ゆる可能な述語のうち、それらの述語がその反対と比較され 。 2 いう命題は、矛盾対当として与えられた述語の各一対のうち 0 っー・ このことよ 65 るかぎり、一つの述語が物に属さねばならない。 ( < の一方がつねにこの存在に属することを意味するのみでな というのはこのこと 単に矛盾律にのみ基づくのではない。 く、あらゆる可能な述語のうちの一つがつねにこの存在に属 は、二つの矛盾対当に立っ述語の関係以外に、それぞれの物することを意味している。この命題によって、単に述語が相 を、なお物一般のあらゆる述語の総括としての全部の可能性互に論理的に比較されるばかりでなく、物自身があらゆる可 能な述語の総括と先験的に比較されるのである。この命題の に対する関係において考察するからである。そしてこのこと はこのような全部の可能性を先天的条件として前提するもの いおうとするところは、物を完全に認識するためには、あら であるから、それぞれの物を表象するにも、この全部の可能ゆる可能なものを認識し、もって、肯定的であるにしろ否定 性についてその物の持っ持ち分に基づいて、物自身の可能性的であるにしろ、物を限定しなければならない、ということ を導き出し、それをそのまま表象するのである。徹底的限定である。徹底的限定とはそれゆえ、われわれがとうてい具体 の原理は、したが「て内容に関するものであ 0 て、単に論理的にはその総体性の面からこれを示すことのできない概念で 的形式にのみ関するものではない。それは物の完全な概念をあり、したが 0 て悟性に対してその完全な使用の規則を指示 なすべき一切の述語を総合する原則であ「て、単に二つの矛するところの、理性のうちにのみその座を有する理念に基づ くものである。 盾対当に立っ述語の一方によるところの、分析的表象の原則 ところであらゆる可能性の総括がそれぞれの物の徹氏的眠 ではなく、それは一つの先験的前提を含んでいる。すなわち 一切の可能性のための質料とは、それぞれの物が特殊なものー【定の条件としてその根柢に存するかぎり、われわれはこのよ 三ル B601 A573