しかし、カントの内面の歴史をさぐるための資料は、遺博 も、おそらく彼の生活そのもののなかから生まれたものと見 て誤りあるまい。事実、カントはみずから生きたところを説ながらはなはだ乏しい。生前のカントの側近にあってカント き、教えたところをみすから生きた人であった。カントの生の死後カントの伝記を書いたポロフスキ B 。 r 。 wsk 一ャッ ( マ ン Jachmann ヴァジンスキ Wasinski ら三人の提供してく 活と哲学とは一つであったとさえいえるのである。 しかしカントの生涯は、周知のように、はなはだ単調なもれているものも、ただ壮年期以後のカントの生活ばかりで、 のであった。外的事件の乏しさにおいて、ゲーテやシラーのしかもそれもおもに外面的なことに触れているにすぎず、カ ような文学者などとはもとより比較すべくもないが、歴史上ント哲学として発展をとげるような内的な動機を明らかにし の哲学者のなかでも、カントほど単調な生涯を送「た人は珍てくれてはいない。残された書簡も、ほとんどが後期のもの しいであろう。カントはケーニヒスペルクに生まれ、大学卒で、その内容も多くは著作に関する記述に限られている。し たがって、カントの精神的発展の過程あるいはカント哲学の 業後の数年を家庭教師として田舎で暮らしたほかは、八十年 生成は、これを彼の著作から理解するほかはないように思わ み生涯を一度もこの町から離れることなく、生まれ故郷ケー れる。 ニヒスペルクで死んだのである。 ニーチェは、ギリシアの哲学者たちの叙述について、あの しかし思想家の生活の意義は、もちろん外的な出来事の多 っ浩瀚なツェラーの哲学史よりもむしろディオゲネス・ラエル さに依存するものではなく、内面生活の深さと広さにかか ている。思想家が自己を取りまく環境と自己の生きている時テイウスの列伝を推し、逸話が三つあれば、りつばな哲学者 像を描けると称しているが、遺憾ながらわたくしには、伝記 代に対していかに身を持したか、いかに自己の人格を貫き、 自己の生活をととのえたか、にかかっている。簡単に言え作者たちの語り伝えている、カントにまつわる数多い逸話か らさえ、哲学者としてのカントの像を描き上げるだけの力が 冫いかなる生き方をしたかだけが問題なのである。カント の一生は、学問の研究にささげられた静かな生活の連続で、 ない。だから主として、『純粋理性批判』が出来上がるまで 外的にはむしろなんの変哲もないじみなこの生活に包まれたのカントの生活と著作を通して見られる思想発展の過程とを 内面の深みから、人類の歴史を動かしたともいえるあの偉大概観しながら、カント哲学の精神と見られるものをいくつか な思想が生み出されたのであった。カントがもっともよく理指摘して、この解説の責を果たすことにしたいと思う。 解していたあの美的感情、すなわち崇高の感情にしても、た イムマヌエル・カント lmmanuel Kant は一七二四年四 だ天空しかながめることのできないような狭い環境にあって はじめて感得されたものであるとも見られるのである。 月一一十二日、東プロシアの首都ケーニヒスペルクに、一馬共
539 解説 えられるであろうが、そこにあらゆる哲学の基礎をなすもの と共通な何ものかが含まれているからに違いない。そしてそ 解説 のような思想の核心というものよ、、、 し力なる哲学者の場合で カントの生涯 も、多かれ少なかれ、その哲学者の人格と密接につながって いる。思索する主体のない思想というようなものは抽象的な 桝田啓三郎 思想であって、およそ哲学の思想が具体的と考えられるかぎ 新カント学派の驍将ヴィンデル・ ( ントは、一八八三年、そり、その思想はその主体、すなわちその哲学者の人格と切り の「序曲」初版の序で、「われわれ十九世紀において哲学す離すことはできない。もちろん哲学の歴史の上では、その人 格や生涯が重要な意味をもたない哲学者も多い。しかし哲学 る者はすべて、カントの弟子である」と書いている。カント というもののあり方を厳密に考えるならば、生活や人格とま 哲学の復興のとき、というよりも新カント学派の勃興のとき ったく無関係な哲学などありえないであろう。少なくとも、 に書かれたこの言葉は、一一十世紀も半ばを過ぎた今日では、 しかしカントの第一流の思想家にあっては、その思想の魅力は同時にその晢 遠い昔の思い出としてしか響いてこないが 学者の魅力でもあるといってよいであろう。