371 先験的弁証論 ねばならない、というのがあらゆる経験の可能なゆえんの一 般的法則そのものであるからである。がんらいこのことによ Ⅲ、世界の出来事をその原因から導き出す導出 って経験の全領域が、それがどんなに拡げられようとも、単 の総体性としての宇宙論的理念の解決 なる自然という一つの総括に転ぜしめられるのである。しか われわれは生起する事がらに関して二つの種類の原囚性をしかくては、因果関係における諸制約の絶対的総体性は何ら 考えうるのみである。すなわち自然に従う原因性か、自由にそこからえらるべくもないから、理性は、因果連結の法則に 基づく原囚性かである。前者は感性界において一つの状態従ってふたたびそれを働かせるように規定するような他の原 と、これが規則に従ってそれに続いて生するところの先行状因が先におかれなくとも、みずから働きはじめることのでき 態との結合である。ところで現象の原因性は時間の制約に基る自発性の理念をつくり出すのである。 づいており、先行状態は、もしそれがいつもあったものであ ここにきわめて注意すべぎことは、自由のこの先験的理念 るとすれば、時間においてはじめて生ずるような結果を何ら に基づいて自由の実践的概念が存するのであり、かつ自山の もたらしはしないこととなろう。であるから生起或いは発可能性に関する問題を古くから悩ましてきた種々の困難の本 生するものの原因の原因性は、これまた発生したものであっ 質的契機をなすものは、この実践的自由における自由の先験 て、悟性の原則にしたがってそれ自身ふたたび一つの原因を的理念である、ということである。実践的意味における自由 必要とするわけである。 とは、決意が感性の衝動による強制にとらわれないことであ これに反してわたくしは自由という意味を、宇宙論的意味 2 る。けだし決意はそれが受動的に ( 感性の動因によ「て ) 触発さ においては、一つの状態をみずから開始する能力と解する。 れるかぎり、感性的であるからである。それが受動的に強制 したがってその原因性は、それを時間的に規定するような他される場合には、動物的 ( 盲目的決意 a 「 bit 「 ium b 「 utum) とい の原因のもとに自然法則に従ってふたたびおかれるというこわれる。人間の決意はなるほど感覚的決意 (a 「 bitrium n 。一・ とはない。自由はこの意味で一つの純粋な先験的理念であ tivum) ではあるが、しかし盲目的 (brutum) ではなくて自由 (liberum) である。なぜなら感性が人間の決意の働きを強制す り、それは第一には何ら経験から借りたものを含ます、第二 にはその対象はまた、いかなる経験においても規定されたも るのでなく、かえって、人間には感性的衝動に強制されるこ のとして与えられることはできない。なぜなら生起するもの となくして、みすから自己を決定する能力が内在しているか はすべて原因を持たねばならず、したがってまた、それ自身らである。 生起し或いは発生した原因の原因性も、ふたたび原因を持た 容易に知られることであるが、もし感性界における一切の B 562 A 5
から、それに継起するところの他の現象を、時間にしたがっ ない。わたくしがその原困をたずね求めて、暖炉の燃えてい て前提することが考えられている。そうでなくて、もしわた るのを見いだす。つまり原因である暖炉が、その結果である くしが先行事件を定立して、事件のそれにつづいて継起する部屋の温さとともに共存している。したがってこの場合に ことが必然的でないとすれば、わたくしはその事件を単にわは、時間上からする原因と結果との間の継起的系列は何ら存 たくしの想像の主観的な戯れと考えざるをえないであろう 在せず、原因と結果とは同時に存在していて、やはりこの法 し、またもしそれによって、わたくしがやはり或る客観的な則は妥当する。自然において作用しつつある原因の大部分は ものを表象するとすれば、わたくしはそれを単なる夢と名づその結果と共存しており、それらの結果が時間上継起するの は、単に原因がその全部の結果を一瞬時に成し遂げえないこ けねばならないであろう。かくて後続するもの ( 生起するもの ) が先行するものによって、その現実の存在に関し、必然的とによって生ずるにすぎない。しかし結果がはじめて成立す る瞬間には、結果はつねにその原因の原因性と共存してい に、かつ一つの規則にしたがって、時間において規定される 場合にしたがう現象 ( 可能な知覚としての ) の関係、すなわち原る。なぜなら、もし原因が一瞬時前に存在をやめていたとす 因の結果に対する関係が、知覚の系列に関してわれわれの経れば、結果はまったく成立しなかったであろうからである。 