カントの場合も 哲学が残した影響ははかり知れぬほど大きく、意識されてい るといないとにかかわらず、かなり多くの哲学者が今日なおそうであって、カントの諸学説は普通に考えられている以上 に、彼の生活および人格と密接に関係をもっているのであ カントの影響下にある。新しいカント研究が相ついであらわ る。このことについて、ゲーテはその晩年の友ファルク D. ースな れているというばかりでなく、ハイデッガーやャスパ J. Falk にこう語っている。 どの新しいカント解釈の試み、そして彼らの思想におけるカ 「カントは厳格に節度を守る人だったので、この彼のもって ント哲学の摂取の跡を考えるだけで、その一端をうかがうこ とができるであろう。ドイツの文学者フリートリヒ・ヘッペ生まれた傾向に哲学を一致させる必要があったのだ。彼の生 力いかに快ノ、立 7 ルはカントを、同時代のフリートリヒ大王よりもはるかに強涯を読んで見たまえ、そうすれば、カント、、、 力に世界を動かしゆすぶった思想家だと言ったが、カントの時の社会状態と事実はっきりと対照をなしていた彼のストイ シズムのかどを取って力をそぎ、それを調節して世間と釣合 哲学が、およそ哲学というものの存続するかぎり、いつまで わせたかが、すぐにわかるだろう」 も影響を与えつづけるであろうことは疑う余地がない 見方によってはカント哲学の中心ともいえる倫理学あるい そのようないわば永遠の影響力がカント哲学のどこにある のか、それは時代により、また人により、それぞれ異なって考は道徳説において特にそうである。カントの「自律」の思想
たちのあいだで異説紛々としていて定説がない。わたくした ちは自分でヒュームを読みカントを学んで、この時期以後の 年 カントの思想の発展のうちに、自分でそれを探ってみるより ほかはよい。しかしカントがすでに批判前の第一一期にはいる 作少し前の頃から数年にわたってヒ = ームの研究にたずさわっ ~ マていたことは疑いない。当時カントの聴講者であったボロフ スキは、そのころすでにカントにとって「ハッチソンとヒュ ームは、前者は道徳の分野で、後者はカントの深い哲学的研 。像究において、とくに重要な人であった。」そしてカントは「わ のれわれにできるだけ綿密に研究することをすすめたーと伝え ンておるし、シェフナー Scheffner は一七六六年八月十六日の カ 日付で、ヘルダーにあてて「学士 ( カント ) はいまずっとイギ リスにいます。ヒュームとルソーがそこにいるからです」と 書いているからである。カントがヒュームに注目するにいた たしは率直に告白する、デヴィッド・ヒュームの警告こそ、 ったのは、、 ーマンのすすめによってであったかどうか、正 数年前はじめてわたしの独断のまどろみを破って、思弁哲学 ーマンが一七五九年七月 の分野におけるわたしの研究にまったく別の方向をとらせた確なことはわからない。しかし、 ものであった」という有名な言葉であらわしている。つま二十七日にロンドンからカントにあてて書いた長い手紙がカ り、ヒュームの懐疑論といわれるものによって、カントはラ ントを強く刺激してヒュームへの関心を呼びおこしたのでは ーマンは ないかとは、とかく想像したくなることである。ハ イプニツツ・ヴォルフ派の独断論から、古い形而上学から、 離脱するにいたったというのである。たしかにヒュームは、 そこでこう書いている。 ルソーが道徳的、実践的な立場にたいして与えたのと同じよ 「ヒュームという機知に富んだ哲学者は、卵を食ったり一ば うな大きい影響を、理論的な立場においてカントに与えたの いの水を飲んだりしなければならなくされると、信仰が必要 であった。しかし、いつごろ、どの書物から、どういう間題になるのです。彼は言います、モーセ、つまり哲学者の楯に にたいして、どういう考え方によって、カントがそのような とる理性の律法は、わたしに永劫の罰を加える、理性は賢く 決定的な影響を受けたのかという問題は、古くから専門学者なるために君らに与えられているのではなく、君らの愚かさ