ここで十分注意されねばならないことは、問題は時間の順序 験的判断が客観的に認められるための条件であり、同時にわ であって、時間の経過ではないことである。時間の経過はな れわれの判断が経験的真理性を有するための、またしたがっ くともこの関係は存している。原因の原因性とその直接の結 て経験の成り立っための条件である。であるから現象の継起 における因果関係の原則は、経験のあらゆる対象 ( 継時の条件果との間の時間は消えて無いも同然 ( だから両者は同時存在 ) で にしたがうところの ) に対しても妥当する。なぜならこの原則あるということができる。けれども一方の他方に対する関係 そのものが、このような経験の可能なための根拠であるから は依然としてやはり時間的に規定することができる。わたく である。 しが、蒲団の上におかれて蒲団にくぼみをつくっている球 しかしここに取り除いておかねばならない 、もう一つの疑を、そのくぼみの原因として考えるとすれば、この原因は結 論 点がある。現象間の因果連結の命題は、われわれの公式にお果と同時に存在している。けれどもわたくしはやはり両者を 分 験いては現象の継起的系列にかぎられている。にもかかわらすその力学的結合の時間関係によって区別する。けだしわたく 先 この命題を使用して見ると、この命題が現象の同伴する場合 しがその球を蒲団の上へおくと、今まで平らだった蒲団の形 5 にも合致し、原因と結果とが同時に存在しうることが、そこ の上へく、ほみが生する。しかしもし蒲団が ( わたくしの知らな に見いだされる。たとえば室内の温さは、戸外では求められ い理由で ) くぼみを持っても、それに継起して鉛の球が生す U 248 B249
然なし ) との命題は先天的自然法則である。「自然界の必然性 制約のもとに必然的として認識されうるような現実的存在は 約された、したがって理解されう 存在しない。したがってわれわれがそれについてのみ必然性は決して盲目的でなく、」 を認識できるところのもの、しかも知覚に与えられている他る必然性である」 (non datur fatum. 運命なるものなし ) という のも同様である。両者はともに、変化の戯れが物 ( 現象として の状態から原因性の経験的法則にしたがって認識できるとこ ろのものは、物 ( 実体 ) の現実的存在についてではなく、物の状囲の ) の本性のもとに、或いは同じことであるが、悟性の統一 態の現実的存在についてのみである。このことからの帰結とのもとに把握されるための法則である。変化は悟性のうちに して、必然性の基準はもつばら可能な経験の法則、すなわちおいてのみ、現象の総合的統一としての経験に属しうるので 「生起する一切は、現象におけるその原因によって先天的にある。これら両原則は力学的原則に属する。前者は本来因果 規定されているーという法則中に存することとなる。である性の原則 ( 経験の類推のうちの ) からの帰結である。後者は原困 からわれわれは単に、その原因がわれわれに与えられている性の規定になお必然性の概念を、これはしかし悟性の規則に ところの、自然における結果の必然性をのみ認識するのであ属するものであるが、この必然性の概念を付加するものであ り、現実的存在における必然性の標識は、可能な経験の分野る様相の原則に属する。連続性の原理は現象 ( 変化 ) の系列 ()n mundO non datur saltus. 以上には及ばない。のみならすこの分野においてすら、この中に一切の逸脱を許さなかった。 標識は実体としての物の実際的存在については妥当しない。 世に飛躍なし ) 。しかしまた空間におけるあらゆる経験的直観 なぜなら実体は決して経験的な結果として、或いは生起し消の総括のうちにも、二つの現象間のあらゆる隙間や裂け目を 減するものとして見なされることができないからである。必許さなかった。 (non datur hiatus. 間隙なるものなし ) 。けだし 然性はしたがって、因果性の力学的法則にしたがう現象の諸この命題は次のように言い表わすことができるからである。 関係、及びそれに基づくところの、何らか与えられた現実的すなわち「真空を証明するようなもの、或いはまた真空を、経 存在 ( 原因の ) から他の現実的存在 ( 結果の ) へと推理する可験的総合の一部分としてにすぎないにしてもこれを許すよう と。けだし空 なものは、経験中に入り込むことはできない 能性にのみ関する。すべて生起するものは仮言的に淞が 析う条件 〕必然的である。