的傾向に対立するものとして登場したと見なされている。カ くとも今日反映理論の次第に向かっている詳細綿密な研究 ントがその哲学を究極的にはキリスト教的信仰を志向して建は、その分析的側面に関するかぎり、一般に信じられている 設したかぎりにおいては、宗教と対立しようとするマルクス程にはカントの先験的認識論と対立するものではない。もと 主義とカント哲学との対立を否むことはできない。けれども もとカントの認我論は、単純に「カント的観念論」という、 カントの形而上学とはあくまでも批判的形而上学であって、 い方でいい去られるべきものではなく、少なくとも先験的或 むしろそのいわゆる批判を通してカント以前の独断的形而上 いは批判的観念論として、もっときめ細かに理解されねばな 学を破砕しようとしたものであった。批判とはカントにあっ らないものであろう。マルクス主義陣営の間から取り上げら ては、すべて存在するものにそれそれその存在の理由を認めれた形式論理学と弁証法との関係の問題についても、むしる るとともに、しかしその存在の理由に関してはそれぞれ然る この問題解決の鍵はカントの「理性批判」のうちにこそある べぎ範囲と限界とを明示しこれを制限することによ 0 て、そように思われる。 の越権と専横とを抑止することであった。もしこのカントの 現代のいわゆる科学哲学者たちから加えられるカントへの 批判の意味が見のがされなか 0 たならば、ルクス主義が蒙否定的な批判についてもほぼ同様にいえるように思う。カン 昧と宗教的盲信とを支えるものとしての独断的形而上学と闘 トが当時の形式論理学やユークリッド幾何学乃至はいわゆる うものであるかぎり、カントの批判は必ずしも「ルクス主義古典物理学の範囲内で基礎づけえたと信じた論理学や数学や と対立するものではない。単に形而上学とか宗教とかという 自然科学の基礎づけなるものは、今日においてはすべてすで 名称を一面的に誤解すべきではなくて、すべてカントの意味に基礎づけの意味を失 0 たものであると一応はいうことがで での厳密な批判を欠いた独断が、非哲学的、したがってまた、 きるであろう。けれども例えばカントの空間論は、当時とし すべて存在するものが持っそれぞれの存在の根拠を公平冷静てはユークリッド 空間以外の空間は考えられていなかったに に評価せしめない誤謬冫 こ導くものであることを、われわれは しても、カントの意図は、将来あらわれうべき空間があると カントから学ばねばならないと思う。「信仰に余地を与える して、それら一切の空間がやはりそのうちで成立せねばなら 題 ために、知識を除去しなければならなかった」 (m 序 ) という ないような根源的直観としての空間であった。その他ここに カントの言葉は、或る人たちにはいわば独断的に礼讃され、 詳論する余裕はないけれども、要するにそれらの科学哲学者 解 また或る人たちによっては、独断的に拒否されたのである。 たちは、アリストテレスのいわゆる「われわれにとって先な その認識論に関するマルクス主義のいわゆる反映理論とカン るものから」の立場にとどまっていて、「本性上先なるもの トの単純に観念論と呼ばれるものとの対立についても、少な からーという真の意味での哲学的立場 ( これが物理学の後に取
だかは、批判前期における自然科学的諸研究がこれを証してると述べ、「この能力は、他の能力から派生させられるもの いるばかりでなく、『純粋理性批判』そのものが、何より雄ではなく、真の意味における一つの根本能力であって、わた 弁にそれを語っている。しかし、すでに「天体の一般自然史しの考えるところでは、理性的な存在者にのみ特有なもので ある」と主張している。つまり、ここにすでに判断力が、の および理論』が、カントが単に客観的に外界に目を向けてい る自然研究者にすぎぬものではないことを示している。つまちに統覚と呼ばれる「自己意識」に還元されているのであっ て、こうしてカントの思想の枢軸の一つはここにすでに表現 り、カントはニュートンの原理に従いながら、のちに「コペ ル = クス的転回、の名で呼ばれるにいたるような考え方の萌されているとも見られうるのである。 カントはまた人間の尊厳と権利とをルソーから学んだ。こ 芽を見せているのである。はっきりいえば、そこでカントが ほんとうに間題にしているのは、宇宙や宇宙の構造ではなくのルソーの影響はニ = ートンのそれとともにカントにとって て、「宇宙についての学をうち立てることができるかぎりに決定的であった。簡素なカントの書斎のただ一つの飾りはル ソーの肖像画であったという。ルソーによって「人間を尊敬 おける人間」なのである。「外に向いていた自然研究者が、 内に向いた、人間の認識を吟味する精神研究者になろうとしする」ことを教えられてからはじめてカントは、あらゆる人 間が例外なく精神の自由を有すべきことを認めるにいたった ている」のである。この傾向は、『物理学的単子論』において も、『連動および静止の新説』においても、『負量の概念を哲のである。カントにおける意志の自律性の思想も、自律的な 自由な人格の思想も、そこから大きく成長したのである。 学に導き入れる試み』においても、多かれ少なかれひとしく それにヒュームに学んだ懐疑の精神が独断の迷夢をうち破 認められるのであって、これらすべての研究においてあくま でもニュートンの学説を信奉しながら、そして数学的、物理って、批判の精神が目ざめた。そしてこの目ざめの上に、ニ 学的研究に学ぼうとっとめながら、形而上学ないし哲学が単ュートンによって外界に向かって開かれた物理学者の眼と、 ルソーによって内界に向かって開かれた生きた人間の眼と、 に数学的、物理学的方法にのみ全幅の期待をよせえないこと この二つの極が、「わたしの頭上に輝く星空とわたしの内に を、カントはすでに感じているのである。『三段論法に四つ ある道徳律」とが、人間の自己意識という軸において結びつ の格を区別するのはこまかきに失すること』の終わりでは、 いたのであって、ここにカントの人と思想との中心があると 判断は「区別する」ことを意味するばかりでなく、「区別を いっていいであろう。カントの思想の核心をなすものは、ま 解認識する」ことをも意味し、この区別は判断と推理の区別よ さにこのような人間であって、カントのすべての著書はこの りも根本的であるとして、推論式をこまかく区別するよりも、 「どうして判断が可能となるかを洞察する」ほうが重大であ主題のヴァリエイションなのである。カントにおいて、人と
547 解説 3 カントの食卓仲間 思想を学ぶのではなく、思惟することを学ぶだろう』とカン トは学生たちにいつも繰り返した。彼は一切の盲従を心から 嫌った。カントほどしばしば、そして真剣に盲従をいましめ た教師はめすらしいであろう。けれども、彼の意見を自分で 吟味もせずに盲従する者が、カントには他の学者よりも数多 くいた、むろんカントはそういう輩をもっことを欲しなかっ た。自分で考えるーー自分で研究するーー自分自身の足で立 っ これが、たえずカントの口から出る言葉であった。」 カントは、できあがった哲学を学ばせるのではなく、哲学 することを教え学ばせたのである。「ひとは哲学を学ぶこと はできない、せいぜいただ哲学することを学びうるのみであ る」という『純粋理性批判』のなかの有名な言葉は、カント の教授活動におけるみずからの経験に発していたのである。 一七六〇年ごろまでのカントの著作活動はほとんど自然科 学上の諸問題に関している。すなわち、 一七五四年『地軸論』 『地球老衰論』 一七五五年「天体の一般自然史および理論』 『火に関する若干の考察の略述』 一七五六年『地震の原因について」 「地震におけるきわめて注目すべき出来事に ついて』 『続地震論』 『物理学的単子論」
カントがかれの時代において形而上学の名の下に総括した礎づけとは、哲学の社会科学化でも哲学の社会科学への解消 でもないであろう。そうとすればその基礎づけの哲学独自の 5 ところのものは、要するにあらゆる理性的学のうちから、一 般論理学、数学、自然科学を除いた、他の全領域を意味した方法とは何であろうか。マルクスはその『資本論』を書くに と考えることができよう。その意味でカント以後、カント哲あたって、ヘーゲルの「論理学」をくり返しくり返し読んだ といわれるが、ひろく文化科学、社会科学の基礎づけが問題 学の伝統の下に哲学を展開せしめた諸哲学者の間に、カント とされるとき、おそらくへーゲルの「論理学』をも含めて、 が形而上学の名の下に当時とりあっかったものに相応してと りあげられたのは、道徳、宗教の問題の他に、大きな意味をカントが理性批判において試みた厳密な批判的方法は、やは りくり返しくり返し読まれるべき、哲学的精神の真髄を示す もって「歴史ーの問題があった。ヴィンデル・ハントやリッケ ものというべきであろう。ヘーゲルの「論理学』においては ルトの問題がそれであったことはいうまでもなく、ディルタ イにおける「歴史的理性批判」の問題は、まさしくカントの 思弁の主として総合的方向に関して、そしてカントの「純粋 批判的精神をもって「歴史ーの基礎づけを試みようとしたも理性批判」においては思弁の主として分析的方向に関して、 ということもできるであろう。 のにほかならなかった。