これは世界の変化を一つの法則のもと虚については、それは可能な経験 ( 世界の ) の範囲外では考 分の下で 的に捉える、すなわち必然的な現実的存在の規則のもとに捉え えられるかも知れないが、単なる悟性の裁判権の対象とはな 先 る原則である。そしてこの規則によらなかったならば自然すらない。悟性は単に与えられた現象を用いて経験的認識たら しめることに関する問題についてのみ判定するものであるか ら全然生じないともいえよう。であるから「何ものも盲目的 偶然によっては生じない」 ()n mundo non datur casus. 世に偶ら。空虚は、さらに可能な経験の領域を越えてこの経験そのも リ 281
ねばならない。したがって、若干の最実在的存在体は同時に ることができるのである。わたくしは今はそれらをただ引証 端的必然的存在体である。ところがしかし、最実在的存在体するにとどめ、その欺瞞的な諸原則をさらに追求して除去す (ens realissimum) とは他の存在体からいかなる点についても る仕事は、これをすでに習熟した読者に委ねたいと思う。 区別されないものであり、したがってこの概念のもとに含ま 宇宙論的証明にはがんらい次のようなものが見いだされ れた若干の最実在的存在体に妥当することはまた、一切の最る。たとえば ( 1 ) 偶然的なものから原因へと推理する先験 実在的存在体にも妥当する。かくてわたくしはこの命題を ( こ的原則であるが、これは感性界においてのみ意味を有するけ の場合には ) また単純換位することもできるであろう。すなわれども、感性界の外においてはとうてい意味を有しないもの ち、「すべて最実在的存在体は必然的存在体である。」ところである。けだし偶然的なものという単に知的な概念は、因果 でこの命題は単に純粋概念から先天的に規定されたものであ律のような総合命題をもたらしうるものでなく、因果律は感 るから、最実在的存在体という単なる概念はまた、自己の絶性界においてのみ意味を有しうるので、それ以外では何らの 対的必然性をも伴わなければならない。 このことはまさに実 9 意味も、またその使用についての何らの表徴をも有しないも 体論的証明の主張したところであり、宇宙論的証明の承認し のである。しかるに宇宙論的証明においては因果律がまさ ようとしたところではなかった。にもかかわらず、ひそかに に、感性界を超越するために用いられねばならないとされる ではあるが、宇宙論的証明の推理の根柢におかれたのである。 であろうからである。 ( 2 ) 感性界では原因から原因へと相 かくて思弁的理性が最高存在体の現実的存在を証明するた互遡源的に与えられた諸原因の無限の系列は不可能であるこ めにとる第一一の方法は、第一の方法と同じく欺瞞的であるば とから、第一原因を推論する推理。これについては、経験にお かりでなく、なお一層次のような非難すべき点をおびてくける理性使用の原理そのものはわれわれに対して、このよう る。すなわち第二の方法は新しい小径を案内するとわれわれな第一原因への推論の正当さを何ら許しはせず、いわんやこ に約東しながら、少し廻り道をして、ふたたびわれわれがその原則を経験を超えて ( この感性界における連鎖はとうてい経験 論の径の不適当なために、かってこれを見すてたのであった古を超えてまで延長することはできない ) まで拡張することはでき 、径へ連れ戻すという、論点相違の虚偽 (ignoratio elenchi) 弁し月 ) ないのである。 ( 3 ) この系列の完結に関する理性の誤った 既をおかすのである。 自己満足。これが生ずるゆえんは、それをまってはじめて必 先 わたくしが少し前にいったように、 この宇宙論的論証には然性の概念が生じうるような一切の条件を、結局除去してし まい、そうなるともはやそれ以上何ものも把握できないから、 弁証的な思い上りがま 0 たく巣窟をなして隠されているが、 先験的批判をもってするならば容易にこれを発見して破砕すこのような除去を概念の完成と見なすことによるのである。 A610