「形而上学」の名はむしろ、ひろく 最後に特にカントと現代の哲学との関係について一言して 「歴史」や「文化ーの名にとってかわられたのである。カン ト以後これら多くのすぐれた哲学者たちの業績にもかかわらおけば、現代の実存哲学が、「理性そのものの本性によって 課せられるから拒むことはできず、しかも理性の能力を越え ず、「歴史ーないしはひろく「文化ーの基礎づけの間題は、 たとい数学や自然科学の基礎づけと同じ意味においてであるているからそれに答えることのできない問題に悩む」序 ) 要はないにしても、なお人々の十分な信頼をかちえるまでに という人間理性の不可避的な運命について語るカント哲学と いたっているとは思われない。今日われわれの前におかれて軌を一にするものであることは否むべくもない。ハイデッガ いる問題にしても、やはりその本質においては、このような ースの哲学にしても、或る意味では ーの哲学にしてもャスパ 広義の「文化ーの基礎づけという問題以外のものではない。 カントの哲学を、彼ら自身の言葉を創造し駆使することによ あえて自然科学や歴史科学、文化科学という呼び名に照応せ って、彼ら自身の哲学として掴みなおそうとする努力にほか しめるとすれば、今日の問題は「社会科学」の基礎づけの問 ならないと見ることができるであろう。したがってカント哲 題であるということもできるであろう。自然科学の基礎づけ学の構想をふまえることはこれらの哲学を理解する鍵でなけ とは哲学の自然科学化ではなく、歴史の基礎づけとは哲学がればならない。 またマルクス主義の哲学は最初からカント哲学の形而上学 歴史に解消されてしまうことでないとすれば、社会科学の基
556 この間カントは一一度、大学総長に就任したが、それ以外は にカントはすでに五十七歳であった。 静かに、そして忠実に教授としての職責を果たした。ただ一 つ、『単なる理性の限界内の宗教』の出版をめぐって、はし 「純粋理性批判』が完成してから、著作活動は堰を切ったか なくもフリートリヒ・ヴィルヘルム二世下の国務相ヴェルナ のように再び活発になり、カントの主要著作として知られる Wöllner との間に生じた争いが、かれの平穏な生活を乱 ものがあいついであらわれた。主なものは次のとおりであ したばかりであった。この事件については「学部の争い」に る。 一七八一一年『学として現われうべきあらゆる将来の形而おいて述べられている。かれは殉教者にはならなか 0 た。静 かで安らかな生活を求める態度がカントの生涯を通じる基調 上学のための序論』 だったのである。一七九七年以後は体力も精神力もおとろ・ 一七八五年『道徳形而上学の基礎づけ』 え、一八〇三年に病いにたおれて、翌四年、二月十二日、八 一七八六年「自然科学の形而上学的基礎』 十歳という高齢で生涯を閉じた。「これでよい」 (Esist gut•) 一七八八年『実践理性批判』 というのが、臨終のことばであったと伝えられている。 一七九〇年『判断力批判』 一七九三年『単なる理性の限界内の宗教』 これまでわたしはカントの生涯とその著作活動のあらまし 一七九七年「道徳の形而上学』 を辿ってきたが、以上の簡単な叙述のなかにも、「自然の法 一七九八年『学部の争い』 則ーと「人間の尊厳」の二つがカントの学間的生涯をつらぬ 一七九八年『実用的見地における人間学』 このうら「実践理性批判」と「判断力批判」とは、「純粋理性批く軸の両極をなしていることが看取されるであろう。このニ 判」とともに三批判書と呼ばれ、これら三つの批判でカントの批っこそ、カントの世界観、人生観の枢軸をなすものであっ 判哲学の体系を形作っている。右のほかにも、 いくつかの小論文て、カントはこれをそれそれニートンとルソーから学んだ がものされているが、そのうち主なものは次のとおりである。 のであった。 ます、カントの願いは「哲学上のニ = ートン」となること 一七八四年『世界市民的目標における一般歴史考』 であった。さきに引用した「わたしはわたしの進もうとする 一七八四年『啓蒙とは何か』 道をすでに描いている、云々」という言葉は、この決意を告 一七八六年「人類史の臆測的起原』 げたもので、すでに一七四六年、大学卒業の年に書かれてい 一七九五年「永久平和のために』 るのである。そしてカントがこの道をいかにひたすらに歩ん