在体の認識のためにはこのような原則を先験的に使用するこ 在的な意味は具体的に理解されるものなのだから。 とを要求される。そしてこのような要求にはわれわれの悟性 ところで世界における物の現実的存在からその原囚へと は全然用意されていないからである。もしも経験的に妥当す 推論される場合には、この推論は自然的理性使用には属せ る因果律が根源的存在体へと導くべきだとすれば、この根源 ず、思弁的理性使用に属するのである。なぜなら自然的理性 使用は物自身 ( 実体 ) をではなく、ただ生起するものを、した的存在体は経験の対象の連鎖のうちに属せねばならないこと がって物の状態を、経験的偶然的として何らかの原因に関係となろう。そうなるとしかし、根源的存在体は一切の現象と せしめるからである。実体自身 ( 物質 ) が現実的存在としては同じく、これまた制約されたものとなるであろう。さればとい ってもしわれわれが結果から原因へと関係づけてゆく力学的 偶然的である、ということは、単に思弁的理性によって認識 されることでなければならないであろう。けれどもまた単に邸法則によって、経験の限界を飛びこえることを承認するとし 、、引ー ( ても、このような手続のわれわれに与えうる概念とよ、 世界の形式、すなわち世界の結合様式や世界の変化だけがド る概念であろうか ? それは最高存在体の概念とははるかに 題であるとしても、もしわたくしがそこから、世界とはまっ 遠いものでなければならない。なぜなら経験はとうていわれ たく別個の原因へと推論しようとするならば、この推論もこ れまた単に思弁的理性の判断であるであろう。なぜなら対象われに、あらゆる可能な結果中の最大の結果 ( その原因の証拠 をなすべきものとしての ) を供するものではないからである。 はこの場合まったく可能な経験の客体ではないからである。 しかしそうなると経験の分野内においてだけ妥当し経験外に単にわれわれの理性のうちに空虚を残さないために、最高完 は使用されない、否、意味さえない原因性の原則は、まった全性とか根源的必然性という単なる理念によって、完全な規 定に対するこの欠陥を充たすことが許されるべきだとして くその使用を破砕されることとなるであろう。 も、それは好意によって許されうることではあろうが、不可抗 ここにおいてわたくしの主張しようとするところは、神学 に関して理性を単に思弁的に使用しようとする一切の試みは的証明に基づいて正当に要求されうることではない。である から物理神学的証明は、それが思弁を直観と結びつけるもの 論まったく無益であり、その試みの内的性質からいって無効無 飛意味であるということ、これに反して、理性の自然的使用の原であることによって、おそらく十分に他の証明 ( そういうもの 的 理はいかなる神学へも導きはしないから、もしわれわれが道がありうるとすれば ) に対して力を与えることができるといえ よう。しかし自分だけでは単独でその仕事を成就できるもの 徳法則を基礎におき手引として用いなければ、理性の神学は ではなくて、むしろ神学的認識のために悟性に準備を与え、 3 どこにも存在することができないということである。けだし 悟性のあらゆる総合的原則は内在的に使用されるが、最高存悟性に対してそのための真直ぐで自然的な方向を与えるもの B665 A63 了
は、時として判断における偶然性を示すことよりも、判断が なぜなら、それにしたがって経験が行なわれるところの一切 経験上制限されている面を示すことの方が容易であり、或い の規則がもし仮りにいつも経験的、したがって偶然的であっ は、しばしば判断の必然性を示すよりも、われわれが判断に たとすれば、経験といえどもいずこにその確実性を求めよう 付与する無制約的な普遍性を示す方がわかり易いので、必然とするであろうか。そうなると、このような偶然的な規則は 性と普遍性という前記の二つの基準は、それぞれ一つだけで第一原則と見なされるわけにはゆかないのである。けれど も確実だし、別々に用いるのが適当である。 も、ここではわれわれは、われわれの認識能力の純粋使用を ところで、このように必然的にしてかっ最も厳密な意味で事実として示し、あわせてその指標をも示したことをもって、 普遍的な、したがって先天的純粋判断が、人間の認識中に事みすから安んずることができよう。しかし判断においてのみ 実存在するということは、容易に示すことができる。もし学 ならず、概念においてすら、その若干のものについてはその 問に例証を求めようというならば、数学のあらゆる命題を見起源が先天的なることは明らかである。もし物体という諸君 るだけでよい。 もし最も普通な悟性の使用に例証を求めようの経験的概念から、それに付随している経験的なもののすべ てが、たとえば色、硬軟、重さ、さらに不可侵入性すらが一 というならば、「変化はすべて原因をもたねばならぬ」とい う命題をそれにあてることができる。実に後の例証において つ一つ取り去られるとせよ。それでもやはり、物体 ( それは は、原因という概念そのものが、明らかに結果との結合の必今ではまったく消え去っている ) が占めていた空間は残存する。 