〔「閣下が : : : 同時に」まではもちろん第一版にはなく、その代わりに次のようになっている〕 「思索生活に満足いたしおる者には、・大それた望みなどを持たない以上は、教養高く権威ある判定者の御賛同こそその努 力に対する力強い激励にほかなりません。その努力のもたらす効用は偉大なるものあるにもかかわらず一朝一タにあらわ れるものではこれなく、そのため一般の眼にはまったく認められないのでございます。 このような判定者に、またその好意ある御注目にこの度わたくしはこの書を献上いたし : : : その御庇護をお願い申しあ げる次第でございます。」 〔日付は第一版では〕「一七八一年三月二十九日」 一 Ka 「一 Ab 「 aham. F 「 eihe 「「 von zedlitz ( 173 】ー】 793 ) はフリードリッヒ一一世 ( 大王 ) ( 1712 ー一 78P 即位 1740 ) の下に国務大臣となり、 一七七一年から一七八八年までプロイセンの教育匍度を監督指導した。かねてからカントを最も尊敬し、一七七八年二月に彼は、カントの地 理学講義のノートを非常に興味をも 0 て読んだ旨をカントに書き送り、その講義の完全な 0 ピイを求めている。このことあ 0 て数日後、当 時中央ドイツにおいて最も重んぜられていた ( ルレ大学教授 F ュ ed 「ま h Meie 「 ( 1777 歿 ) の後任にカントを招聘したが、カントはこれを辞退 した。また同年八月には、メンデルスゾーンのすすめによってカントの弟子にして友人であった Marcus Herz の人間学に関する講義に出 席している旨を、カントに書き送っている。カントはこれらの並々ならぬ好意に対して、この『純粋理性批判』の第一版の出たとき ( 一七八 一 ) も、第二版が出たとき ( 一七八七 ) も、ともに、これを男爵に献じたのである。
546 学位を得、ついで同年九月『形而上学的認識の第一原理の新 作しい解釈』が討議を通過して、母校の私講師の位置につくこ マ とができた。講義ははじめ論理学、形而上学および数学で、 さらに物理学が、後にはまた自然地理学および倫理学も加わ り、初めの数年は毎日、四、五時間の講義がおこなわれたが、 カントは一度の遅刻も休講もすることなく、終始その職責を ン カ 忠実に果たしたと伝えられている。この講義について、ポロフ の スキは次のように記している。 年 晩 「わたしは一七五五年にカントの最初の時間の講義を聴い た。そのころカントはノイシュタットにあるキュプケ Kypke ャッ ( マンは次のような事実を伝えている。「カントは六十教授の家に住んでいた。そこには広い講堂があ「たが、その 歳を過ぎてから格別に化学が好きになり、新しい化学上の学講堂は玄関や階段までもほとんど信じられないほど多くの学 説をいたく熱心に研究した。彼は化学の実験というものを一生でぎ 0 しりつま 0 てしま 0 た。これはカントをいたく当惑 回も見たことがないのに、ヒ イ学上の術語全部に完全に通暁し させたようであった。カントはこういうことに慣れていなか たばかりでなく、あらゆる化学実験の奥義を精確かっ詳細に ったので、すっかり度を失って、声もふだんより低くなり、 述べることができたので、あるときカントの家の食卓で化学しばしば自分の述べたことを訂正したりした。しかしこの に関する話が出たとぎ、偉大な化学者 ( ーゲン博士 Doktor ごとはかえってわたくしたちにこの人に対する敬慕の念をい Hagen は感嘆にたえずして言「た。『実験というものを実際 0 そう深めるばかりであ 0 た。わたくしたちはこの人がきわ に見もしないでただ本を読むだけで化学の実験全体をどうしめて博学であると思いこんでいて、そういう態度はただわた てカントのように完全に知ることができるのか、わたしには くしたちに対して謙遜なだけで、気おくれがしているのだと わからない』と。」「物質界のものでも知的なものでも、およ は思われなかったからである。次の時間になると、もうすっ そ人間の精神に認識できるほどのもので、彼の烱眼に見えてかり違っていた。カントの講義は、その後もすっとそうであ こないものはなかったのである。」 ったが、 徹底的であったばかりでなく、また率直で気持がよ っこ 0 一七五五年六月、カントは大学の教職につこうと考え、論 、力学 / : 『諸君はわたしのところで哲学を学ぶのではな 文「火に関する若干の考察の略述」を提出してマギステルのく 哲学することを学ぶだろう、ただロ真似をするために 4