然性の概念と、規則の厳密な普遍性の概念とを含んでいるかそしてこの空間は諸君の除去することのできないものであ ら、もしわれわれが、ヒュームのなしたように、生起するこ る。同様に、諸君があらゆる物体的或いは非物体的客観に関 とが、それに先行することとしばしば相伴っており、そこかする諸君の経験的概念から、経験が諸君に教える一切の性質 ら、表象を結合せしめる習慣が生ずるのであるとすることを除去するとしても、諸君はやはりその客観から、諸君がそ ( したがって単なる主観的必然性 ) によって原因の概念を導き出れによってこの客観を実体或いは実体に属するものとして考 そうとすれば、前述のような原因の概念はまったく消失して えるところの性質を取り去ることはできない ( この実体という しまうであろう。われわれはまた、われわれの認識中に先天概念は、客観一般の概念よりもより多くの規定を含むものではある 的純粋原則が実際に存していることを証明するのにこのよう が ) 。したがって諸君は、この実体という概念が、必然性を もって諸君に迫りくる以上は、これを否定することはでき な例証を用いるまでもなく、このような原則の在ることが、 経験そのものの可能なためには欠くべからざる条件であるこず、実体概念が諸君の先天的な認識能力中にその座を占める ものであることを、承認せざるをえないのである。 ) とを、したがって先天的であることを明示しうるであろう。 ( 九 )
る純粋悟性概念のみからは、総合命題を、たとえば「あらゆ 見よ。 ( 1 ) 或るものが主語としてのみ存在し、他の物の単な る偶然的存在者は原因を有す」というような命題を証明する る規定としては存在できないのはいかにしてであるか。すな わちいかにして実体たりうるのか。或いは ( 2 ) 或るものがのに成功したことは、未だかってないのである。われわれは、 存在するがゆえに他の或るものが存在せざるをえないのはい この関係〔当を欠いては偶然的なものの存在をま 0 たく理解 かにしてであるか。したがって或るものが一般に原囚たりう できないこと、すなわち先天的に悟性によってこのような物 るのはいかにしてであるか。或いは ( 3 ) 多くの物が現実に の存在を認識することはできないことを、証明するより以上 には出ることはできなかったのである。しかしこのことか 存在している場合、その一つが現実に存在していることか ら、或るものが他の残りのものに、つづいて起こり、また逆に ら、まさにこの関係〔当がまた、物そのものの可能なための 他のものが或るものにつづいて生じ、かくて実体の相互性の条件であることにはならない。だから因果律に対するわれわ 成り立ちうるのはいかにしてであるか。これらの間題は単な れの証明をふり返って見れば気づくように、われわれはこの る概念からは全然洞察されない。ちょうどこのことは他の範原則を、単に可能な経験の客観からのみ証明できたのであっ た。すなわち「生起するすべてのもの ( それぞれの出来事 ) は 疇にもあてはまる。たとえば、一つの物が多くの物とともに 同種である、すなわち量でありうるのはいかにしてであるか原因を前提する」と。しかもその結果、われわれはこの原則 等。したがって直観を欠くかぎりわれわれは、範疇によってをまた経験可能のための原理として、したがって経験的直観 睿観が思惟されるのかどうか、範疇にはつねに何らかの客観において与えられた客観を認識できるための原理としてのみ が帰属しうるのかどうかを知ることはできない。かくて範疇証明できたのであって、単なる概念からのみ証明できたので はそれだけでは何ら認識ではなく、与えられた直観から認識はなかった。にもかかわらず「あらゆる偶然的なものは原因 をつくるための、単なる思想形式であることがおのずから明 - を持たねばならぬーという命題は、やはり何びとにとっても ちょうどこのことからまた、単なる範疇か囲単なる概念から明瞭に知られることは否定すべくもない。し らかである。 論らは総合命題はつくられないこととなる。たとえば「あらゆかしこの場合には、偶然的なものという概念はすでに、様相 ( その非存在が思惟されるような或るものとしての ) の範疇を含む る現実的存在には実体、すなわち主語としてのみ存在し単な ものでなく、関係 ( 他のものからの帰結としてのみ存在できるよ 談る述語としては存在することのできないものが存在する」と うな或るものとしての ) の範疇を含むものとして理解されてい か、或いは「物はすべて量である」等の命題には、与えられ た概念を越え出て、他の概念をそれに結合せしめるのにわれるのである。そしてそこにはもちろん「帰結としてのみ存在 われに役立ちうるようなものは何もない。だからまた、単なできるものは、その原因を持つ」という同一命題があるわけ B290
372 いかに処理すべきかを、一言注意してもっと詳細に規定して 原因性が単に自然にすぎないとすれば、あらゆる出来事は他 の出来事によって、時間において必然的法則に従って規定さみなければならない。 もし現象が物それ自体であり、したがって空間と時間とが れることとなろう。またしたがって現象は、それが決意を規 定するものであるかぎり、あらゆる行動を現象の自然的な結物それ自体の現実的存在の形式であるとすれば、諸制約は被 果として必然的たらしめざるをえないであろうから、先験的約者とともにつねに項として同一の系列に属することとな 自由はなくなると同時に、一切の実践的自由もなくなること り、そしてこのことからこの場合においても、先験的理念に となろう。けだし実践的自由は、よしんば或ることが起らな共通な一一律背反、すなわちこの系列が不可避的に悟性にとっ て大にすぎるか、でなければ小にすぎるという結果に帰せざ かったにしても、しかもそれが起るべきであったこと、また したがって、現象におけるその或ることの原因が意志を決定るをえないであろう。しかしわれわれがこの項及び次の項で するものでなく、われわれの決意のうちに一つの原因性があ取扱うのは力学的な理性概念であるが、力学的理性概念の関 って、それがかの自然原因とは独立に、自然原囚の強制力と与するところは、量として考察された対象ではなく、ただ対 影響とに反してすら、時間秩序において経験法則に従って規象の現実的存在であるから、制約の系列の量も捨象されるこ とができ、そこでは単に制約されたものに対する制約の力学 定されている或るものをもたらし、したがって出来事の系列 をまったく自分自分によって開始することを、前提するから的関係のみが問題であるということが、力学的理性概念の持 っ特殊な性質となる。したがってわれわれが自然と自由とに である。 このようにしてここに、総じて可能な経験の限界を越え出 5 関する問題において、すでに、自由はおよそ一般に可能なの であろうか、もし可能であるとすれば、因果の自然法則の普 ようとする理性の矛盾において見いだされることであるが、 その課題が、本来自然学的ではなく、先験的であるというこ遍性と両立しうるものであろうか、したがって、世界におけ とが明らかとなる。したがって自由の可能性の問題は、もちる各結果は自然からか自由からか、いずれかから生するもの ろん心理学を悩ます問題であるが、しかしこの問題は単に純でなければならない、ということが正しい選言命題であるた 粋な理性の弁証的論議に基づくものであるから、その解決をろうか、それともむしろ、両者は同一の出来事における異な も含めて、もつばら先験的哲学の取扱うところでなければな った関係において、同時に起りうるものではないだろうか、 らな、 。ところで先験的哲学はこの問題に関して満足な解答というような難間に遭遇するのである。感性界の一切の出来 を拒むことはできないのであり、先験的哲学をしてこれを能 事が、不変の自然法則に従って一貫した連関を有するという、 くせしめるために、わたくしはますこの課題を先験的哲学があの原則の正当性は、すでに先験的分析論の原則として確立 B564 A5
使用である。ところで「或るものが在る」こと、或いは「或として認識されず、単に、被制約的なものを理性が認識する ための、相対的に必然的な、或いはむしろ必要な、しかしそ 肥るものが生起すべきである」、ことが疑いもなく確実であるに しても、しかしそれが制約されてであるにすぎないとすれれ自身として、また先天的に恣意的な前提として用いられる ば、やはりそれに対する或る明確な制約が端的に必然的であにすぎない。であるからもし或る物の絶対的必然性が理論的 認識によって認識さるべきであるとすれば、このような認識 るか、或いはそれが単に任意かっ偶然的に前提されるにすぎ は先天的概念からのみ生じうるのであって、経験によって与 ないかの二つの場合がありうる。前者の場合には制約は要請 えられる現実的存在に関する原因として生することは、決し される (per thesin 主張によって ) のであり、後者の場合には てありえないであろう。 制約は仮定される ()e 「 hypothesin 仮定によ 0 て ) のである。 端的に必然的な実践的法則 ( 道徳的法則 ) は存在するのである 理論的認識は、われわれがいかなる経験においても到達で ^ 0 っ 0 から、もしこの法則が、その拘東カの可能なゆえんの条牛と 6 イきない対象、或いはそのような対象の概念を目ざす場合には CC 00 しての、何らかの現実的存在を必然的に仮定するとすれば、 思弁的である。それは自然認識と対立せしめられるもので、 この現実的存在は要請されたものでなければならない。なぜ自然認識は、可能な経験によって与えられうる対象以外の対 というに、 この明確な制約を導出する推論の出発点たる被制象やその述語には、関係しない認識である。 生起すること ( 経験的偶然的なこと ) から、これを結果として 約者は、それ自身端的必然的なものとして先天的に認識され るものであるからである。道徳的法則についてはわれわれ原因へと推論する原則は、自然認識の原理ではあるが思弁的 認識の原理ではない。けだしもしわれわれが、可能な経験一 は、それが最高存在体の現実的存在を前提するものであるの みならす、また、それが他の観点からも端的必然的であるか般の条件を含むものであるところのこの自然認識の原則を捨 て去り、そしてすべて経験的なものを除去しながら、この原 ら、当然、しかしもちろん単に実践的にであるにすぎない 則を偶然的なもの一般について主張しようとするならば、現 が、このような最高存在体の現実的存在を要請するものであ ることを、将来示すであろう。いまはまだこの推論の仕方に存するものから、それとはまったくちがったもの ( 原囚といわ れる ) へと移りゆくことがどうしてできるのかをこの原則か は論及しない。〔性批黜」に譲る 単に、現存するものが ( 存在すべきものがではなく ) 間題であら推知しようとしても、そのような総合的命題を認める余地 は少しも残らなくなる。否、むしろ、原因の概念も偶然的な る場合には、経験においてわれわれに与えられる被制約的な このような単に思弁的な使用によっ ものは、つねにまた偶然的と考えられるから、この被制約的ものの概念もともに、 ては、すべての意味を失ってしまうのである。その客観的実 なものに所属する制約は、経験によっては端的必然的なもの
第四の一一律背反に対する注 1 、定立に対する注 必然的存在体が現実に存在することを証明するには、 わたくしはこの場合宇宙論的論証以外の論証を用いるわ けにはゆかない。すなわち現象における被制約者から概 念における無制約者へと遡り、同時にこの無制約者を系 列の絶対的総体の必然的条件と見る論理である。あらゆ る存在体一般の最高存在体という単なる理念からするこ の証明の試みは、理性の原理の中でも別種の原理に属す るものであるから、このような証明には特別の審議がな されねばならないであろう。 純粋な宇宙論的証明は、がんらい必然的存在体の現実 的存在を説明するのに、同時に、このような存在体が世界 そのものであるか、それとも世界とは別のものであるか は未決定のままにしておく、というよりほかに説明する ことができない。けだし必然的存在体が世界とは別のも 論のであることを明らかにするには、もはや宇宙論的では 爪なく、現象の系列中には行なわれない原則で、かえって 偶然的存在体一般 ( それらが単に悟性の対象として考量され るかぎりにおける ) の概念と、このような偶然的存在体を 単なる概念によって一つの必然的存在体へと結合する原 理をなすところの原則とが必要とされる。これらはすべ B 484 A 456 Ⅱ、反定立に対する注 現象の系列を遡るにあたって端的に必然的な最高原因 を認めないならば種々の困難に逢着すると臆測される場 合、これらの困難とはこれまた一般に或る物の必然的現 実存在という単なる概念に基づくものではなく、したが って本体論的ではなく、かえって現象の系列と因果的連 結を求めて、この系列のために、それ自身は無制約的で あるような制約を想定しようとすることから生するもの であり、したがって宇宙論的であり、経験的法則に従っ て導き出されたものでなければならない。つまりそうな 対し匕、原因 ( 感性界における ) の系列をいかに遡 っても、とうてい経験的に制約されない制約をもって終 わるということはできないこと、また世界状態の変化に 従い世界状態の偶然性に基づく宇宙論的論証は、系列を 端的に最初にはじめる第一原因を想定することとは相容 れない結果となることが、示されねばならない。 しかしこの二律背反には珍しい対照が示されている。 すなわち定立において根源的存在体が現実に存在してい ることが推論されたと同じ証明理由から、反定立におい てその非存在が、しかも同じ鋭さをもって推論されるこ とである。ます主張されることは、「必然的存在体は存 B 487 A 459 B485 A 457